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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2015年映画』「ぼくもいくさに征くのだけれどー竹内浩三・戦時下の詩と生ー」6/30

『2015年映画』「ぼくもいくさに征くのだけれど」竹内浩三―戦時下の詩と生―」6/30
                             NHKアーカイブス2007年放送、再放送、2015.6.12  


緊急提言
安倍内閣は「安保関連法案」の成立をめざして、今国会を9月末まで会期を延長しました。60日ルールを使っても戦争法案を通そうという狙いです。60日ルールとは、衆院で通った法案が参院で通らなくても、60日過ぎると成立するというルールです。7月上旬に委員会強行採決、中旬衆院本会義採決、を狙っています。単独採決にしないため維新の一部を出席させて(反対しても可)強行突破しょうとしています。
この法案は①戦争が出来る国、②米軍と共に世界の紛争地域にどこへでも出かけて行って現場近くで協力支援活動をする。③自衛隊に任務遂行のために武器使用を認める。解釈改憲で強行しようとしています。明らかに憲法違反です。憲法審査会の全員が違憲だと批判しました。審査会の委員は政府与党から野党まで各党の推薦人が選ばれます。その全員が違憲だと述べたのです。
7月の第2週か3週が山場です。戦後70年憲法9条のおかげで戦争をしなくて済んだ日本、ベトナム戦争にもイラク戦争にも際どい場面がありましたが参加しないで済んだのです。これが通れば日本は軍隊を持ち、いつでも戦争が出来る国になります。
みなさん!戦争法案に反対しましょう!若人を戦場に送るな!
国会を取り巻いて下さい!反対集会に参加してください!

  2015.6.30      ジュリアンの夢


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「ぼくもいくさに往くのだけれど/ 征くのだけれどなんにもできず/ 蝶をとったり/ 子供とあそんだり/
うっかりしていて戦死するかしら/ そんなまぬけなぼくなので/ どうか人なみにいくさができますよう /
成田山に願かけた」

作者は竹内浩三、昭和20年4月フィリッピンで戦死した。享年23歳。

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NHKのアーカイブスの再放送で最近見た。こういう作品があったとは知らなかった。戦後遺族の方の尽力で本になり一部の人に読まれた。この詩は昭和17年7月、愛読していた萩原朔太郎詩集の余白に書かれていた。感んじたことを素直に歌いあげた、平易なわかりやすい表現で、ちょっと中原中也みたいな物悲しい世界である。戦時下・23年間の短い生涯、竹内は書きまくった。発表の予定とか誰かに読んでもらうとかに関係なく、ただ書きたいから、書かずにはいられないから、ひたすら書いた。

「麦」
失恋の歌だろうか? 麦の穂の匂いに去ったおなごの匂いを嗅ぎ、ひりひりした痛みを歌いあげる。戦時下にあってもみずみずしい感覚に充ちたことば、それはどこから生まれたのか?

「銭湯へゆく/ 麦畑をとおる/ オムレツ形の月/ 大きな暈(かさ)をきて/ ひとりぼっち/
熟れた麦/ 強くにおう/ かのおなごのにおい/ チイチイと胸に鳴く/
かのおなごは/ いってしまった/ あきらめておくれと/ いってしまった/
麦の穂を噛み噛み/ チイチイと胸に鳴く/」

放送では彼の短い生涯を追い、みずみずしい表現がどうして生まれたかを探っている。

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竹内浩三役の柄本佑が浩三の後輩にあたる日大芸術・映画科の2人の女子学生と、浩三の青春像を追う旅をする。同じ20歳の現代の若者が70年前の戦時下の若者の心をどう捉えたか。

竹内浩三は、大正10年、三重県宇治山田の大きな呉服屋の長男に生まれた。姉こうがいた。12歳の時母死去、18歳の時父死去、身内は姉こうと2人切りになる。姉は浩三の母親代わりの役割を果たす。

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宇治山田中学を卒業、上京して日大芸術・映画科に入る。東京での生活の一端を示す詩がある。

「金がきたら」(昭和15年9月)

「金がきたら/ ゲタを買おう/ そう人のゲタばかり かりてはいられまい/
金がきたら / 花ビンを買おう/ 部屋のソウジもして 気持よくしよう/ (略)
金がきたら/ レコード入れを買おう/ いつ踏んで わってしまうかわからない/
ボクは借金をはらわねばならない/ すると 又 なにもかもなくなる/
そしたら又借金をしょう/ そして本や映画やうどんやスシやバットに使おう/
金は天下のまわりもんじゃ/ 本がふえたから もう一つ本箱を買おうか /」

