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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2015年映画』『森に消えた子供たち」(リドリー・スコット製作・トム・ハーディ主演7/29

『2015年映画』「チャイルド44ー森に消えた子供たち」7/29
           (リドリー・スコット製作、ダニエル・エスピノ―サ監督
          出演トム・ハーディ、ノオミ・ラパス、ゲイリー・オールドマン、ヴァンサン・カッセル、

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「エイリアン」や「ハンニバル」「グラディエーター」の作品で知られるリドリー・スコットの製作。「裏切りのサーカス」「マッドマックス」のトム・ハーディや「ドラゴン・タトゥーの女」のノオミ・ラバス。僕は「レオン」で悪徳捜査官を演じたゲイリー・オールドマンなどに注目。多彩の演技陣が出演するミステリー映画である。テンポが早く、秘密警察の恐怖感をうまく醸し出して、スパイ映画の雰囲気がよく出ていた。ただ、その手法は主役のトム・ハーディのヒーロ像が薄められた感があった。僕にはヒーロ像をたっぷり描いて欲しかった。

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1950年代の旧ソヴィエト連邦が舞台だ。第2次大戦の英雄レオ・デミドフ(トム・ハーディ)は戦後、国家保安省(MGB)*のエリート捜査官として出世街道を歩んでいた。
* 「MGB」=「KGBゲーぺーウー」と言われた秘密警察のこと。

子どもばかりを狙った連続猟奇殺人事件* が起きる。鉄道に近い森の中で起き、被害者は内臓をえぐられていた。事件は共産党の幹部の上司によって事故死として処理されてしまう。同じような殺人事件が起きるが、尽く単純な事故死として扱われる。「ソ連という理想社会においては、連続殺人事件などの異常な犯罪は起りえない。それは腐敗堕落したブルジョア社会のものだ」という奇妙なスターリン主義が支配していた。
* チカチーロ事件=1980年代にソ連で起った52人殺害の連続猟奇殺人事件がモデル。

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順調に出世街道を歩んでいたレオ捜査官の、美しい妻(ノオミ・ラパス)にスパイ容疑がかけられたことから、彼の運命は一変する。彼が所属する「MGB」は国家反逆・スパイ・反体制活動を取り締まる機関なのだ。逮捕・拷問・処刑か収容所送りの恐怖。彼は妻の命か自分の命か選択を迫られる。妻が妊娠したこともあって運命を共にする。そして、ドストエフスキー的体験* を味わう。 処刑場に立たされ四方から拳銃で狙われる。
* 若きドストエフスキーが反ツアー運動で逮捕、処刑場に送られ、あわや処刑される寸前、恩赦でシベリア送りの事件。ドストエフスキーは後に回想でその恐怖体験を語っている。初めから脅し・懲らしめのために処刑場に送られてあわや、銃殺という恐怖体験を味わせられる。

妻と共にウラル山脈の町の民警へ左遷させられる。今までとあまりにも環境が違い、レオと妻ライーサは言い争うようになり妊娠がウソであることが判明する。「家族全員を犠牲にするか、妻一人を犠牲にするか」と言われているのを聞いて、自分を守るため妊娠したと言った。」また、「あなたがMGBなので結婚を断れなかった」と愛情のない結婚だったと告白する。もともと愛情のない偽りの結婚だった2人は、さあーこれからどう生きていくか?

その町で、かつて殺された親友の子供と同じような傷の死体を発見する。殺連続殺人を疑ったレオは秘密裏に捜査を始める。

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町を統括するネステロフ将軍(ゲイリー・オールドマン)は得体の知れぬところが人物だった。レオはネステロフ将軍の協力を仰ぎ、連続猟奇殺人事件の本格的な捜査を始める。事件は鉄道の近くの森で起っている。内臓がえぐれて持ち去られている。被害者は9歳~14歳の少年である。猟奇殺人の犯人の正体は?

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郊外を走る電車。煙をたてて走る蒸気機関車。鉄道マニア垂涎の的の映画でもある。当時のソ連の交通手段が鉄道だったから、マニア垂涎の列車・電車・蒸気機関車のオンパレードだ!

一方、レオの古巣モスクワのMGB本部ではかつての上司と、元レオの部下が必死になってレオを追っていた。「この国では異常犯罪など起こりえない。もしレオのいうようなことがあれば、幹部自身が失脚する」MGBからの2転3転の逃走劇。夫婦助け合っての逃走劇であった。何度か命が危うくなりながら2人はその過程で新しい絆を生み出していった。
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犯人を射殺して犯罪をもみ消そうというMGBの正体を暴いてレオは再び英雄になる。
主人公がMGBという秘密警察のエリート捜査官であることが、感情移入してゆけないのだ。ソ連のMGBといえば妖怪スターリンが何百万という大量虐殺した時の手先として使った秘密警察だったのだ。





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  1. 2015/07/29(水) 11:32:08|
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『2015年映画』「雪の轍」(14年パルムドール、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督、ハルク・ビルギネル主演7/22

『2015年映画』「雪の轍」(14年カンヌ・パルムドール・トルコ映画、監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、
                原案A・チェーホフ、音楽シューベルト・ピアノソナタ20番、
                出演ハルク・ビルギネル、メリサ・ソゼンデメット・アクバァ、
                3時間16分の大作。7/22

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舞台はトルコのカッパドキアと呼ばれる奇岩の地域。小さなホテルのオーナーで夫アイドゥンとその若き妻ニハルが主人公。さらにアイドゥンの出戻り妹ネジラや友人の詩人スアーヴィ、執事ヒダーエットなどが舞台を構成する。
主人公アイドゥンは親からの遺産で何不自由のない暮らしが出来る身である。俳優を引退して、田舎の新聞にコラムなどを書いている。「トルコ演劇史」を書くと言っているが、まだ取り掛かっていない。いわば夏目漱石の主人公=<高等遊民>の身である。ハルク・ビルギネルという俳優の存在感ある演技、我々は主人公をどう見ていくか?

