FC2ブログ

私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『美術/音楽/舞台/読書』「吉川隆弘ピアノリサイタル」(ムジカーサ3/27) 3/31

『美術/音楽/舞台/読書』「吉川隆弘ピアノ・リサイタル」(MUSICASA3/27)3/31

久しぶりにピアノのコンサートに行った。イタリア・ミラノスカラ座のソリストとして出発した吉川隆弘さん。まだ若くこれからの音楽家だ。代々木上原の小さいけれど素敵なホール、快い一夜であった。

DSC_5391.jpg


「幻想」
* ベートーヴェン
ピアノソナタ第13番、変ホ長調27-1「幻想風ソナタ」
ピアノソナタ第14番、嬰ハ短調27-2 (月光)

* F・ショパン
幻想曲 ㇸ短調 49
ノクターン 15番 ㇸ短調  55-1
ノクターン 16番 変ホ短調 55-2
幻想ポロネーズ 変イ長調  61
(アンコール1曲目、不明。2曲目、ショパン・エチュード23「木枯らし」)

01年からイタリアの国際コンクールで4回も優勝し、06年・ミラノスカラ座でソリストとして出演し評価が高まる。NHK-FM「名曲リサイタル」、「ベスト・オブ・クラシック」「クラシック倶楽部」に出演。ミラノを拠点にヨーロッパ、日本でソロ、室内楽で活躍。日本では毎年関西と東京でリサイタルを開いている。
西宮の出身で声楽家の両親の下で小学校からピアノを習い、芸大大学院修士終了、99年渡伊ミラノスカラ座アカデミーで3年間学ぶ。A・ポリーニ女史というコルトーやミケランジェロの高弟に学ぶ。いわば吉川さんは理想の家庭に生まれ理想の道を順調に歩んできたとみえる。

若さ・爽やかさ・エネルギッシュ・フレッシュ、、、というようなものを感じた。久しぶりの演奏会です。適度の緊張感と元気をもらった。いつも家でCDを聴いていると緊張感がないので、自分勝手な世界に没入してダメですね。吉川さんは正統派の勉強をしてきたみたいで音の正確さ・強弱など素晴らしい。久しぶりに若いこれからの演奏を聞いた。ありがとう!

ベートーヴェンの「幻想風ソナタ」13は解説によると難曲だそうだが、譜面から読み取れる曲想をうまく捕まえていた。
14「月光」は有名な曲なので聴きやすく、曲の世界にすんなりと入って行けた。

ショパンの幻想曲は出だしのメロディーが好きだ。幻想ポロネーズも難曲であるが、ポロネーズはショパンがジョルジュ・サンドと別れ・破局の時の曲で痛々しい曲と言われている。重くるしくうねるような救いのない曲だったか、と一瞬思った。
ノクターンは好きで、本日は演目に入っていないが、「遺作」は涙が出て来る。

吉川さんは何故イタリアなんですか?ドイツやオーストリアかフランスではないんですか?恩師のA・ポリーニ先生がミケランジェロの高弟だからですか?

DSC_5394.jpg




スポンサーサイト
  1. 2015/03/31(火) 07:00:00|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2015年映画』 「パリよ、永遠に」(監督F・シュレンドルフ。出演A・デュソリエ。N・アレストリュプ)3/30

『2015年映画』「パリよ、永遠に」(監督F・シュレンドルフ。原案シリル・ジェリー
                     出演A・デュソリエ。N・アレストリュプ 3/30

「ブリキの太鼓」の名匠F・シュレンドルフ監督がメガホンをとった。前作「シャトーブリアンからの手紙」と同様、「仏独の和解」が隠れたテーマになっている。監督がドイツ人で(意識は反ナチス)でありながら、「仏独の和解」に拘る姿勢に敬意を感じる。私たちも隣国の朝鮮半島や中国に対して同じ位置にいると思うからだ。

