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『美術/音楽/舞台/録画』「父を捜してー日系オランダ人=終わらない戦争 ⑴」 11/1

『美術/音楽/舞台/録画』「父を捜してー日系オランダ人=終わらない戦争 ⑴」11/1

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*第1部「マライケとテレーゼ」
今年の2月、一組の姉妹がオランダから日本を訪れました。二人は日本人の父親を持つ日系オランダ人です。姉マライケ、妹テレーゼ。姉妹は太平洋戦争の時代、インドネシアに生まれました。インドネシアは300年以上オランダの植民地支配を受けていた。1942年日本軍はジャワ島に上陸オランダ軍は降伏、植民地支配に苦しんでいたインドネシア人は初め日本軍を歓迎しました。石油を始めとした資源豊富なインドネシアに日本軍は目をつけ軍政を敷いて資源の収奪をしました。
日本軍属とオランダ人との間に多くの子どもが生まれました。終戦後、父親は日本に帰国し残された母親は子どもを連れてオランダに渡った。そのなかの一組のマライケ・テレーゼ姉妹は戦後70年を過ぎて、やっと父の身元を突き止めた。特に妹のテレーゼは父への思慕を募らせていた。しかし、姉のマライケは妹と異なる思いを抱いていた。お父さんと再会したら?という問いに、「殴る!」と答えていた。

(姉のマライケと妹のテレーゼ)
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「ナイス・ミツチュウ! はじめまして!」「ちょっと緊張しています。日本は私にとって未知の国です。」妹のテレーゼの嬉しそうな表情。

*「姉妹の父親捜しの旅」(BS・NHKスぺシャル10月8日放送)を見つめて、終わらない戦争を考える。70年前のアジア各地で展開された日本軍の戦争が厳密な意味で終わっていません。ここでは「歴史認識」を問われます。戦後70年日本人は歴史に向き合い加害者に償ってきたでしょうか?最近の録画「姉妹の父捜しの旅」で考えてみようと思います。

(母シルヴィアを挟んで、幼い左に姉マライケと右に妹テレーゼ )
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第1部「マライケとテレーゼ」
オランダ東部の町エンスヘーデ。ここに70代のマライケ・テレーゼ姉妹は居住する。テレーゼが<日本人の子>と知ったのが17歳の時、母からはインドネシア人ヨハネスが父だと言われていたのが、親戚の人から「あなたの父はジャップだ」と言われて私の世界が崩壊した。ショックだった。誰も本当のことを話してくれないのだ。

(美しい母シルヴィア)
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調べると、母シルヴィアはインドネシアで生まれたオランダ系の女性。戦時中日本軍属の日本人男性と出会い、マライケとテレーゼを身ごもる。終戦で父は日本へ帰され、母は姉妹を連れてオランダへ渡った。

(キャリアウーマン妹テレーゼ)
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テレーゼは70を過ぎた今でも英語とインドネシア語の教師をして自立している。彼女は体を壊して子ども産めなかった。2000年に夫が亡くなった後、父を捜したいとしきりに思うようになる。テレーゼは母にインドネシアの記憶を繰り返し聞いた。「もり」という名と警察関係の仕事をしていたことがわかった。彼女は姉に一緒に父捜しをしょうと申し出るが拒否される。姉マライケには少女時代から辛い体験をしてきたのだ。親戚に「お前は敵の子」と何度も言われた。或る晩、窓に寄りかかっていると母が「お前は父さんに似ている」と言われた。なぜ嫌われたかと言えば、私が日本人の顔に似ているからよ。日本の軍政下を知っているオランダ人たちは日本人を嫌った。とりわけ祖母のユージェニーは厳しかった。祖母は箒で叩いたり食べ物をくれなかったりした。祖母を思い出すと泣けてしまう。「テレーゼはよくて、私はなぜダメなの?父親の顔形に似ていることで恨んだの?」と思いつめていた。
(後で祖母ユージェニーのマライケを憎む理由がわかる)

(新婚のマライケ)
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結婚の時、日本への厳しい感情を知った。夫の親戚の多くが戦争中、日本軍によって過酷な体験を強いられていた。夫の祖父は*泰緬鉄道で命を落とし、二人の叔父もそのせいで大きな衝撃を受けて精神の異常を来した。叔父は夜寝ている妻をベットから引きずり下ろした。敵と間違えたそうだ。だから、結婚しても出自を言わなかった。日本軍の占領期にオランダ軍の捕虜は鉄道の建設や炭鉱で多くの命を落とした。戦後BC戦犯に問われた。

