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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2016年映画』「ディーパンの闘い」(仏映画、監督ジャック・オディアール、カンヌ・パルムドール)2/25

『2016年映画』「ディーパンの闘い」(カンヌ・パルムドール≪最高賞≫)
                                   (監督、ジャック・オディアール)2/25

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映画の冒頭、スリランカ内戦の記録映画の様なシーンがあった。25年に亘った内戦の様相は知られていない。人口の7割の「シンハラ人」(仏教徒)と2割の「タルミ人」(ヒンドゥー教徒)との対立。タミル人・<イーラム解放のトラ>LTTEがスリランカからの独立を目指した闘いだった。1970年代から始まって2008年に終結。<イーラム解放のトラ>の敗退・壊滅だそうだ。

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内戦で、家を焼かれ妻と子どもを殺された<解放のトラ>兵士のディ―パン、凄惨な戦闘で負け、妻や子どもを殺され、闘う気力を失った。内戦の殺戮場面や多くの難民で混乱する中、生き延びるために見知らぬ女や少女と偽装家族を装って、亡命しょうとした。なぜ偽装家族かといえば、家族の方が受け入れてもらえるからだ。独身だと強制送還されてしまう。

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やっとの思いでフランスに亡命、パリ郊外の集合住宅に辿りついた。ディーパンは貧困層が住む団地の管理人の職を得た。ディーパンと妻役のヤリニ、娘役のイラヤルの3人の偽装家族の生活が始まった。三人はフランス語が話せない。習っている娘のヤリニが何とか通訳した。外に向けての亡命の為の偽装家族、家に帰って3人になった時、家族は成立するだろうか?
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<家族とは何か?>が問われる。親子の情愛、夫婦の恩愛又性愛が必然になってくるからだ。話の展開がその方向に展開するかと思ったが、映画はアクションにいった。

ディーパンは郵便の仕分け・清掃の仕事、ヤリニは認知症患者の介護しかもギャングのボスの家、イラヤルは学校へと通い出したが差別にあう。紛争地帯から逃げてきたのに、ここも紛争地帯みたいなところだった。貧困層の住む集合住宅は、ドラッグ売買の温床みたいになっていて、日頃から争いが絶えなかった。宗教・民族・人種の違い・貧困、難民どうしの確執、とフランスでの難民も様々な問題を抱えていた。ドラッグの取引を巡っての争いは銃弾が飛び交うようになった。ヤリニとイラヤルは銃弾で狙われて命からがら逃げた。ヤリニは元々行きたかったイギリスに今すぐにでも行きたいと言い出す。疑似家族崩壊は亡命の崩壊の危機である。ディーパンは疑似家族を真の家族にするために立ち上がった。

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かつてのゲリラの闘士ディーパンの再生である。(私は東映ヤクザ映画の高倉健をイメージした)ディーパンは団地と団地との境に石灰で白線を引き、ヤリニが住んでいる側を非武装地帯、反対側のドラッグが売買されている団地を武装地帯と宣言する。ギャング側は襲撃してきた。反撃するディーパンの闘いぶりは<イーラム解放のトラ>の英雄戦士の姿である。闘い終わってその果てに出現するのは――花咲きそろう楽園での、人々の笑顔であるのか。ラストシーンの楽園は何を意味するか?

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映画の中でディーパンの讃歌のような、中世の教会音楽風の高音な男性ソプラノは、リリックだが物悲しい雰囲気を漂わせている。(音楽、ニコラス・ジャ―)

監督、ジャック・オーディアール(1952年パリ生まれ)
  「天使が隣で眠る夜」(94)でセザール賞・新人監督賞。「真夜中のピアニスト」(05)を国際ベルリンへ出品、「預言者」(09)でカンヌ審査委員特別グランプリ。

音楽、ニコラス・ジャー(1990~ニューヨーク生まれ)
  17歳の時にデビューしたアルバムが高い評価を得た。「ディーパンの闘い」の音楽を担当、リリックな男性高音のソプラノを使った。

主演、<ディーパン役>、アントー二ーターサン・ディスターサン
  16歳~19歳までスリランカ内戦で反政府軍兵士として闘い、亡命して様々な職に就き、現在在仏で作家。




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  1. 2016/02/25(木) 09:06:12|
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『美術/音楽/舞台/読書』「恩地孝四郎展」(東京国立近代美術館~2/28) 2/21