DSC_5402.jpg

私は昔見た映画「パリは燃えているか」(監督ルネ・クレマン66年)を微かに覚えている。ヒトラーが「パリは燃えているか」と執拗にパリ破壊の催促の電話を掛けてくる。パリを火の海にすることに躊躇う独軍パリ防衛司令官の苦悩と躊躇が描かれ、俳優もオールキャストの映画だったと記憶する。
* 「パリは燃えているか」(連合軍の将軍や兵士に、カーク・ダグラス。グレン・フォード。イヴ・モンタン。ジャンポール・ヴェルモント。スゥーデン総領事ノルドリンクにオーソン・ウエルズ。ドイツ総司令官にゲルト・フレーベ。カフェの女主人にシモーヌ・シニョーレ)


第2次大戦末期、ナチス・ドイツ占領下のパリ。パリの象徴であるエッフェル塔、ノートルダム寺院、オペラ座、ルーブル美術館、セーヌ川、世界に誇るべき美しき街並みと街路樹等は爆破される運命にあった。フランスで大ヒットした演劇、フランス人には有名なエピソードを一夜の舞台にしたシリル・ジェリーの「原案」の映画化である。

この映画では独軍司令官コルティッツ大将とパリをナチの破壊から守りたいスウェーデン総領事ノルドリンクとの対決が焦点だ。

DSC_5398.jpg

外から迫る米軍やパリ市内で銃をとるレジスタンスと敗色濃い独軍との攻防。もしレジスタンスが一斉蜂起でもやればワルシャワみたいに全てが瓦解する?映画が始まると、ベートーヴェンの第7交響曲の響きと共に、蜂起に対して独軍の報復攻撃で壊滅し尽くされたポーランド・ワルシャワの実写映像が映される。美しいパリも?

DSC_5396.jpg

44年8月25日連合軍がパリ防衛線を突破して、市街に近づいてきたとの電報。ドイツの敗北が濃くなる。ヒトラーはベルリンが廃墟になった今、パリをそのままにしておくことをプライドが許せなかった。ヒトラー命令による「パリ壊滅作戦」が実行されようとしていた。パリを火の海にして殲滅してしまおうという命令だ。
作戦会議が終わって一人になったコルティッツ大将の前に表れた中立国スウェーデン総領事ノルドリンクが、コルティッツ将軍に語りかける「休戦を提案しに来ました」と。

DSC_5401.jpg

パリで生まれ育ったノルドリンクにとっても愛着の古都を守りたかった。将軍にとっても独軍司令官としてヒトラーの命令は絶対的なものだった。息詰まる二者の駆け引きが始まる。双方の事情、状況の緊迫さ、心理の駆け引きが巧みに演出されてドラマは展開されてゆく。相手の弱点・本音を知り尽くしての死闘だ。
コルティッツはプロイセンの貴族の将校の家に生まれ、勇気・規律・愛国といった教育の基に育てられた。彼は生粋の軍人であり、命令に背くことなど思いもよらなかった。戦局が危うくなり、ベルリンから「ルーブルの絵を保護してベルリンに運べ」などと戦局と関係のない指令がきたりすると流石の彼も考える。ノルドリンクの説得もあったが、彼はヒトラーから「親族連座法」というもし裏切ったら家族を処刑するという命令を受けていた。家族をどうするか?パリを破壊しなければ家族が殺される。もし自分が逃げれば同じように家族が、、、ノルドリンクに「もし君だったらどうする?」と反対に投げかける。

DSC_5400.jpg

両者は死闘を繰り広げながら人間的な一致点を互いに見出していた。双方の捕虜交換や独軍の警視庁への空爆の停止やレジスタンスの囚人の解放など。将軍にとって命令を拒否することは軍人としての生命線なのだ。理屈では分かっていても、しかし彼には古都パリを破壊することが出来なかった。

ジョセフィン・ベーカーの「二つの愛」が流れる中、ノートルダム寺院やオペラ座やルーブル、エッフェル塔やセーヌ川、パリの古い街並みの映像が映し出されてゆく。

監督のシュレンドルフが17歳から10年間パリで映画を学んだ。青春の思い出の地なのだ。スウェーデン総領事ノルドリンクは父がスェーデン人、母がフランス人でパリは青春の地だそうだ。パリを初めて見たヒトラーは一瞬にしてこの街の美しさの虜になった。ベルリンが廃墟になったので、パリの美しさが許せなかった。確かに人をそれだけ酔わせるものをパリは持っている。近代に入って芸術の都として憧れの地になった。