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カッパドキアという奇岩の、初冬の寒々とした風景の中でドラマは進行する。奇岩の映像や草原を走る野生馬も素晴らしいが、主人公たちの言い争う・台詞の葛藤が根源的な所から発していて、台詞(せりふ)劇として見事に完成している。シューベルトのソナタ20番が全編を通し、ピアノの音が、哀しく、寂しく、心細く、或いは激情を掻き立て、音楽も映画の構成要因として見事に成功している。

≪台詞劇≫
歳の離れた若い美人妻ニハルとの仲は冷え切っている。妹ネジラがアル中の夫と別れて戻ってきた。ドラマの中で夫と妻、妹と主人公が言い合いをする。いや単なる言い合いを超えた「台詞劇」だ。(下敷きにA・チェーホフや「バージニア・ウルフなんかこわくない」がある)

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* 妹は兄に向って辛辣に、生き方や夫婦生活を批判する。「人生で何をしたというの?かつて掲げた理想は?」「浅い知識で偉そうに、、、」

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* 妻は夫に向かって
「あなたは教養があって誠実で良心的よ、でも人を窒息させ、踏みつけ、辱める」
「自分の人生の最良の時代に、あなたとの格闘に費やして、粗野で臆病で疑り深い人間になった」
妻は夫の資産で慈善活動にいそしんでいる。
* 夫は妻に
「ただの男を神のように崇め、神でなかったと言ってそいつに腹を立てる。勝手じゃないか?」

互いの人生を容赦なく批判する。相手の欺瞞を抉り出す。
夫婦の距離は、無理解・干渉が行き交い、夫は善意を装って、妻の慈善事業を妨害しょうとする。

≪貧困と富裕・イスラム世界の誇り≫
村を走っていたアイドゥンは鋭い目つきでこちらを睨んでいた少年を目にする。少年の投げた石がアイドゥンの乗った車の窓ガラスを割った。その背後には店子である少年の父と家主アイドゥンとの家賃不払いのトラブルがあった。
執事が追いかけて、川に飛び込んでずぶずぶになった少年を捉えて家に送る。
少年が発熱し、怒った父親が暴力寸前までいく騒ぎがあった。

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後日、妻ニハルが少年の見舞いに訪れて紙包みを差し出す。店子である少年の父が開けてみると、家が買えるくらいの大金が入っていた。激怒した父親は札束を数えながら、「これは(少年の)父親が皆の前で辱められた分、、、、」と幾つかの理由で札束を分けて、全部を束ねて燃え盛る暖炉に投げ捨ててしまう。たちまち燃え上がる札束。
( 若い妻ニハルの甘ったるい善意を、札束を火に投げ捨てることで踏みにじる。衝撃的に表現された、「トルコ人の誇り!」)

≪主題≫
ドラマでは、裕福と貧困、イスラム世界と西欧世界、老いと若さ、男と女、プライドとエゴ、愛と憎しみ、欺瞞と誠実、=人間の普遍的課題に根源的に迫る。

このドラマの結末は?
インスタンブールに帰ろうとしたアイドゥンは雪に交通が閉ざされ、旧友の詩人を訪れ、一夜を共にしてしたたかに酩酊する。目覚めて見るカッパドキアの銀世界。彼の心の世界で覚醒が起こる。仕留めた野ウサギを土産に、妻のいるホテルに帰っていく。

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「トルコ演劇史」を今度こそ書こう!と。一方、妻は、、、

* ≪ヌリ・ビルゲ・ジェイラン≫ 1959年~トルコの映画監督・脚本家。
95年「繭」97年「カサバー町」
02年「冬の街」11年「昔々、アナトリアで」2作品がカンヌ・グランプリに輝くこの「雪の轍」が日本初公開だという。2014年カンヌでパルム・ドールに輝いた。ユルマズ・ギュネイの「路」以来30年ぶりの名作の出現である。
     
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  1. 2015/07/22(水) 18:42:19|
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『日記』「戦争法案・衆院強行通過―いよいよ戦争する国に!!」 7/18

『日記』 「戦争法案・衆院強行通過―いよいよ戦争する国に!」
                   7/18 ジュリアンの夢  

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①「戦争法案」は2015年7月15日(水)衆院・特別委員会で与党単独の強行採決。16日(木)の衆院本会議で可決され、参院へ送られた。参院で決まらなくても、「60日ルール」により衆院で再可決して成立するという運びになる。
②戦後70年間平和憲法によって、二度と戦争をしない・軍備も持たないとしてきた我が国が、一政権の憲法解釈によって戦争可能な国に一歩踏み出した。
これは国の方針・方向の大変身であり、若者たちが明日戦場に征かなければならない事を意味する!オオゲサデハではないのだ。

