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『日記』 「民主主義を求めてー丸山眞男 その1」<日本人は何をめざしてきたのか>第3回7/19放送、7/30

『日記』「民主主義を求めてー丸山眞男 その1」(<日本人は何をめざしてきたのか>
                  知の巨人たち 第3回 7/19放送 7/30

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丸山眞男と言えば戦後思想のオピニオンリーダーである。戦後思想の代表的論者として、
彼の著書「日本の思想」などは学生の必読書だった。

7月19日(土)放送の<日本人は何をめざしてきたのか> 第3回「民主主義を求めてー丸山眞男」を見て、
① 巨人・丸山眞男の全体像が俯瞰フカンされて、日本の現代(戦中・戦後・現代)の思想状況の中での丸山氏の業績と論点がまとめられていた。氏に遅れて同時代を生きてきた私自身どうだったか?考えさせられた。私自身が半生を整理しきれるか?いまだ途中である。どうなるか。
② 日本人が生きてきた、戦中・戦後・現代の状況史が展開されている。我々はどのような状況にいたのかがよく分かった。これから何処へ行くのか?幕末から明治開国へ近代国家形成期と比べてどうか。
( 放送の内容の復元で終わるかもしれないが、我々にとって重要な論点なのでしっかり纏めてみたい。理屈ぽさを恐れないで、、、)

<*昭和20年8月15日、「日本敗戦」マッカーサーによる日本の非軍事化と民主化>
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政治学者・山口二郎(法大教授)の次の言葉から始めたい。「戦争が終わったから、戦後が来たんじゃなくて、丸山さんたちが戦争をきっちり総括して敗戦の構図を明らかにしたから、やっと戦後が始まった」。この名言「戦争の総括と敗戦の構図」は以下の事を指す。
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*昭和21年5月号の雑誌・世界の巻頭論文「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男)
敗戦のすぐ後に出た、日本ファシズム(超国家主義)の分析は大きな反響を呼んだ。ここで、丸山は次のように展開する。
「日本の超国家主義が総力戦という形で全ての国民の自由を縛っていた。日本型ファシズムは一体、どういう構造を持ち、どういう機能を果たしていたのか?

① <抑圧の移譲>と名付ける。(上からの抑圧を下の者を抑圧することで順々に移譲して、組織のバランスをとること)
それは、戦中の学徒出陣体験を思い出させた。内務班(兵舎での躾教育とリンチで兵を養成する)で学徒兵や初年兵は上等兵からことごとく殴られたーあれこそ「抑圧移譲」の体系だった。それは軍隊だけでなく、日本の国家秩序の至るところにあったという。
② <無責任の体系>(誰もが主体的責任意識の無いまま、戦争をしていた。我こそ戦争を起こしたという意識がどこにも見当たらない。だから戦争責任は誰だ!といっても誰もとらない。先の大戦で戦争責任を誰もとっていないのだ)
戦後すぐに、日本の軍国主義の構造を分析し、国民を縛っていたものがどういうものだったかを解明した丸山の文章はすごかった。戦中に用意されていたかと錯覚を抱かせるほどである。

*丸山眞男(1914/3・22~1996/8.15)
大正3年、丸山眞男は新聞記者の次男として大阪に生まれたが、下町の雰囲気が漂う新宿区で育つ。父の仕事柄様々な思想を生み出す人々に囲まれて成長した。
一中・一高・東大の超エリートを歩む。

*昭和6年、「満州事変」。 *昭和9年、東大法学部入学。 
*昭和12年、卒業と同時に教授・南原繁(ヨーロッパ政治哲学の研究者)の助手になる。 
*昭和16年12月、太平洋戦争開戦
*昭和19年、30歳の助教授丸山は陸軍2等兵として召集、朝鮮ピョンヤンへ送られる。
内務班で酷い体験をする。頭ごなしに殴られる。2ヶ月後栄養失調で入院、召集解除。
*敗戦の5ヶ月前、再召集、広島の宇品・船舶師団司令部の情報部に配属。敵国の短波を傍受するのが任務。
敗戦したドイツの処理問題など生々しい国際情勢に接する。
7月、「ポツダム宣言」を米国の国営放送で内容を知る。「軍国主義を排除した後に、言論の自由を認め、基本的人権の尊重の確立を図る。」それを見た時、体の中がジーンと熱くなった。