シュレンドルフ監督にとって前作「シャトーブリアンからの手紙」に続いて「仏独和解」が隠れたテーマの映画を作った。19世紀の普仏戦争から見ても2つの大戦、ヒトラーによるユダヤ人虐殺、冷戦下の両ドイツ、EUによる欧州統合と、両国の関係は決して全てが平和だったわけではない。第2次大戦後の70年が戦争がなかったのだ。日本においても同じだ。
ナチスの加害の謝罪と欧州大陸の安定平和のために「仏独和解」がゆるがせにできないテーマなのだろう。我が国においても同様の課題がある。


  1. 2015/03/30(月) 06:07:34|
  2. 2015年『映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『美術/音楽/舞台/読書』「海老原喜之助の<ポアソニエール>」(~4/5 横須賀美術館)3/25

『美術/音楽/舞台/読書』「海老原喜之助の<ポアソニエール>」(横須賀美術館~4/5) 3/25

DSC_5341.jpg

Ⓐ 海老原喜之助と言えば「ポアソニエール」。「ポアソニエール」と言えば洲之内徹。私にとって緊密に結びついたイメージだ。「ポアソニエール」を知ったのが洲之内徹のエッセーで、美しく清楚な女性の絵と一人の人間の戦争体験とが結びついたエピソードが私の心に強烈な印象として焼きついたからである。

DSC_5349.jpg

洲之内徹は戦争中、徴用されて中国戦線にいた時、ある新聞記者が持っていた蔵書の中に「ポアソニエール」の入った画集があり、たちまちその絵が忘れられないものとなった。彼はしばしばその「ポアソニエール」を見せてもらいに彼に会いに行った。昭和18年、時の日本軍は中国に対して三光政策(殺光、焼光、減光=殺し尽し、焼き尽し、滅ぼし尽し)と呼んだ残虐な作戦を強行していた。彼はその作戦の資料作成に携さっていた。憂鬱とも何ともいいようのない、嫌な仕事であった。嫌だと思いながら、彼はそれをやる。抵抗など出来る状況ではなかった。

<以下、「ポアソニエール」について洲之内徹の「絵のなかの散歩」から書き写してみる>
同時に、いわゆる便乗も出来なかった。何とかしてこの戦争の意味を是認し、心の負い目を軽くしょうと思って、いろいろな本を読んだりしたが、得るところはなかった。そういう明け暮れの中で、どうしょうもなく心が思い屈するようなとき、彼はふと思いついて、「ポアソニエール」を見せて貰いに行った。それは一枚の、紙に印刷された複製でしかなかったが、それでも、こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしものだと思わずにはいられない。(略)知的で、平明で、明るく、何の躊(ためら)いもなく日常的なものへの信仰を歌っている。洲之内はこの絵を見ると「慌てることはない、こんな時代はいつか終わる、」とそう囁きかけられているようで安心させてくれた。

洲之内徹はこうして戦争をくぐり抜けたのである。もし「ポアソニエール」がなかったならばどうだろうか? 戦後よく言われた。「心に抱いて死にゆく」「遺書としての絵画」「遺書としての著作・文学」。文学でいえば、武田泰淳の「司馬遷」、竹内好「魯迅」、丸山眞男の「日本政治思想研究」の類。彼らはそれを書いて戦場に行った。或いは心に何ものかを抱いて戦場に行った。

DSC_5378.jpg

* 洲之内徹(1913~1987、愛媛出身の美術エッセイスト。画廊主、画商。)
松山中学、1930年芸大建築科に進んだがプロレタリア運動に関係して32年投獄、転向して釈放。38年徴用され中国で対中工作にあたった。
戦後、「気まぐれ美術館」の筆者として名高い。私小説的美術評論と言われ、彼のエッセーは小林秀雄らに激賞された。「芸術新朝」連載の「気まぐれ美術館」が好評で14年も続いた。「現代画廊」の経営にあたり、佳いと思った無名の画家に発表の場を提供し、夭折の画家の発掘にあたった。
 「絵のなかの散歩」「気まぐれ美術館」「帰りたい風景」「セザンヌの塗り残し」「人魚を見た人」「さらば気まぐれ美術館」


