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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2015年映画』「顔のないヒトラーたち」(ドイツ映画) 10/23

『2015年映画』「顔のないヒトラーたち」(ドイツ映画)10/23
                 出演、アレクサンダー・フェーリンフリーデリーケ・ベヒト、ゲルト・フォス
                 監督、ジュリオ・リッチャレッリ

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第2次大戦後、東西に2分化されたドイツでは「戦争犯罪」を裁く「ニュルンベルク裁判」(1945・11/20~46・10/1)が終わると、ドイツの国民は経済的復興の波に乗り、人々は戦争の記憶、自分たちが犯した罪を忘れ去ろうとしていた。

そんな或る日、アウシュヴィッツで親衛隊員(SS)だった男が、ある小学校で規則に反し教師をしていることが目撃されて告発された。
(アウシュヴィッツで虐待を受けたユダヤ人画家の告発)

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駆け出しの検事ヨハン(A・フェーリング)は交通違反の取り締まりなどの仕事に不満を感じていたので早速その事件に乗った。上司や周囲が引き止めるにも耳を貸さず、この件にまい進していく。強制収容所を生き抜いたユダヤ人のシモンやジャナーリストのグルニカたちが協力した。

さて、どこから手を付けるべきか?若き検事の後ろ盾になったのがバウアー検事総長(ゲルト・フォス=西欧で有名な舞台俳優)だった。彼はユダヤ人として強制収容所の迫害体験を持っていたからだ。若き検事を励ます。「アウシュヴィッツ」の生存者を探しだし、彼らからの聞き取りを行う。

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検事の女性秘書(ハンシ・ヨクマン=好演)が聞き取りの記録をしたが、終わると放心状態で廊下に出てくる。証言の内容の凄まじさを暗示している。炙り出されるホロコースト(大量虐殺)は想像を絶するものだった。一説には1700万人とも、、、

顔のないヒトラーたち ①資料

ナチ及びホロコーストの膨大な資料を米軍が管理している。米軍の担当者は「今、敵はソ連だ」と言ってナチスに関心を示さない。ヨハン検事は日参して調べあげていく。ホロコーストの担い手だったナチ党員が教育分野・ビジネス界・政府機関・権力の内部にも入り込んで”隣人“として生活していることがわかってくる。しかも、国民がアウシュヴィッツの存在も、強制収容所で何が行われていたかも知らないのだった。
そんな元親衛隊(SS)の1人1人の情報を調査して、証拠を固めていくヨハン。

しかし、「今さら忘れていた傷を何故暴く」といった妨害が入ってくる。検事室にカギ十字が書かれた石が投げ込まれる。生き延びたユダヤ人さえ諦めている。

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ところで、ヨハン検事は交通違反で知り合ったマレーネ(F・ベヒト=「ハンナ・アーレント」で若き日のアーレント役)と愛し合うようになっていた。マレーネの父もヨハンの父も戦時中何をしていたか?米軍の資料館でふと見つかった資料に、自分の父もマレーネの父もナチスだったことを知るヨハン!「自分の父を告発できるか?」荒れ狂うヨハン!酒浸りになってマレーネとも仲たがいし総長に辞表出すまでになっていく。

映画は1963年の「アウシュヴィッツ裁判」が始まるまでの若き検事の苦闘を描いた。この裁判によってナチズムは完全に否定され、ドイツの歴史認識を変えたと言われている。

私は映画を見ながら、日本と比較していた。日本でも「加害の歴史」を持っている。朝鮮・台湾を植民地にし、中国を始めとしてアジアの国々に侵略したのは事実である。これは否定しようのない歴史の真実である。問題はドイツと同じように、自ら、自身の「加害の歴史」を裁いたか、ということである。残念ながら果たしていない。というか、不十分である。「講和条約」「日韓条約」「日中条約」などで果たしたという。それならば「靖国問題」が何故起こるのか?この映画が問いかけてくるもの。歴史の事実に対して謙虚に反省して、真実を認めること。悪いことは謝罪すること。出来る範囲で償うこと。当たり前のことが求められている。