『美術/音楽/舞台/読書』「恩地孝四郎展」(東京国立近代美術館~2/28)  2/21

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①  はじめに
版画について今まで僕は関心を持っていなかった。近美の「恩地孝四郎展」を見てびっくりした。400点に及ぶ展示とモノマニアックな「作品展示目録」(P23)に戸惑った。いや、こんなに詳しい「展示目録」は初めてだ。展示と目録の順番が異なっていて、作品を目録から探し出すのに最初戸惑った。これは素人向けではない!展示番号がなく、「P番号」が何かわからぬ。
目録を落ち着いて目を通すと、時代順になっていて、3期に分かれている。初期の出発点の時、壮年期の自適に展開したとき、戦後、GHQの米人の美術愛好家との交流と老齢からの死の影。解らぬものはほっといて進むしかない。
しかし、会期が迫っているせいか異常な混みようだ。

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② 恩地孝四郎(1891明治24-1955昭和30年)
東京地裁検事の家に生まれ、医者になれとの親の意向に抗して、今の芸大に入る。
明治43西洋画科、明治44彫刻科塑像部、大正元西洋画再入学、大正2婚約・カンデススキーのドイツ表現主義の版画に感動。芸大で出会った親友田中恭吉・藤森静男と三人で、2,014年(大正2)に自画自刻の木版画と詩歌の雑誌「月映」(ツクハエ)を6号まで

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刊行。北原白秋、室生犀星、萩原朔太郎らとの交友が始まった。結核が死病と言われた時代、恩地の青春は死との恐怖と闘いであった。16の時三兄、19の時次兄と妹、15年(大正3)親友の田中の死を経験した。藤森が去り、一人になった恩地は芸術家として立つ決心をし、1915年に日本で最初の抽象作品≪抒情≫シリーズを発表、17年萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀、18年に山本鼎、織田一麿らの「日本創作版画協会」設立に参加した。

③ 展覧会の目録
1期(1909-1924)
.雑誌「月映ツクハエ」に載せた<抒情>1914-15シリーズ

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( 「泪」-月映1914年大3年)

2期(1924-1945)
版画、都市、メディア
創作版画、音楽作品による抒情、季節標

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(山田耕作/ 「日本的な影絵ーおやすみ )1933年

3期(1945-1955)
戦後期

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(GHQのEH氏の心象像1946)

④ 「月映」ツクハエの創刊と版画家としての出発
≪抒情≫シリーズ(1914-15)

* 版画については、江戸期の錦絵(浮世絵)があるが、明治末期の複製の手段ばかりが目立ち、創作性が薄れた。山本鼎、恩地孝四郎らの「創作版画」とは、非実用性、芸術性を打ち出した自画自刻の版画。自ら描き自ら彫り自ら摺る。厳密には芸術性に立脚し「絵画の複製」であってはならない。版画の複製もしないとした。作家の芸術性・創造性・非商業性に立脚した視点だった。

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( 抒情 「あかるい時」 月映 1915 大4年 )

2014年(大正2年)の恩地らによる自画自刻の木版画と詩歌の雑誌「月映ツクバエ」は、日本で初めての抽象画の創造だった。恩地は「抒情」シリーズを「月映」に載せた。
≪抒情≫について恩地はこう言っている。ここは大事なキーポイントだ。

「あらゆるものが、生気をもって迫る。心の底からついてくる。心が手に流れ、手が紙を走る。そこに私の抒情画が成り立つ。」
≪抒情≫とは心の内部の、もやもやした形に定まらないものを、どうやって表現していくか、だと言っている。
初めての試み特有の脈打つものを感じる。目とか顔が自然に作品から無くなっていった。具体的なものが無い方が、今思っていることを自由に表現出来るのではないか?表現がのびのびとして思わぬ方向に発展する。」

若さの息吹きを感じる、恩地たち大正期の青春!それはまた、死の恐怖との闘いでもあった。「月映」は一年で終わり、恩地は一人になった。

一人になった恩地は、芸術家として立つ決心をした。

⑤ 代表作
*「リリック」シリーズ(1932~
「抒情」シリーズの延長にあるとされ、戦後に続く
*「ポエム」シリーズ(1937年~
動物や植物、季節の自然をモチーフにした作品、戦後に続く
*「肖像画」
萩原朔太郎、山田耕作、北原白秋、
*「フォルム」シリーズ(1948年~ *「コンポジション」シリーズ(1949年 
  形態と色彩を追求
*「オブジェ」シリーズ1954年~
紐、布、板切れ、針金、段ボール、落ち葉など、マルチブロック手法。