③2015年4月末日安倍首相は米議会で演説し、安保法制を変革し日本の自衛隊が米軍に対して「いつでも切れ目のない」対応ができるようにする。自衛隊と米軍との協力関係の強化・日米同盟の堅固化を図ると約束してきた。
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*日本の議会にも国民にも事前に諮らずに米議会でブチ揚げた!
*米国は今までの「世界の警察」の役割が負担になってきている。財政的にも軍事的にも、その肩代わりをアジアでは日本や韓国に求めていた。安倍首相のこの提言は米国にとって、願ったり叶ったりの話しでもある。

④  戦争出来る国にするには憲法改正しなければならない。この「戦争法案」が次に「憲法改正」をやるための試金石の役割を担っている。違憲の「集団的自衛権行使」を「解釈改憲」の中で合法化するために、「法案」を追求されればされるほど意味不明の論議になって、「分からない」と多くの人が言う。

⑤ 潮の目が変わったのが、6月4日の憲法審査会で3人の憲法学者(与党推薦も入っている)が全員「違憲」だと批判したことからだ。世論調査でも「違憲」が過半数を占め、それまでの安倍内閣の高い支持率が逆転し不支持率が多くなった。専門の憲法学者の殆どが「違憲」だと言った。

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⑥ 国会の議論で一番注目されて具体的だったのが民主の辻本清美議員の追求だった。又、人間的だった。例えば「戦闘現場で自衛隊だけが撤退する」というがそんな事本当に出来るんですか?安倍首相が「戦闘現場になったら直ちに撤退する、それを前提に自衛隊は活動する」と答える。
辻本議員は<百田尚樹と安倍首相との対談本の中で、同様の場面で「戦闘地域」になったので私たちは撤退しますとは国際社会では全く通用しない>と2人が同感し合っている件を引用して追求する。しどろもどろになって答弁する首相、ますます問題が分からなくなる。このシーンは鮮やかな印象として残っている。辻本さんの成長ぶりに感心した。

* 安倍首相のお爺さんは戦争の詔書にサインをした。私の祖父はその戦争で戦死した。祖父の顔さえ知らない。遺骨も帰って来ない。「70年談話」の件で、今、当時の戦争遂行者の孫と戦死者の孫が議論しているが、これは戦後民主主義の成果です。70年談話には「戦争に狩り出した側ではなく、狩り出された側の痛みを癒すもの」を出して欲しいと思います。それが一国の首相の任務です。(安倍には狩り出された者の痛みが本当にわかるのだろうか?)


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⑦ 国会を取り巻く人々は、初めは「ジジババ」だった。しかし、日を追って変化してきた。「シールズ」学生を中心とした若者の行動である。ネットで呼びかけたり、渋谷でデモったり、その輪は確実に広がった。2百が千になり何万と膨れあがったのだ!「これで戦争に行くのは俺たちだ!人殺しは嫌ダ!」という叫びは、
⑧ 若きママさんたちに広がり「やっと生んだ、この子を戦争にとられてたまるものか!」。ジジババも「可愛い孫が心配だ!」と広がっていった。

この声を、理屈ではなく心に突き刺さる声をもっと訴えていったらと思うのである。

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  1. 2015/07/18(土) 17:22:17|
  2. 『日記』
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『2015年映画』 「記憶と生きる」第一部 分かち合いの家 (土井敏邦監督)7/6 改定版7/12

『2015年映画』「記憶と生きる」(監督、土井敏邦) その一 7/6  「改訂版」7/12

<金順徳の凛々しい韓国少女>
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土井敏邦監督の映画「記憶と生きる」を最近見た。いわゆる日本軍「慰安婦」 (国連では「性奴隷sexual slave」)をテーマとする映画である。いわゆる「慰安婦」は戦前、日本軍によって戦場の各地に作られた慰安所で、強制的に日本兵の性の相手をさせられた女性である。
男性である筆者は戦場での強制的な女性への性行為にたじろき、(強姦と同じではないか)アプローチ出来なかった。兵士たちは日本に帰れば「善き父であり兄」であった、普通の日本人であったというから問題の根が深く、私は逡巡して混迷した。

世に男と女がいて、相手を求め合い、心を寄せ合い交感する。原始の昔から変わらぬ人間の行為である。性とそんなものではないか。慰安婦制度で、1日に何回も性を強制させられる女性。人間の尊厳を破壊することではないか。問われているのは男性の性の加害性ではないか。人間を追い詰める「軍隊」というもの、「戦争」の地獄に恐怖した。

*日本人は自己の「加害の歴史」に対する反省が弱い。「自虐史観」とか「非国民」と罵倒する精神風土が残念ながらある。開き直った最悪な態度である。人間としてそれでいいのか?良心に照らして恥じないのか。自国の加害性に向き合ってひとつひとつ謙虚に反省していくことが大切だ。
近代日本は今の韓国・北朝鮮や台湾を植民地にしていた。それは歴史上紛れもない事実である。そこで生まれ、いまだ未解決な問題に対しては謙虚に謝罪しなければならない。日本軍旧「慰安婦」への謝罪と償いが行われていない。オモニたちが高齢であり毎年亡くなっている。早い解決が待たれている。

土井敏邦 監督 「記憶と生きる」 (写真、安 世鴻 アン・セホン )

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映画は第一部 「分かち合いの家」。   124分
    第二部「姜徳景カン・ドクキョン」   91分

3時間半に及ぶ被害女性たちの証言のドキュメンタリーである。土井監督は1994年夏から97年1月までの2年余の韓国手材、6人のハルモ二の日常と証言を記録したが、2015年の現在6人全員この世にはいない。生きていれば90歳以上であるのだ。