              

  1. 2015/10/23(金) 21:39:10|
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『2015年映画』 「岸辺の旅」(監督、黒沢清。主演、深津絵里、浅野忠信)10/14

『2015年映画』「岸辺の旅」(監督、黒沢清。原作、湯本香樹実。出演、深津絵里。 浅野忠信)
カンヌ視点部門監督賞に輝く 10/14


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3年間も失踪していた夫の優介(浅野忠信)が、突然現れて「オレ、死んだよ」と妻瑞希(深津絵里)に告げた。富山の海で死んで体は蟹に食べられたという。妻の元に戻るまで3年も旅してきた。その中にきれいな場所があるんだ、瑞希に見せたいと言って、3年を遡(さかのぼ)る旅に誘う。また、優介が不在の3年間に瑞希が書いた「写経」を燃やす為だとも言う。

冥界に逝った人間が、映画では生きている人間と同様な生き様(ざま)を見せる。死者があの世から帰って来る物語、冥界に逆に行く話、「作り物語」「仏教譚(たん)」として昔からあった。この映画では幻想性ではなく一見リアルな話として、死者と生者が交わる世界が展開するがファンタスティック・メロドラマの秀作になっている。

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しかし、不思議な旅であった。
一泊泊りの安宿か民宿が多く、ただどこも水の音が聞こえ、川や海の近くだった。水の音が全編を貫いているトーンだ。海辺かと思うと山あい、晩秋かと思えば新春であるというような、方向や時間の感覚が外れた、瑞希にとって夢まぼろしの世界だった。

「ユウちゃん、、、あゝ、ユウちゃんだ、間違えないね?宿に泊まって寝る時に抱きついていった。<もう消えないで!>ところが、優介は拒絶した。それが何処となく怯えているようなので、私ははっとする。してはいけないんだ、、、」

二人の旅での初めの出会いは小さな町の新聞屋・島影さん(小松政夫)だった。優介は島影さんの壊れたパソコンを直し、瑞希はチラシの折り込みを手伝う。優介は島影さんも「オレと同じなんだ」(死んでいる)という。ところが本人が自覚していない。二人が去る前日宴会をしてくれる。酔いつぶれた島影さんを寝室に運ぶと、

切り抜いた花の写真が壁一面に貼ってあった。あっ!と驚く光景である。「島影さんはここで亡くなったのだ」瑞希は思った。
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次は町の中華料理店だった。家では料理なんかしたことがない優介が手早く餃子の皮を包んでいく。知らない優介の一面を見るようで瑞希はびっくりした。優介は前より食事の量が増えた。倍近く食べるようになった。好みもうるさかったのに。なぜだろうか?
普段使われていない店の別館にピアノがあった。店主の奥さんが少女の頃、年の離れた病弱な妹がいてピアノを習っていた。が、どうしても上手く弾けない。風邪を引いて両親が留守なので、姉の彼女が負ぶって医者に駆け込んだ。悪性の風邪で、ピアノのことを悔やみながら死んでしまった。姉としてはそれが生涯の気がかりで、ピアノを処分出来なかった。(瑞希の登場で)夢か幻か死んだ妹が現れてあの時出来なかったピアノを、瑞希のリードで見事に弾いてしまう。妹は弾き終えてあの世に帰っていく。姉は涙を流した。
瑞希が少女の頃習った先生がドイツ人でそのお宅にあったピアノが同じドイツピアノ。厳格な先生の「自分の音を、よく聴きなさい。好きでも嫌いでも、あなたの音があなたなのです」瑞希は先生の言葉を懐かしく想いだす。

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死者優介との旅は、瑞希自身の人生をめくる旅でもあるし、今まで知らなかった彼の一面を発見して行く旅でもあった。何故死んだのか?又、何故逢いに来たのか?旅の本当の目的は?9年間の二人の結婚生活の意味を問う旅でもあった。

