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『2017年映画』「鏡 」(監督アンドレイ・タルコフスキー1975年公開) 5/25

『2017年映画』「鏡1975」(監督アンドレイ・タルコフスキー撮影ゲオルギー・レルベルグ
           音楽エドゥアルド・アルテミエフ:詩朗読A・タルコフスキー
           ナレーション:イノケンティ・スモクトゥノフスキー)  5/25

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   配役 *マルガリータ・テレホワ=母マリア/妻ナタリア 
        *イグナート・ダニルツェフ=ナレターのアレクセイ、(つまりタルコフスキー)/
タルコフスキーの息子(イグナート)
        *オレグ・ヤンコフスキー=タルコフスキーの父アルセニー
*フィリップ・ヤンコフスキー=幼年期の作者(タルコフスキー)
        *医者/アナトーリー・ソロニーツィン)
        *挿入音楽/バッハ「オルガンのためのプレリュード」「ヨハネ受難曲
           他にパーセルの「弦楽組曲」他。

1975年公開。タルコフスキーの自伝的映像詩。自伝の中に<自己>とは何だったかを見つめている。
タルコフスキーは少年時代に父母離婚、母子家庭の赤貧の戦争期を過ごした。「鏡」は母との思い出が語られる。

* A:プロローグ(映画とは、下意識又は未意識の表現。映画論)
吃音の言語障害を持った少年が回復訓練を受けている。女医が催眠術をかけ「気持ちを楽にさせて<僕は話せます>と言って御覧なさい」と指示する。女医の言葉を鏡像のように繰り返した時、少年は話すことが出来る。無意識の中に確かに存在するが、何かの障害によって意識に再現されない記憶。このような「心の奥の深部のイマージュ」を鏡に映るように、虚構の手立てによって、再現するのが映画だとタルコフスキーは言っている。

「若き母(マルガリータ・テレホワ) 
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鏡は人間に自分自身の像を与える。その表面では時間も屈折する。それはまた人がそれを通して別の世界へ、他の意識の状態へ移行する装置でもある。時間と空間はタルコフスキーの鏡で出会うのである。重要なキーポイント、カメラのレンズのように、ミクロコスモスの宇宙をつかまえるリズムとして機能しているのである。
また、「鏡の国のアリス」で我々は鏡の先に別の世界があることを知っている。「鏡」は見ているものを写すが、「鏡」の奥に別の不可思議の世界が存在するのではないかと夢想をかきたてる。異なる場所や時間、或いは異なる意識の状態を飛躍して移動させる。

*B:少年時代の思い出
映画はタルコフスキーの少年時代の思い出を手繰り寄せる。

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① 若い母が垣根に座って煙草を吸い、遠くを見つめている。一人の男が草原のゆるやかな小道を近づいてくる。医者だという見知らぬ男が作者の母と意味ありげに話し去ってゆく。代わって作者の父アルセニーの詩を朗読する声が流れる。(朗読はタルコフスキー)
*このシーンで家の前のゆるやかな草原を一陣の風が吹くと、その瞬間に騒めく草の様子、去ってゆく医者のとまどい、後悔などの心象の表現なのか?自然の現象で人間の心象風景をイメージさせる見事なシーン。

➁ 作者の母マリアは「原稿の校正者」として自立した生涯を通した。思い出の母はうっそうと生い茂った林の中の祖父の家で、たらいに水を入れて髪を洗っていた。長い髪が水に滴っていた。天井を破壊して水が滴れ落ちてくる。漆喰の壁さえも落としてくるのだ。その時、若い母親(マルガリータ・テレホワ)が鏡をのぞき込むと、若い彼女の顔ではなく年取った実母マリヤ・イワーノヴァナの顔を目にするのである。ひとり二役の妙味!二つの世代にまたがる時間の螺旋階段か。
マルガリータ・テレホワはアレクセイの若い妻ナタリアと若き日の彼の母マリヤの二役を演じている。この場面では鏡を通してだが、二人が差し向いになる場面がある。ここで彼女の視線によって、一瞬、自分が未来の60歳代の女性として捉えられる。単純なイメージで、妻と母の人物が溶け合う。過ぎ去った時間と未来、記憶と予見は、現在のなかにとらえ返されるのである。

*幼き少年が見た「母の長い髪が水に滴る」イメージの玲瓏さ
*「水」はタルコフスキーにおいては重要なモメントだが、その意味は?
*鏡の実母マリヤと若い母マリヤの二重性は「時間の螺旋階段」を表しているのか?

