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映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

2011年⑫『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その3・2011.5.19(木)20(金)記12.10.12

2011年⑫『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その3・2011.5.19(木)・20(金) 記、12.10.13 

A) ブランカッチ礼拝堂(サンタ・マリア・カルミネ教会)「聖ペテロ伝」壁画連作。
  (作、マザッチョ、マゾリーニ、フィリッピーノ・リッピ。制作1424~27年。1482~83年)


カルミネ教会
  (サンタ・マリア・カルミネ教会・ブランカッチ礼拝堂)

ブランカッチ・ペテロ伝の右
(ブランカッチ礼拝堂・「聖ペテロ伝」右側=作者 同)
 
 
 18世紀の火災で殆ど消失したが、幸いマザッチョらの壁画連作のブランカッチ礼拝堂が残った。ここはルネサンス絵画の学校、遠近法の絵画における初めての実験場だった。ヴァザーリが「ルネサンス画人伝」で最大の賛辞を贈っているように、ここでダ・ヴィンチもボッティチェッリもミケランジェロも学んだ。
 
 1400年代の初め建築家ブルネレスキが、鏡に建築の輪郭を写し取り遠近法の実証に成功。彫刻家ドナテッロ、ギベルディとそれぞれ成果をあげ、1426年マザッチョがブランカッチで絵画における遠近法に成功した。皆友人である。1435年アルベルティが「絵画論」で透視図法の理論化を表し、1450年代ピエロ・D・フランチェスカが「聖十字架物語」の大作を完成した。平面・2次元の世界に立体・3次元を描く事に成功したわけで、絵画が奥行き・量感、構成において夢幻の拡がりと可能性を持ったことになる。近代絵画の始まりである。

* 物語はキリストに課せられた教会の使命、キリストの1番弟子ペテロの実践の物語を通して教会が実現した人間救済の物語。アダムとエヴァの「原罪と楽園追放」から物語は始まり、人間は原罪を背負い神の言葉のみが救う。漁師からキリストの1番弟子になったペテロの、「説教」(人間救済のまことを告げ)と「洗礼」(イエスの名において行われる洗礼で人間の罪が許される)「貢の銭」と「足萎えの治療とタビタの蘇生」はキリストの命によってペテロが実践する生命の力の発現。

DSC_1791マザッチョ①
    (マザッチョ・「共有財産の分配とアナニアの死」)

「影による病人の治療」(ペテロが行う救済)、「共有財産の分配とアナニアの死」では。金銭への貪欲やごまかしに対する断罪。「テオフィルスの息子の回生」では真実の言葉こそ人間救済の奇跡を行うものだと証した。
「魔術師シモン」で幻術と救済は関わりないこと。「ペテロの殉教」で人間と救世主との一体化をあげる。

楽園追放
  (「楽園追放」マザッチョ・ブランカッチ礼拝堂)

 ブランカッチ礼拝堂の一番奥に上記の壁画が左右にあり、眼前で見ることの満足感にひたる。(アレッツォの「聖十字架物語」も同じ)作品に圧倒れ息をのんだわけだが、どういうわけか頭は理詰めになっていた。
 どこが遠近法?どれがマザッチョで又マゾリーノなのか?。
 マザッチョは構図・構成力において当時の絵画史上画期的な作品を描いた。遠近法という技法を駆使して。

貢の銭
(『聖ペテロ伝』「貢の銭」マザッチョ・ブランカッチ礼拝堂)

① 「貢の銭」。画面中央、キリストと弟子たちの一行に収税史が立ち塞がり納税を要求している。キリストは「カエサルのものはカエサルに。神のものは神のものへ」と言いながらも、左端でペテロが湖で魚を獲り(魚の口から銀貨が)、右端でペテロが役人にお金を渡している、3つの場面を描いている。「納税は市民の義務」という当時の政府の主張(市民の資産に公平な税金をかけ公平に分配しょう)を代弁していることになる。

