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映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

2011年②『イタリア列伝の旅』第3日アレッツォ2011.5.14 /2012.9.30記

2011年②『イタリア列伝の旅』 第3日 アレッツォ2011.5.14
 (Ⅰ.)「サン・フランチェスコ教会」 『聖十字架物語』2012/9.30記
「イ」始めに
 アレッツォはエトルリア時代に起源を持ち、中世は自治都市として栄え、ルネサンス文化の中心地でもあった。詩人ペトラルカ、万能の芸術家ヴァザーリ、我がピエロ・デッラ・フランチェスカの「聖十字架物語」、中世の音階を再編成したG・モナコ(今でもその名を冠した国際合唱コンクールも毎年開催されている。)などが輩出した多才の文化の町である。伝統産業に貴金属や宝石の加工があって、ここで作られ貴金属品はフィレンツェのアルノ川のヴェッキオ橋の高級貴金属店で売られているそうだ。
DSC_7369アレッツォ.サン.フランチェスコ教会
  (サン・フランチェスコ教会)
9.00出発。徒歩にて駅前モナコ通りを旧市街へ向ってゆっくり上ってゆく。近代化された町並みの中に薄茶色の砂岩がむき出しの未完のファサード(建物の正面、デザインのこと。)が「サン・フランチェスコ教会」だった。質素な外見で時代に取り残された様子で建っていた。教会の一番奥に「主礼拝堂」が有り、ピエロ・デッラ・フランチェスカの描く『聖十字架物語』がある。
DSC_2338聖十字架物語(壁画連作)
   (聖十字架伝・壁画連作)
 ここまで辿り着くのにかなりの年月を要した。昨年の「反省」に書いたように、当時新鋭の画家有元利夫によってピエロ・D・フランチェスカを知ったのは(85年の夭折後の)87年の展覧会だった気がする。有元は71年にここを訪
有元利夫.卒業制作
   (有元利夫/女性像十選)
れ、72年卒業制作「私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ」連作を描いて世に出た。有元の天空の風が吹いているような作品に魅かれると同時に、彼の創作のもとになったピエロ・D・フランチェスカが頭に刻みつけられた。
厳格なカノン
    (有元利夫/ 厳格なカノン)
その後30年近くピエロは私の心の中で発酵し続けた。71年有元が立った聖堂に40年後の今、私もいる。体がかすかに震えた。今回の目玉の一つ。
「聖十字架物語」の前に立ってみての私の感動は静かなそれでいて、こんこんと湧き起こってくる感動であった。ピエロの描く世界を受け止めるには私自身が余りにも小さ過ぎた。
モメンタルとよくいわれる。大作を前に集中力と研ぎ澄まされた感性が必要ではないかと思った。何しろ大作であった。私は茫然とただ見ていた。
夕方もう一度見に行った。
「ロ」作品の内容
* 制作年代は1452~58年 殆どはピエロの作だが弟子も少し参加している。
 壮大な画面の展開である。画面の展開、配置図は以下の様である。
右側 上段・①アダムの死 中段・②シバの女王の聖木礼拝。ソロモン王とシバの女王との会見 下段・⑥コンスタンティヌス帝のマクセンティウスに対する勝利
真ん中  窓の右 上段・③聖木の運搬 中段・⑤コンスタン帝の夢
 〃   窓の左 上段・⑦ユダの拷問 中段・④受胎告知
左側 上段・⑩聖十字架の賞賛 中段・⑧聖十字架の発見と検証 下段・⑨ヘラクリウス
    帝のペルシャ王ホスローに対する勝利  (数字の番号が物語の順番。)
 13世紀の「黄金伝説」(伊・ジェノヴァの大司教ヤコボスによって集められたキリスト教
の聖者・殉教者の伝記)によった。「聖十字架物語」はイエスが磔刑に処せられた「十字架」
の「聖なる木」にまつわる物語で、旧約のアダムとイヴの<楽園追放>から7世紀の東ローマ帝国時代までの壮大な物語である。
「ハ」物語・場面の要約
・1つの画面に幾つかの場面を描く場合が多い。
アダムの死
① (「アダムの死」)の3場面。
右、年老いた重い病気のアダムを、4人の人間が囲んでいる。老残のイヴ、白髪の息子セツと他の2人はセツの子供である。
 画面の奥、遠近法で小さく描かれているのが大天使ミカエルと話す息子のセツ。父の病を治す「憐れみの木の油」を懇頼している。ミカエルは「小枝」を渡しレバノンの山に植えなさいという。(この「木」は原罪のもとになった「林檎の木」の木だと言う)
 セツが帰るとすでにアダムは亡くなっていた。
  左、アダムの死を嘆き悲しむ人々。セツはアダムの口に小枝を植える。小枝は成長し、画面中央の大木となり、ソロモン王の時代まで生き続けた。
DSC_2345シバの女王
 (シバの女王)
DSC_2347ソロモン王に対面するシバの女王
   (ソロモン王と会見するシバの女王)
② 左に「シバの女王の聖木拝礼」右に「ソロモン王とシバの女王の会見」
  ソロモン王は(紀元前10世紀、ダビデの子でイスラエル3代の王。繁栄を築き、ソロモン王の知恵は有名)その木を宮殿の前の橋にしておいた。
高名なソロモン王をシバの女王が大勢の随員を伴い、大量の金、宝石、乳香を持ってやってきた。女王が橋を渡ろうとすると、世界の救済者がいつかこの木に架けられる、と霊感を受けたのでその場に跪(ひざまず)いて拝礼した。女王は濃い緑のドレス。跪く女王の後に立つ流麗な6・7人の女官。皆巻き上げた様な帽子をかぶっている。貴婦人たちの長いドレスがそれぞれ肩からゆったりと流れる様な曲線を描いている。
  画面の真ん中をコリント風の太い円柱で仕切り、右は太い梁と円柱のソロモン王の宮殿で王と会見するシバの女王一行。ソロモン王の羽織っているコートが燦然たる金糸で、これが描かれた当時はどんなにか輝いていたか。エキゾチックな夢とロマンを誘う。
③ 「聖木の運搬」一説に女王が王に、その「木」に吊るされる人がユダヤの国を滅ぼすとお告げを聞いた、と話したので、王はその木を地中深く埋めた、とある。
コンスタンティヌス帝の夢と受胎告知
 (「コンスタンティヌス帝の夢」と「受胎告知」)
④ 「受胎告知」 真ん中のコリント様式の優美な円柱と梁で画面を4つに区切り、堂々たる貫禄の聖母マリア。左上から神が手を差し伸べるように光をそそいでいる。
* 長い歳月が流れ、木が埋められた場所に神殿の犠牲を洗う池が掘られたが、イエスの受難が近づくと水面に木が浮かび上がった。ユダヤ人たちは主の十字架を作った。この十字架はイエスの受難後2世紀地中に埋もれていたが、聖女へレナによって発見される。