*「音楽作品による抒情」シリーズ
諸井三郎「プレリュード」/ ボロディン「スケルツォ」/ ラベル「道化師の歌」

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( ラベル 「道化師の歌」 1933年 昭和8年)

山田耕作「日本風な影絵―おやすみ」/ ドビュッシー「金魚の魚」
サティ「小曲による抒情」
(恩地は同時代の前衛的な音楽を選んで、版画あるいは美術で捉えようとした。
同時代の音樂への共感を示しながら版画に生み出されたシリーズ。心の動きや音の響きを、色と形だけで捉えようと恩地は苦闘した。)
・ラベルの前衛的な音は、抽象的な形や色として捉えられるだろうか?
・ ベルリンで学んだ山田耕作の子守唄のような音は、優しい癒しの世界を夢む。

(自分が実験的なものを作り続けることに意義があると思っていた。絵はものを写すことを否定しない。しかし、狭い世界に閉じ込められてしまうことは嫌だた。誰からも認められなくても、自分の芸術を創っていく意志は強くあった。

* 季節標1935年
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( 季節標の中に入っていた <創作版画> 1935年  )
40代の恩地が自らの詩と版画を本にまとめたもの。詩とエッセイの中にオリジナルな木版画が入っている。

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*≪海の童話≫昭和9年
恩地自らの詩と木版画が収められた本。

<海と女體>(恩地の詩)
原始の魂は蘇生する 
新しい膚は太陽にをののく
爪は貝殻  /  軀幹は珊瑚  /  唇はあかき生蟲
女體は魚となり  水を切る 
女身は溶けて 一片のくらげである

* 多くの本の装丁(まるで宝石箱みたいな物もある)
「月に吠える」萩原朔太郎(大4)
「愛の詩集」室生犀星(大7)
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「白秋小唄集」北原白秋(大8)「悪の華」ボオドエル(大8)他多し

⑥ 戦後1945-1955
息子の戦死で戦後を迎えた。廃墟の東京。「大きな地域は爆音と火炎に押しつぶされ、焼けた土には物もなくなった。東京は巨大な疲労の記念碑だ。」

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( 廃墟 アレゴリー 1951年)

恩地家に予期せぬ人々が訪れた。GHQの米人美術愛好家たちだった。彼に版画を習いながら、作品を買い上げる。米人たちは初め浮世絵と結びつけて理解した。
しかし、恩地の創作版画に、形の力強さや色彩の美しさ、独創性や即興的センスを見た。

恩地は再び制作に挑んだ。

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(母性 イマージュ 1951年 )

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( あるヴァィオリニストの印象<諏訪根自子象>1946年)



  1. 2016/02/21(日) 17:10:57|
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『美術/音楽/舞台/読書』「ある仮設?―ボッティチェリ展を見て」(都美術館~4/3まで 2/14

『美術/音楽/舞台/読書』「ある仮設?―ボッティチェリ展を見て」(都美術館1/16~4/3) 2/14

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(「ボッティチェリ展」ポスター、<書物の聖母>

① はじめに
私は若い頃より西欧に憧れていたけれど、実際にヨーロッパに行ったのは2000年に入ってからだった。その前に数回の外国旅行に行ったけれど、2000年代のイタリア旅行から西欧旅行が病みつきになった。ただ、時間も金も限られていたのでその範囲でしかなかったが、、、

2001年の「イタリア・ハイライト」ではまずヴェネツィアの風景に感動し、フィレンツェの<ウフィツィ美術館>の絵画に目を見張った。特にボッティチェリの「春」とヴィーナスの誕生」の実物を見て、こうだったのか!と長年の憧れの絵画なので夢中になった。「私のルネサンス絵画」”入門“であった。私は素人の絵画好き・芸術好きに過ぎないが、ウフィツィ美・ボッティチェリの「春―プリマヴェーラ」を見て、どうしてこんなにも気品あふれた麗しい女性たちを描けるんだ?ボッティチェリって何者か。この才能はボッティチェリ特有か?他の画家たち全体のものか?と、色々と心の中で自問自答した。今回も同様の問いを抱いたが、麗しの美人画の中で、他の画家たちは消えて、ボッティチェリだけが残った。やはり彼独自なのだと。しかし、師はいたのだとも。最近感じていたことを書いてみたい。

