FC2ブログ

私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2018年映画』「沖縄スパイ戦史」(監督、三上智恵、大矢英代、撮影、平田守)8/11

『2018年映画』「沖縄スパイ戦史」(監督、三上智恵・大矢英代、撮影平田守、)8/11

DSC_2103.jpg
7月28日公開より連日満員、久々のヒットである。沖縄戦のことは誰でも知っているが、少年を使ったゲリラ戦は衝撃を与える!さらにスパイ戦・ゲリラ戦は次の大きな目的――本土決戦のための実験!――の為でもあった。

第二次世界大戦末期、米軍が上陸し沖縄住民を含む20万人が死亡した沖縄戦。牛島司令官が自決する1945年6月23日までが「表の戦争」なら、「北部」ではゲリラ戦やスパイ戦などの「裏の戦争」が続いたという。

 1944年の8月、42名の中野学校出身者が沖縄に渡った。それも、偽名で身分を隠し、学校の教員など一般人として敗色濃い沖縄に派遣された。彼らはどういう任務をもっていたか?

戦争末期の陸軍大本営が沖縄・硫黄島等の南西諸島に課していた任務は、「本土決戦」に備えての「皇土防衛ノ為、縦深作戦遂行上ノ前縁」と位置づけ、「敵の出血、消耗を強いる防波堤」と規定、「捨て石作戦」と称していた。「本土決戦」の為に、住民を組織してのゲリラ戦・スパイ戦のノーハーの実践と訓練であった。中野学校出身者が先導的役割を果たした。

中野学校DSC_2104

陸軍中野学校とは何か?謀報や防諜・宣伝などの秘密戦に関する教育・訓練を目的とする陸軍の軍学校で情報機関。つまり、スパイ技術・ゲリラ戦養成の学校であった。近代における戦争形態の加速度的変化に対応すべき、昭和12年創設、参謀本部直轄の軍学校となる。その存在は陸軍内でも極秘扱いであった。戦争末期、本土決戦における住民の組織・ゲリラ戦やスパイ戦の指導者として中野学校は中核として使われた。
DSC_2106.jpg

山岳に籠って米兵を翻弄したのは地元から徴集された10代の少年たち。彼ら「護(ご)郷隊(きょうたい)」を組織したのが、44年の秋、大本営による遊撃隊の編成命令を受け、現地の少年1000人のゲリラ部隊「護郷隊」を組織したのは村上治夫中尉と岩波壽中尉であった。第一隊=村上治夫中尉。第二隊=岩波壽中尉、いずれも22歳の、中野学校出身の若きエリート将校だった。17歳以上の男子は村に一人も残っていなかった。16・15歳の少年を「護郷隊」と言う名目で徴用した。強制の命令であった。任意などの雰囲気はなかった。中野学校の「遊撃戦の参考」に、地元の人を活用すること、民衆を常に管理し、地元住民を情報戦にも使う。しかも、住民を作戦に使い、同時に作戦の邪魔にならないように管理すること。(軍の為にならないものは排除する)とある。住民の中に入り・工作し・監視する。それを詳細に大本営に送信する。
DSC_2111.jpg

45年3月米軍沖縄本島上陸、島は南北に分断された。南部の激戦、北部の山々では少年たち護郷隊によるゲリラ戦が戦われた。地元の子供の振りをして捕まり、収容所内に爆薬をしかけたりした。米兵も間もなく子供を装ったスナイパーがいる、と気づく。少年兵たちは敵の武器を拾ってまで戦う。それは日本軍の方針だった。「素手の兵は先に戦死した者の武器、又は、敵の武器をとって闘え」米軍も一時少年兵が脅威となった。

勝ち目のない戦に追い立てられた少年たちの心は消耗していった。戦争の「狂気」は少年たちの内部に向かう。スパイの嫌疑や、怪我や病気による足手まといは撤退の時射殺。幼馴染どうしの射殺の悲劇!最終的に160人が戦死。戦後多くの少年兵がPTSDに罹る。戦争の
話をしては暴れるというので、近所の人は「兵隊幽霊」と言った少年兵。家族はやむなく座敷牢に閉じ込めた。
 
