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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『美術/音楽/舞台/読書』「フジタと靉光」(近美~12/13まで) 11/29

 『美術/音楽/舞台/読書』 「フジタと靉光」(近美―藤田嗣治全所蔵作品展示~12/13まで  11/29


映画「FOUJITA」のブログをまとめてから、藤田嗣治の評価が甘いのではないかと気に掛かっている。「今、何故藤田嗣治なのか?」に立ち返るつもりで竹橋近美の、フジタの戦争画を見にいった。

① フジタの戦争画(近美所蔵作品、13点)

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*1930年代前半の「南昌飛行場の焼打」、「武漢進撃」「十二月八日の真珠湾」
3点とも明るい色調、勇ましくいかにも軍隊調の戦意高揚ムード。

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*「ハルハ河畔之戦闘」17年
日本軍が敗退壊滅したノモハン事件を扱った。司令官が戦死した部下の鎮魂の為に依頼したが、フジタは日本兵の勇ましいシーンを描いた。浅薄な意識の表れではないか。(別バージョンがあり、司令官の本意に沿って描き直した?殺害された日本兵の死体を描いた?)

*「シンガポール最後の日」17年
 戦争画のパターンをフジタがデザイン=最前に闘う兵士たち、中景に広大な風景、遠景に火柱をあげる空。戦争画の一般的なパターンとなった。

*「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(前回触れた)

*「アッツ島の玉砕」18年 他に7点
アリューシャン列島最南端の島・アッツ島の日本軍の壊滅を描いたもの。生き残りの証言者の言「日米の圧倒的な火力・武器の違いで鉄砲に突撃していっただけ、肉弾戦なんて言える代物ではなかった。絵の肉弾戦は反戦画とも好戦画とも、どちらでも解釈出来る。軍は「全滅」を「玉砕」という言葉で美化した。その後の太平洋戦争日本軍の、各地での「全滅」を「玉砕」という欺瞞的な言葉で飾った!実は悲惨な敗退・全滅であったのに。
以下敗戦末期の作品は皆同じ。全滅を肉弾戦として描き、「玉砕」という美名で飾る。

*「サイパン島同胞臣節を全うす」20年

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 サイパンは大正以降、日本の委任の統治領になっていたので、日本人も多く、又、ここから日本本土爆撃が出来るので戦略上の重要拠点。米軍は19年6月15日に7万が上陸、僅か一日で住民を含む日本人4万人が戦死。
 フジタは赤ん坊に乳を飲ませる母親、自分の足で銃を引く日本兵、崖から自死する女性を描いている。米紙タイムを引用した朝日の記事からサイパンの実態を知ったのである。フジタは朝日の記事とルーブルなどにある西洋の歴史的名画を参考にして画面作りをしたと想像される。

 戦争画が果たした役割の責任は逃れない。芸術は自己満足ではない。鑑賞者にどのような感動や影響を与えたかが問われるのだ。
「メディア・ミックス」といって複数のメディアを組み合わせて宣伝効果を上げるー戦争画・歌謡曲・映画・ニュースなどを総動員して宣伝する。

②  日本近代史における「個」の確立
日本近代のテーマは、近代化・西洋化である。国家社会の、資本の、官僚制度の、教育の、科学文化の、あらゆる分野での近代化である。その根幹として、「国家」に対して「個」の自立が重要である。小栗康平監督はその意味でのフジタを評価している。

話しは飛ぶようだが、私にはこの度の「安保法制」=安保闘争で、「個」の自立の希薄を感じた。二度と戦争はゴメンダ!と平和憲法をシンボルに武力を持たずに来た日本。明らかに憲法を変えようとする安保法制、極右内閣の支持率は高得点、憲法改正の衆参選挙をやる構えなのだ。状況がどんどん作られていく。「国家」に対して「個」の自立性を感じない。民衆に戦争の嫌な記憶が蓄積されていれば、もっと違った展開になるはずだ。
「戦争の記憶」「日本陸軍の記憶」「特高や憲兵の野蛮な記憶」「戦争を煽る教育・マスコミ・ジャーナリズムの記憶」、嫌な記憶はどこへ行ったのか?
それほど国家に対しての「個」の自立は大切である。近代市民社会の存在証明(レゾンデートル)である。