『渋谷/アップリンクにて 7/4より初公開 「記憶と生きる」 7/4~10 ⑴10・45~14・40 ⑵12・50~16・46
                                    7/11~   10・30~14・25
  トークイベント  (1回目終了後)
7/4 (土) 北原みのり&土井監督 // 7/5(日) 高橋哲哉(哲学・東大教授)
7/6 (月) 池田恵理子(女たちの戦争と平和資料館館長) // 7/7(火)永田浩三(ジャーナリスト/武蔵大教授)
7/8 (水) 雨宮処凛 (作家・活動家) // 7/9(木) 根岸季衣(俳優) // 7/10 金 富子(キム・プジャ/外大教授)
7/12(日) 李政美(イ・ジョンミ・歌手) 7/14(火)金優綺(キム・ウギ在日朝鮮人人権協会)
7/16(木)大野聖良(ジェンダー研究) 7/18(土)梁澄子(ヤン・チンジャ・「慰安婦」問題解決)
7/19(日)纐纈あや(はなぶさ・映画監督)  7/23(木) 安世鴻(アン・セホン写真家)』

① 第1部 「分かち合いの家」 124分

第一部ではハルモ二たちが住む「ナヌムの家」(分かち合いの家)の近くに、土井監督がアパートを借り、そこから毎日通って、6人のハルモ二たちの生活や彼女たちの証言を記録した。
元「慰安婦」だった6人のハルモ二が「ナムルの家」で共同生活をしている。

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* 金順徳 (キム・スンドク)
第二部で登場する姜 徳景が実姉のように慕った金 順徳、「ナムルの家」一の働き者。「あの人は慰安婦だったから」と後ろ指をさされたくないからと、酒、たばこを嫌った。韓国では真面目な人を酒・たばこをやらないとよく形容する。
1921年、慶尚南道の貧しいタバコ農家に生まれた。タバコの葉をめぐるトラブルで父が警官の暴行が原因で亡くなると、一家は餓死寸前まで窮乏した。12歳の時、順徳は普州の銀行員の家で、女中として働き始めた。夕方、家事が終わると、夜中まで二キロ離れた所まで水汲みの過酷な労働の日々だった。
17歳の時、日本で働ける(お金が稼げる)という誘いに騙されて、釜山から船に乗って長崎の旅館へ連れられ、階級の高い軍人に強姦された。一週間募集された娘たちが毎晩あっちこっち連れて行かれて強姦された。それから中国の上海や南京で四年間、慰安婦生活を強いられた。

五十数年後、この時の体験を描いた金順徳の代表作の一つ<あの時あの場所で>
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軍人が横にいても怖かった。「星空の下、カーキ色の軍服を着た三人の兵士が立つ、その足元で全裸で顔を覆う白い肌の女性がうずくまる。」半世紀経っても金順徳の心から消えない「マイナスの原風景」である。

帰国後、周囲の薦めで鉄道省の役人の「妾」となり3人の子を生んだ。夫の死後、洗濯婦や病院の看護人など様々な仕事をして子供を育てた。元「慰安婦」であったことを誰にも言わずに隠してきた。そんな彼女を変えたのは91年、日本軍「慰安婦」であった過去を証言した金学順だった。「これまで、悔しく恨めしかったことを自分ひとりの胸に隠してきたが、それを見てからは夜も眠れないようになった」甥や姪に「申告」のことを相談すると、「叔母さんは気分が楽になるかもしれないが、(自分たちの)子どもたちが衝撃を受けるから申告しないで下さい」と反対した。テレビで日本政府の役人が「慰安婦たちは金が目的で戦場へ行った」と言ったので、抑えていた怒りがこみ上げ申告した。しかし子供たちへの影響が心配で眠れない夜を過ごした。
次男が「何故そんな重要なことを話してくれなかったのですか」と聞いてきたので、「いい話ではないし、母親にも言わなかったことだよ」息子は「でも、強制的にさせられたことで、当時の韓国人が日本の奴隷になっていたことは十分に理解できます」という。「もし私が相談したら、私が申告することも許したかい?」「「それによって歴史を立て直すことが出来たら、それこそ正しい事だと承知しています」しかし、私の前ではそう言ったけれど、息子はしばらく放心状態だったと後で嫁が言った。申告した後でも怒りで夜も眠れなかった。

 ≪日本軍に強制連行される朝鮮の少女≫
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* 李容女 (イ・ヨン二ョ)
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いつも酒が手放せない。飲むと荒れ、他のハルモニたちと言い争いになってしまう。
1926年、京幾道の貧しい農家に生まれた。16歳の時、働いていた飲み屋の女主人から「金がたくさん稼げるいいところがあるから」と誘われた。連れていかれたところはビルマのラングーンの慰安所。ビルマの山中を転々としながら「慰安婦」生活を強いられた。帰国後、孤独感を紛らわすために酒に溺れていった。17歳も年上の男の「妾」となったが、その男が亡くなると、又独り暮らしに戻った。胃の病気、アレルギー体質、激しい頭痛に襲われる。
「少し元気だった時、兵隊が列を作って入ってきて、1人の兵隊がベルトを締める間もなく、次の兵隊が入ってきた。処女として、、、下はすごく痛かったし、拒否したら殴られるし、、、私はね自暴自棄になって「勝手にしろ!」と死ぬ気でいたんだけれど、こんな話をここで話していても心臓がパクパクしてくる。