③ あれは1935年の干し草置き場で火事があった時のこと、その年から父がいなくなった。
(タルコフスキーの父は別に家庭を持った。1930年代という困難な戦争期を母マリヤは子タルコフスキーを育てた。戦争期なので赤貧の生活だった。

④ 母からの突然の電話でエリザヴェータの死を知らされた。母の印刷所校正係の時代の同僚だ。印刷所の頃の或る日、校正に重要なミスをしたかと、母は狂ったような深刻な顔をして早朝印刷所に出かけた。独裁者スターリンの原稿で誤植が政治的意味を持ち、人の命に関わる時代だった。幸い母の勘違いだった。その時同僚のエリザヴェータに咎めるように言われたのか?彼女の死と誤植事件がセットになって恐怖の思い出になっている。

⑤ 若い母親が家に帰る。彼女は自分の二人の子どもをあたかも心の目で見るかのように見る。坊主頭の息子はテーブルにこぼれたミルクを黒猫がなめるのを見る。背後でタルコフスキーの父アルセニーが自分の愛の詩『はじめての出会い』を読んでいるのが聞こえる。そこでは「あなたのもうひとつの領域に、鏡を越えて」入っていくことが歌われている。このシーンは父と母の愛の蜜月時代か?、父アルセニ―作の<詩>がたびたび登場する。少年時代には決して出てこない父。しかし、父の詩はたびたび出て来る。

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⑥ 映画の終わり近くのエピソードは痛々しい。母が少年アレクセイを連れて雪の中(ブリュ―ゲル的な雪の野原で遊ぶ子どもたちの風景)遠方の祖父の知り合いの医者の家に宝石を売りに行った。経済的に逼迫(ひっぱく)していたのだ。親子の赤貧の状態を感じるが、そこで豊かで暖かな家庭を見る。母子家庭のアレクセイにとって、こういう家庭・生活があるのだと知らされる、、、我々の胸をかきむしるシーンである。

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*若い頃の母が鉄のベットの上に空中浮遊しているシーンがある。白い鳩が画面を横切って行く。シャガールの「空飛ぶ恋人たち」ではないが、愛の表現だろうか?

*C: 三世代の螺旋階段
映画の出来事は三つの世代にわたっており、タルコフスキーが生まれる1930年代に始まり、現代(1975年)につながっている。つまり始まりと終わりが時間の無限の螺線のなかでつながっているのである。タルコフスキーの父が、妻や子と別れ再婚するように、タルコフスキーも最初の結婚に別れを告げて、妻や子と別れてしまう。そして再婚をし、もう一人の子どもアンドレイが生まれる。この時タルコフスキーは自分自身の幼年時代と別れてゆく子とが同じ運命を歩むことの痛ましさを感じる。

過去と現在を往復しながら、作者タルコフスキーの記憶が呼び出されてくる。それにつれて、ロシアの歴史、過去の時代の政治状況が描き出されてくる。ナチスとの攻防・スペイン戦争・第2次大戦・原爆投下・中ソ国境紛争・中国文化革命と歴史ドキュメンタリーの映像が挿入される。映像の場面に、詩人であった父アルセニーの詩を朗読するタルコフスキーの荘重なロシア語が響いてくる。

*ダ・ヴィンチの「ジネヴラ・デ・ベンチ」の肖像を画面に使っているが、「ノスタルジア」の「出産の聖母」ほどの意味を見出されなかった。
鏡の絵ダ

*長年の懸案だったタルコフスキーの映画を見て、それについて書くことを、今回最小限ですが果たしました。ここでひとまず区切りといたします。
                 
あらためて、タルコフスキーは難解だと思いました。しかし、スケールの広大さ、テーマの重要性、撮影・音楽・絵画で展開する総合芸術だと思いました。不可解な表現がありましたが、タルコフスキーは面白かったです。






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  1. 2017/05/25(木) 13:58:52|
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