⑤ 「コンスタンティヌスの夢」 コンスタンティヌス帝がドナウ川をはさんで蛮族の大軍と対峙した夜、帝の夢に天使が現れて「十字架を持って戦うべし」と告げられた。夜の場面が面白い。闇夜を設定し左上から天使が光=色彩をテントの寝ている帝に降り注ぐという画面、絵画での夜の場面を本格的に描いたのはあまり無い。光と闇の明暗効果は後のカラヴァッチョの先駆的作品となる。
ヘラクリウス
  ( ヘラクリウス帝 対 ホスローの戦闘 )
⑥ 「コンスタンティヌス帝の勝利」画面の中央、大勢の騎馬や兵士を引き連れコンスタンティヌス帝が十字架をかざして進軍する。川を隔てて逃げるマクセンティウス。鷲の軍旗が逃げるマクセンティウスの軍旗ドラゴンを追う。槍が林立している。同時代のパオロ・ウッチェロの「サン・ロマーノ戦い」の槍の林立を思い起こす。華麗な軍事パレードみたいだと言った誰かの言を思い出す。
⑦ 「ユダの拷問」 戦いに勝利し313年にキリスト教を承認したコンスタンティヌス帝の母ヘレナがエルサレムに巡礼し聖十字架を探した。ユダが知っているとの情報で拷問に架け白状させる。
⑧ 「聖十字架の発見と検証」画面の左の部分で十字架を地中から取り出す場面に立ち会う聖へレナ。アレッツォの町並みの風景を上部の遠景として描いている。右の部分では、発見された3本の十字架の内どれが本物か検証する場面に立ち会う聖へレナ。裸の死者に十字架をかざす役人。膝まずく聖へレナの一行。(シバの女王の一行の描き方と同じ)背景に大きな聖堂と4・5階建ての建築物が並ぶ重厚な町もアレッツォであろうが? 