②  遠近法の技法が計算されて使われている。背景の枯れ木は縦の線の等分であろうし、中心点のキリストの頭部に向かって何本かの線を引いたに違いない。中心のキリストを取り巻く楕円形の集団、人物の顔や表情、衣服の襞(ひだ)の描き方など、ヴァザリーが言う「それまでの絵画が足元は幽霊のようなもの」、に対して大地に根ざした人間を描いたのだ。現実の生きている人間をリアルに描くことはマザッチョだから出来たのだ。又、今で言うデッサンともいうべき「下絵」を張って針で穴を開け、顔料の粉を壁に叩き移す方法で制作していった。
 
  (「足萎えの治療とタビタの蘇生」マゾリーノ・ブランカッチ礼拝堂)

③  マゾリーノはマザッチョより18歳も年上で同郷の親しい関係。師弟関係かと思われたが現在では否定されている。国際ゴシック派のマゾリーノ1人では「聖ペテロ伝」のような現実主義の、雄大な構想力と優れた遠近法を駆使した壁画連作は無理である。この2人の関係がわからない。ウフィツィの「聖母子と聖アンナ」で聖母子と右上の「天使」がマザッチョと言われるけれど、「聖アンナ」や他の「天使」をマゾリーノとすれば、絵の次元が違うことは一目瞭然だ。又、マゾリーノの「原罪」とマザッチョの「楽園追放」を較べても、「楽園追放」では人間のあらゆる罪を背負って生きる苦悩が良く出ている。人体の描き方も(彫刻の影響か)ギリシャ・ローマを手本にした古典古代の造形美の基にリアルである。「原罪」の甘さと較べて、2人の違いが如実に出ている。

⑤ フレスコ画の性質から「聖ペテロ伝」の構想・構図・勿論主題・下絵を2人は練り上げたに違いない。当然新しい思想を持つマザッチョがリードした。半世紀後、下絵を基にフリッピーノは連作を完成させた。 

(2) 「サン・スピリット教会」
サン・スピリト教会
    (「サント・スピリト教会」)

13世紀中頃、ブルネッレスキの設計で建設が始まった。彼の死後幾多の曲折を経たが、彼の設計に忠実に完成した。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ベルニーニが称賛した教会である。

ミケランジェロの木彫の十字架像
   (ミケランジェロ・木彫の「キリスト十字架像」)

 この教会の何よりの見ものは、若き18歳ミケランジェロの木製の「キリストの十字架像」だ。後期の筋肉隆々たる彫刻ではなくて、若鮎のような清楚な木彫なのだ。木がいい。シンプルはビュティフル!しなやかで柔らかな感触にほっとした。「サント・スプリト修道院」の食堂の壁に掛けられていたのを1962年に発見され、1964年修復・調査の末ミケランジェロ18歳の時の作品と認定された。

*教会の内部は広く40もの礼拝堂が並んでいる。有名な作品は、
 フイリッピーノ・リッピ「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」。
 マーゾ・ディ・バンコ「多翼祭壇画」。
 ギルランダイオ「聖母子と聖アンナ」。
 ロマネスク前期とルネサンスの彫刻が多数。

*サン・スプリト教会の近くでカフェに入ったら、日本人の女の子がウエイトレスのバイトをしていた。すぐ近くのイタリア語学校に通っていて、夜も日本料理店でバイトをしていると、言う。「何を目的に?」「イタリアに来たかったから」言葉通りかわからないが、最近、美術とか料理とか目的があってイタリアに来るのではなくて、まず来てしまう人が多い、と聞いたことがある。


【5月20日】(金)フィレンツェ・フリータイム。
 
 一行の人の行動は「ウッフィツィ」へもう一度行った人、「ピサ」へ日帰りの旅行をした人、様々だ。
 私達は①孫へのお土産を買う事。②ノヴェラ教会③サンタ・クローチェ教会。移動の時間を入れて2つぐらいの見学しか出来ないだろうと思った。最後の日なので有効に使いたい。
 中央駅に近く、ホテルからも近かったので「サンタ・マリア・ノヴェェッラ教会」からと思ったが、金、日、祝は午後からだというので、「サンタ・クローチェ」へ目指すことにした。アルノ川沿いを下流に向って歩く。ヴェッキオ橋を横に見て次のグラッツィエ橋から街中に入って行く。
DSC_8513サンタ・クローチェ教会
     (サンタ・クローチェ教会)」