@ 丸山のテーマは「日本政治思想史」であった。彼の学問が優れていたのは「近代の政治意識が江戸時代の儒学の中に生まれていたことを、文献の中に読み解いていったことだ。(戦時中に執筆した「日本政治思想史研究」に結実する。)後に「丸山学派」と言われた政治思想史学の確立である。日本の学問は明治の開国・文明開化で始まった。西洋学問の輸入・翻訳から始まった。多くが西洋科学の輸入レベル・翻訳レベルだったが、丸山政治思想史や大塚史学(大塚久雄の西洋資本主義発達史研究)のようにオリジナルな構想と思想の学問を打ち立てたことは誇るべきことである。
東大法学部の彼の教室からは毎年優れた弟子が育ち、僕らが学生の頃はほとんどの東京の私大で弟子たちが活躍していた。僕は法学を選択しなかったが、高校の同窓生たちが何人かが私大の丸山さんの弟子のゼミに入った。孫弟子だったのでその間のことはよく覚えている。

*昭和20年8月15日、「敗戦」。 「極東裁判」。 マッカサーは「日本の非軍事化と民主化を推し進める」
             
陸軍1等兵で迎えた敗戦、丸山の戦後は始まった。
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「焼け跡で目を見張ったのは、民衆の姿だった。沸騰するようなエネルギーが満ちて、自発的集団が至る所に出来、広く他と連帯しょう、新しい日本を建設するのだ、再びファシズムの時代を繰り返してはならないという決意に満ち満ちていた。」すきっ腹を抱えながら漲ミナギっていた。そういう原点が僕らにとって「戦後民主主義」です。

丸山は戦後論壇のオピニオンリーダーとして活躍しながら、東大教授としての授業の傍ら、地方を歩き人々に語りかけた。(各地に呼ばれた講演や学習会の録音テープが残っている)
地方へ講演や勉強会で飛び回っていたことは知らなかった。

三島の「庶民大学」の渡辺さん。
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*その1つ、静岡県三島の「庶民大学」
人々は飢餓の中、新たな指針を求めて三島大社に集まった。証言者、当時20歳だった渡辺さんと山口さん。
山口さんは陸軍士官学校の天皇第一主義だったから、新しい考えに反発した。否定するのに反発しながら勉強して変わっていった。
民主主義という言葉も分からなかった。新しい世の中がどんな世の中になるか、期待です。それを聞きたくて来た。
酒井喜代子さん(85歳)、中心メンバーだった夫と共に「庶民大学」を支えた。
「皆さん、熱心だった。活字に飢えていた。話に飢えていた。少しでも話を聞いて自分が大きくなればいいという気持ちだった。」
丸山教授
「質問では、もっぱら民主主義とは何かという事に集中した。その時の民衆の真剣な表情ね、質問ね、想像を絶しますね。つまり、今までの価値体系が一挙に崩れて、全くの精神的な空虚なんです。飢餓の中の民主主義の原点」
「民主主義の原点を明治維新にまでさかのぼろうと考えようとする。(押し付けられたものではない)福沢諭吉を持ってきて、明治の精神にあったのだ」と。「学問のすすめ」に注目。
「一身独立して一国独立する。主体性をもった個人があってはじめて国家も独立する。」

(三島庶民大学は後に、この時勉強した人々が、昭和38年の石油コンビナート計画反対闘争の中核を支えた)

三島だけではなく、各地で講義が続けられた。東京女子大に「丸山眞男文庫室」がある。
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講演緑を始め、4万点を超える資料を管理している。昭和20年代前半のものが圧倒的に多い。北陸や長野などに向かい彼は語りかけた。