彼は職場の女性朋子さん(蒼井優)と不倫していた。彼が失踪してから調べているうちに彼女の手紙を発見して、朋子さんと会っている。感情の振れ幅が大きい性格など、瑞希の知らない部分が優介にあったと知る。彼女の優介への手紙は、腹が立って瑞希の怒りのエネルギー・生きている命綱みたいなものだ。不倫は彼女だけではなかった。出入りの製薬会社の社員とか、、、失踪の本当の理由までは分からなかった。

山奥の村でタバコ畑をしている星谷老人(柄本明)の家に行く。長男の妻・薫(奥貫薫)と孫の良太と3人暮らしだ。優介はこの村では「先生」と呼ばれている。昼間タバコ畑を手伝って夜、良太や近所の子供たちに勉強を教えていた。

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時々、村人たちに「宇宙」のことや「なぜ台風が起こるか」「車が走る仕組み」などを講義する。それが分かりやすくて評判がいいのだ。これは又、意外な優介の一面だ。星谷老人が語る。「昔、放蕩息子が死んだ、嫁の薫が失踪したが半年後、優介さんと帰ってきた。」

瑞希と優介の会話「薫さんはあなたと同じ?」「同じなのは亭主の方。もう崩れかかっているのに、薫さんを連れ回して酷かった」
河辺で優介と亭主が話している。
亭主「オレは未練があった。いつまでも二人で旅をしたかった。でもダメなのだ。字が読めなくなる。そして体が透けていく」「飯だけは食えよ。食えなくなったらお終いだぞ」そう言って男は光の粒となって消えた。

旅は終わりに近づいていた。
それから二人は誰にも会わず歩いた。澄み切った冬空の下を、海からの風に吹かれて歩いていく。「浜に下りてみようよ」風に吹き飛ばされそうになる。走り出し転げる。立ち上がった優介の胸に顔を埋める。優介は荒く息をしている。瑞希の体に腕をまわす。
「もっときれいなところがあるんだ。」「、、、そこへ行くの?」
「うん」 、、、「そんなところ、行かなくていい」

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再び胸に顔を埋めて「家に帰ろうよ。一緒に帰ろうよ」
このままどこへともなく旅をしていたい、とも思った。

海辺の寂しい道に、強風に吹き飛ばされないように、地面にへばりついているような宿だった。客は他に誰もいなかった。優介は話をしたがった。読んだ本,登った山、行った国、聴いた音楽、練習した楽器。瑞希は父の工場で働いていた人たちのことを話した。その夜、二人は旅に出てからはじめて、ほんとうの意味で抱き合った。優介は快楽のさなかで泣きそうな子供のような顔をする。いとしい声、懐かしい顔、あぁ、離れたくない、いつまでも一緒にいたい。

翌日、風がやんで穏やかな、冬の薄日の岸辺を歩いた。優介はずんずん進んでいく。岸辺の突端まで歩いた。ここで写経を燃やした。

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「ちゃんとあやまりたかった」「優介、、、」「行かないで」どうか、消えないで欲しい。優介とこのまま旅していたい。
「みっちゃん、、、もう限界だ」「海も、空も、光りも、とても痛い」優介は荷物からポットを出し、熱いコーヒーをカップに注いだ。ひとつのカップをかわるがわる、舌が焼けるほど熱くて甘いコーヒーを飲んだ。

悲鳴のような鋭い声がして、目が覚めた。足元にコーヒーを飲み干したカップが転がっている。あたりを見回すまでもなく、ここにいるのは私だけだ。海に挟まれた細い、今にも沈んでしまいそうな道を、私は二人分の荷物を持って歩き始めた。



  1. 2015/10/14(水) 15:17:20|
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『2015年映画』 「草原の実験」(監、アレクサンドル・コット。音、エレーナ・アン) 10/4