⑨ 「ヘラクリウス帝のペルシャ王ホスローとの戦闘と勝利」 戦闘場面。全体の2割程の右画面を除いて激しい戦闘場面。幾つもの色々な軍旗がはためき騎士や兵士が槍・刀での殺し合いの戦争。兵士の切迫した表情、興奮して後足で立ち上がる軍馬。先ほどのコンスタンティヌス帝の場面とは大違いだ。戦闘場面としては凄いリアリティがある。
 右端、戦いに敗れ今や首をはねられる寸前のホスロー王。その上段はかって「父なる神」と豪語したホスロー王の天蓋と主なき玉座が虚しく置かれている。
(トルコ戦争の暗示。15世紀はオスマン・トルコの侵攻の脅威に曝されていた。)
* 細部を観察すると粗く大雑把な描写も目につく。弟子たちの筆も入っているのか?
⑩ 「聖十字架の凱旋」 ヘラクリウス帝は聖十字架を手に、飾り立てて凱旋したが門が崩壊したりして中に入れてくれない。天使のお告げがあって、帝は靴や衣装を脱いで謙遜の意を表して、聖十字架を賛美する言葉を述べて門に入っていった。人々は賞賛した。

「ニ」 物語のテーマ= ピエロは何を描きたかったか 
  
 14世紀中頃、サン・フランシスコ教会がエルサレムの聖墳墓聖堂(キリストの墓やゴルゴダの丘があるとされた地に立つ教会)管理に積極的にのりだす。イエスが磔に合う「聖木」の物語は教会の壁画を飾る絵画として格好の題材だった。各サン・フランチェスコ教会に「聖十字架物語」の壁画を描かせた。サンタ・クローチェ教会(フィレンツェ)のアニョ・ガッディの「聖十字架物語」が代表例だろう。教会のバックに神学者たちがいて「神話伝説」を練っただろう。アレッツォのそれもその一環だった。ピエロの「聖十字架物語」はどうだったのか?