東京での浩三の生活がよく出ている。故郷からの仕送りで映画を見て本を読んでコーヒーを飲んで、友人と喋ったり詩を書いたりする文学青年の日常である。大正・昭和・戦後も落ち着いてから今まで、文学・芸術青年の東京の日常はこんなもんだった。この詩に対して「今の私たちと変わらぬ人みたいだ」「戦争に征かぬみたいだ」と現代の20歳の感想。芸術三昧の文学青年に戦争が襲いかかる。

しかし、当時の日本はいつ終わるとも知れない中国との戦争をしていた。若者は次から次へと戦地に送られていた。学生である浩三は芸術三昧の東京から、両親を亡くしてたった1人の身内の姉こう(松島こう)にひんぱんに手紙を書いた。手紙は日記の代わりや作品発表の場となった。最後にいつも金の無心で結ばれていた。又、よく失恋してその報告もあった。

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姉こう(89歳)さんを三重県の津に尋ねる。高齢を感じさせぬ品性の美しい女性である。
浩三は裕福な商家に生まれ、天文学が好きな父と映画が好きな母との間でのびのびと成長した。父は浩三が身の立つように経済的にも備えて彼の将来を計った。彼は生まれたまま大人になったような人間だったという。

宇治山田中学時代の親友2人(85歳)によると、「人をよく笑わす。まじめにやっていても笑わせてしまう。」「教練の先生も苦笑いしていた」「天真爛漫だった」

昭和16年10月、「専門学校生の繰り上げ卒業」が決まる。浩三たち芸術科の仲間は「もう あかんな」と思った。兵隊検査・召集令状までどの位の日があるのか?残された最後の青春の日々は?

12月8日、真珠湾攻撃・太平洋戦争始まる。浩三の心境が投影されている詩。

「冬に死す」(昭和17年2月)
「蛾が/ 静かに障子の桟からおちたよ/ 死んだんだね/
なにもしなかったぼくは/ こうして/ なにもせずに/ 死んでゆくよ/
ひとりで/ 生殖もしなかったの/ 寒くってね/
なんにもしたくなかったの/ 死んでゆくよ/ ひとりで/
なんにもしなかったから/ ひとは すぐぼくのことを/ 忘れてしまうだろう/
いいの ぼくは/ 死んでゆくよ/ ひとりで/ こごえた蛾みたいに/」

昭和17年5月伊勢に帰郷。徴兵検査のためであった。甲種合格、入営は5ヶ月後の10月1日と決まった。最後の青春の5ヶ月!
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(姉が強く言って撮った最後の家族記念写真。姉の子どもと共に)

浩三は友人たちと同人誌「伊勢文学」を創刊。2号(17年6月)に載った「鈍走記」に僅かに限られた生の叫びがある。

「鈍走記」 (一部)
「生まれてきたから/ 死ぬまで生きてやるのだ。/ ただそれだけだ。/
日本語は正確に発音しょう。 白ければシロイと。/
××(戦争)は ××(悪)の豪華版である。/ ××(戦争)しなくとも、 ××(建設)はできる。/ (略)
ちかごろはぼくの涙腺は、カランのやぶけた 水道みたいである。 ニュース映画を見ても、 だだもり。/ 
どこへ行っても人間がいて、 おれを嗤う。 おれは、 嗤われるのはいやだけども、 人間をすきだ。
おれは、 人間という宿命みたいなものをかついで 鈍走する。/ いみじくも この世に生まれたれば、 
われいみじくも 生きん。生あるかぎり、 ひたぶるに鈍走せん。」
* ×は伏字、戦争批判は赦されず、編集者が伏字にしたか?当局の指摘?-地方の学生の個人的な雑誌まで? 疑問だ?

それまでの芸術三昧から一転、戦争に征かなければならなくなった若者たちはどう思ったか?どうしたか?
当時の同級生はいう。「男子は皆兵役につくもんだと思っていた」「戦争で死ぬのが当たり前だと思っていた」「あきらめたわけではないが、皆死んでゆく」と。
姉のこうさんはいう。「軍隊に征くのは普通のこと。身内の者はなるべくならば後備の部署についてほしいと思っていましたが」

現代の若い3人はこの時の浩三を見て「何に対しても純粋に反応している」「あの戦争という強烈に人に影響を与えるもののなかで、自分の感性をあれだけ残せたというのが魅力です」「自分が変わらないでいれたのが気になる」
俳優柄本佑の言。「浩三にとって軍人は当たり前ではなかった。戦争によって強制させられる部分、埋めてゆく作業(誰でもやったわけですが)が多少見えてきた。どうやって、戦争を我が事として受け入れるか、どうやって、死ぬ心構えを作るか。

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「骨のうたう」 昭和17年8月
有名になった詩。「ひょんと死ぬ」という表現が面白く物悲しい。志の高い反戦詩である。浩三の魂がびんびん響いてくる。