(3)「サンタ・クローチェ教会}
 フランチェスコ会の世界最大の教会。多くの礼拝堂を有しジョット及び弟子たちの壁画によって知られている。ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリなど有名人の墓があることでも知られている。日本の高野山みたいに文化人はここに埋葬されたいと思ったので、多くの墓や記念碑がある。
 14世紀の初めに全面的な再建工事が始まり、本堂は1385年に完成。
 アッシジもスクロベーニも知らなかった初めての時は強烈なジョット体験だった。今回ジョットが修復中で断片しか見れなかった。
チマブーエの「十字架像」
   (*チマブーエの「十字架像」)
 1966年のアルノ川の洪水で大きく破損したにもか変わらず感迫るものを感じた。かなり破損しても存在感の凄さ は見事なものだ。

ジョット・洗礼者の誕生・サンタ・クローチェ
   (ジョットの「ヨハネ伝・洗礼者の誕生」サンタ・クローチェ聖堂)

* ドナテッロのレリーフ(浮き彫り)「受胎告知」。*ジョット及びジョット工房の「聖フランチェスコ伝」の一部が見えた。

* ここでの最大の失敗はガイド無しで見たことだ。後で「付属美術館」にも行くわけだが、多くの傑作があった にも関わらず作者・作品名がわからなかった。後の「ノヴェッラ教会」は知っている画家が多かったが、クロー チェはジョット派の弟子たちが多く、こちらの勉強不足であった。

* タッデオ・ガッティ「バロンチェッリ礼拝堂の<最後の晩餐>」ジョットの弟子として24年間仕えた。
* ジョット&工房「バロンチェッ礼拝堂の<聖母戴冠>」
* マーゾ・ディ・バンコ「ヴァルディ・ディ・ヴェル二オ礼拝堂」のフレスコ画群。
* バッツィ家礼拝堂の一連の装飾。
* アーニョロ・ガッディの「聖十字架物語」タッデオの息子、ガッティ工房の3代目。
もし再び訪れることがあればもっと勉強して行くだろう。
サンタ・クローチェは美しい白大理石に緑の線で縁取られたシンプルな教会だ。前に大きな広場が広がっていて落ち着いた雰囲気を持っている。広場の先に皮製品を売る店があって、昔日本人の女店員(イタリア人と結婚)がいてこの店でお土産を買ったものだ。今回も若い日本人の女店員がいたが、中国人の観光客の集団がワイワイ言いながらお土産を買い漁っていた。我々も昔はあんな事をしたのか?時代の流れを感じた。

 共和国広場の近くにZARAの子供専用の店があるので、本年もそこで孫へのお土産を買った。
 アルノ川沿いのカフェで簡単で遅い昼食。ノヴェッラ教会に行く前に、マリーノ・マリーニ美術館を地図で調べて行くことにした。

(4) 「マリーノ・マリーニ美術館」 
マリーノ・マリーニ   (「マリーノ・マリーニ美術館」の馬の彫刻)

*10数年前初めてフィレンツェに来た時のこと、
「一行の中に女性の彫刻家がいた。その方とは若い頃日本橋のデパートでイタリア現代彫刻展やイタリア具象絵画展を見たことを話した。マリーニやマンズーの作品の話、(その方も見ていた)具象的で生活空間に飾っても作品がマッチする事などを話した。フィレンツェに来て、梱包された包みを持ってホテルに帰ってきた。マリーノ・マリーニが好きで今日美術館に行ったらあいにく休館だった。がっかりして帰ってくる途中画廊があってマリーニの良いエッチング?(記憶が確かでない。時価10数万と聞いた)が飾ってあった。思い切って買った。お小遣いを全部叩いた。これでいい。と満足そうに我々に語った。
マリーノ・マリーニといえば馬の彫刻とこの話を思い出す。
うつ伏せの女
マリーノ夫妻と帽子を被る少女
   (「背のきれいな女」「若きマリーノ夫妻」「油絵」)