 「稲作の里山」は日本人の懐かしきイメージとして記憶に残るが、我々は「共同体」と「個」の闘争を果てしなく続けるべきである。

③ 靉光(あいみつ)の「眼のある風景」と「白衣の自画像」

昔、美術科を出た人と話をした時「靉光」の名が出た。漢字が読めなかった。抽象画はわからなかった。むしろ同時に話題になった松本俊介の方が好きだったので、話はそちらに移り靉光は素通りした。
この度の近美の「MOMAT コレクション」でフジタの陳列の先に、靉光の作品が5点並んであった。展覧会企画者の意図は何だろうか?

「いま、なぜフジタか?」フジタの戦争画に対して、靉光を反・戦争画又は非戦争画として展示したのではないか?

靉光は当局から戦争画を描かんかいと迫られて、「わしにゃは、戦争画は(よう)描けん。どがしたら、ええんかい」と泣くように言ったという。

「アッツ島玉砕」がセンセイションを巻き起こし、軍部によって大々的に宣伝されると靉光は「こんなことがあってなるものか。人間はそうめったに死ねない。わしは、生きている人間のことを描きたい」と言っていた。

* 「眼のある風景」1938年

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岩のようなもの、都会の廃棄された管のようなものやドラム缶のようなものが散在している中に、大きな黒い(暗くて黒いとしか言いようがない)眼がこちらを見ている。その眼を見つめると逆にこちら側の心を見透かされるような異様な眼。
心が混沌として鬱積していたのか?外部が信用出来なくなって、心の内面世界に沈積していったのか、その様相の形象化ではないか。

* 「白衣の自画像」

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   無造作に白いシャツを着た「自画像」。きっと前方を見つめている眼。何を見ているのであろうか。前方に見えるものに希望とか夢とか明るいものだろうか?暗い絶望的な未来だろうか?いや、もっと厳しそうだ!
   「眼のある風景」の眼と対しているか。不思議な存在感だ。シャツの描き方からたくましい肉体を持った青年・男に見える。

画家がいかに戦争を過ごしたかの、1940年代の2つの代表例である。華々しいフジタに対して靉光の苦闘する芸術家像。加えて松本俊介もいる。かくて歴史は続く。

* 靉光(あいみつ)(石村日郎、1907-1946)広島県生まれ。
1924年(大正13年)上京し、池袋モンパルナスといわれた界隈で仲間と切磋琢磨しながら、自身の画風を模索した。二科展に入選、「眼のある風景」は独立協会美術賞を受賞。(戦後この作品は前衛的な作品として最高水準にあると評価された。)39年福沢一郎らとシュールレアリスムの研究会「美術文化協会」を設立。43年「新人画会」を松本俊介等と作って主要なメンバーとして活躍した。召集されて中国に渡り敗戦、上海の病院で戦病死。38歳だった。戦後評価されるが、自ら焼却したり、故郷広島に残してきた作品が原爆で焼失したため、現存する作品は少ない。

*新人画会
1943年初頭、靉光,麻生三郎、松本俊介等8名で結成された若い新人画家のグループ。仲間同士の小さなグループで、シュールレアリスム的や暗いリアリズムの作品を発表した。戦後時流に流されない抵抗の画家として評価された。
 



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  1. 2015/11/29(日) 17:30:18|
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『2015年映画』「FOUJITA](小栗康平監督、日仏合作)11/26

2015年映画「FOUJITA」(小栗康平監督、日仏合作)11/26、 オダギリジョー、中谷美紀、アナ・ジラルド
                                      アンジェル・ユモー、マリー・クレメール

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いまなぜ、藤田嗣治(フジタ)なのか?