『2015年映画』「草原の実験」(監督アレクサンドル・コット、音樂、アレクセイ・アイギ 10/4
       出演、エレーナ・アン、ダニーラ・ラッソマーヒン、カリーム・パカチャコーフ、
ナリマン・ベクブラートフーアレシェフ
東京国際映画賞、ニカ賞他多くの海外の賞に輝く。 

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台詞を消した、映像と音だけの映画。これは実験映画だろうか?アンドレ・タルコフスキーの「サクリファイス」(86)や新藤兼人の{裸の島}(60)を想起する。監督は当然先行の作品を意識している。ロシアの新鋭アレクサンダル・コットによる衝撃的・前衛的な作品は鋭く問題を突きつける。

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果てしなく続く緑の大草原の美しい風景。
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その中に立つ、小さな質素な一軒の家。前に赤い旗がなびき、近くに一本の細い樹が風に揺れている。父娘の二人が住んでいる。
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少女ジーマ(エレナ―・アン)、父親はトルガ(カリーム・パカチャコーフ)。母親の存在は不明だが、恐らく亡くなったのだろう。父親は毎日ジーマの運転するトラックで出かけ、道の二股でジーマと交代して自分の運転で仕事に、ジーマは独りで歩いて家に帰るのが習慣だ。

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馬に乗った幼馴染の少年カイスイン(ナリンマン・ベグブラートフーアレシェフ)が現れ、ジーマを馬に乗せて家まで送り届けることも。彼はジーマが汲んだ井戸水を飲み干すと、またどこかへ馬を走らせて去って行く。毎日父親が帰るまでジーマは独りで過ごす。こうして映画は地球の片隅の、幸福そうな一家族の生活が展開してゆく。

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ある時、草原の真ん中で立ち往生したバスに水を提供したことで金髪の少年マクシム(ダニーラ・ラッソマーヒン)と知りあう。一瞬にジーマに心を奪われたマクシムは帰り際、カメラのレンズを彼女に向けた。

仕事から帰って来た父親のトルガは、地平線に沈みゆく太陽をパクリと食べる真似をして見せてジーマを笑わせる。ジーマは父親の足を洗い、温かい靴下を履かせるといつの間にかトルガは眠りに落ちていく。昼間の少年マクシムが窓の外に来てジーマを誘い、昼間写した写真を家の壁に投影して見せると、そのスライドをジーマに渡すとマッチを次々と灯しながら暗闇の夜の世界に消えていった。

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ある時、草原を何台もの軍用トラックが走って行く。異様の光景に不安を感じた。帰って来た父親は苦しそうに家の前に座り込む。夜、雷雨の降る中、武装した兵士たちがやってきて、探知機で家の中を執拗に調べた。トルガのトラックにあった箱に探知機のカンターが大きく揺れた。トルガも雨ざらしの中で裸にされて調べられた。隠れて震えているジーマ。

翌朝トルガが苦しそうに咳き込んでいたので、猟銃を空に向けて発砲すると、カイスィンが軍医を連れて来てトルガをどこかへ連れて行った。ジーマを抱きしめるカイスィン。マクシムが窓の外から見ていて、少年二人はジーマをめぐって殴り合いの喧嘩を始めた。そこへジーマがやってきてバケツ一杯の水を浴びせた。

ほどなくしてトルガが帰ってきた。翌朝、正装して娘にネクタイを締めて貰ったトルガは、家の前のベンチに座る。朝日が昇るのを目に焼き付けて息を引き取った。ジーマはトルガを草原に埋葬し、赤い糸で作った星を立て、父親を弔った。

ある日、ジーマは決心したようにトランクを持ってトラックに乗って出て行った。トルガを送っていた道を走らせたが途中でガソリンが無くなったので歩いた。父親がいつも行っていた道は鉄条網が張られていた。仕方なく家に引き返すと、ラクダが繋がれ、家の中に民族衣装を付けたカイスィンの一族が待ち構えていた。カイスィンはジーマに首飾りをかける。ジーマは鏡の前に立って婚礼衣装を当ててみるが、衣装を手から落とす。そして長い髪の毛にハサミを入れてばさりと切り落とした。