「戦死やあはれ/ 兵隊の死ぬるや あわれ/ 遠い他国で ひょんと死ぬるや/
だまって だれもいないところで/ ひょんと死ぬるや/ ふるさとの風や/ こいびとの眼や/
ひょんと消ゆるや/ 国のため/ 大君のため/ 死んでしまうや/ その心や/
白い箱にて/ 故国をながめる/ 」

「音もなく/ なんにもなく/ 帰っては きましたけれど/
故国の人のよ そよそしさや/ 自分の事務や 女のみだしなみが大切で/
骨は骨/ 骨を愛する人もなし/ 骨は骨として/ 勲章をもらい/ 高く崇められ/
ほまれは高し/ なれど/ 骨はききたかった/ 絶大な愛情のひびきをききたかった/
がらがらどんどんと 事務と常識が流れ/ 故国は 発展にいそがしかった/
女は化粧にいそがしかった/ ああ戦死やあわれ/ 兵隊の死ぬるやあわれ/
こらえきれないさびしさや/ 國のため/大君のため/ 死んでしまうや/ その心や/」

入営の朝。
浩三部屋に籠ってレコードを聴いている。時間が来て姉のこうが呼びに来る。何度声を掛けても返事がない。部屋に入ると浩三うつむいてレコードを聴いている。再び呼び掛けると、浩三「姉さん、もうこんな音楽はこれから絶対に聞けないんだから、もう少しだけ、頼むから最終楽章まで聞かせてくれよ」
部屋の外で待っていると、レコードが終わり、戸が開いて「姉さん、征くよ」きりっとした声だった。このシーンで浩三が聴いていたチィコフスキーの「悲愴」の終楽章が、今までこんなに構成美と深い悲しみ溢れた曲だとは思っていなかったのでジーンときた。

昭和17年10月1日、陸軍二等兵として入営した。浩三の部隊の記念撮影。

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浩三は横を向いている。ある意思の表現ではないか!反軍とまでゆかなくても、軍隊に嫌悪感を示したのではないか!

「筑波日記」
筑波の部隊で訓練を受けている浩三から姉の所に小包が届く。前に送った宮沢賢治の作品集だった。中のくり抜きに手帳が入っていた。「筑波日記」だった。19年1月1日から書き綴った浩三の日記。夜、人目を忍んで便所で書き記した。
何をした、どう思った、日常を描いた。(毎日忙しい訓練、抜き打ちの身体検査、兵がこうした日記を書くのは容易ではない)

「この日記を大事にしょうと思う。書くために支障がきた。それほど暇がない。しかし、この日記をおろそかにすまい。
こんなものしか書けない。情けない。心の余裕が欲しい。」
浩三は戦争の中に生きている理由を探す。自分がしてきた戦争を自分の言葉で書きたい。それだけが生きている理由になった。

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「筑波日記」の6月8日に、遺言みたいに、、、

「ぼくのねがいは戦争へ行くこと/ ぼくのねがいは戦争をかくこと/
戦争をえがくこと/ ぼくが見て、ぼくの手で/ 戦争をかきたい/
そのためなら、銃身の重みが、ケイ骨をくだくまで 歩みもしようし、
死ぬることすらさえ、いといはせぬ。 一片の紙と エンピツをあたえよ。/
ぼくは、ぼくの手で、/ 戦争を、ぼくの戦争が かきたい。」

「筑波日記」合計2冊 送られてきた。姉のこうさんは宝物のように大切に保管した。

浩三が書き記したものの中で最後の方の詩である。「ぼくの見た、ぼくの戦争を書きたい」といっている。戦争の地獄絵をどのように書いただろうか?

竹内浩三は昭和20年4月9日フィリッピンで玉砕した。享年23歳。姉のもとには一枚の戦死通知書だけが送られてきた。遺品は何も無かった。。




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  1. 2015/06/30(火) 13:00:30|
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『2015年映画』「涙するまで、生きる」(監督D・オールホッフェン,演V・モーテンセン)6/24

『2015年映画』「涙するまで、生きる」(原作アルベール・カミュ、監督ダビド.オールホッフェン、
                        出演、ヴィゴ・モーテンセン、レダ・カテブ  6/24

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アルベ―ル・カミュの短編小説「客」(「転落・追放と王国」所収)の映画化。表題の「涙するまで」は「涙が出るくらい、生きよう」の意味だそうだ。

カミュは(1913~1960)フランス戦中・戦後の作家でサルトルと同時代の人。「異邦人」「ペスト」などが代表作で1957年ノーベル賞に輝く。仏領アルジェリアにフランス人入植者の家に生まれ育った。60年前の時代性・意識の現代化をどの様に図るか?を注目していたが、監督ダビド・オールホッフェンは現代のアルジェリア世界の、また現代人の生と死の問題として蘇らせた。

1830年~1962年の仏領時代を除いてアルジェリアはアフリカ・アラブ社会の一員であり、現在イスラム教社会主義国である。ただ、132年という長きに渡った植民地時代に、フランスを中心とする入植者(コロン)が100万人・2代3代と続き、900万人の先住民族アラブ人を支配した。カミュの意識に内在的にアラブ人が捉えられず、監督のオールホッフェンはどのように現代化したか?