(イタリア絵画は門外不出であったり教会の壁のフレスコ画であったりして、ご当地に来なければ見られない、と思っていた。今回「ボッティチェリ展」を見て、従来の、日本でのイタリア絵画展を上回る充実ぶりに感心した。ボッティチェリの師弟関係に焦点を当てて、師のフィリッポ・リッピ――-本人――-リッピの実子でボッティチェリの弟子でもあったフィリッピ―ノ・リッピの、因縁ある3代に渡る展覧会である。)

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 (フィリッポ・リッピ<聖母とマリアの誕生物語>)

② ボッティチェリの師・「フィリッポ・リッピ」(1406-1469)
貧しい生まれで、孤児として育ったフィリッポ・リッピ(1406-1469)は、1421年カルミネ修道院で修道士になる修行をした。1430年、ブランカッチ礼拝堂のマザッチョの壁画を勉強する。34年パドヴァに滞在、ヴェネト地方の家々に蒐集されていたフランドル絵画を研究する。
34年、パドヴァ・イル・サント聖堂に「聖母戴冠」(現存無し)を描き評判になる。
37年、フィレンツェに工房を開く。サント・スピリト聖堂やサン・ロレンツォ聖堂、サント・アンブロージョ聖堂などに祭壇画を描く。個人祈祷用に、聖母子や受胎告知、キリストの生誕を主題とする小品を描くことで有名になった。
ボッティチェリがリッピの工房で弟子として学ぶ。1470年頃までに独立、工房を開く。
1452年、プラート市政府はフラ・アンジェリコに断られた大聖堂のフレスコ画装飾をリッピに依頼した。10年がかりで完成する。56年、彼はプラートのマルゲリータ女子修道院の修道女ルクレツィア・ブ―ティと駆け落ちして、息子フィリッピ―ノをもうけた。さーあー大変だ!とんだ、破戒僧だ!ところがリッピを御贔屓の大パトロンのコジモ・メデチが救うのである。教皇から恩赦で結婚。リッピは絵画に精進。66年スポレート大聖堂に「聖母マリアの生涯」のフレスコ画の依頼を受けて、一家と共に移住して仕事に専念し、69年死去するが大聖堂に埋葬された。
(メデチ・コジモの権力の凄さ、画家として才能への絶対の評価、ルネサンスとはかくのごとき社会だったか!)

③ イタリア・ルネサンス美術の改革―
リッピは修行時代にマザッチョのフラスコ画から明確な空間のつながりや、彫像的な人物像を学んだが、その後人物の彫像の力強さが減少していった。だが、色彩の輝くような明るさとか、装飾的でリズミカルな輪郭線のすばらしさが前面に出てきた。

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(<聖母子と2天使>リッピの話題作。これが<聖母>の概念を変えた。

ルクレツィアと結ばれてからは、リッピの描くマリアやサロメが変わった。「聖母子」は彼女と息子の面影が投影されている。従来のマリア像を一変する。晩年の傑作「聖母子と二天使」が最も該当するが、現実の生きた麗しいマリアの登場である。中世の定番の「聖母像」からの脱皮のためには、現実に生きている美しい女性像が必要だった。リッピが描く聖母像がまさしくそれだったのだ。フラ・アンジェリコ(1395-1455)の「受胎告知」と共に「聖母像」の革新を担った。
ルネサンス絵画の革新運動はジョット(1267-1337)から始まる。アッシジの聖堂、パドヴァの礼拝堂等で、キリストの生涯を描いた作品によって中世の幕が閉じられ新しいルネサンスが始まった。(ここでは、詳しくは触れない)

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(ボッティチェリ・<美しきシモネッタの肖像>)

15歳のボッティチェリがリッピ工房に弟子入りして、新しい聖母像=絵画を学んだことは考えられる。新しい聖母像はリッピからボッティチェリと受け継がれて、「プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」と開花したのではないか?ボッティチェリの初期の作品は、リッピを反映していない。青春期、リッピ工房で学び見事に才能を開花した。元々の彼固有の才能にプラスされて「春」や「ヴィーナスの誕生」へ、ルネサンスの華になっていった。