失恋したカイスィンは声を出して泣き叫んだ。カイスィンとの最後の決闘から帰ってきたマクシムの泥だらけのシャツをジーマが洗濯して、自分の服と一緒に干すと、二人の服が青空にはためいた。ジーマとマクシムは「綾取り遊び」をする。糸がもつれない限りゲームは終了しないという喩えのように、二人の幸福は永遠に続くのだろうか、、、

1949年8月、カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場でソ連最初の原爆実験が行われた。住民への避難勧告はなされなかった。多くの住民が犠牲になり、閉鎖後の2000年代になってもガン発症率が高い地域になっている。1989年まで40年間に468回の核実験が実施された。本映画「草原の実験」はセミパラチンスクの核実験場を題材に取り、テーマとしている。

映画は「終末」を突然に到来させる。大草原の幸福な一家の「日常」も巨大な爆音と共に一挙に吹き飛ぶ。草原の土の中に埋葬した父親トルガの遺体も、小さな家も、吹き飛ぶ。突然の衝撃的なシーンに言葉を失う。

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この世にあった生きとし生けるもの総てが消滅するか?このような「終末」から比べれば、家族の生き死――ジーマとマクシムの愛など取るに足らぬ些細なことか?「終末」の衝撃的なシーンは地球の片隅でささやかに暮らす人々の全てを奪う。いや、タルコフスキーの「サクリファイス」は全てを消滅させたか?東日本大震災の陸前高田の「奇跡の一本松」のように、「草原の実験」においても「一本の枯れ木」が残ったのである。タルコフスキーにおいても、「草原の実験」のコット監督においても、陸前高田の「奇跡の一本松」のように<救い>を差し伸べている。

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  1. 2015/10/04(日) 18:40:45|
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『2015年映画』「夏をゆく人々」(伊・瑞・独合作。監督アリーチェ・ロルヴァケル)9/23

『2015年映画』「夏をゆく人々」(女性監督・アリーチェ・ロルヴァケル 9/23、
                    67回カンヌ・グランプリ受賞、岩波ホール 8/22~

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思春期の少女ジェルソミ―ナ(マリア・アレクサンドラ・ルング)の口から蜜蜂が1匹2匹と出てくる。少女は含羞(はにか)むように笑う。この普通ならあり得ないシーンは我々に何を語るか?

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イタリア・トスカーナの田舎で、文明に背を向けて自給自足の生活を送る家族のひと夏の物語である。70年代の政治の季節が終わり、自然の生活、自然の恩恵を受けた簡素な生活をすることが理想の生き方だと考える家族の物語。夫婦は昔ながらの製法の養蜂業によって家族による理想郷を打ち立てようとした。この世の中あらゆるものが荒廃し、崩壊し、腐敗していると捉えた。田舎こそ救いの場で、家族との共同生活が人間的な解放をもたらすと言っている。

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ドイツ人の父親(サム・ルーウィック)、イタリア人の母親(アルバ・ロルヴァケル=監督の実姉)
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思春期の長女ジェルソミーナと三人の妹、同居人ココの7人の家族だ。父親以外は女なので長女ジェルソミーナが頼りにされる。又、彼女もそれに応えて蜂蜜のことや家事を一生懸命にやっている。

彼らの原始的ともいうべき理想郷に外部から2つの侵入者ともいうべき事件が起こる。

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一つは、テレビ番組の収録だ。この地に今も根付く「エトルリア文化」の紹介と、その伝統に沿った生活をする家族の募集とコンテストをやるというのだ。きらびやかなドレスを纏った司会者ミリ―(モニカ・ベルッチ)の魅力や華やかなテレビの世界に、一瞬の内に心を奪われた長女のジェルソミーナはコンテストに応募してしまった。思春期の彼女にとって今までの素朴な閉塞状況とは別な世界が輝かしく見えたのだ。 