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アルジェリアの荒涼とした岩だらけの高原の中腹に小学校がある。元フランス軍人ダリュ(V・モーテンセン)が現地の子どもたちに勉強を教えている。歴史や地理などである。ある朝、旧知の老憲兵バルドゥッチが縄で縛ったアラブ人モハメッド(レダ・カテブ)を連れて来て、「この男をタンギーまで送り届けろ。手がないので命令だ。」と言って無理やりアラブ人を置いて行ってしまう。
一族の争いで従兄を殺したという。ダリュは縄を解いて食事を与え「自由だ。何処へでも行っていい。」と本人を解放するが、朝になっても出ていかず「フランスの裁判を受けたいので連れて欲しい」という。逃げても殺されるし、もし、一族の者に殺されると幼い弟が復讐しなければならない。殺し合いの連鎖を避けるためには自分がフランスの裁判で処刑された方がいいという。モハメッドは死を覚悟した人間なのだ。案の定、一族のアラブ人が襲撃してきたのでダリュは銃で威嚇して追い払う。ダリュとモハメッドのロードムービーが始まる。

家畜を殺したアラブ人を追ってフランス人(コロン)の一団がやってくる。モハメッドを追う一族のアラブ人の襲撃危険が迫る中、2人の逃走は続く。
1954年、アルジェリアでは対フランス独立戦争が始まった。独立を目指す反乱軍の部隊に2人は捉えられてしまった。反乱軍にはダリュの元同僚・旧フランス軍将校がいて反乱軍に参加しないかと誘う。しかし、フランス政府軍と戦って反乱軍は壊滅、2人は又自由になりタンジールに向かって旅は続く。

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旅の過程で共に危険を乗り越える内に2人の間に友情も芽生えた。モハメッドはイスラムの戒律と部族の掟の中にいる。白人であるダリュにとってモハメッドを縛るものが不可解だ。又、「俺は女を知らない」という。ダリュは死を観念している男に、まだ知らない人生の喜びを与えたい、生きて欲しいと思うのだ。
旅の途中で小さな酒場に寄る。酒場の女主人はダリュの幼馴染(アンヘラ・モリ―ナ)だった。ダリュは彼女に、モハメッドに女を世話してくれと頼む。

戦闘での死者が道端に何十となく並んでいる前で「お前は生きている!それを喜べ」「生きろ!」と改めてモハメッドに言うダリュ。
分かれ道で、「左を行くとタンギーだが右に行くと砂漠だ。そこで遊牧民に迎えられるだろう。遊牧民は頼って来る者を拒まないからだ。」「お前は自由だ、生きろ!」とモハメッドを励ますダリュ。

モハメッドはどうしただろうか?
ダリュの「お前は自由だ、生きろ!」のシーンは魂を鷲掴みされるような感じだ。

ダリュは元フランス軍の中佐だ。何故砂漠の高原に1人孤独に小学校の教師をしているか?バックにアルジェリア戦争がある。政府軍に加担したくないし、反乱軍にも参加しない。僻地で現地の子どもに勉強を教えるところに、カミュの立場を示している。コロン出身である彼にとって、フランスとアルジェリアが戦争をすることは困るのだ。仲良くしてもらいたいと願っていた。当時世界の植民地で民族独立運動が起こっていた。インドシナ4国、チュニジア、モロッコ、そしてアルジェリアである。アルジェリアでは100万のコロンの存在が他の植民地と問題を異にしていた。フランス世論も軍隊内部もアルジェリアでも割れた。カミュのフランス人とアラブ人の共存説は現実には「甘い考え」として孤立していく。コロン(入植者)の立場上、抑圧されているアラブ人を深く洞察出来ず、沈黙してゆかざるを得なかった。

監督、ダビド・オールホッフェン
1968年フランスに生まれる。1966年短編「Le Mur」で監督デビュー。セザルー賞にノミネートされる。本作はヴェネツィア国際、トロント国際に出品。

ヴィゴ・モーテンセン
1958年、米国ニューヨーク・マンハッタン出身の俳優・詩人・写真家。
「ロード・オブ・ザ・リング」で世界的名声を得る。2007年、「イースタン・プロミス」でアカデミ主演男優賞にノミネート。