私は偶然本屋で手にし、著作にのめり込んでいった。彼の著作は殆ど読んだ。没後愛蔵の作品146点が一括して宮城県立美術館に、「洲之内コレクション」として収められているというので、仙台に何度か見にいった。彼からどんな絵がいいかを教わったように思う。彼が取り上げている作品が面白いのだ。正統的な美術批評ではないが(何が正統的か?)、彼の文章を読むと、不思議とその絵が佳く思えてしまうから不思議だった。

Ⓑ 「海老原喜之助展<生誕100年>」(横須賀美術館~4/5) 3/17

DSC_5331.jpg

*「海老原喜之助」(1904~1970、鹿児島出身の洋画家。)
川端画学校で絵を学び、23年19歳で単身渡仏、パリで活躍していた藤田嗣治に師事して制作をした。パリから出品した作品が二科展に初入選。翌年にはサロン・ドートンヌに入選。27年、「窓(カンヌ)」「姉妹ねむる」「風景」 28年、「冬」 30年、「雪景」

DSC_5360.jpg

憧れのパリに来た海老原は貪欲に西欧絵画を学んだ。彼は後にこの当時の心境を「日本の画家が、その土台にまでさかのぼって、ヨーロッパの伝統とどこまで太刀打ちできるか」という意気込みをもって絵画に向かっていった。

DSC_5372.jpg

「窓」はデュフィだし、「風景」はルソー、「雪景」はブリューゲルというように、西欧の画家の特質を引き出して自分のものにしていった。彼には一種天才的なところがあった。「エビハラ・ブルー」と称賛された鮮やかな青の色彩を使った作品は次世代を担う画家として期待された。

DSC_5365_2015032508312142f.jpg

しかし、異国の地で画家として生きるには、絵がそうそう売れるものではなく、生活は厳しく33年帰国。35年の「曲馬」で日本の洋画界に衝撃を与え「独立美術協会」に迎えられる。34年「ポアソニエール」、37年「金魚鉢と少年」「西瓜売り」など詩情あふれる洗練された作品を相次いで発表。

DSC_5371.jpg

戦争末期、郷里に近い熊本に疎開し、戦後も人吉、熊本に居住し、地方文化の振興に奮闘した。60年代に入って逗子さらにパリと挑戦の場を移した。70年、パリで66歳の生涯を閉じた。

舟を造る

戦後の作品では51年「殉教者」54年「船を造る人」59年「蝶」61年「群馬出動」などがある。「蝶」など色彩をモザイク状に散りばめた抽象風の画面構成を用いたり、より単純化された画面と色彩の作品を描いたりした。又、「群馬出動」のように60年の安保闘争の街頭でのデモを意識した作品もある。

DSC_5358.jpg

* 戦後の作品について土方定一に「もう少し時間をかけて欲しい。発想が即興的デッサンという所がある」また、針生一郎に「アイデアだけでやっていないか?」と手厳しく言われている。戦後、海老原は何を描きたかったのだろか? 青年期の詩情あふれた作品と違った、時代や社会と向き合ったモニュメンタルな作品。逞しさ、スケールの大きいエネルギッシュな作品を評価するのか? 私自身が戦後70年を評価しきれていないので言い難いが、海老原にも戦後の混乱に振り回された感がある。私には戦後の海老原の作品が成熟度・結晶度において物足らないものを感じるのだ。それよりも「エビハラ・ブルー」が達成をみる30年代の作品の方が、絵として佳い作品が多いのではないか。「雪景」「曲馬」「ポアソニエール」「西瓜売り」など30年代の、詩情あふれた洗練された作品の方が私たちの心を撃つと思うのである



  1. 2015/03/25(水) 18:44:27|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『美術/音楽/舞台/読書』 「鎮魂の書・畠山直哉の<気仙川 >」 3/19