* 朴 玉蓮 (パク・オクリョン)
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1919年生まれの最年長。物静かな気品のある老女で他のハルモニから「お姉さん」と慕われた。23歳の時から5年間をラバウルの慰安所で過ごした。
⋞ 証言 ≫
「『病院へ行ったら洗濯したり看護するのだ』、と言われたのに全然違った。午前中は下っ端の兵隊、午後から下士官、夜は将校。女性たちがあちこちで泣いたりして、大騒ぎだった。お金でもくれたら金稼ぐ楽しみもあったが、お金なんて目にしたこともない。」

帰国後、故郷の村の公務員の男性の「妾」となって3人の子どもを生んだ。しかし本妻と2人の子を抱えて退職した夫に頼れず、ソウルで家政婦をしながら子どもを育てた。成長して地方都市で暮らす子どもたちには内緒で「ナムルの家」に来た。

* 孫 判任 (ソン・パン二ム)
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1928年生まれ、「ナムルの家」で暮らしはじめたのは姜徳景と同じまだ60代だった。17歳の時、家を訪ねてきた男に「<軍服工場>で働かなければない、天皇陛下の命令だ」と連れて行かれた先はラバウルで、待っていたのは「慰安婦生活」だった。
<証言>
「部屋で待ってろと言われた。次々と軍用ジープがやってきて、純真な生娘たちを、、、みんな15~16歳の娘を、、、口ではいえない。その時のことを考えると悔しくて病気になりそう。部隊長など『閣下』と呼ばれた階級が高く歳をとった人が部屋に入ってきた。生娘だから偉い人に最初に”食べさせよう”としたのです。

6年間の「慰安婦生活」の後、帰国した時両親はすでに死んでいた。兄弟の勧めで結婚したが、元「慰安婦」という過去を隠して夫婦生活を送ることへの良心の呵責に耐えられず、8年後家を飛び出して様々な仕事を転々とした。身体を壊し老人ホームに入った。まもなく子宮癌が見つかり摘出手術を受けたが、以後体調が悪く横になっていることが多い。

* 朴 頭理 (パク・トゥリ)
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耳が遠く、いつも脚の痛みを訴えている。気性が激しく怒ると激しい口論になってしまう。一方、機嫌がいい時は手拍子を打ちながら大声で歌を歌う。
1922年生まれ。日本の工場を紹介すると日本人に誘われ17歳で故郷を出た。しかし行った先が台湾で、1日中寝間着姿で過ごす「慰安婦」生活が6年続いた。
<証言>
日本に行ってお金を貯めて結婚するつもりでいた。「工場に入れてくれる」というからそのつもりでいた。ところが着いた先が台湾だった。しかも工場ではなく軍人を相手にする「慰安所」だった。当時の16歳は今の娘と違って本当に小さかっただんよ。幼いから言いなりにやるしかなかった。放り出されたら死ぬしかなかっただよ。一緒に来た人と毎日泣いた。
帰国後、故郷の近くの農家に嫁に行った。息子1人、娘2人生んだが、今も生きているのは娘1人。夫の死後、釜山に出て露天で野菜を売って生活していたが、70歳を過ぎて身体が弱り先行き不安な毎日を送っていたが、弟の勧めで元日本軍「慰安婦」として申告し「ナムルの家」に入った。日本政府に公式謝罪と国家賠償を求める「関釜裁判」の原告の1人。


(アリランを踊るハルモ二たち)
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*金をたくさん稼げる。日本で働ける。工場で働ける。看護の仕事につける。などの甘言に騙され、又脅迫・暴力などによって、「慰安婦」にさせられた。
*釜山に各地から集められ、南方のラバウルやラングーンに連れて行かれ「慰安婦」として兵隊の性の相手を強制された。
 
*ハルモ二は証言をしていて、慰安婦時代のことを思い出すと泣き出す。当時の辛いことを忘れていたのに思いだしてしまうからだ。
「兵隊が列を作って入ってきて、その時は本当に苦しかった。1人の兵隊がベルトを締める間もなく、次の兵隊が入ってきた。その時は本当に辛かった。処女として、、、下はすごく痛かったし、、、こんな話し、話していても心臓がパクパクして、精神的におかしくなりそう」
6人が6人とも同じような体験をしている。

*戦後生活してゆくのが大変だった。戦後の韓国社会は日本と同じように食べるのが大変だった。その苦労の数々。
又、元「慰安婦」だったことを隠して生きる苦悩。特に子供や夫に言えなかった。差別や蔑みの壁。
又、「慰安婦」をカミングアウトすることの苦悩。弟から子どもが結婚出来なくなるからやめて下さいと懇願された時の苦悩。

*土井監督が日本人の男性でありながらよくここまで聞き出したことに驚嘆した。ここでは加害者と被害者しか存在しないのか?
良い男性と悪い男性とに単純に分けて済む問題ではないのだ。先程の問題ー戦場における兵士は、家に帰れば「善き父・兄」であるという指摘になかなか明快な答えが見つからないからである。





  1. 2015/07/12(日) 18:50:00|
  2. 2015年『映画』
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『2015年映画』「姜徳景の壮絶なる生涯」(土井敏邦監督「記憶と生きる」第二部)7/10