第1次大戦後のフランスを中心に活躍した日本人画家・藤田嗣治の半生を、「泥の河」の小栗康平監督が10年ぶりに製作した。作品は2つに分けられる。

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① パリ時代
フジタ(オダギリジョー)は1913年渡仏し、第1次大戦後(1918)のサロン・ドートンヌで、エコールド・パリの寵児になった。日本画の面相筆で描いた細い独特の線描。透きとおるような「乳白色の肌」の裸婦は、フジタの名声をたちまち高めた。有名なモデルであったキキを描いた「寝室の裸婦キキ」はセンセーションを巻き起こした。
画家フジタはオッカパ頭の風貌と共に社交界のスターとなっていく。
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第1次大戦後のパリは狂乱の時代。戦争でそれまでの価値観が崩れ、自由とデカダンスに酔いしれた。世界中から芸術家が集まり、毎夜乱痴気騒ぎを繰り広げていた。画家としての高みを狙うフジタは、パーティーの後で必ず線を描くことを自己に課していた。「スキャンダルスをすればするほど、バカをすればするほど、自分に近づく、画がきれいになる」とフジタは言う。これはどういうことなのか?

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(何をやってもいいという事は、自己の行為の責任は自分でとる、西欧社会に個人主義が根付いている事を意味する。革命を経験した、「自由」とその背後にどれだけの「孤独」があるかを知っている。近代民主主義革命を経験していない日本人には全然理解できない。)
フジタは狂乱のパリでしたたかに味わい、その凄さを知った。しかし、フジタは近代化を始めたばかりの日本では評価されなかった
「フジタは宣伝屋だ。異国情緒で珍しがられただけだ。パリ人は軽蔑こそすれ、尊敬はしていない。」フジタの「乳白色の肌」についても、技法は画家が自らの実践で掴むものだと思っていたから、決して画家仲間にも教えなかった。しかし、西欧仕込みの技術を仲間と分かち合って学ぼう、という当時の日本の画壇の画家たちからは反発。フジタは反発する!「なぜ我々の先輩はパリの本舞台で西洋人と闘って来なかったのか?唯々日本に帰朝しての自分の地位だけを考慮していたのか?」「自分にはすべてを捨てて、少なくとも本場所の土俵の上で、大相撲を取ろうという覚悟はある」

フジタは40歳(1926)を過ぎた頃から、新しい絵のテーマを探し始める。古典の勉強に美術館に行って骨格の太い画法を研究したりした。1930年代に入って、中南米を旅したり模索が続く。中南米の旅は、愛人マドレーヌを連れていた。色彩に関心を持ってきた。
「メキシコに於けるマドレーヌ」(1934)
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②  画家と戦争
藤田嗣治は1886年(明治19年)東京に生まれた。明治の名門の家であった。父は森鴎外の後任の軍医総監であり親戚に名が知られた人が多い。高等師範付属の頃から画家に志し、フランスに留学したい希望を持っていたが、鴎外の勧めで今の芸大=東京美術学校西洋画科に入学・卒業した。1913年(大正2年)渡仏、パリのモンパルナスに居を構えた。モディリアーニやスーチン等と知り合い、彼らを通してピカソやパスキン、ザッキン、ルソー等と交友を結んだ。キュービスムやシュールレアリスムも知り、そして、サロン・ド・トンヌでの成功であった。

1933年日本に帰国、25歳年下の君代(中谷美紀)(1911-2009)と5度目の結婚、終生連れ添った。
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当時の日本は、中国や南方への進出を加速させようとしていた。陸軍は世界的画家フジタに戦意高揚の「戦争画」を依頼した。フジタはトレードマークのオッカパ髪を切り落として引き受けた。

③  「戦争画」
*「アッツ島玉砕」(1943)

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ベーリング海のアッツ島での日本軍の壊滅的敗北を描いた。
敵味方の区別なく入り乱れた激しい肉弾戦を描いている。今では戦意高揚のためというより、反戦画だという感じ。最近の研究で、画面中央に兵士が敵を剣で突き刺そうとし、相手が兵士の顎に手をかけている。これと同様なポーズが、ラファエロの「ミルウィウス橋の戦い」(1520~)にあるそうだ。フジタは西欧の名画を頭に置きながら「アッツ島の玉砕」を描いていた!フジタは頭の中で、ヨーロッパの名画のように描けばいいんじゃないかという風に舵を切っていった。