ボッティチェリは孤児となったフィリッピ―ノ・リッピを弟子として、一人前の画家に育てた。3代に渡る不思議な縁である。

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(フィリッピーノ・リッピ<幼児キリストを礼拝する聖母>

(本日のところは、展覧会の出品目録を示して終わりにしたい)

④ 作品リスト
Ⓐ フィリッピ・リッピの代表作としては、
41年~「聖母の戴冠」(ウフィツィ美術館)
   「受胎告知」(ローマ、バルベリー二国立美術館)
52年~「洗礼者ヨハネ」「聖ステパノの生涯」(プラート大聖堂)
53年~「聖母子と聖アンナの生涯」(ピッティ美術館)
   「聖母子と二天使」(ウフィツィ美術館)

*今展覧会に展示されたもの。
36年 「聖母子」(ヴィチェンツァ市民銀行)
38年 「バルバド―リ祭壇画」の裾絵(ウフィツィ美術館)
52年 「ヴェールを被った女性の頭部の習作」(尖筆、鉛白、ペンとインク及び後世の。ウフィツィ素描版画室)
50―55年 「受胎告知のマリア・聖アントニウス」(ウフィツィ美術館)
    「大天使ガブリエル、洗礼者聖ヨハネ」(ウフィツィ美術館)

Ⓑ サンドロ・ボッティチェリ
*今展覧会に展示されたもの
68年  「バラ園の聖母」(ウフィツィ)
75年  「ラーマ家の東方三博士の礼拝」(ウフィツィ)
80年  「聖アウグスティヌス」(剥離されたフレスコ画)(オニサンティ聖堂)
82年  「書物の聖母」(ミラノ・ボルティ・ベッツォーリ美術館)
85年*「聖母子、ヨハネ、ミカエル、ガブリエル」(パラティーナ美
85年 「美しきシモネッタの肖像」(丸紅)
85年 「胸に手をあてた若い男の肖像」(ワシントン・ナショナル)
94年 「アベレスの誹謗」(ウフィツィ美)
96年 「磔刑のキリスト」(テンペラ、板、プラート大聖堂)
99年*「聖母子、セバスティアヌス、ラウレンティウス他」(
00年 「オリーヴ園の祈り」(グラナダ・王室礼拝堂)
* は工房も含む。

Ⓒ フィリッピーノ・リッピ
69年 「嬰児の虐殺」(プラート市立美術館)
78年 「ルクレティアの物語」(パラティーナ美術館)
78年 「幼児キリストを礼拝する聖母」(ウフィツィ美術館)
81年 「コルシー二家の円形画」(フィレンツェ貯蓄銀行コレクション)
83年 「受胎告知のガブリエル」(サン・ジミニャーノ絵画館)
   「受胎告知の聖母マリア」    同
03年 「引見の間」のための祭壇画  (プラート市立美術館)



  1. 2016/02/14(日) 13:52:51|
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『2016年映画』 「サウルの息子」(ハンガリー映画、ネメシュ・ラースロー監督)2/5

『2016年映画』「サウルの息子」(カンヌ審査委員特別賞、ハンガリー映画) 2/5
                     監督ネメシュ・ラースロー主演ルーリング・ゲーザ


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①  2006年の自己の体験
2006年私はアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪ねた。映画で何度も見たせいかどこかで見たぞという既(デ)視感(ジャブ)があった。アウシュヴィッツにいるという実感がまだなかった。ガス室の前に立った時もまだ心に響かなかった。積み上げられた眼鏡の山を見た時だ、ガタガタと体が震え出した。怖さを感じたのだ。
他に靴の山、眼鏡の山など、、、その後、映像でアウシュヴィッツのシーンを見ると、体がジーンとしてきて2006年の体験を想い出す。

アウシュヴィッツの大量虐殺は、人間否定の暗黒点・悪魔の仮面の表れだだと思えた。戦後世界の文学・思想・映画において、忘れてはならない重い課題として圧し掛かってくると思えた。

2016年の今、「アウシュヴィッツ」がナチス・ドイツの専売特許だけではない事を、、、それから2016年の政治・社会を見ていると、ナチス時代みたいな恐怖政治・社会が来るのではないかという不安に駆られてくる。 