『美術/音楽/舞台/読書』 「鎮魂の書・畠山直哉の<気仙川>」 3/19

先日の2/23発「コレクションの作家たち(2)」で取り上げた写真家畠山直哉さんの後報です。陸前高田の出身の彼は東日本大震災で母を失った。

DSC_5367.jpg

畠山さんは筑波大で写真を学び97年には木村伊兵衛賞、01年にはベネチア・ビエンナーレの日本代表と国際的に活躍する写真家だ。前に書いた時、彼を「都市へのネガティブな関わり方」からユニークな都市像を撮っているといった。何故ネガティブといったか、彼の攻め方が石灰工場、炭鉱のボタ山、パリ地下の石の採掘跡、鉱山や爆破の瞬間や、ビルの谷間を流れる渋谷川、都市の解体現場など都市の裏側から発想していると思えたからだ。悪口の意味ではなくユニークだと思った。高所から見た大都市の俯瞰図など硬質な反抒情性の作品を撮る写真家だと紹介した。その彼が震災後、東京の自宅から陸前高田へ通い、故郷の震災風景ばかりを撮っていたというのだ。彼の写真が変わるな、と感じた。

DSC_5326.jpg

畠山さんの「気仙川 (けせんがわ) 」(2012年9月30日、河出書房)という本が一部の間で話題になっているという。震災前と後の写真80点とあの日をめぐるエッセーで構成されたドキュメント。
緊迫した文章で始まる。

「何かが起こっている。いまここではない遠いところ、ほら懐かしいあの場所で、何かとてつもないことが起こっている。その様子がいま僕のいるところからでは、よく見えない。」
 
次に写真が2点。右が緑の深々とした松林の中の道と、左が海の中に後ろ向きに立っている水着姿の女性。2つとも美しい写真だ。この本は縦長の本だ。ページを捲ると上半分は余白の、畠山さんのエッセーと震災前の故郷の写真が交互に続く。

あの3・11、東日本大震災と呼んだ直後の場面。筆者の故郷が被災して陸前高田に、母と2人の姉の安否確認のためバイクでの道中記。太平洋側の陸前高田に行くのに日本海側の雪の酒田をわざわざ経由したのは福島の原発事故の放射能のため。恐らく筆者は東京で、故郷のあの大惨事の津波の恐ろしさを知っただろう。身内の安否が気がかりの刺々しい切迫感がひしひしと迫る文章だ。陸前高田に辿りつくまでの、道中での去来する畠山さんのその時々に思ったことや感情が綴られている。私は感動した。これは母への、故郷への鎮魂の書だと思う。

DSC_5344.jpg

・道中、白人のジャーナリストたちの一行と出会う。ノルウェーから来て、「宮城と福島を回ってきて夕方の飛行機で帰る」という。「どうして陸前高田へ?」「インタビューしてもいいですか?」白人とのやりとりは畠山さんを落ち着かなくさせた。異言語での表現は、彼の気持ちの不安や悔しさをだんだん際立てた。いま、僕がオートバイで凍えながら走っているのは、何のためなんだ!陸前高田に母を探しに行くためなんだ! 彼らから逃げるようにして国道に出て行く。

・突然携帯のベル、下の姉からで小さく暗く言葉少なく、「かあさんもねえさんも」語尾が聞き取れず終わってしまった。電話を待つ長い行列に遠慮したんだろう。こちらから向こうに電話は掛けられないから、もう少し詳しく話してくれたらいいのに、、、
・続けて東京に住む同郷の親戚からの電話。弾むような声でいきなり「無事だ!」、インターネットの避難者名簿に母と姉2人の名前が並んで出ている。(母たちの生存?) 「だからもう無理しないで、ゆっくり行っていいから」。3人の名前が並んでいる、生存か! 3人は「体育館のようなところで固い床の上に寄り添って、毛布にくるまったりしているのだろう」と勝手にイメージをつくり上げる。「ゆっくり行け」と言われても、この雪の中を?