レダ・カテブ
1977年、アルジェリア系移民の俳優の子として、パリ近郊で生まれる。少年時代から舞台に立ち様々な舞台を経験する。「愛についての面会日」で注目され、
12年に「黒いスーツを着た男」で主人公の友人役を好演。個性的な容貌と高い演技力で評価されている。



  1. 2015/06/24(水) 21:55:26|
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『2015年映画』「追憶と、踊りながら」(出演ベン・ウィショー。チェン・ペイペイ) 6/17

『2015年映画』「追憶と、踊りながら」(監督・脚本ホン・カウ出演ベン・ウィショー。チェン・ペイペイ
                   アンドリュー・レオン。モーバン・クリスティナオミ・クリスティ。) 6/17


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李(り)香蘭(こうらん)の歌う「夜来(イエライ)香(シャン)」が流れ、洗練された壁紙の部屋で暮らすジュン(チェン・ペイペイ)は1人息子のカイ(アンドリュー・レオン)と話している。そこへ職員が電球の交換に来たところで、息子は消える。表情が変わるジュン。最愛の息子はもういないのだ。洒落た幻想的な映像である。
ロンドンの介護ホームでひとり暮らすカンボジア系中国人のジュンは大切な一人息子を交通事故で亡くした。英語が出来ないのにロンドンで孤独の日々を送らなければならない。息子の友人のリチャード(ベン・ウィショー)が訪ねて来ては彼女を労(いた)わる。しかし、ジュンはリチャードを毛嫌いしていた。実は息子のカイはゲイで恋人のリチャードを深く愛して同棲していたのだ。

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息子は母親に告白出来ずに悩んでいたが、カミングアウトしないまま死んでしまった。母親は何も知らないままひとり取り残された。

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映画では2組のカップルの愛が描かれていく。
母親のジュンはホームで知り合った英国人のアラン(ピーター・ボウルズ)から交際を申し込まれる。ジュンが英語を話せないためにリチャードはジュンに通訳を雇う。母親はそういうリチャードが何か企んでいるのかと疑う。
もう一組はリチャードと息子カイとの同性愛だ。カイとの生前の愛がカットバックされる。

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リチャードを演じたベン・ウィショーがいい。繊細な感覚と優しい心根の青年を演じる。秘めた感情を何層も持っている複雑さを表している――ゲイもそのひとつ――。ウィショーは英国で人気のトップスターらしいが夢を見ているような表情、不思議な魅力を持つ俳優だ。映画の主題は?「追憶と、~」とあるように執拗にカットバックされる過去の息子カイとリチャードの愛(同性愛)だ。演じるウィショーの魅力だ。だが、もうひとつ、母親を演じる老女ペイペイの表情に表現される、遠いアジアから流れて来た(内乱と政変の歴史)、多難の個人史を背負って生き抜いてきた、年輪が刻まれていることを忘れてはなるまい。

カンボジア内戦の時、カンボジア人は多く殺された。国外に亡命した人もいた。ヨーロッパに亡命したカンボジア人の中には両親がそれぞれ中国系や西欧系やカンボジア系と血筋が違い、言語が広東語か英語かクメール語か、文化が中国系かカンボジア系かヨーロッパ系か、と多彩に分かれる。春に取り上げた優れたビジュアル作家「フィオナ・タン」を想い出して頂きたい。中国系インドネシア人の父とオーストラリア人の母の間に生まれ、インドネシアの反中国暴動の時オーストラリアに亡命し、現在オランダ在住で世界を股にかけて活躍している。

中国系(華僑)が、特に資産家に多い。そしてこの映画で母親が英語を話せないとか、「夜来香」の曲が流れるとたちまち懐かしさに聞き惚れる、と言う風に言語・文化・世代・家の血筋がそれぞれ多様で、それらを超えて人は愛せるかがテーマだ。しかも一番の問題は「性の問題」-性的少数者つまり同性愛への肯定なのだ。
母親のジュンが「同性愛」を受け入れるか?言語や文化、世代の違いを超えて性的少数者を受け入れるか?頑なに心を閉ざしている彼女にゲイのベン・ウィショーが分かち合おうと試みる。
母親役の鄭(チェン)佩佩(ペイペイ)は私は不明だったが、往年の・60年代武侠映画の大スターだそうだ。人生の数々の困難を乗り越え、希望と諦念の間を行き来する老女を演じている。映画はジュンと英国人のアラン、ジュンとウィショーのリチャード、リチャードと通訳のクリスティのダンスの幻想風のシーンが行末を暗示しているように思える。

ベン・ウィショーは同性結婚をしている事を発表した。「私の少女」に続く性的少数者の問題の映画である。現代的な問題だろうと思った。正直言って問題の内側に入って分かり合えるまでいかなかった。今後の課題だ。