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*「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)
19世紀のフランス絵画の大家ドラクロワの「ドン・ジュアンの難破船」(1840)と比較される。これは、バイロンの詩が下敷きになっている。船が難破して飢餓にさいなまれた人々は、誰を殺して食べるかを籤(くじ)で選んでいる。やがて船に乗っている人々に訪れる悲劇を予感させる。

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フジタの絵には、画面の上に獰猛なサメが描かれていて、漂流する米兵のこの後で訪れる悲劇を想像させる。フジタはドラクロアと同じように、目に見える出来事だけでなく、その奥にある深い物語や人間の本質まで描こうとした。ヨーロッパの伝統的な絵画を受け継ごうとしていた。ルネサンス以降の西洋美術には歴史画・戦争画の歴史と伝統があるのだ。
この時のフジタは戦争画を、誤解を恐れず言えば喜んで描いた。西洋の歴史画の歴史に参入する意気込みであった。

*「玉砕」というデマゴーグ
しかし、「戦争画」は軍の意向に沿うものだし、民衆の戦意高揚を奮い立たすものだった。

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「聖戦美術展」が全国を巡回。フジタの「アッツ島の玉砕」は展覧会の華だった。が、現実の戦争は日本軍の壊滅、軍は「玉砕」という言葉の魔術で「戦意高揚」を狙った。小栗監督は「大デマゴーグだ」という。
流布された風説か?この絵の前に賽銭箱が置かれ、横に作者が立って、絵の参拝者がお賽銭を投げると、横に立っている作者が礼をする。もはや宗教的行事・戦死者への鎮魂の儀式ではないか!戦意高揚なんて吹っ飛んで、民衆は壊滅を、痛ましき全滅を悼み鎮魂したのではなかったのか!

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*  戦争期にはプロの画家は全員戦争画を描いた。これは文学・思想あらゆる分野に襲い掛かった嵐であった。非転向を貫いた文学者は小林多喜二のように獄中で虐殺されたか、中野重治のように良心的転向をした少数者を除いて、みんな戦意高揚の文学を書いた。
*  フジタは積極的に「戦争画」を描いた。戦後に「戦争責任」を問われるのだが、一見不遜ともとれる態度に終始して弁明をしなかった。西欧の戦争画・歴史画を継承しょうというのが、フジタの思いである。その絵が社会でどう扱われたか、民衆にどういう影響を与えたかはフジタの意識には無かった。それが問題である。

1945年敗戦、占領軍によって軍人や政治家の戦争責任の追及が始まった。画家たちの間でも憶測が流れた。戦争画のリーダーとしてのフジタの責任を指摘した。フジタは「絵を描くことは、戦意高揚や反戦とは関係がない。戦争画によって自らの絵を確立したのだ」と態度を崩さない。画壇に失望した彼は日本を去る決心をする。
1949年、63歳、羽田から出国する際こう言い残した。
「絵描きは絵だけを描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」以降二度と日本の土を踏むことが無かった。

小栗康平監督は総括する。近代日本は開国で西洋近代文化を取り入れることで、近代化・西洋化を図ろうとした。芸術家たちは憧れのパリに行って西洋絵画を学ぼうとした。フジタは近代主義の真髄=自由とその裏にある「孤独」を、渦中に飛び込んで知った。そして、パリで成功した初めての日本人画家になった。
ここで映画はもう一人の芸術家を登場させる。彫刻家・詩人の高村光太郎である。パリに恋焦がれる憧憬の歌、
「雨にうたるるカテドラル」(高村光太郎)
おおう又吹きつのるあめかぜ/
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら/
あなたを見上げてゐるのはわたくしです/
毎日一度はきっとここへ来るわたくしです/
あの日本人です/

