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映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2015年映画』「FOUJITA](小栗康平監督、日仏合作)11/26

2015年映画「FOUJITA」(小栗康平監督、日仏合作)11/26、 オダギリジョー、中谷美紀、アナ・ジラルド
                                      アンジェル・ユモー、マリー・クレメール

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いまなぜ、藤田嗣治(フジタ)なのか?

第1次大戦後のフランスを中心に活躍した日本人画家・藤田嗣治の半生を、「泥の河」の小栗康平監督が10年ぶりに製作した。作品は2つに分けられる。

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① パリ時代
フジタ(オダギリジョー)は1913年渡仏し、第1次大戦後(1918)のサロン・ドートンヌで、エコールド・パリの寵児になった。日本画の面相筆で描いた細い独特の線描。透きとおるような「乳白色の肌」の裸婦は、フジタの名声をたちまち高めた。有名なモデルであったキキを描いた「寝室の裸婦キキ」はセンセーションを巻き起こした。
画家フジタはオッカパ頭の風貌と共に社交界のスターとなっていく。
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第1次大戦後のパリは狂乱の時代。戦争でそれまでの価値観が崩れ、自由とデカダンスに酔いしれた。世界中から芸術家が集まり、毎夜乱痴気騒ぎを繰り広げていた。画家としての高みを狙うフジタは、パーティーの後で必ず線を描くことを自己に課していた。「スキャンダルスをすればするほど、バカをすればするほど、自分に近づく、画がきれいになる」とフジタは言う。これはどういうことなのか?

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(何をやってもいいという事は、自己の行為の責任は自分でとる、西欧社会に個人主義が根付いている事を意味する。革命を経験した、「自由」とその背後にどれだけの「孤独」があるかを知っている。近代民主主義革命を経験していない日本人には全然理解できない。)
フジタは狂乱のパリでしたたかに味わい、その凄さを知った。しかし、フジタは近代化を始めたばかりの日本では評価されなかった
「フジタは宣伝屋だ。異国情緒で珍しがられただけだ。パリ人は軽蔑こそすれ、尊敬はしていない。」フジタの「乳白色の肌」についても、技法は画家が自らの実践で掴むものだと思っていたから、決して画家仲間にも教えなかった。しかし、西欧仕込みの技術を仲間と分かち合って学ぼう、という当時の日本の画壇の画家たちからは反発。フジタは反発する!「なぜ我々の先輩はパリの本舞台で西洋人と闘って来なかったのか?唯々日本に帰朝しての自分の地位だけを考慮していたのか?」「自分にはすべてを捨てて、少なくとも本場所の土俵の上で、大相撲を取ろうという覚悟はある」

フジタは40歳(1926)を過ぎた頃から、新しい絵のテーマを探し始める。古典の勉強に美術館に行って骨格の太い画法を研究したりした。1930年代に入って、中南米を旅したり模索が続く。中南米の旅は、愛人マドレーヌを連れていた。色彩に関心を持ってきた。
「メキシコに於けるマドレーヌ」(1934)
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②  画家と戦争
藤田嗣治は1886年(明治19年)東京に生まれた。明治の名門の家であった。父は森鴎外の後任の軍医総監であり親戚に名が知られた人が多い。高等師範付属の頃から画家に志し、フランスに留学したい希望を持っていたが、鴎外の勧めで今の芸大=東京美術学校西洋画科に入学・卒業した。1913年(大正2年)渡仏、パリのモンパルナスに居を構えた。モディリアーニやスーチン等と知り合い、彼らを通してピカソやパスキン、ザッキン、ルソー等と交友を結んだ。キュービスムやシュールレアリスムも知り、そして、サロン・ド・トンヌでの成功であった。

1933年日本に帰国、25歳年下の君代(中谷美紀)(1911-2009)と5度目の結婚、終生連れ添った。
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当時の日本は、中国や南方への進出を加速させようとしていた。陸軍は世界的画家フジタに戦意高揚の「戦争画」を依頼した。フジタはトレードマークのオッカパ髪を切り落として引き受けた。

③  「戦争画」
*「アッツ島玉砕」(1943)

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ベーリング海のアッツ島での日本軍の壊滅的敗北を描いた。
敵味方の区別なく入り乱れた激しい肉弾戦を描いている。今では戦意高揚のためというより、反戦画だという感じ。最近の研究で、画面中央に兵士が敵を剣で突き刺そうとし、相手が兵士の顎に手をかけている。これと同様なポーズが、ラファエロの「ミルウィウス橋の戦い」(1520~)にあるそうだ。フジタは西欧の名画を頭に置きながら「アッツ島の玉砕」を描いていた!フジタは頭の中で、ヨーロッパの名画のように描けばいいんじゃないかという風に舵を切っていった。

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*「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)
19世紀のフランス絵画の大家ドラクロワの「ドン・ジュアンの難破船」(1840)と比較される。これは、バイロンの詩が下敷きになっている。船が難破して飢餓にさいなまれた人々は、誰を殺して食べるかを籤(くじ)で選んでいる。やがて船に乗っている人々に訪れる悲劇を予感させる。

