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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『日記』「ゲリラ豪雨ー東京の雷電・雷の落下」 8/30

『日記』「ゲリラ豪雨ー東京の雷の乱舞!」8/29~8/30

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27日夜、東京を襲ったゲリラ豪雨は、雷の落下・物凄い雷鳴・浸水・道路冠水・京王線の全線スットプと、悪夢の一夜でした。

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先の広島・岡山・の西日本ゲリラ豪雨の時、二つの川の合流地点を、想定外の大雨量があふれ出し、突然大きな湖を出現し様相を一変させた。自然界の猛威に恐怖しながら「もし、これが東京に来たら?」と不安だった。
それが来たのだ!あんな激しい雷鳴りは東京では近年初めてだ。大きな稲光と大音響の雷鳴が連続的に鳴るのは近くでの落下が続いたからだ。雨戸を閉めて通り過ぎるのをただ待つばかり。関東では栃木県が雷の名所だが、東京では!

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西日本ゲリラ豪雨の時、東京の災害について考えた。「荒川氾濫」という言葉があることを知った。地球の温暖化等による、巨大な台風・ゲリラ豪雨の結果、首都圏の排水処理能力が限界を超えて、大洪水が発生する。一時間に50ミリを超える滝のように降る雨が、10年前に比べて4割も増えているという。27日も世田谷付近では一時間に110ミリの猛烈な雨だった。ゲリラ雷電が池袋・渋谷・阿佐ヶ谷と連続して落下してもう終わりだろう思ったら、世田谷が冠水だという。ゾーとした。世田谷区の110ミリの雨は、排水処理能力を超えたか?東京の各地――低地や処理能力を超えた所が冠水している。

荒川は秩父山系から埼玉を通って東京に流れてくる。利根川と関東平野の河川を担っている。埼玉の山岳―秩父を源流として首都に入り、「岩淵水門」辺りで隅田川と分かれる。隅田川下流地域の洪水を守るために、荒川が放水路の役割を担っている。上流からの水位が4mを超えると「水門」が閉じられて総ての水は荒川に流れる。えっ、何だって!江戸の下町の防波堤としての「荒川水門」だって!政府は「荒川決壊」の条件として、72時間で550ミリを基準に設定している。それを超えた雨量の時、荒川は決壊する危険性があるという!関東の山岳地帯に500ミリの大豪雨が降り続くと、荒川などの排水処理能力を超える。堤防の決壊=東京の0メートル地帯は冠水する。荒川以外目黒川・神田川・渋谷川・仙川・綾瀬川・中川などの東京の河川も氾濫=周辺の土地の洪水。東京の水没、地下鉄・地下道の水没・交通機関のストップ・道路の水没等々、地獄絵を見せられた!

(目黒川の危険水位)
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国土交通省・荒川下流河川事務所作成の<フィクション・ドキュメンタリー「荒川氾濫」>では、以上の警告を行っている。まさしく、それに近いことが27日にあったのだ。「荒川氾濫」が夢物語ではないことを、我々に警告している。

* 私の書斎(パソコンの置いてあるところ)が2階の東南にあるため、この炎暑では頭が働かずブログの更新も思うように行きませんでした。お詫び申し上げます。


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  1. 2018/08/30(木) 10:48:35|
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『2018年映画』「沖縄スパイ戦史」(監督、三上智恵、大矢英代、撮影、平田守)8/11

『2018年映画』「沖縄スパイ戦史」(監督、三上智恵・大矢英代、撮影平田守、)8/11

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7月28日公開より連日満員、久々のヒットである。沖縄戦のことは誰でも知っているが、少年を使ったゲリラ戦は衝撃を与える!さらにスパイ戦・ゲリラ戦は次の大きな目的――本土決戦のための実験!――の為でもあった。

第二次世界大戦末期、米軍が上陸し沖縄住民を含む20万人が死亡した沖縄戦。牛島司令官が自決する1945年6月23日までが「表の戦争」なら、「北部」ではゲリラ戦やスパイ戦などの「裏の戦争」が続いたという。

 1944年の8月、42名の中野学校出身者が沖縄に渡った。それも、偽名で身分を隠し、学校の教員など一般人として敗色濃い沖縄に派遣された。彼らはどういう任務をもっていたか?