光太郎も青春時代に近代西洋文化に憧れてパリに来た。その光太郎が戦時中に、詩人の戦意高揚の先頭に立った。敗戦後「失礼しました」と言って岩手の田舎に蟄居する。
日本が近代化を遂げなければいけない。そのためには仮初めであっても「国民国家」というものを作らなければいけない。「国民」は馴染みがないから「臣民」であり、一気に「玉砕」まで行って、敗戦後「一億総ざんげ」になる。「共同体」と「個」の関係が出来ない。2015年の今でも同じだと小栗監督は言う。鋭い見識だ。フジタは違う。戦争の責任を一身に背負わされて、ひるむことなく日本を去っていった。「自由」と「孤独」その背後にある「デカタンス」をエコールド・パリで経験して、いわば西欧近代の「たたき上げ」だ。他にそういう日本人はいない、と。
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映画のラストの「キツネの話」は何を意味するだろうか?
キツネは里山に住み「稲作の守り神」である。村の近くに住むから、よく人間をだますとされる。
「夜行の汽車の機関士が、同じレールを向こうからこちらに向かってくる汽車を見て、慌ててブレーキを掛けるとその汽車は消える。同じことが何度も起きる。翌朝いつもキツネの死体が無数に線路に転がっている」
このキツネのエピソードから何をくみ取れるか?小栗康平監督がこの映画に仕掛けたマジックだ。フジタへの、日本人へのメッセージではないか?
古来から稲作の里山の共同性の中で生きてきた日本人の穏やかな暮らし、近代の「個」と「孤独」の中で闘争的に生きざるを得ないヨーロッパ社会、その接点を求めたのではないか?フジタにも我々日本人にも、、、




  1. 2015/11/26(木) 17:00:00|
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『美術/音楽』「プラド美術館展」(三菱1号館美術館2016年1/31まで) 11/19

『美術/音楽』「プラド美術館展」(三菱1号館美術館 2015年10/10~2016年1/31)  11/19

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世界の大きな美術館で私の好きなところは、イタリアの「ウフッイ美術館」とスペインの「プラド美術館」である。門外不出の世界的名画揃いの、しかも、略奪ではない美術館である。

2013年の春スペイン旅行の時、丸一日プラド美術館を見学。知人が或るツアー旅行でプラドに2時間しかいなかったとの大不満。それを聴いた私は午前中プラド・午後自由というプランを探して、一日中プラドに居たら最後は頭はフラフラ目は霞んでしまった。何を見ているのか分からなくなった。タクシーでやっとホテルに帰った。その時の無我夢中の自分を今では懐かしく想いだす。

プラド美術館は、①スペイン②イタリア ③フランドル ④ドイツ⑤イギリス ⑥フランス⑦19世紀スペインの、絵画である。常設絵画7000点の、歴代スペイン王が集めた巨大美術館である。しかも門外不出の名品揃いなのだ。全部見るのに最低一週間はかかるのを一日で見ようというのだから無謀だ。私は①スペイン②イタリア③フランドル④ドイツはデュラーだけと限定して後は捨てた。

*フランドル地方(オランダ・ベルギー・フランスの一部)。1477年以降、ハプスブルク家の所領となり、1516年ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世を兼務して、1519年神聖ローマ皇帝カール5世となった。スペイン帝国は16世紀に全世界
の膨大な領地を持った。フランドル絵画の傑作が何故スペインに在るのかの理由である。

今回の三菱1号館の「プラド美術館展」(2015年10/10~2016年1/31)は、王侯・貴族が寝室・書斎に飾って日頃愛好した「小さなサイズ」の作品展である。「キャビネット・ペインティング」というのだそうだ。私はプラドのベラスケスやゴヤの名作を想い出しながら、懐かしく見た。総数100点の中から気に入った作品を選んでみた。

A 初期ルネサンス

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① ヒエロニムス・ボス(1450-1516)「愚者の石の除去」

プラドでボスの最高傑作「快楽の園」を見た時、私の心の中で戦(せん)慄(りつ)が走った。想像を超えて世界だった。寓意画の極地で、エデンの園―快楽の園(性的)-地獄の責め苦が描かれている。ひとつひとつの寓意は理解不能だが、凄い寓意と象徴の絵画だった。宗教改革などで殆ど紛失し、現存30点。10点がプラドにあるという。ボスは今回初来日。

「男の頭を外科医が手術している。ネーデルランドでは中世から、頭の小石が大きくなると愚か者になる為手術が必要と信じられていた。愚者の頭から取り出されたのは、石ではなく青い花。外科医が「愚行」を暗示する漏斗(ろうと)(愚行を暗示するそうだ)を被っているのでいかさま手術である。肘をついて本を頭に乗せている女は愚者の妻。その左隣の司祭は妻の間男。」という解説があった。