 階段を上ってゆくと広い空間が奥まで広がって、真ん中の吹き抜けを囲むように、2階、中2階、3階と作品を陳列してある。馬と人、男や女の裸像、古代彫刻のような女の顔、うつ伏している女の素晴らしい背中から腰にかけての曲線。若い頃絵も描いていたんだ。大きな帽子を被り手に小さな花を持った少女の肖像。モディリアーニみたいな芸術青年と美しい女性の、若い頃のマリーニ夫妻の肖像写真。数人の画学生の男女が写生をしていた以外に誰もいなかった。ゆったりとした時間が流れていた。先ほどのうつ伏している女の背中の曲線の何とも言えない美しさに、20世紀イタリア彫刻の可能性を見た。

「5」「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」

ノヴェッラ教会
   (「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の華麗なファザート)

 13世紀の前半、ドメニコ派の聖堂として建てられた。

① ジョットの「十字架像」に圧倒された。大きな教会の真ん中に、天井から吊るされたキリストの大きな磔刑図。衝撃が走った。
ノヴェラ・十字架のキリスト・ジョット
    (ジョット「十字架のキリスト」ノヴェラ教会)

② マザッチョ「三位一体」
 マザッチョの「三位一体」大きな作品である。イオニア式の円柱、コリント式の角柱、半円のアーチ囲まれて正面に父なるヤハウェ神、磔刑のキリスト、精霊の鳩(これが見えない)の三位、キリストの両側に聖母マリアと使徒ヨハネ、その下にこの絵のパトロンの夫妻が描かれた。(パトロンが誰か色々な説がある)この絵は数奇な運命を持ち、絵の前に祭壇が設けられたり、ヴァザーリによって別の祭壇画が置かれたりして300年マザッチョは眠っていた。20世紀になっての発掘で祭壇の裏の壁の中から石棺に横たわる骸骨の絵が出てきて1952年元の形に戻された。骸骨の上にラテン語で「我はかつては汝らのごとし、汝らもいずれ我のごとくならむ」
しかし、この絵には感心しない。色が悪いし、聖母の表情以外は平凡だ。
   三位一体・ノヴェッラ・マザッチョ
  (マザッチョ「三位一体」ノヴェラ教会)

* フィリッピーノ・リッピ「聖ヨハネの奇跡」と「ピリッポの奇跡」絢爛豪華な作風。

* ドメニコ・ギルランダイオ(1449~1494)「聖母マリア伝」「洗礼者ヨハネ伝」(1485~90)有名な「マリアの誕生」である。注文主はメディチ豪華王の叔父の有力者。主題の「マリアの誕生」より目立つて描かれているのが、画面左側に描かれたトルナブオーニ家の5人の女たち。宗教画の中に世俗の人物を描き入れる所まで時代が進んだか?
マリアの誕生・ノヴェッラ
   (『マリア伝』「聖母マリアの誕生」ギルランダイオ。ノヴェラ教会)

エリサベツ訪問・ノヴェッラ
    (『ヨハネ伝』「聖母の、エリサベツ訪問」ギルランダイオ。ノヴェラ教会)

* ここでもガイドなしでは深い鑑賞が出来ない事を知る。記憶が薄れた作品として、

 ブルネッレスキ「十字架像」。ピサーノ「聖母子像」。ウッチェッロ「ノアの洪水」
 スペイン人の大礼拝堂。有名な作品なのに記憶が鮮明でない。

* 夕食を中央駅の近くの日本語のメニューのある店でとってドゥオーモを散歩した。ドゥオーモを一周して思ったことは、今回の旅でフィレンツェが一番ほこりぽっく汚いということだ。道路の舗装もガタガタで足が痛んできた。これは残念なことだ。アペニン山脈を越えて行ったフェデリコ公の「理想都市・ウルビーノ」、ピエロ・フランチェスカの「サンセポルクロ」と「アレッツォ」、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の「コルトーナ」、突然の雷雨にやられた「ペルージャ」、トスカーナの山上都市「ピエンツァ」「モンタルチーノ」煌く「シエナ」。ルネサンス絵画を巡る旅であったが、皆きれいな中世の都市だった。その麗しき思い出の街と比較して、フィレンツェは大都会であり喧騒の町であった。
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  1. 2012/10/12(金) 07:04:17|
  2. 2011年『イタリア 列伝の旅』
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