・又電話、大船渡に向かって1日早くクルマで出発した同郷の親友だ。「家族の無事を確認したので一旦帰京する」という。聞けば彼も日本海側のこの付近を南に向かって走っている最中だった。僕の家族の名前が避難者名簿にあったと話すと「よかった」と泣いてくれた。そうか、よかったのだ、安心してもよいのだ。酒田に引き返してみようか。

 ・翌日も雪は降り続く。酒田の友人の家に厄介になった。下の姉から電話。「今どこ?」「山形の酒田。雪で進めなくて」
姉「これから母さんと姉さん捜しに行くから」「え、一緒じゃないの?」「なに言ってるの」「だって避難者名簿に出てたんじゃないの?」、、、あれは存在する結果ではなかったのか。あの情景、私の脳裏に焼き付いた「固い床の上で寄り添って、毛布を被っている3人」を、いまさら僕の頭から消せというのか。
 ・幼馴染にかけてみた。僕らの町、気仙町今泉では山際に位置する金剛寺まで流されてしまったという。町内のあの人や中学の同級生のあの人が亡くなってしまった。僕の母のことは「わからない」。彼の一言ひと言が、生まれ育ったあの平和な場所の姿かたちを次々に歪め、信じられない景色に変えてゆく。
 ・又、電話だ。取り損ねて、留守電で上の姉は生きていた。が、母に関しては何も言っていない。
 ・電話、姉から「まだ酒田なの?」「雪で動けなくて」「じゃ、あたし、これから遺体安置所まわるから」いよいよだ!覚悟?
 ・世話になっている人がリレーで陸前高田まで送ってくれることになり、スーパーに物資を買出しにいった。
 ・姉からの衛星電話で、「Y中学校でかあさんの遺体を確認してきた」。

DSC_5348.後ろ姿

母の時間は、津波に襲われた三月十一日午後三時過ぎで止まり、僕らの時間だけが、あれから六日間動いたのだ。

本の作り方だが、震災前の故郷陸前高田の写真も、道中記といえる文章も上半分は余白なのだ。厳密にいえば姉に会うまでが余白なのだ。故郷に辿りついた後の、津波で壊滅した故郷の写真は見開き2ページだ。考え抜かれている。文章のスタイル・内容、写真の選定、順番、余白の意味、レイアウト、デザイン、考えて考え抜かれた本だ。震災前の故郷の写真が、まるで震災を予感したかのような(これはあり得ない)写真なのだ。

* 畠山さんの写真論
彼は「あとがき」で「自分の記憶を助けるために写真を撮る習慣はない。自分の住む世界をもっとよく知ることのために、写真を撮ってきたつもりだ」と言っている。
彼の本来の写真での業績は「世界を知るための、普遍的世界の」写真なのだ。普遍性の世界に展開する。ところが自分の故郷の思い出の写真は、自分にとって私的な<絶対的な写真>なのだ。思い出を共有しない人にとって無縁のものなのだ。他人のアルバムを見せられた時のシラケさともいうべきものではないか。。

* 転換  
(畠山さんの言葉を紡ぐような文章をなぞってみる。)
大震災は故郷の人々や町のすべてを大津波で世界の外に流した。「すでにそこで長い時間を送り、これからも永遠に続くことを願われていたそれらは巨大な力によって、短時間のうちにこの世の外に運び去られてしまった。」その時以来、自分にとって私的な<絶対的な写真>は、意味合いを変えた。
「故郷の姿は、いまでは人々の記憶の中と、写真の中にしか存在しない。どうということもなかった僕の写真は、僕の意図とは無関係に<記憶を助ける>ものに突然変化してしまった。あの橋はどの様な形をしていたか。その人はどんな顔をしていたか。その時の空は、水はどんな色だったかを、それを懸命に思い出そうとする時、僕にはもうこの僅かな写真しか、手掛かりとなるものがない。僕は初めてナイーブにそう思った。」

DSC_5347.jpg

夕空を映す気仙川に向かってカメラを構えている高齢の女性の写真、筆者にとって堪らなく愛しい母の写真だろう。背景の古い物見やぐらや、川に架かる鉄の橋と共に、涙が出てくる映像だろう。陸前高田の人にとって、写真の一つ一つが同様と思われる。