同時期の作品として他に面白かった作品。

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*ハンス・メムリンク1433-1494「聖母子と二人の天使」
*聖カタリナの伝説の画家1470-1500「聖母の婚約」
*フアン・デ・フランデス1465-1519「巡礼者姿の聖ヤコブ」
*偽ブレス1510-1520に活動「東方三博士の礼拝」(中)「ダビデ王」(左)「シバの女王」(右)

B マニエリスム=イタリアとスペインの画家

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エル・グレコ1541-1614「受胎告知」(1570頃)
 スペイン3大画家のひとり。グレコはギリシア人。イタリアで修業してスペインで活躍。これはイタリア時代の作品。先年、日本で「グレコ展」を見て「宗教画」ばかりでつまらないと愚かな感想を持った。ところが、プラドで「羊飼いの礼拝」や「胸に手を置く騎士」を見てうーんと唸ってしまった。トレドで「オルガス伯の埋葬」を見て降参してしまった。傑作である。グレコは宮廷付の画家にならなかったけれど、教会や修道院や知識層に受け入れられて多くの傑作を残した。

同時期の作品として、
*アンドレア・デル・サルト1486-1530「洗礼者ヨハネと子羊」
*ティツィアーノ1490-1576「十字架を担うキリスト」

C バロック

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1 ディエゴ・ベラスケス1599-1660「フランシスコ・バチェーコ」

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* 同  「ローマ、メディチの庭園」
岳父「パチェーコ」の像は素晴らしい。ごつごつした存在感あふれる表情と対照的に、襟に巻いた白の繊細な襞模様が息をのむ様に美しい。
「メディチの庭園」はベラスケスがフェリペ4世の許可を受けてイタリア旅行の時の作品。2世紀も早すぎる印象主義の風景画。

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2 フアン・バン・デル・アメン1596-1631「李(すもも)とサワ―チェリーの載った皿」
銀器の皿に盛られたチェリーと李。宝石のようなチェリー。熟しきった李。左方向から光が差し込んで精緻な作品に仕立てあがっている。静寂と緊密な緊張感を包括している作品ではないか。

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3 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ1617-1682「ロザリオの聖母」
この展覧会で1番の傑作ではないか!聖母と幼子の優しい姿がいい。聖母の気品と美しさ。聖母の鮮やかな赤いチュニックと深い青のドレスが素敵だ。
ムリーリョは17世紀スペインの代表的な画家。可愛い幼児と甘美な聖母像を多く描いた。5人の子どもをペストで亡くし、6人目の娘も耳が聞こえなかった。その娘を思い、最高傑作の「無原罪のお宿り」を描いた。

D 17世紀

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1 ピーテル・ブリューゲル(子)1564-1637「バベルの塔の建設」
2代目、父ピーテルの模作をしたことで知られる。この作品も父ピーテルが1534年に描いた「バベルの塔」の模作。父の作品に比べてレベルが小さい。最後の方の作品に怪奇的な絵が多かったため、「地獄のブリューゲル」と言われた。

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2 ピーテル・フリス1627-1706「冥府のオルフェウスとエウリュディケ」ボスの影響を受けたとされる画家。ギリシア神話のオルフェウスが亡き妻を連れ戻すために地獄に往く話。グロテスクな怪物たちがウヨウヨいる。3点しか確認がとれない謎の画家。この画家については知らなかった。

E 18世紀ヨーロッパ.宮廷の華
マリア.ルイサ

アントン・ラファエル・メングス1728-1779「マリア・ルイサ・デ・パルマ」
ポスターの表紙に使われた、いかにも社交界の華という感じ。

F ゴヤ(フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス1746-1828

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1 「トビアスと天使」
ゴヤの礼拝画。大天使が白い大きな翼を広げている。トビアスが父トビトの目の病を治すために、大魚を捕る場面を描いた。ゴヤの宗教画は初めて見た。

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2 「レオカティア・ソリーリャ」
堀田善衛の「ゴヤ」では確か最初の妻。現在の研究では内縁の妻。(召使に手をつけた?)鬢(びん)がほつれて生活感が出ている。