 (戦争マラリア)
 沖縄南端の波(は)照(てる)間(ま)島、米軍は上陸せず、戦闘や空襲による死者は一人もいなかった。にもかかわらず、島の3分の1=500名が命を落とした。軍の命令によって強制移住させられた所がマラリアで有名な西表(いりおもて)島だったからだ。44年暮れ中野学校出身の工作員「山下虎雄」(偽名)は青年学校指導員として、波照間国民学校に赴任してきた。45年沖縄の敗色が濃くなると、山下は本性を現す。優しい先生の仮面を捨て、軍刀を抜き、島民たちに「西表島」に移住せよ」と迫る。米軍が波照間に上陸すれば、住民たちは捕虜になり敵の手先になり軍の秘密を漏らす。移住は軍事作戦を優先して、住民をマラリアの島に閉じ込めようという腹だった。又、各家庭の牛や馬等の家畜の屠殺―米軍の手に渡り、敵の食糧になるのを防ぐ為だというが、結局軍、軍の食糧になった。こうして住民たちはすべてを失って島に渡ったが、感染病と栄養失調に苦しめられ、まさに「マラリア地獄」だった。石垣・波照間の八重山諸島では強制移住が行われ、移住地の出入り口に軍の見張りが常に目を光らせていた。そして3600人余りの命が奪われた。戦後、山下に対する島民の怒りが収まらず、山下に絶縁状を突きつけた。

(スパイリストと住民虐殺)
 「住民は捕まればスパイになる。」の恐怖に晒されたのは日本兵も同じだった。米軍から山に追われた彼らは「敗残兵」と化してゆく。米軍に投降して情報を漏らす恐れがあるからと味方の日本軍に殺された住民や敗残兵が数百人とも言われている。
 「住民虐殺」で有名なのが今帰仁(なきじん)村にいた通称「白石隊」だ。早くから船を失い山に隠れていた彼らが「スパイ容疑の住民リスト」に沿って、上から順番に殺していったという証言がある。
スパイリストは誰がどんな目的で作ったか?「白石隊」が潜伏していた山で、米軍が日本軍の極秘文書を発見した。その資料から、「日本軍は、地域の有力者や学校の先生を集め、「裏の軍隊」を作っていた。「国士隊」という。国士隊には住民同士を監視させ、密告させる役割があり、それがスパイリストにつながったのではないか?

(本土決戦に向けて)
大本営及び日本政府は、最終決戦の場は本土決戦になるとにらんでいた。参謀本部は、第32軍が壊滅した後の戦略として、中野学校出身に米軍を後方からかく乱・攻撃する戦略だった。それとは別に沖縄本島、宮古、石垣、西表から、米軍の動きを大本営に直接送信する計画だった。本土決戦を有利に戦う目的からであった。大本営は、特に地上戦においては軍だけでなく、住民も兵士として総力戦を想定していた。一方米軍も沖縄の護郷隊の存在をしていた。「天皇の為、自らの命を犠牲にして攻撃を行う軍隊だ」と認識していた。もし本土で対峙したらどうなったか?
大本営は、44年から始まった特攻隊、沖縄での少年ゲリラ戦の実践、それらを踏まえて大日本帝国滅亡への最終戦へ向かって準備していた。しかし、8月15日の敗戦を迎えた、、


スポンサーサイト
  1. 2018/08/11(土) 14:06:46|
  2. 『2018年映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<『日記』「ゲリラ豪雨ー東京の雷電・雷の落下」 8/30 | ホーム | 『美術/音楽/舞台/読書』「パンソリ<沈清歌><東学農民革命>」8/3>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://sinema652.blog.fc2.com/tb.php/512-979c506d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)