*「エトルリア文化」古代(紀元前8世紀~1世紀)イタリア半島中部にあった都市国家群。農産物や鉱物資源を基に古代地中海で海上交易を行った。独自な文化を形成したがローマ文化の繁栄に併合されていった。 

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もう一つは、「少年更生プラン」で盗みと放火の罪で捕らえられた少年を預かるというのであった。ジェルソミーナと同年代の少年は身体に触れられることを極端に恐れていて、言葉を発しない。代わりに歌うように口笛吹く。その音色は世界を包み込むように美しく、物悲しい。その音色にジェルソミーナが惹かれていく。恋とはいえない淡いものだが、、、

蜜蜂の飼育は隣家の畑で噴霧された除草剤のために壊滅状態になり、食品衛生の条件を満たさない作業所は閉鎖に追い込まれようとしていた。家族は宝石を扱うように蜂蜜作りに励んでいたが。

両親の留守中、蜂蜜作りをしていて次女が遠心分離器で手を怪我してしまう。慌てて彼女を病院に連れていくが、留守中に蜂蜜が作業所に溢れてしまう。慌てふためく中、テレビの担当者が番組への出場の知らせと蜂蜜を見にきた。混乱の中、両親が帰って来る。
父はテレビへの出演を拒み応募したジェルソミーナをなじる。母は次女の怪我に動揺するばかり。

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父はその日、娘に最高のお土産を買ってきたのだ。財産を殆ど叩き、妻の反対を押し切って買った「らくだ」だった! 娘たちが昔から欲しがっていたものだ。だが、今のジェルソミーナにとって虚しく切ない感じだった。

テレビのコンテストがエトルリアの古代墓地のある島の洞窟の中で行われた。コンテストの場で、父は自分の信念を語り「いま世界は終わりつつある、、、」と言葉を発した瞬間、司会者のミリーが別の話題に変えた。ジェルソミーナと少年が口笛で蜜蜂を操る芸を披露するが、優勝は除草剤を撒いた隣家に与えられた。

その夜、ココがジェルソミーナと少年を讃え、ふたりの感情を察してキスを無理強いする。人との接触を極度に恐れる少年は驚き、島の奥深くへ逃げていく。皆で探しても見つからなかった。ジェルソミーナは独りで探しに行き、洞窟で彼を見つける。二人が眠る洞窟の天井や壁に、いくつもの影が現れる。美しく、楽しい。不思議な戯れ、夢となり、幻となり、泡のように儚く消えていく。

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翌朝、ジェルソミーナはひとり家族のもとに帰っていった。家族は外の庭にベットを出して皆固まって寝ていた。夏はしばしば外で寝ていた。母は「戻ったのね」、父は「場所はある」と声をかける。ジェルソミーナはもぐり込む。彼女は口笛を吹けるようになっていた。

静かに流れる口笛の調べ。やがてラクダが歩みだす。もうベットには家族はいない。家族が住んでいた古い大きな家、そこにも、誰もいない。あの家族は何処へ行ったのだろうか?不思議な家族だ。リアルと幻想が交差して、フェリーニの「道」や「甘い生活」がだぶってくる。フェリーニへのオマージュではないのか?

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初めに触れたように、家族が消えていったということは、この世が汚濁にまみれていて荒廃し腐敗していることを語っている。リアルに物語が展開してゆくが、作品全体としての象徴性・幻想性は見事だ。監督のみずみずしい感性を感じた。




  1. 2015/09/23(水) 21:50:47|
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『2015年映画』「ふたつの名前を持つ少年」(ぺぺ・ダンカート監督、独映画 9/3

『2015年映画』「ふたつの名前を持つ少年」(独映画、ペペ・ダンカート監督、9/3

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ナチス占領下のポーランド、ユダヤ少年の逃避行と信仰を描いた。原作が自身も強制収容所体験を持つ児童文学者ウーリー・オルㇾブの「走れ、走って逃げろ」、実話をもとにドイツのドキュメンタリ監督でアカデミー賞受賞者ダンカート監督の映画化。