*「泰緬鉄道」
第2次大戦中、タイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ鉄道を旧日本軍が建設。その際、過酷な強制労働で多くの人が亡くなった。日本軍が強制的に作業させたのは連合軍の捕虜6万2千人(英・米・豪州・蘭)、強制連行の労務者(タイ・ビルマ・インドネシア・マレーシアー華僑を含む)35万などが使役され、多くの者が殺され「死の鉄道」と言われた。なお、戦犯裁判は、連合国の捕虜に対する虐待・虐待致死の裁判であり、アジア人労働者への虐待に対する裁判は、どこの国によっても行われていないという。

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1951年のサンフランシスコ講和会議で連合国であったオランダは日本への請求権を放棄し、その後日本政府から見舞金として1千万弗(1人当たり数万円)が支払られた。しかし、今でもオランダの日本大使館前には元捕虜や抑留者などが毎月補償を求めてデモをしている。彼らは「我々に与えた痛みに対して、日本がしたことは少なすぎる」という。戦後オランダ社会の中に根強く残る反日感情の中に身を置いていたマライケにとって、テレーズの申し出に応える気にはなれなかった。同じ父を持ち姉妹なのに距離が生じたことが悲しかった。

テレーゼに手を差し伸べたのが「日系オランダ人・支援・SOO」であった。SOOは日系オランダ人の生き別れの日本人父親の調査を行い支援している組織である。
*<SOOの見解>
*戦後補償の中でも、一番後ろの方に見えたのではないか。日本・オランダ・インドネシアという三つの国の狭間にあって最も苦しんできた人々。忘れ去られるように社会から見えないようにされてきた歴史の狭間にある人たちです。狭間にさせてしまったのは日本の戦争であった。
*「戦後補償」
   日本が20世紀前半の戦争によって諸外国に与えた戦争賠償と戦後補償のこと。

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2014年SOOはテレーゼに父の身元を知らせてきた。「森正・陸軍警部」占領地の治安維持のために軍属の警官として派遣された。2016年日本の親族から送られてきた父森正の写真、初めて見る父の写真。日本からの手紙。喜んだテレーズは姉に日本に行こうと誘うが拒否される。
そんなマライケを説得したのが娘のデボラだった。デボラは母が日本人であることでずっと悩み続けてきたことを見てきた。この機会に母が変わる切っ掛けになればと思った。

(母マライケを説得する娘デボラ)

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*「母はいつも自分には魅力が無い・頭も悪いと否定的だった。理由もわからず自分を責め続けてしまう。」デボラは日本を興味深い国だと思った。「母が穏やかな気持ちになって思い込みから解放して欲しかった。」
*「自己の解放・存在証明」
自分を束縛するものからの解放。自分が確かに存在すること。

マライケは迷った末日本に行くことを同意した。「私は母が強姦されたのではないかと思っていた。」とマライケ。

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2017年2月、東京。都内のレストランで会った。日本から送られてきた森家の家系図。父森正の姪・森晴野(91歳)が「お会いする日をあと何日と待っていました。」と歓迎した。マライケがどんな気持ちですか?と問うと、晴野は「ポジティブ!ハッピーです」と答えた。両家は出会いを祝した。「すばらしい!」とテレーゼ、感にむせんで涙ぐむ。

(記念写真)
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森正は1893年佐賀に生まれる。1943年妻を残してインドネシアに警察官として派遣。ジャワ島に駐留中、一人息子が戦死。終戦の翌年帰国した。正のことを覚えているのが姪の春野さん91歳。故郷に身寄りがなく、兄を頼りに東京神田の春野さんの家にきた。無口で孤立していた。兄の電気屋を手伝っていたが警察官だった正には合わず、家を出て10年以上音信が途絶えた。死んだという連絡が入った。1961年、正は67歳で死去した。周囲にインドネシアのことを語ることはなかった。