監督のホン・カウは中国系英国人で、幼くして内乱のカンボジアを去り、ロンドンで活躍している。監督自身のルーツがかなり反映している。



  1. 2015/06/17(水) 10:36:04|
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『美術/音楽/舞台/読書』 「庄司紗矢香& J・カシオ―リ デュオリサイタル」(サントリーホール6/9)6/12

『美術/音楽/舞台/読書』 「庄司紗矢香&J・カシオ―リ」デュオリサイタル
                                 (サントリーホール6/9) 6/12

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久し振りの音楽会。満員のサントリーホール。良質のワインを飲んでいるような満たされた気分だ。

* 演奏曲目
モーツァルト    :   ヴァイオリン・ソナタ 第35番ト長調K、379
ベートーヴェン   :   ヴァイオリン・ソナタ 第6番 イ長調作品30-1
ストラヴィンスキー :   イタリア組曲
ラヴェル       :    ヴァイオリン・ソナタ ト長調

選曲が決して派手と言えず玄人好みなのか?有名な曲を避けている?モーツァルトのK379(35番)にしても、ベートーヴェンの6番にしても演奏会で聴くのは始めてだ。何故これらの曲を選んだか?

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庄司さんによれば、35番の2楽章とベートーヴェンの6番の3楽章とが同じヴァリエーション形式だと言う。ベートーヴェンがモーツァルトにすり寄ったというべきか、、、ヴァイオリンとピアノが協調して創り出す調べは夢の世界に我々を誘うのだが、、、

K.379は哀調帯びたモーツァルト独特な調べだ。有名な評言ー「哀しみが乱れ飛ぶ」ーのメロディだ。ヴァイオリンとピアノが交互に或いは競うように演奏されて夢の世界に誘う。2楽章がとても素晴らしい。

ところで、ヴァイオリンとピアノは仲が良い楽器だろうか? 相性の良い楽器だろうか?
常々ヴァイオリン・ソナタやピアノ三重奏曲のように複数の楽器で演奏する曲の場合、そのあたりはどうなっているのか?
ラヴェルの「ヴァイオリン・ソナタ」はそのことに格好の回答を用意してくれたように思えた。ヴァイオリンの調べをピアノが壊すような役割を果たす。またその逆の場合も、暫く互いに自己を主張しあっていたが、2楽章でジャズ風のもの憂げなメロディを挟み、透明度の高い響きが生み出され、終章に向かって高らかな調和の調べとなっていく。2つの相反する楽器の相克と調和を見せてくれたのだ。

* アンコール曲
シュニトケ  「祝典ロンド」
シルベストロフ  「ポスト・スクリプトゥム」より2楽章
アンコールがアンコールを超えて本曲のようだから凄いことになった。シュニトケが凄い。彼は旧ソ連時代のドイツ・ユダヤ系作曲家だが、彼の曲を再認識させてくれた。ソ連からの亡命音楽家ギドン・クレメールによって、現代ロシアの代表的な作曲家として紹介された。とにかくアンコールでの庄司さんは凄かった。熱演である。圧倒された。

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『庄司紗矢香』(1983年東京都生まれ)
画家の母親に連れられて3歳の時イタリアのシエナに住み、キジアーナ音楽院で演奏を聴いたのがヴァイオリンをやる切っ掛けになった。東京に帰って小学校に入り、94年小6の時全日本学生音楽コンクール・ヴァイオリンの部で優勝。
95年キジアーナ音楽院に留学、とんとん拍子に進んで、98年ケルン音楽院でザハール・ブロンに師事する。99年パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで史上最年少かつ日本人初の優勝を遂げた。04年ケルン大学を卒業、現在パリ在住。現在までズービン・メータを始め世界的な指揮者との共演は数知れない。

シエナに子どもの頃住んでいたと聞いて親近感を持った。私自身何回かのイタリア旅行でシエナに格別の愛着を持ちカンポ広場は夢の楽園だから。シエナは美術の王国だがキジア―ナ音楽院はクラシック音楽界の名門。夏季マスタークラスにはクラシック音楽界の超有名音楽家が講師を務め、世界のクラシックの若者が勉強しに集う。彼女が少女いや児童の時、そこで演奏会を聴きヴァイオリンをやりたいと思い、中学生になって留学して入学したのだから凄い。少女の夢をかなえたのだから言葉が出ない。
 
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庄司さんについてもうひとつ。
美術が好きだということ。美術館めぐりをするらしいし、自分でも油絵を描くらしい。パリに住んだのも美的環境を考慮してのことらしい。初めて彼女の演奏会に行った頃、どこかの記事に彼女が好きな画家として「ド・スタール」をあげていたのに降参したのだ。
ド・スタールはロシアの亡命貴族の末裔・フランスで画家として大成。具象とも抽象ともつかぬ、音楽会の演奏する風景、海辺や舟の風景、鮮やかな青の海の色や空を描いた。最後は自死。彼が捉えた世界は鮮やかな青や赤の色彩世界として残っている。日本に作品が無いかのように、美術館でも書店でも画集も見かけない。
近代文学も、ドストエフスキーとか、、、誉めすぎと言われそうだが、こういう人もいるのである。彼女の演奏を聴いていると、西欧の本流の音楽を身に着けた人、西欧文化や音楽に対する深い構えのある人だと思い敬愛の念を強く持った。