 「楽園追放」でエデンの園から追われたアダムとイヴ(人類・人間)の救済を描こうとした。人間の堕落の象徴である、林檎の木の物語は変転し、南方の地の果てからシバの女王が来訪しソロモン王と会見するというエキゾティックなエピソードで彩る。神の子キリストの生誕に関係する「受胎告知」を描き、キリスト教の普及に貢献したコンスタンティヌ帝が十字架を掲げる事によって戦いに勝利し、母のへレナが聖地整理をしたことを賞賛した。異教のペルシャ王を破り幾多の戦争を経て、神の子キリストによって人類は救済される、と。
  ピエロは人類救済史の一大叙事詩を画期的なドラマとして描いた。マザッチョたちの切り開いた遠近法、フレスコ画の方法を駆使してルネサンス絵画の最高峰を完成させた。
  しかしこの連作がすごいのは人間救済の物語を、聖地を舞台にして一大叙事詩の壁画連作として描いたことなのだ。20世紀でも評価されるほど画期的な絵画を描いたことなのである。
ピエロの「聖十字架物語」にあって多の「十字架物語」に無いのは、「コンスタン帝の戦い」(軍事パレードみたい)「帝の夢」(王が寝ているシーンと夢の中で十字架が出てくる、夜の幻想的シーン)「シバの女王とソロモン王との会見」(エキゾティツク夢のあるエピソード)以上芸術的な豊かなふくらみをもつ作品となった。又、「受胎告知」を入れた事はキリストの生誕によって人類の苦脳が救済されると、キリスト教への賞賛である。
では、教会賛美・キリスト教賞賛の絵画を(ヨーロッパの絵画の殆ど)信者ではない我々がどうして感動するか?ピエロ・D・フランチェスカ絵画の魅力・深さ・芸術の力によるのです。ルネサンス美術の王道=ドナッテロ・ブルネレスキ・マザッチョらによって切り開かれた「遠近法」による単純明快な構図、中世の装飾性を否定した透明な明るい色彩空間、リアルな人物表現など抜きん出た絵画である。
DSC_2369キリストの降誕(女神の合唱)
   (「キリストの降誕」の『女性の合唱』部分)

「ホ」ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415-20~~1492)の年表
1415-20  ボルゴ・サンセポルクロに、商人・職人の子として生まれる。
1430 故郷で画家として活躍。
1439 フィレンツェでドメニコ・ヴェネツィアーノと共に活躍
1440   「キリストの洗礼」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
1445   「聖セバスティヌスと洗礼者聖ヨハネス」(ミゼリコルディア同信会との契約)
1445-48  「聖ヒエロニムスと帰依者」(ヴェネツィア・アカデミア美術館)
1449    フェラーラの壁画 (逸失)
1450   「苦行する聖ヒエロニスム」(ベルリン・ダーレム美術館)
1451   「シジスモンド・マラテスタの肖像」(パリ・ルーブル美術館)
1452    ウルビーノの「キリストの鞭打ち」
1452-55  「聖十字架伝」の内、「アダムの死」「十字架の賞賛」「預言者」(アレッツォ)
      モンテルキの「出産の聖母」。サンセポルクロの「聖ユリアヌス」
1455-58  「聖十字架伝」の内、「ソロモン王とシバの女王の会見」「十字架の発見と検証」
      「聖木の運搬」「ユダの拷問」
      サンセポルクロの「キリストの復活」
1458-59  ヴァチカンの壁画 (逸失)
1460-62  「ミゼリコルディ祭壇画」の内、「慈悲の聖母」。「聖十字架伝」の内、「受胎告知」「コンスタン
ティヌスの夢」「コンスタンティヌスの勝利」「ヘラクリウスの勝利」。ペルージアの「サンタン
      トニオ祭壇画」の内、「主画面」
1462-64  アレッツォの「聖十字架伝」の終了。ペルージアの「サンタントニオ祭壇画」プレデッラ。アレッツォ      大聖堂の「マクダラのマリア」
1465   「ウルビーノ公夫妻の肖像画」(バッティスタとフェデリコ)
1465-70  ペルージアの「祭壇画」の内、「受胎告知」。サンセポルクロの「サンタゴスティーノ祭壇画」。ボス       トンの「ヘラクレス」
1470-72  ウルビーノの「セニガッリアの聖母」
1472-74  「聖母子と聖人たち」(ミラノ・ブレラ美術館)
1475    「キリストの降誕」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
       画家である共に数学・幾何学の研究者としても知られている。
1492    死す。
DSC_2361聖モニカと聖ニコラ・ダ・トレンティーノ
  (「聖モニカ」と「聖ニコラ・ダ・トレンティーノ」)
聖母子と聖人たち
   (「聖母子と聖人たち」ミラノ/ブレア美術館。右手前にウルビーノ公)


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  1. 2012/09/30(日) 23:25:26|
  2. 2011年『イタリア 列伝の旅』
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