日本から帰って、
姉のマライケの心に変化があった。娘のデボラとよく話す。デボラ母マライケに「晴野さんが又来て下さいって」マライケ「本当によかったわ。海の向こうに家族がいるんだから」
妹のテレーゼはインドネシアの地図を見ながら「両親が出会ったところはどこだろうか?」「私が生まれた所へ行ってみたい。そこは私と姉の存在の始まりだから。インドネシアの旅で姉は心の平和を見いだせるかも知れない。」

(美しいインドネシア)
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7月下旬、姉妹はインドネシアを訪れた。ジャワ島のクディリである。母シルビアの父はこの地でインドネシア人を雇い農園を経営していた。当時は300年以上にわたりオランダの植民地だった。シルビアは19歳の時、銀行員のヨハネスという、蘭印系*の男性と恋に陥り結婚。
*蘭印系(インドネシアとオランダとの間に何代に渡って混血した人々)

結婚したが戦争が始まって彼はオランダ海軍に召集された。1942年3月日本軍ジャワ島に上陸。オランダ軍降伏。故郷のオランダはナチスの占領にあっていた。オランダからの独立が悲願だったインドネシアは、日本軍を歓迎した。しかし、石油を始めとする天然資源豊かなインドネシアを、日本軍は軍政を敷き資源を収奪した。

  (悲劇に見舞われる祖父と祖母ユージェニー)
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母シルビアの一家は悲劇が襲う。シルビアの父が乗っていたバスに日本軍の手榴弾が投げ込まれ父は死ぬ。姉妹の祖父母ユージェニーはこのことから(日本軍に夫が殺されたこと)日本軍を憎むようになり、日本的な顔形をしていたマライケを憎むようになった。父を失い夫も戦地に獲られたシルヴィアと母は牛乳工場を営む親戚に身を寄せる。

  (オランダ兵捕虜に対する虐待の嫌疑)
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日本軍はジャワ島で7万人のオランダ民間人やインドネシア人を徴用して、鉄道建設や炭鉱におくりこむ。日本軍の悪口を言った嫌疑で多くの民間人も連行された。祖母ユージェニーも日本軍に連行された。シルヴィアが経営に当たっていた工場のインドネシア人が不満を訴える。日本軍が抑留所のオランダ人の美しい女を慰安婦にしょうとして連行した。そんな時、シルヴィアを救ったの

(警察官 森 正)
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が日本人警察官の警部森正だった。警察官として工場を視察にきて、シルヴィアを心配して毎日のように工場に来た。森の保護がなければ慰安婦にされていたかもしれない。*森はシルヴィアと共に2年間暮らした。シルヴィアはマライケとテレーゼの二人の女子を身ごもる。

*(姉妹の一行は、戦時中両親(森とシルヴィア)が住んだ家を訪れる。)
1945年8月日本軍敗戦。日本軍及び軍属は日本に帰国。その後を再び支配しょうとしたオランダ軍とインドネシア軍との間で「インドネシア独立戦争」(1945-1949)が始まる。連合軍はオランダ人やオランダ系蘭系の民間人に安全な所へ避難の勧告。シルヴィアたちはスレマナン収容所に収容される。
シルヴィアの夫が帰ってくる。夫は日本人の二人の娘を見つめる。シルヴィア謝る。夫は「この子たちを受け入れることは僕には出来ない」と言って去る。母は彼が去って世界が崩壊してしまった。それでも私たちを育てるために持ちこたえた。

(この地に来て、母の本当のつらさを思う姉妹たち。ママはなぜ私たちを養子に出さなかったか?その問いに亡きママは生前、あなたたちを手放すことは絶対にできなかった)
旅先のホテルで姉妹は両親の写真を飾ってお線香をあげる。姉妹は絆を強く感じ抱擁し合う。

(抱き合い赦しあうマライケとテレーゼ)
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妹テレーゼ(私にとって父親捜しの旅は、誰かを捜し父親の姿を知るだけでなく、姉マライケの愛情を取り戻すことが出来た。だから、この幕は閉じられる。心の安らぎを得ることが出来た。
姉マライケ*(私には父さんが存在したと思えた。意味なく生まれてきたわけじゃない。私は存在していいんだと、父のお陰で思えた。)
*自己の存在が証明された。父を肯定することで、自分の人生を肯定できた。

太平洋戦争中、日本人とオランダ系女性との間に、5千から2万人の子どもが生まれた。今もなお父親捜しは行われている。






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  1. 2017/10/31(火) 14:02:02|
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