② 映画「サウルの息子」

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物語は1944年10月6日~7日の2日間の、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の出来事である。
「アウシュヴィッツ」では毎日ユダヤ人を殺していた。送られてきたユダヤ人を調査、利用出来ない老人・子供・女性を裸にしてガス室で殺害、死体は焼いて灰にして捨てた。完全に証拠は隠滅、「アウシュヴィッツ」は無かった! というのがナチスの目論みだった。

ユダヤ人の殺害・死体処理を実際に当たる者として「ゾンダーコマンド」という存在をナチスは作った。ユダヤ人の中から選抜され、同僚の死体処理などに当たる者たちである。彼らも生き伸びられる期間は数ヶ月で、秘密保持のため、後で皆殺された。彼らは少しでも生き延びるため、人間の尊厳を捨てて従った。

その中のハンガリー系ユダヤ人のサウルが、ガス室で生き残った自分の息子と思われる少年を見つけたと思ったら、たちどころに親衛隊に射殺された。サウルは少年の遺体をユダヤ教の教義に則して埋葬したいと願った。(祈ることさえ出来ぬゾンダーコマンドの立場なのに?)―-サウルは執拗にユダヤ教のラビ(聖職者)を探し求めた。埋葬にはラビによる祈りが欠かせないからである。

* サウルの行動は何を意味するか?
目の前で同胞がガス室で殺される。それに手を貸しているゾンダーコマンドは人間の尊厳を破壊して、命令によって動くロボットである。サウルの「息子をユダヤ教の葬儀で弔いたい」という願いは、そういう過酷な状況にあって「人間らしさ」が保てるかどうかの賭けではないか?ゾンダーコマンドと対極の人間の尊厳を守る行為ではないか?

*すぐれた映画技法
映画が始まった時、映像が歪んでいた。目が疲れているかと思った。が、サウルの視点は焦点が合っている。優れた映画技法だという! カメラが「サウルの目」となって、彼が目撃したもの・彼の目線のみを実写していく。それも至近距離からの映像だ。他はぼやかした映像。カメラはサウルの背中に張りついて、彼の関心のあるものだけを実写する。他はぼやけて、アウシュヴィッツ内の様子だということしかわからない。ナチス親衛隊の怒号、ガス室での阿鼻叫喚、人を急(せ)かす様な音が常に鳴っている。(怖い!不安!体が硬直してくる)

サウルはラビを探してアウシュヴィッツ内を行き来する。ゾンダーコマンドたちが蜂起を意図しているらしい。だが、サウルにとってラビを探すことしか関心がない。生か死かの枠外に突き出てしまったのだ。人生を遮断してしまった人間なのだ。彼は果たしてラビの祈りによって、息子を埋葬することが出来るだろうか?

* これはハンガリー映画である。ある意味が問われている。
ハンガリーは第2次大戦で、ドイツ側についていた。1944年3月、独軍がハンガリー占領。独軍がハンガリーの政権に、ユダヤ人をドイツ側に移送するよう要求。この映画の44年10月の当日の2日間は、春から始まったユダヤ人移送が最も盛んに行われていた時期だではないか! 一説によると約40万~60万のハンガリー国内のユダヤ人を移送したということだ!(戦前80万のユダヤ人が戦後20万人しかいなかった)ユダヤ人虐殺はナチス・ドイツ人の専売特許だけでなかった。ハンガリー人も加担していた。ユダヤ人への加害の歴史認識を問う映画でもあった!ユダヤ人差別はポーランドでも、フランスでも、他のヨーロッパ諸国でもあったという。もっと歴史を見つめ直さなければならない。

* 「ゾンダーコマンド」たちは自分たちもいずれ抹殺されるので、事実を紙に記録してビンに入れて地中に埋めた。戦後10個ほどビンが発見されて本にまとめられた。(邦訳されていない)又、移送されたハンガリーのユダヤ人がカメラを隠し持っていて、アウシュヴィッツ内を撮って現像してビンに入れて地中に埋めておいた。戦後取り出された。大量の裸のユダヤ人が写っていた。

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「サウルの息子」の監督 <ネメシュ・ラースロー> 1977年ハンガリー生まれ。
フランスで教育を受け、パリ第3大学で映画を学ぶ。26歳でブタペストに戻り、タル・ベーラ監督に師事。短編を監督後企画から10年を費やして「サウルの息子」でデビュー。2015年カンヌ映画祭審査委員賞。




  1. 2016/02/05(金) 20:04:52|
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