  1. 2015/06/12(金) 17:04:53|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
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『美術/音楽/舞台/読書』「底辺の競争ーヨーロッパ労働市場の現実」(5/21放送)6/8

『美術/音楽/舞台/読書』「底辺の競争―ヨーロッパ労働市場の現実」(5/21放送)6/8


『 緊急!!
今国会で山場を迎えている【派遣法改正案】は大変なものです!』
 『 生涯派遣です。正社員の道はありません。 』
 『 同じ職場の派遣期間は3年なので、3年毎にクビの心配! 』
 『  企業は目先の安上がり労働を求めるだろうが、国際競争力に勝てる質の高い労働力は正社員に決まっている。労働現場か   ら正社員がいなくなる。日本の資本主義の敗北でもあるんだよ!』
 『  こんな大事なことを数の暴力で押し切ろうとしている。一体どうなっているんだ! 』


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「サンドラの週末」では労働組合もない20名足らずの小企業で、個人の闘いが描かれている。EU-ドイツやフランスの労働現場はどうなっているのか?大手と中小、正規と非正規はどうなっているのか?探し方悪いのか資料がないので考えあぐねていた。
ところが最近、深夜放送で「ヨーロッパの労働市場」でおきているショックなドキュメンタリーを見た。日本でも同じことがおきているという。
問題意識に直接答えるものではないが、ヨーロッパ労働市場の未来を予測する資料として考えさせられた。(日本においても?)

その前にヨーロッパ労働市場の最低賃金を調べてみた。(グーグルによる)
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ユーロ140円として、月収の最低賃金
ドイツ・フランス・オランダ・英国 = 1500€ = 21万円
スペイン・ギリシャ        =750~800 = 11万2千円
ポーランド・チェコ・ルーマニア =250~400 = 3万5千円~5万6千円
日本                  = 12.48  = 17万5千円     

* 独・英・仏など強大国の 21万と比べて ポーランド等の東欧が 3.5~5.6万、国の貧富の格差が歴然とある。其々の歴史的事情があるとしても、、、しかも東欧やスペインには仕事がない。同じEU内部で仕事を求めて、よりよい収入を求めて移動する。 
そこに付け入ったのが悪徳派遣業者だ。

EU労働市場で暗躍する悪徳の派遣業者。あらゆる手口で、出稼ぎ労働者を食い物にしているブローカー企業が描かれている。賃金不払い、労災の欠如、脱税―悪質な派遣業者の姿が明らかになる。
EU畿内のドイツやデンマーク等の企業に、ポーランド、チェコなどの東欧やポルトガルから大量の労働者を派遣する業者がいる。次の様な問題が派生している。
①  仲介に立つ派遣業者は安価の賃金で東欧やポルトガルから労働者を雇い西側(ドイツ)に派遣する。派遣先の劣悪な労働環境で起きた労働災害(多く派生している)について西側企業も派遣業者もその医療や厚生を請け負わず、全て個人の責任・国元に帰され借金として残る。ポーランドの労働者は国に仕事がないためドイツに派遣されたが工場で怪我をして国に帰された。医療費が借金として本人に残り完治しない体を抱えて、何のために働きに行ったのか悔やむ。
②  ドイツよりはるかに安価の派遣労働者はドイツ住民の仕事を奪ってゆく。企業にとって安い人件費は企業を潤し、斡旋した派遣業者は莫大な利益を上げる。このような人材派遣はEU全体の賃金の下落の要因になっている。そして右翼の移民排斥の宣伝の口実になっている。
③ EUという政治的な枠組みは、ヨーロッパ全体の「統合市場」と「自由競争」の徹底である。労働力も過酷な自由競争に晒され果てしなき「底辺への競争」に駆り立てる。

派遣業者への反対のデモ
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④  悪質な派遣業者の行方をポルトガルの新聞社の記者が追った。業者の住所は転々として行方を掴めず、電話だけの間借りの状態・詐欺の実態が明らかになる。業者は多くの被害を受けた派遣労働者から訴えられて裁判にかけられた。この悪徳業者はヨーロッパ中を逃げ回っていた。
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日本でもブラック企業が話題になっている。
20世紀に確立した資本制社会の構造はどうなっていくのか?