* ウフツィにしてもプラドにしても有名な傑作は門外不出である。残念ながら現地に行かなければ見ることが出来ない。しかしながら、本物はそれだけの価値がある。機会があれば行かれることをお勧めする。





  1. 2015/11/19(木) 21:37:22|
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『美術/音楽/舞台/読書』「内田光子・ピアノリサイタル」11/10.11/15サントリーホール 11/12

『美術/音楽/舞台/読書』「内田光子・ピアノ・リサイタル」2015年11/10・11/15、サントリーホール 11/12


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11月10日(火)夜、サントリーホールで「内田光子」のピアノ・リサイタルを聴いた。曲目は

*  シューベルト:
「4つの即興曲」op・90、D899ハ短調/変ホ長調/変ト長調/変イ長調
* ベートーヴェン:
「ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲」ハ長調op、120

内田光子のモーツァルトやシューベルトのピアノ・ソナタを日常よく聴いている。彼女のCDを聴き出したのは90年代で、その頃はそれほど日本では有名ではなかった。(82年ロンドンで、モーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会が大成功、一躍楽壇の寵児になりそれからCDが発売された。)
彼女は2年に1回位日本のサントリーホールで演奏会を開く。初めて彼女の生(なま)演奏を聴いて以来、欠かさず聴くようになった。(前回は身内の不幸でせっかくのチケットがムダになったが)

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彼女の音樂は、哀しみの表現であれば本当に泣きたくなるほど、感情を揺さぶる音樂を演奏する。特色のひとつが独特な「最弱音」だ。CDでは拾えないのではないかと思ってしまう微妙な音だ。会場ではその臨場感の魔術か!いや、質の高い演奏は人々を感動させる。

シューベルトと言えばウィーンの抒情、歌曲の王として知られていたが、評論家は「もっと深く厳しい作曲家」ではないかと言う。内田はシューベルトのピアノ・ソナタを、病に侵され絶望感にのた打ち回っている者の音楽として捉えた。甘いウィーン風とは質の異なる、冥府とこの世とを行き来するような、シューベルトの精神の闇を捉えた。内田は「即興曲」を聴きながら死にたい、とまで言う。

今回はシューベルトの「即興曲」とベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」、の組み合わせだ。内田光子は何を狙っているのだろうか?

シューベルトの「即興曲」は無言で始まる。しばらくして静かに「ト、トン、トン」と、冥府からの音であろうか、あの有名な曲が演奏される。余計なものを削ぎ落した調べ。第2曲のあの「泉がこんこんと湧いてくるような」曲も美しが何故か哀しく寂しい。だが、今回ベートーヴェンの「ディアベリ」と比較して、シューベルトにはやはり甘味=ロマンがある。「ディアベリ」と比べてロマンを感じた。これは意外だった。問題は、「ディアベッリ変奏曲」だ。

内田は「ディアベッリ」に挑戦する意図を次のように言う。
「1時間弱のピアノ曲としては長大な難曲ですが、深さや音楽的密度も特別な作品です。以前からこれを弾かないまま死ぬのは嫌だと思っていました。恐ろしく複雑怪奇な曲だけに弾くにあたって極めて高い集中の密度を求められる。70歳を過ぎてからは難しく、20歳の時より今の方が作品の本質を理解していると感じています。」そして「心・技・体そろった今だからこそこの難曲に挑戦したい」、と意欲を強調した。作品の全体像を、
「作品の全体像は、人間が生きていくうえで遭遇する最大の深みにスポッと嵌(はま)ってしまうようなものでした。その一方で深みに嵌った者を上に引き上げる力がベートーヴェンにはある。」
人間の一生,遭遇する様々喜悲劇が、33の変奏曲で展開する。

ベートーヴェンと同時代の作曲家ディアベッリのワルツを主題に33の変奏曲を作った。元になったワルツは矮小なもの。ベートーヴェンは「不器用な切れ端」といい、元の原型を作り変えて奇想天外な壮大な変奏曲を作りあげた。
第1変奏から新しい音型が次々と登場し、新しいリズムが展開され、変奏が次から次へ続き、変奏技法の極限までの追求が続いた。30変奏は哀しみの極限、終章的な32変奏へとまとめあげられ、早いテンポの33変奏のあと全体を回想するような音型が弾かれて曲は終わる。