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フジタの絵には、画面の上に獰猛なサメが描かれていて、漂流する米兵のこの後で訪れる悲劇を想像させる。フジタはドラクロアと同じように、目に見える出来事だけでなく、その奥にある深い物語や人間の本質まで描こうとした。ヨーロッパの伝統的な絵画を受け継ごうとしていた。ルネサンス以降の西洋美術には歴史画・戦争画の歴史と伝統があるのだ。
この時のフジタは戦争画を、誤解を恐れず言えば喜んで描いた。西洋の歴史画の歴史に参入する意気込みであった。

*「玉砕」というデマゴーグ
しかし、「戦争画」は軍の意向に沿うものだし、民衆の戦意高揚を奮い立たすものだった。

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「聖戦美術展」が全国を巡回。フジタの「アッツ島の玉砕」は展覧会の華だった。が、現実の戦争は日本軍の壊滅、軍は「玉砕」という言葉の魔術で「戦意高揚」を狙った。小栗監督は「大デマゴーグだ」という。
流布された風説か?この絵の前に賽銭箱が置かれ、横に作者が立って、絵の参拝者がお賽銭を投げると、横に立っている作者が礼をする。もはや宗教的行事・戦死者への鎮魂の儀式ではないか!戦意高揚なんて吹っ飛んで、民衆は壊滅を、痛ましき全滅を悼み鎮魂したのではなかったのか!

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*  戦争期にはプロの画家は全員戦争画を描いた。これは文学・思想あらゆる分野に襲い掛かった嵐であった。非転向を貫いた文学者は小林多喜二のように獄中で虐殺されたか、中野重治のように良心的転向をした少数者を除いて、みんな戦意高揚の文学を書いた。
*  フジタは積極的に「戦争画」を描いた。戦後に「戦争責任」を問われるのだが、一見不遜ともとれる態度に終始して弁明をしなかった。西欧の戦争画・歴史画を継承しょうというのが、フジタの思いである。その絵が社会でどう扱われたか、民衆にどういう影響を与えたかはフジタの意識には無かった。それが問題である。

1945年敗戦、占領軍によって軍人や政治家の戦争責任の追及が始まった。画家たちの間でも憶測が流れた。戦争画のリーダーとしてのフジタの責任を指摘した。フジタは「絵を描くことは、戦意高揚や反戦とは関係がない。戦争画によって自らの絵を確立したのだ」と態度を崩さない。画壇に失望した彼は日本を去る決心をする。
1949年、63歳、羽田から出国する際こう言い残した。
「絵描きは絵だけを描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」以降二度と日本の土を踏むことが無かった。

小栗康平監督は総括する。近代日本は開国で西洋近代文化を取り入れることで、近代化・西洋化を図ろうとした。芸術家たちは憧れのパリに行って西洋絵画を学ぼうとした。フジタは近代主義の真髄=自由とその裏にある「孤独」を、渦中に飛び込んで知った。そして、パリで成功した初めての日本人画家になった。
ここで映画はもう一人の芸術家を登場させる。彫刻家・詩人の高村光太郎である。パリに恋焦がれる憧憬の歌、
「雨にうたるるカテドラル」(高村光太郎)
おおう又吹きつのるあめかぜ/
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら/
あなたを見上げてゐるのはわたくしです/
毎日一度はきっとここへ来るわたくしです/
あの日本人です/

光太郎も青春時代に近代西洋文化に憧れてパリに来た。その光太郎が戦時中に、詩人の戦意高揚の先頭に立った。敗戦後「失礼しました」と言って岩手の田舎に蟄居する。
日本が近代化を遂げなければいけない。そのためには仮初めであっても「国民国家」というものを作らなければいけない。「国民」は馴染みがないから「臣民」であり、一気に「玉砕」まで行って、敗戦後「一億総ざんげ」になる。「共同体」と「個」の関係が出来ない。2015年の今でも同じだと小栗監督は言う。鋭い見識だ。フジタは違う。戦争の責任を一身に背負わされて、ひるむことなく日本を去っていった。「自由」と「孤独」その背後にある「デカタンス」をエコールド・パリで経験して、いわば西欧近代の「たたき上げ」だ。他にそういう日本人はいない、と。
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映画のラストの「キツネの話」は何を意味するだろうか?
キツネは里山に住み「稲作の守り神」である。村の近くに住むから、よく人間をだますとされる。
「夜行の汽車の機関士が、同じレールを向こうからこちらに向かってくる汽車を見て、慌ててブレーキを掛けるとその汽車は消える。同じことが何度も起きる。翌朝いつもキツネの死体が無数に線路に転がっている」
このキツネのエピソードから何をくみ取れるか?小栗康平監督がこの映画に仕掛けたマジックだ。フジタへの、日本人へのメッセージではないか?
古来から稲作の里山の共同性の中で生きてきた日本人の穏やかな暮らし、近代の「個」と「孤独」の中で闘争的に生きざるを得ないヨーロッパ社会、その接点を求めたのではないか?フジタにも我々日本人にも、、、




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  1. 2015/11/26(木) 17:00:00|
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