『2015年映画』「記憶と生きる」第2部 「姜(カン) 徳景(ドクキョン)の壮絶なる生涯 」 
                               91分 (監督、土井敏邦  7/10 )
                     土井敏邦『記憶と生きるー元「慰安婦」姜徳景の生涯』を参考に。

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姜 徳景(カン・ドクキョン)
① 終戦まで
1929年、韓国・慶尚普州(チンジュ)の生まれ。普州・国民学校高等科1年の時(15歳)、「女子挺身隊」として日本に渡り富山の「不二越」という工場に入所したが、余りの重労働と空腹に耐えらず逃亡した。2回目の逃亡の時(45年の春・16歳)、「コバヤシ」という憲兵に捕まり強姦され「慰安所」に送られた。部隊のテントのような家で、コバヤシに何回も犯され他の軍人たちの相手をさせられた。山に連れ出され人数も分からない軍人たちに輪姦された。陰部がほてって痛く、まともな状態ではなかった。
部隊と共に移動し、長野県の松代大本営建設現場に行った。そこの慰安所に入れられた。

(「コバヤシ」と名乗った憲兵、本名も憲兵も不確実だが、その後慰安所にたびたび来て関係を持った。若きドクキョンは彼に複雑な愛・憎の意識を持ったようだ。亡くなった子どもについて、誰の子か不明にも拘らず「コバヤシ」の子と思い込むところがあった。土井監督の調査によると、こういう症状を「ストックホルム症候群」というそうだ。)
 *銀行強盗などで数日間人質になった被害者が、加害者に共鳴し同情的な感情を持つこと。

② 韓国に帰国して
1946年(17歳)、帰国直後に「慰安婦」時代に宿した子どもを出産。男の子だった。
儒教社会の韓国で子どもを持つ未婚の女は好奇と侮蔑の目でみられた。人からの勧めで釜山のカトリック孤児院に子どもを預けた。

「孤児院に子どもを渡す時、聖堂の中で子どもは嫌がって大騒ぎした。誰の子か分からないし、私も幼かったから預けた。ある日行ったら子どもがいない。修道女が『肺炎で亡くなった』という。狂人のように帰った。2ヶ月後こっそり行ってみたけれどやはりいなかった。私は今でも信じていない。それから私は堕落した。酒を飲み始めた、、、その子の顔を今でも思い出すのよ。『おっかさん‼離れたくない!』と言って大声で叫んだその子をね!顔も覚えている。その時の罰を今受けているのよ。」
その後の姜ドクキョンさんの50年余の人生にわたって苦しめ続けることになる。晩年ナムルの家で暮らすようになってからも、夢の中で赤ちゃんが「お母さん!」と叫んでいるので抱きしめると、赤ちゃんはどこかに消えてしまう。そんな夢をよく見た。
* 子どもはもしかしたら、海外へ養子に出されたのかと疑ったが、後の調査ではその頃は海外への里子はやっていなかったという、元教会関係者の証言。 
      
②  戦後の韓国を生きる 
<若い姜ドクキョン>
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終戦の1945年の時、姜徳景はまだ16歳だった。戦後の韓国社会は生きるに過酷な社会であった。子どもを失ったショックを忘れようと釜山市内の食堂で働き始めた。しかし、亡き子のことを思いだし、夜になると酒に溺れる日々であった。
1950年朝鮮戦争が始まると避難民がたくさん釜山に押し寄せてきた。彼女はある女性と食堂兼飲み屋を始め、店は繁盛した。店で知り合った学校の先生から「うちの食堂をやってくれないか」という話しがあり、2人でやることになった。釜山中から先生たちがやってきて店は繁盛した。客たちの目当てはドクキョンだった。

③  「慰安婦」を隠してー求婚を断って。 
飲み屋をやっていた頃、複数の男性から求婚される。しかし、彼女は頑なに求婚を断る。
一つは身体の不調=「慰安婦」体験からくる子宮の病気(子宮内膜炎)。男性を生理的に受付けない。「慰安婦」時代の悪しきイメージが性にかぶさってくる。
もう一つは必死に隠している日本時代の「慰安婦」体験のこと。元「慰安婦」であったことは必死に隠した。親兄弟にも、心許せる親友にもひたすら隠した。

1961年、朴正煕による軍事クーデター後、飲み屋の仕事が出来なくなった頃にドクキョンは自殺を図っている。発見が早く病院へ担ぎ込んで助かった。仕事が無くなったので生きてゆく自信が無くなったから。

米軍基地で自動車の運転を習い、ジープの運転手をする。米軍の教習所の米人教官や通訳をしていた韓国男性に求婚された。通訳の男は両親に会ってくれと言う。「昔、自分は子どもを生んだが、その子は死んだ」と正直に告白した。男は嘘だ!といって薬を見せながら「結婚してくれなければ、死ぬ」とドクキョンに迫った。本気だと思わず彼女が去った後に、男はホテルで服毒自殺をした。こういう事件は彼女の心の重圧となっていった。

④  隠された「同棲生活」                               
1965年頃(36歳)、ドクキョンは十幾つも年上の元大新聞社の役員をしていたインテリとソウルで同棲していた。二人の同棲生活はいわゆる「夫婦生活」では無く友だちみたいだったと、弟のビョンヒは言う。彼が亡くなる80年(51歳)頃まで十数年続いた。しかし、彼には「慰安婦」だったことは隠し続けた。心の拠り所だった彼の死は、ドクキョンを破れかぶれにした。酒を飲んで泣いてばかりいた。道端に寝転んで寝て、正気の沙汰ではなかった。