ベートーヴェンの曲力、内田の精力的な演奏に圧倒された。約1時間、内田は精力的に演奏した。恐らく彼女はへとへとになるまで体力を捧げたことだろう。その様子は見ていて解る。アンコールを遠慮するくらいの真剣勝負だった。シューベルトの「即興曲」がいい意味での癒しになっている。それ程、「ディアベッリ変奏曲」は難曲で大作なのだ。

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  1. 2015/11/12(木) 14:35:08|
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『2015年映画』「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」(監督ジョン・マル―フ出演ヴィヴィアン・マイヤー)11/6

『2015年映画』「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」(監督、ジョン・マル―フ、チャーリー・シスケル)11/6
                               出演、ヴィヴィアン・マイヤー、ジョン・マルーフ

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このドキュメンタリー映画の監督にもなる、シカゴのジョン・マル―フという青年は昔のシカゴの街の風景写真を探していた。オクションでネガフィルムが一杯詰まったカバンを手に入れた。中には「ヴィヴィアン・マイヤー」という名前と、数十年前のシカゴの写真で溢れていた。「ヴィヴィアン・マイヤー」とは何者なのか?ネットで調べても何の情報も無く、美術館・画廊・出版社に問い合わせても作者は分からず、写真については相手にもしなかった。写真を自身のブログに掲載してみると、大好評の絶賛の嵐!その声援に押されて展覧会が開かれ、写真集が出版され、売り上げが全米1位を記録するというヒットになった。

<ヴィヴィアン・マイヤーの作品> 1
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ある時、「ヴィヴィアン・マイヤー」をネットで検索してみると、数日前に亡くなったという死亡記事があった。彼はその住所の所を訪ねて行って、彼女がプロの写真家ではなく、ナニー(乳母)兼家政婦だったことを知る。ますます興味を持った彼は、幼少期にヴィヴィアンに育てられた人にインタビューをして、彼女を掘り下げていく趣向で映画は進行していく。

<ヴィヴィアンの作品> 2

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生前のヴィヴィアンを知る人は殆どがアーティストとしての側面を知らなかった。彼女はアーティストとして認知されず、頑なにプライベート部分を人に見せなかった。(しかし、残された写真が優れた資質を語っている。)フランス人?結婚をせず身寄りも分からず、シカゴで乳母兼家政婦として生活し、友人も少なく、晩年は路上生活者同然で貧しい生活者として終わった。

<ヴィヴィアンの作品> 3
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<残された写真から何が見えるか?
写真は子守りの仕事で子どもたちと出かけた際の、ストリートスナップが中心だ。街中で出会う人々にシャッターを向けた。
子供、老人、裕福な人間、低所得者、路上生活者、老夫婦の人生を思わせる1コマ、大都会の孤独、犯罪者、そして自分自身の姿を。

< ヘンリー・ダーガー展>のこと
2002年の秋、外苑前の「ワタリウム美術館」で見た、ヘンリー・ダーガー(1892年~1973年)の絵画を想い出した。ダーガーはシカゴの教会の清掃人として一生を過ごし、夜自室に籠って奇妙な小説「非現実の王国」と挿絵を描き続けた。
教会と仕事場とアパートの自室とを行き来するだけで、友人もいなく、彼が小説と絵を描いていることを知る者、誰一人いなかった。死ぬ間際にアーティストの大家によって作品が発見されて世に知られた。
ダーガーの運命と似ている。密かに作品の制作を行い、膨大な作品を残した。無名の人生で、身寄りも友人もいない孤独な人生だった。

<ダーガーの作品・挿絵>
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ヴィヴィアンもダーガーも作品を世に問う意思はなかったか?
自分の作品に対して、自分自身はどう評価していたのか?
何故、作品を作り続けたのか?

アメリカは広い、奥が深い、と言って済む問題だろうか?






       
 
  1. 2015/11/06(金) 22:00:25|
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