戦争末期の陸軍大本営が沖縄・硫黄島等の南西諸島に課していた任務は、「本土決戦」に備えての「皇土防衛ノ為、縦深作戦遂行上ノ前縁」と位置づけ、「敵の出血、消耗を強いる防波堤」と規定、「捨て石作戦」と称していた。「本土決戦」の為に、住民を組織してのゲリラ戦・スパイ戦のノーハーの実践と訓練であった。中野学校出身者が先導的役割を果たした。

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陸軍中野学校とは何か?謀報や防諜・宣伝などの秘密戦に関する教育・訓練を目的とする陸軍の軍学校で情報機関。つまり、スパイ技術・ゲリラ戦養成の学校であった。近代における戦争形態の加速度的変化に対応すべき、昭和12年創設、参謀本部直轄の軍学校となる。その存在は陸軍内でも極秘扱いであった。戦争末期、本土決戦における住民の組織・ゲリラ戦やスパイ戦の指導者として中野学校は中核として使われた。
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山岳に籠って米兵を翻弄したのは地元から徴集された10代の少年たち。彼ら「護(ご)郷隊(きょうたい)」を組織したのが、44年の秋、大本営による遊撃隊の編成命令を受け、現地の少年1000人のゲリラ部隊「護郷隊」を組織したのは村上治夫中尉と岩波壽中尉であった。第一隊=村上治夫中尉。第二隊=岩波壽中尉、いずれも22歳の、中野学校出身の若きエリート将校だった。17歳以上の男子は村に一人も残っていなかった。16・15歳の少年を「護郷隊」と言う名目で徴用した。強制の命令であった。任意などの雰囲気はなかった。中野学校の「遊撃戦の参考」に、地元の人を活用すること、民衆を常に管理し、地元住民を情報戦にも使う。しかも、住民を作戦に使い、同時に作戦の邪魔にならないように管理すること。(軍の為にならないものは排除する)とある。住民の中に入り・工作し・監視する。それを詳細に大本営に送信する。
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45年3月米軍沖縄本島上陸、島は南北に分断された。南部の激戦、北部の山々では少年たち護郷隊によるゲリラ戦が戦われた。地元の子供の振りをして捕まり、収容所内に爆薬をしかけたりした。米兵も間もなく子供を装ったスナイパーがいる、と気づく。少年兵たちは敵の武器を拾ってまで戦う。それは日本軍の方針だった。「素手の兵は先に戦死した者の武器、又は、敵の武器をとって闘え」米軍も一時少年兵が脅威となった。

勝ち目のない戦に追い立てられた少年たちの心は消耗していった。戦争の「狂気」は少年たちの内部に向かう。スパイの嫌疑や、怪我や病気による足手まといは撤退の時射殺。幼馴染どうしの射殺の悲劇!最終的に160人が戦死。戦後多くの少年兵がPTSDに罹る。戦争の
話をしては暴れるというので、近所の人は「兵隊幽霊」と言った少年兵。家族はやむなく座敷牢に閉じ込めた。
 
 (戦争マラリア)
 沖縄南端の波(は)照(てる)間(ま)島、米軍は上陸せず、戦闘や空襲による死者は一人もいなかった。にもかかわらず、島の3分の1=500名が命を落とした。軍の命令によって強制移住させられた所がマラリアで有名な西表(いりおもて)島だったからだ。44年暮れ中野学校出身の工作員「山下虎雄」(偽名)は青年学校指導員として、波照間国民学校に赴任してきた。45年沖縄の敗色が濃くなると、山下は本性を現す。優しい先生の仮面を捨て、軍刀を抜き、島民たちに「西表島」に移住せよ」と迫る。米軍が波照間に上陸すれば、住民たちは捕虜になり敵の手先になり軍の秘密を漏らす。移住は軍事作戦を優先して、住民をマラリアの島に閉じ込めようという腹だった。又、各家庭の牛や馬等の家畜の屠殺―米軍の手に渡り、敵の食糧になるのを防ぐ為だというが、結局軍、軍の食糧になった。こうして住民たちはすべてを失って島に渡ったが、感染病と栄養失調に苦しめられ、まさに「マラリア地獄」だった。石垣・波照間の八重山諸島では強制移住が行われ、移住地の出入り口に軍の見張りが常に目を光らせていた。そして3600人余りの命が奪われた。戦後、山下に対する島民の怒りが収まらず、山下に絶縁状を突きつけた。

(スパイリストと住民虐殺)
 「住民は捕まればスパイになる。」の恐怖に晒されたのは日本兵も同じだった。米軍から山に追われた彼らは「敗残兵」と化してゆく。米軍に投降して情報を漏らす恐れがあるからと味方の日本軍に殺された住民や敗残兵が数百人とも言われている。
 「住民虐殺」で有名なのが今帰仁(なきじん)村にいた通称「白石隊」だ。早くから船を失い山に隠れていた彼らが「スパイ容疑の住民リスト」に沿って、上から順番に殺していったという証言がある。
スパイリストは誰がどんな目的で作ったか?「白石隊」が潜伏していた山で、米軍が日本軍の極秘文書を発見した。その資料から、「日本軍は、地域の有力者や学校の先生を集め、「裏の軍隊」を作っていた。「国士隊」という。国士隊には住民同士を監視させ、密告させる役割があり、それがスパイリストにつながったのではないか?