⑤  もう一つの「同棲生活」――ビニールハウス農園時代
80年にインテリさんが亡くなってから92年11月「ナムルの家」に移るまでドクキョンはビニールハウス農園を転々として働いた。50代の初老に差し掛かった年代、拠り所を失った彼女が一番荒れすさんだ日々だった。
ドクキョンの住民票に、農園の主と84年から2年間同棲していたという記述があった。弟の証言、「インテリさんが亡くなって間もない82年頃、農園主に酒をたくさん飲まされて強姦された」と姉に聞いた。ドクキョンが「ナムルの家」に行くまで4年間過ごした農園の女主人の証言からも、その年寄りはドクキョンの金を奪ったり殴ったりした。何故彼女はそんな男と同棲していたのか?真相は分からない。(このビニールハウスの男のことは土井監督たちには隠し続けた。)

(92年11月姜徳景、ソウルの「ナルムの家」に入所。)

(94年12月から97年まで土井敏邦監督の「ナムルの家」取材が行われた。)

95年ドクキョンは、土井監督と「ナムルの家」に暮らす二人のハルモ二を南揚州のビニールハウス農園へ案内した。
一面のビニールハウス、その中にコンクリート造りのポンプ小屋が現れた。彼女はその建物を指さして「この中で暮らしていたのよ」と言った。四面をコンクリートの壁で囲まれた部屋は、鍵が掛かっていて中は覗くことが出来なかった。隣のトタン屋根とベニヤ板の小屋が台所だったと彼女は言う。
「冬はとても寒くて、水も凍ってしまった。ご飯はあまり食べなかった。夜は昼間のご飯の冷えたのを食べた。寝ていて、布団に入っても手が外に出て凍えそうだった。誰もいない畑での一人暮らしが怖かった。寂しくて死にたいと思った」。       
<ビニールハウス農園の女主人の証言> タバコと酒をよく飲んだ。酔っぱらうと、道端に倒れて、顔に傷を負ったりした。飲むとよく泣いた。昔、子どもを死なせた話をよくした。 
           
(それから3年後、土井監督はNHKの取材班と共にこのビニールハウスを再訪した。)
住居跡の台所に入った。トタンの壁はあちこち破れ、外が覗けた。裸電球がぶら下がっていた。3畳ほどの広さ、流し台の下の戸には錆びた鍋とヤカンがあった。傍に中古の錆びた大きな冷蔵庫が放置されていた。土井監督は八年前まで暮らしていたドクキョンの生活の匂いがそのまま残っているような気がしたと言っている。
 
<姜徳景が一人で住んだポンプ小屋>
ポンプ

(筆者は、ビニールハウスとトタン屋根の小屋の映像が、姜徳景の孤独漂う生活を象徴している、と思った。他人に言えない「慰安婦」の傷を背負って、生き難い戦後の韓国を必死に生きて、老いて田園のうらぶれた小屋に唯一人住む暮らしは、余りにも寂しい。いろいろと想像すると、心も体も震えてきた。)

⑥1991年8月、元「慰安婦」 <金学順キム・ハクスンの告発>         
元日本軍「慰安婦」金学順が本名で初めて過去を公にした。これがきっかけとなり堰(せき)を切ったように韓国で元「慰安婦」が次々と名乗り出た。その年の12月には三人の元「慰安婦」が日本政府に謝罪と補償を求めて裁判に訴えている。しかし日本政府は国家や軍の関与を認めようとしなかった。韓国のテレビがそんな日本側の様子を伝えた。

テレビを見ていた姜徳景は自分も申告しようか迷っていたが、「あいつら(日本政府)が自分たちは関わっていない」と言ったので、《この野郎!》と思って申告する気になった。しかし、申告を決意するとき、肉親や親族たちの反応を考えないわけにはいかなかった。彼らが困惑し反対する懸念があった。
異父兄弟の末弟、姜鐘培(カン・チョンベ)の中学から大学までの学費をドクキョンが出してやり、彼は有名私立大学を出て一流企業に就職していた。今や一流企業の重役であり、有名な牧師の実妹を妻にしている。ドクキョンの告白に対して弟の妻・呉貞淑は
「どうか申告しないで下さい。恥ずかし過ぎます。子どもの結婚問題でも、結婚の相手方に大変なことが起こるからだめですよ。」と反対した。

しかし、姜徳景は元「慰安婦」であることを申告した。92年にソウル市内の「ナムルの家」に移った。やっと生活に追われることのない安住の地を得たのは60代の、後から見れば晩年になってからだった。           

* 「ナムルの家」(分かち合いの家)
支援者たちの運動で「ハルモ二の安住の場を作ろう」と始まったが、その後、日本軍「慰安婦」運動のシンボルとなっていった。ハルモ二たちは毎週の「水曜デモ」に参加する。

<ナムルの家のハルモ二たち>
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「ナムルの家」には92年当時7名の元「慰安婦」のハルモ二が共同生活をしていた。姜徳景もその一人となった。支援者や篤志家のカンパによって支えられて生活の心配がなくなったが、今まで一人で生きて来た気楽さは制限されるのが窮屈に感じる時もあった。戦後の韓国で様々な苦労をして生きてきたハルモ二たちが共同生活をする。いい点もあれば問題点もあった。だが、何より生活の苦労が無いのは一番だ。