42年、8歳の少年スルリックは父親から「絶対に生き抜け、ユダヤ教徒であることを忘れるな」と言い残され、ポーランド・ワルシャワのゲットーを脱出、
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逃亡する少年たちと森に逃げ込む。やがて取り残されて一人になり、凍死寸前のところを親切なヤンチック夫人に助けられる。夫人の夫や息子が実は森でパルチザンに参加していた。彼女はスルリックの愛らしさと賢さを知り、生き延びる為に、キリスト教徒「ユレク」というポーランド名を考えて、孤児になった理由を作りあげ、食べ物と宿を求めて農村を旅することを教えた。

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それからのスルリックは農家を回って仕事と食と宿を求めた苦難の旅が始まる。

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美しいポーランドの森と小川、素朴な村や広大に広がる麦畑で、ナチスに追われたユダヤ少年の苦闘の旅が展開する。スルリックの逃避行で出会うポーランド人は様々である。ユダヤ人への偏見を持つ人、冷酷な人、ナチスに密告する人。そうかと思うとスルリックに親切にする人。温かいスープを与える人。命を救う人。厳しく過酷な運命を耐え抜くユダヤの少年の苦闘は感動を与える。

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実は主人公スルリックを一卵性双生児の、アンジェイとカミルのトカチ兄弟が好演。場面によって性格の違いを生かした使い方をした。それが映画の厚みを一層増した。

ソ連軍の進攻によってナチスは敗れ戦争は終わった。生き延びたユダヤの少年はその後、どういう人生を辿ったか?

神は少年に過酷な試練を与えて、最後は救うという宗教映画にならなかったのは、ポーランドの森の風景の素晴らしさ、ヒューマンに少年の過酷な日々を描いたからだろうか?とにかく宗教臭くなれば魅力は半減する。映画は充分に見ごたえがある。
ドイツ人が70年前のナチスの残虐な加害を描くことは勇気のあることだ。日本人が南京虐殺や朝鮮半島への植民地支配を描くのと同じなのだ。歴史の真実は避けて通れないのだ。
この映画でも、いろいろなポーランド人を描いている。それはドイツにおいてもあまり変わらない情景ではないだろうか?

「原作」、ウーリー・オリレブ 「走れ、走って逃げろ」
「監督」、ペペ・ダンカート。1955年、ドイツ生まれ。78年からドキュメタリ映画に関わり多くの賞を得る。93年の「黒人のドライバー」でアカデミー「短編実写賞」に輝く。ドイツの監督でありながらナチスの残虐性に向き合う姿勢を評価する。
「出演」トカチ兄弟(アンジェイ&カミル)タフな眼差しのシーンをアンジェイが、無邪気に笑ったり泣くシーンをカミルがと使い分けた。

アウシュ⑨
* 私が『アウシュヴィッツ』に拘るわけ。
 ナチスのユダヤ人虐殺=その象徴としての『アウシュヴィッツ強制収容所』は、戦後思想の原点と捉えた。戦後思想はそこから出発していると考えた。五百万人の人間を殺した事実・ユダヤ人を絶滅させようと図った事実は、人類史の最悪の負の行為である。旧日本軍の『南京虐殺』も又、それに類する行為である。加害の歴史に連なる民族の一員として、残念だ!胸裂ける思いだといっても、そこから逃げることはできない。
私は美しいもの・ヒューマンなもの・真・善・美の芸術が好きだ。イタリアルネサンスの絵画・ドイツの古典・ロマン派音楽・フランスの文学が好きだ。と同時に、思想を組み立てていくとき人類の負の遺産を忘れることはできない。『アウシュヴィッツ』を訪れた時、そのことを深く実感した。
最近、加害の歴史に立つ者が過去の自国の加害性にどう向き合っているかに関心をもっている。最近のドイツ映画、アンジェイ・ワイダのユダヤ人を扱った映画、、、ここでも『アウシュヴィッツ』が原点になってくるのである。





  1. 2015/09/03(木) 15:42:49|
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