(この時、ヨーロッパ及び日米の資本制において、今の労働市場が変わるのではないかと想像した。安価の労働力を求めて資本が動いていくとき、正規労働は高くつくし、退職金・年金・健康保険、、、高価値の労働力だ。安価の労働力だけを求める資本制だったら余計なものと捉えるだろう。)
(だが、高度の付加価値の商品でないと国際競争に勝てない現代資本制なのだから、違った展開があるのではないか、と考えたりと議論は巡っていく)

正規・非正規又は臨時の季節労働者を雇う体制、正規を瓦解させて果たして社会が成り立つのか?高度の頭脳と安定した生活を保障した労働力なしに真の国際競争に勝てないのではないか?安い賃金だけを追い求める企業は衰退するのではないか。
積み重ねた賃金体系や年金や退職金。決して短くない時間をかけて作りあげたものだ。それを瓦解させたら社会は平穏でいられるか?人々は黙っているだろうか?
今、現場では何が起きているのか? 資本主義はどこへゆくのか?





  1. 2015/06/08(月) 11:06:16|
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『2015年映画』 「サンドラの週末」(監督ダルデンヌ兄弟、主演マリオン・コティヤール)6/4

『2015年映画』「サンドラの週末」(監督・脚本ダルデンヌ兄弟。出演、サンドラ
                     (マリオン・コティヤール
                     マニュ(ファブリツィオ・ロンジョ―ネ  6/4

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ベルギーのダルデンヌ兄弟監督の作品といえば「少年と自転車」がまず浮かぶ。父親に捨てられた少年と里親となった美容師の中年の女性との交流を描いた映画だ。

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監督の兄が1951年生まれだからヨーロッパ映画界では長老。「ロゼッタ」99「息子のまなざし」02「ある子供」05「ロルナの祈り」08「少年と自転車」11とカンヌ映画祭で出品5回連続入賞に輝いている。そして今回14年の「サンドラの週末」だ。

体調不良で休職していたが、復職しょうとしたサンドラ(コティヤール)は、上司から職員のボーナス支給のために解雇すると通告される。ソーラーパネルの会社でアジア勢に押されて経営も楽でなく、人件費に余裕がないという。

親しい同僚の取り成しで、サンドラの復職かボーナスかを投票で決めることになった。16人の同僚の内、過半数が賛否を決める。月曜日の投票までの土日の2日間、夫マニュ(F・ロンジォーネ)や親しい同僚に支えられながら、サンドラは同僚たちの説得に回る。

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リストラを宣告される女性を演じるのはマリオン・コティヤール。アカデミー主演女優賞(エディット・ピアフ、愛の讃歌)07に輝く大スターだが、繊細な神経を持ち、強さと弱さと心の機微に通じた女性を演じる。傷つき泣きながら、何度も挫けそうになりながら、鎮痛剤を飲み飲み夫や良き友人に助けられて果敢に闘う。

ダルデンヌ兄弟監督は作品において現代ヨーロッパ社会の問題点に常に視点を向けてきた。移民、育児放棄、偽装結婚による移民、罪と罰――人と人とのつながりとは何か。現代社会の根底に何があるかを常に問うてきた。この「サンドラの週末」では「リストラ」である。21世紀のヨーロッパは深刻化した経済危機で「連帯」を押しのけて「競争」や「個人主義」が幅を利かしている。主人公が「リストラ」に抗して、同僚たちを説得して回る2日1夜の行動を通して、見えてきたものは何だったのか?

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同僚たち皆生活はギリギリであり、中には隠れて休日にバイトをしていたり、妻が失業してボーナスがどうしても必要だったりする。この町には他に仕事もないので転職の可能性はない。アフリカ系の期間契約社員は次の契約時に不利になることを恐れていた。

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或る者はサンドラを裏切って罪悪感をもっていた。又、家族とサンドラとの間に挟まれ悩んでいた。また、サンドラを支持する者もいた。

さて、月曜日の投票の結果は?

2日と1夜,サンドラのギリギリの闘いを見るわけだが、人間の尊厳が尊いということを感じた。人間が生きてゆくためには何が必要か?相手にはそれぞれ苦しい事情があり恨むことは出来ない。これはサンドラの品格の高さだ。彼女は傷つき怯み闘った。人間の醜さ温かさ弱さ強さを見た。人が生きるためには仲間が必要であり、愛情も労働も、かけがえのない家族も大切なんだと作品は訴えているように思える。彼女は自分の為にアフリカ系の契約社員の雇用を踏みにじることなど論外だという。サンドラに凛とした人間の尊厳と清清しさを感じた。

ダルデンヌ監督は音楽を音響効果として使わぬことで有名だ。2日と1夜の道中、ロックの「グロリア」が車中のラジオから大音響でかかる。何と心が浮き立ったことか!







  1. 2015/06/04(木) 09:30:57|
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