(本土決戦に向けて)
大本営及び日本政府は、最終決戦の場は本土決戦になるとにらんでいた。参謀本部は、第32軍が壊滅した後の戦略として、中野学校出身に米軍を後方からかく乱・攻撃する戦略だった。それとは別に沖縄本島、宮古、石垣、西表から、米軍の動きを大本営に直接送信する計画だった。本土決戦を有利に戦う目的からであった。大本営は、特に地上戦においては軍だけでなく、住民も兵士として総力戦を想定していた。一方米軍も沖縄の護郷隊の存在をしていた。「天皇の為、自らの命を犠牲にして攻撃を行う軍隊だ」と認識していた。もし本土で対峙したらどうなったか?
大本営は、44年から始まった特攻隊、沖縄での少年ゲリラ戦の実践、それらを踏まえて大日本帝国滅亡への最終戦へ向かって準備していた。しかし、8月15日の敗戦を迎えた、、


  1. 2018/08/11(土) 14:06:46|
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『美術/音楽/舞台/読書』「パンソリ<沈清歌><東学農民革命>」8/3

美術/音楽/舞台/読書』「パンソリ<沈清歌>・映画<東学農民革命>前田憲二監督」
              成美教育文化会館(西武池袋線・東久留米) 8/5           

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炎天下、駅から会場への道程も汗ダクダク!こんな日に!と後悔のグチを幾度飛ばしたことか!ところが5時間の長公演を終わって、私は感動に包まれていた。素晴らしいパンソリ!前田憲二さんの映画「東学農民革命」、4~6世紀東アジア(日本・朝鮮・中国)の歴史情勢論、18世紀の朝鮮史、興味を誘うお話でした。

<プログラム>
13;30 映画「東学農民革命」上映

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15:30 休憩
15:40 講演 前田憲二「日本とは」
16:20 パンソリと韓国民謡
  「沈清歌」パンソリ・金美貞(全羅北道国楽院、パンソリ教授。各賞に輝く。)歌・尹孝珍  鼓手・張仁善

(金美貞夫人)   
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 宋代、「沈清」という娘が、失明して没落した父の養生をしていた。父の目が開くならば、と身を売って人身御供になるが、天帝の命により人間の世界に戻される。あまりの美しさに皇后となった沈清は、全国の盲人を都に集めた。ついに沈清と盲目の沈鶴九の再会するのであった。
   *パンソリの名曲―全編8時間に及ぶ大曲。ポイントの場面を勢力的に歌い語った。
    歌い手・金(キム)美(ミ)貞(ジョン)は各大会の賞に輝く実績を持つベテラン。本格的なパンソリ公演に感動!感情起伏の深さの表現に素晴らしいものがあった。金さんの娘尹(ユン)孝(ヒョ)珍(ジン)は若いエネルギーを噴き出すような歌い方をする。単純だがその破壊力が凄い。
18:00 終演

* パンソリは、唱い手が太鼓を叩く鼓手と二人で表現する芸能である。唄い手は物語を一人で演唱し、鼓手は太鼓を叩いて伴奏又は合いの手を入れる。唄い手は物語を語る以外に、笑い声・泣き声・ため息、様々な情念や恨を声楽として表現する。又、人間だけでなく、鳥の声や風の音などの自然界の音響全てを表現する。それに本来、聞き手の観客の合いの手や囃子声が舞台を構成する第三者なのだろう。
民衆の感情や恨を代弁する演唱芸能として、17世紀の中頃から朝鮮で急速に広がった。
現在残っている台本は「春香歌」「沈清歌」「赤壁歌」「水宮歌」「興甫歌」5篇。

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* パンソリは1994公開(韓国は93年公開)の、映画「風の丘を越えて」から火がついた。韓国では100万人以上の動員、パンソリだけでなく韓国の伝統芸能に対するブームを起こした。パンソリの独特な曲と唄い手の腹の底を突き破るような声は一度聞いたら、魔力から逃れられないと思われた。映画ではパンソリの奥底にある「恨(はん)」(漢字の「恨(うら)み」ではない。)を極めるために壮絶な旅をする親娘が描かれていた。パンソリにとって必要不可欠な恨を娘に芽生えさせるために、彼女の視力を奪って身体的な苦痛を刻み込もうという壮絶なシーンがある。義父の心を察した娘は喜んで応じようとする。

* 「恨(はん)」とは何か?解説することは難しい。漢字の「恨(うら)み」ではない。相手に対する多様な感情を含み、相手に約束を果たせなかったことから生まれる自責の念も恨と捉えるという。鬱積してしこりとなった恨が一気に解き放たれるため、猛烈なカタルシスが発生する。恨とは、そのように人の心の奥底に沈殿し、しこりとなり、一気に解き放たれるカタルシスをいう。映画の場合、親と娘は深い愛情と哀れみで結ばれているため恨は発生しないという。長い間離れ場馴れになっていた姉と弟が再会するラストシーンで、二人の間にあった心のしこりが一気に解き放たれるために、猛烈なカタルシスとしての恨が発生するという。



  1. 2018/08/05(日) 15:08:43|
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