⑦  絵画で訴える元「慰安婦」-姜徳景の美の栄光        5
姜徳景が絵を描き始めるきっかけとなったのは、93年2月「ナムルの家」で始まった絵画教室であった。美術大学の大学院生の李京信(イ・キョンシン)がボランティアとして参加した。
初めは「絵が好きになってくれればいい」と軽い気持ちだった。やがて、「自分たちの気持ちを表現できれば」という風に変わっていった。李さんの気持ちには、ハルモ二たちが「心の奥に押し隠してきた自分の過去を絵で証言する作業によって、胸にわだかまっていた“恨”(ハン)を晴らして、残された時間を生きていけるようにしたい、」という希望があった。
*「恨 ハン」
(朝鮮文化の思考様式のひとつ。感情的なしこり・痛恨・悲哀・無常観をさす。)

* <李京信の「絵画教室」>
⑴ 始めに、自分の身近にある自分の手やコップ、果物や野菜などの写生をした。ドクキョンが残したスケッチブックにはこの頃描いたデッサンがたくさん描き残されている。
⑵ 李さんが大学院の講義で学んだ「絵画療法」(絵を描くことで心の傷を癒していく)から、ハルモ二たちの心の癒しに役立てないかと考えた。ハルモ二たちが「過去の体験を絵の中に表現する」にはどうするか?李さんは「絵画療法」を実践する現場を訪ね歩き、どうやって描き手の感情を表現させることが出来るのかを研究した。時にはハルモ二たちを誘って「絵画療法」の現場を見てもらい、苦しかった体験や悲しかった思い出をどう絵で表現するかを共に考えた。
(抽象的な表現を使って、感情を表現することを初めにやった)
⑶ 姜ハルモ二のこと
彼女は絵を描くことに強い情熱を持っていた。絵の才能を持ち、特にデッサンが好きで、写実的な表現が上手でした。姜ハルモ二の写実的な絵はその後、心象表現、抽象的な表現へと変化し、さらにまた写実的な表現に戻っていき、最後はその中間とも言える半抽象的な絵になった。彼女の絵の特徴は、描くものに自分独自の意味を込めることだ。例えば、娘の霊魂が鳥の姿になり、恨みを晴らすとか、自分を梨にたとえるとか、カラスが口ばしにくわえるものにうれしい便りを象徴するといったふうに、自分なりの解釈をこめて描いた。
                
⑧ 姜徳景の絵 ―背負った”恨“を晴らして ―ー           6 
姜ドクキョンの生涯を追ってきて、最後に彼女の”恨“の昇華である絵に辿りついた。波乱万丈の人生の晩年を〝美”の王国で飾ろうとは!素晴らしい快挙でないか!
彼女しか描けない特異な絵である。姜ドクキョンは人生で体験した語り難い事・元「慰安婦」の体験を絵で表現した。彼女の心象にまざまざとこびり付いていたものは、ひとには語り難い事だったが、だが絵画として昇華させた。彼女が描く果物や花や鳥はことごとく何かの象徴である。作品で展開するすべてが何かの比喩である。

韓国の國花であったり、国土であったり、彼女の故郷であったり、
死んだ子どもだったり、幼き友であったり、自分だったり、
無惨に己を踏み躙った日本軍の兵士だったり、大砲や戦車だったり、
記憶にこびりついた「慰安所」の壁だったり、乗せられた船だったり、

姜徳景は『絵画で訴える元「慰安婦」』として反響を呼んだ。韓国や日本、アメリカで公開され評判になった。元「慰安婦」の心情が表現されていて人々の心を揺さぶったからである。

1997年2月2日、姜徳景は肺がんのために病死。享年68歳。

≪奪われた純潔≫ 

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満開の桜の花。その大木に化身した軍服姿の日本兵。コバヤシかも知れない。そのそばに横たわる裸の少女。顔を両手で覆っている。桜の木の根の下には沢山のしゃれこうべ。彼女の代表作である。他の誰でもない、カン・ドクキョンしか描けない世界である。

≪私たちのいた慰安所≫ 
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この建物は慰安所で庭の小さな花は鳳仙花だそうです。上の赤い大きな丸は日の丸で日本を象徴している。その中に描いた女性は姜さん自身だ。日の丸の鳥は祖国が解放された“たより”を運んできた。

≪梨をとる日本軍≫ 

梨をとる

姜さんの好きな果物・梨は彼女自身を表している。下のムクゲノの花は韓国の國花だから、祖国の国土を表している。その中から日本人の手が突き出て、梨をもぎ取っている。戦前の韓国、「慰安婦」にされた女性、鋭く構図化した見事な作品です。

≪ラバウルの慰安所≫

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 「ナムルの家」で一緒に暮らすハルモ二のラバウルでの様子を聞いて作品化したもの。後ろに描いている山は火山だそうです。左下の階段に「慰安所」に並んでいる日本兵たちの姿が描かれている。左に椰子の実、前の花は南洋の唐辛子だそうです。家の階段には疲れた「慰安婦」が座っている。

≪無題≫

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 故郷を想っている姜さん自身の姿。悲しさと寂しさを表現している。左の上の部分に、日本兵の手が女性を掴もうとしている。故郷を想う女性の上の部分に大きな鳥のような顔が、左の日本兵の手が大きな葉を掴もうとしている様子を監視している。ここでは忘れることが出来ない姜さんの”恨“が表現されている。過去の時間の流れを構図化して、姜さんの心を表現した。




  1. 2015/07/10(金) 22:00:00|
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