終わりに
畠山さんは「あとがき」で、最後に作家の池澤夏樹の「あの時に感じたことが本物である。風化した後の今の印象でものを考えてはならない」(震災後5ヶ月の時点の言)を引用している。彼は「震災を忘れるな」とだけを言っていない。「あの時僕らは真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったりした」あの時の自分の心を「忘れるな」と言うことだと。

DSC_5328.jpg

私が「気仙川」を手に取ったのは3・11を過ぎた日だった。テレビは(NHKを除いて)夜間の番組では、「3・11」や「原発」を取り上げなかった。特に原発は視聴率が下がるからと、ある評論家が言った。「原発」を含めて私たちのなかで何か「忘れていないか」という思いが胸に迫ってきた。畠山さんの切迫した文章は、私はあの時の自身のことを思い浮かべた。いろいろあった。畠山さんの文章に私自身の当時の思いを重ね合わせて読んでいった。

当時の自分は東京でおたおたしていた。恐怖と狼狽と混迷と。孫たちをどうするか?原発は東日本や東京の空を壊滅させるのではないか。海外からしきりに東京を脱出せよ!という警告が飛びかった。ユーロッパの某国では自国民の為に救援機を出すとか。成田空港や東京駅新幹線ホームは脱出組で混乱!東京のほとんどの人は困惑と何をしたらいいのかわからいなかで過ごした。

「氣仙川」の本が私の心を撃ったのは、「忘れるな!」は震災や原発の事実だけでなく、あの時の気持ちだと。自然の猛威に対する畏怖の念やおののきや、人に謙虚になったあの時の心を忘れていたことへの告発であったのだ。3・11の痛切な体験記&写真集の重みをもって、畠山さんは私たちの心を打ったのだ。

DSC_5383.jpg

* 「陸前高田2011-2014」畠山直哉写真展 3/25~4/7 銀座ニコンサロン

写真展に行ってきました。被災した陸前高田の情景がいいですね(被災したことでは無くて、写真がいいということです)
「気仙川」の被災前の写真といい、ここを故郷としている人は感無量でしょう。畠山さんの写真と文章によって、外部の人間も引っ張り込まれます。(3/25)





  1. 2015/03/19(木) 16:06:44|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『美術/音楽/舞台/読書』 「コレクションの作家たち( 4) 美術」 3/14

『美術/音楽/舞台/読書』「コレクションの作家たち( 4 )美術 」  3/14

① 「オノサト・トシノブ」(1912~1986。長野県生まれ、群馬の桐生に移り住む。)

DSC_5197.jpg

35年二科入選。応召、シベリア抑留で奇跡の生還。
63年、日本国際美術展で「相似」で最優秀賞。64年グッケンハイムが所蔵。
66年、「世界」2月号に「色と形と生命力」を発表。 
70年代、海外でいくつかの個展を開催。
86年、死去。92年、「オノサト・トシノブ美術館」設立。
 
DSC_5196.jpg

親友の瑛(えい)九(きゅう)と共に戦前・戦後「自由美術」等で「前衛美術」の道を歩み続けた。瑛(えい)九(きゅう)と共に日本の前衛美術の草分け的存在。良きパトロンの久保貞次郎が彼らを支えた。
初期は大きな円形の形で、手書きの味の情緒と趣を持っていたが、オノサトは進化した。

「<全ての形は幾何学的な純粋な形でありたい>と簡潔な抽象化を図っていった。外に求めたりしないで、自分の中から出てくる直接的な感情だけを表現したい」と言っている。彼の多彩な図形というか模様というか、、、作品は確かに内面からの爆発であろう。
DSC_5195.jpg

技術的な専門的なことは分からないが、正確な方眼と縞をカンバス上に割り付け、コンパスなどを用いて複雑だが正確な模様を描いてゆくそうだ。色彩も対比色や相違色の効果も狙って多様化してゆく。多彩なオノサト楽園の創設である。

* 画廊の入口にオノサトの作品が飾ってあった。夫妻が言うには「初めてのコレクションです。我々も若くて収入も少なかった。だがどうしても欲しくて月賦で買ったのだ。」オノサトの作品をジーと見つめた。本当のコレクターを見た思いをした。