*昭和25年、「朝鮮戦争」米国は日本を反共の防波堤と位置づけた。警察予備隊の創設。

日本の進路を大きく変えようとしていた。敗戦から5年間の自由の空気、何と短い春だったか。社会的雰囲気が平和と反対になってくる。

「日本の思想」(岩波新書、1961年刊)この書は学生たちの必読書と言われ、100万部以上発行された。『「である」ことと「する」こと』あまりにも有名だ。
「である」=出来上がった状態と見なすか、「する」=運動や過程に重点をおくかに切り分けて考えるか?民主主義を完成したものとして守るのではなく、日々作る・民主化のプロセスによって始めて生きたものとなる。

昭和35年 「岸・日米安保改定、安保反対闘争」

同年、5・19岸は国会に機動隊を導入して新安保を強行採決。
新安保の強行
(岸・安倍は祖父・孫の関係だが、非情な政治手法は似ている。今回の「秘密保護法」で祖父の60年の手法と同じだと強く感じた。)

丸山、議会制民主主義の破壊だと捉えた。反安保闘争が盛り上がる。
同年、6・15全学連国会突入、樺美智子死す。

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同年、6・19「新安保自然承認。岸退陣」

「日米安保改定」は日本のこれからを決める分かれ道だった。世界の番犬を目指すアメリカの同盟国として、舵を切るか、アメリカの戦争に巻き込まれるかという不安。
「平和問題談話会」の中心人物として、安保闘争を支持する知識人として、アカデミズムを超えて丸山は活躍した。5・19の国会への機動隊導入は議会制民主主義を破壊するものとして捉えた。丸山は発言する。
「(機動隊導入で強行)認めるならば、権力がもし欲すれば何事でも強行出来ることになる!」
「多数者支配という日本の民主主義の伝統を、新たな視点から見直していく必要がある。少数者の権利というところから、民主主義というものを組み替えていく。」
強行採決を批判し、民主主義を守れと主張した丸山は多くの市民の支持を受ける。

5・19以降反対運動は盛り上がり、市民団体、婦人団体の様々な層に広がっていく。

(後日、再考する)
* この文章が丸山眞男を軸にした文章なので、その風味というか流れになる。無党派の全学連の野次馬としていろいろの思いはあった。いささか痴呆?が罹っているのか記憶が薄くなっている。
* 反対闘争は「安保阻止国民会議」が主導していた。社会党と共産党と労働組合の総評、平和的文化人などが主体だった。学生運動の非共産系「全学連」は国民会議の外にいて独自の行動をとっていた。というか弾かれていたのか?国民会議は野音に大衆を集めて国会請願を繰り返す。全学連は国会突入しょうとして機動隊と対峙する。5.19以降盛り上がった。6・15国会突入!
煽っていた野党の幹部は、実際に国会に入ってしまったら、血相を変えて「出ていけ!」と必死に外に追い出そうとする。
この時国会周辺に二つの大きな流れがあった。国会請願から首相官邸の坂を流れていくデモ隊と国会南通用門で機動隊とぶっかっていた大衆。この2つの流れは絶対ひとつにならなかった!
入ってみたものの、なぜか空白なのだ。これからどうするか?燃焼しないまま安保は終わった。
* 昭和20年~30年代まで学生運動は全世界にあった。ヨーロッパ、中国、韓国で燃えていた。韓国で激しい闘争が起きると日本にもエネルギーが伝播した。韓国で学生が機動隊にやられるとオモニが前面に出て守ったなんて感動した。
* 60年安保闘争は戦後の総決算だった。戦後的な遺産(民主主義、労働運動や学生運動、市民運動や平和運動が作った遺産)を食いつぶした?そして負けたのだ。幕末の時、明治の自由民権運動の時、戦後革命の時、それらに比較してどうだろう?
* 闘争の条件、リーダー、大衆のエネルギー、ヴィジョンそれらを考えてどうだろうか?何が足らなかったか。
とにかく安保が終わって政治がつまらなくなった。あの時、死ねなかった。いや、死をかけてのことなどどこにあるのか?
学生というのは通りすぎるものである。旅に出た者もいたが、自分の居場所を探して、生活の場に入っていく。


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