② 「マルコ・ティレッリ」(1956年ローマ生まれ。)

DSC_5320.jpg

ティレッリの作品はキャンパスにテンペラを用いたものが多い。モチーフは幾何学的な形が多く、大きな余白を伴っている。表面的な派手な色彩は消し去り、内側の底深くに沈んでいるようだ。崇高さを漂わす静かな世界が広がっている。

DSC_5199.jpg

* コレクションのティレッリの作品は2本の棒のようなものが縦に伸びていた。記憶が確かではないが彼がよく使う穏やかなグリーンだったと思う。静謐さ・穏やかさ、そんな感じを受けた。

③ 「松本陽子」(1936年~

DSC_5321.jpg

60年代に滞在した米国でアクリル絵具に出合い抽象絵画の可能性を認識した。80年代から90年代にかけて、ピンクを主調とした独自の抽象絵画を確立した。近年、緑の油彩連作に新しい境地を開いている。
一見華やかそうなピンクを基調として、青や紫や黄や赤、色々な色が使われている。ふわふわした綿のような、もくもくと湧いてくる雲みたいなような質感。アクリル絵具からくるのだろうか?野原に咲いている花のような抒情性を消し去った乾いた質感。
油と違ってアクリルは乾きが早いといわれているが、制作の時彼女はどういう工夫をしているのだろうか?
   
④ 「高松次郎」(1936年~1998年、東京に生まれる。芸大油絵卒。前衛・現代美術家)

DSC_5322.jpg

58年から読売アンデパンに出品、はじめ前衛美術に傾倒し中西夏之らと「山手線事件」というハプニングを行い、中西、赤瀬川源平らと「ハイレッド・センター」を結成、数々のパフォーマンスを実践した。
作品は絵画、彫刻、写真、映画にまで様々なスタイルに至る。多くの作品が抽象的かつ反芸術的な色合いの濃いものであった。

* 実体のない影のみを描いた作品「影」シリーズが脚光を浴びた。
* 石や木などの自然物に僅かに手を加えただけの作品。
* 遠近法を完全に逆にした作品。
* 80年代の「形」シリーズ。
DSC_5323.jpg

高松次郎については先日(1/11)に触れてが、いろいろと実験をしたアーティストである。竹橋の国立近美では「影ラボ」の実験で、そこだけは写真自由でいろいろ撮ってみたが、本当の面白さはよく分からなかった。高松が意図したこと、志向したものが私の不明にして理解できないのである。モノグロ人間の限界なのだろうか。

⑤ クロード・ヴィアラ(1936年南仏のニーム生まれ。)
パリ5月革命の波の影響を受けた画家たちの中から誕生した、「支持体/表面(シュポール・シュルファス)」というグループの主要メンバーだった。ヴィアラはキャンパスの木枠から布を外し、自由な形で布が風にそよぐようにした。切りっぱなしのカーテン地や布などを有効活用するかのように、身近のモノを使って作り出した作品は見事なものだ。

DSC_5313_20150314161734875.jpg

作品を見ると鮮やかで清楚な色彩の乱舞に見惚れた。コレクションの作品は確か夕暮れ時の淡いグリーンの縦棒が2本下がっていたような気がする。だが、一般的にヴィアラというと、青や緑や橙の下地に「そら豆型」の四角いパターンがはめ込まれたようなデザインが多いのではないか?四角い形にはまた鮮やかな色が塗られている。

DSC_5310.jpg

コレクションのもそうだが、漂ってくる雰囲気の奥ゆかしいく清楚なこと、しかし何といってもフランスの粋で垢抜けた色模様の素晴らしいこと!

* 略歴
1936年南仏のニールで生まれる。61年、パリ国立美術学校に入学。サム・フランシスやマーク・ロスコ等アメリカの前衛美術に興味を抱く。
68年、ジャン・フォルニエのギャラリーで初個展。パリ近代美術館の「シュポール・シュルファス」の運動に参加。72年、アメリカに旅行しポロックやネイティブ・アメリカンの絵画に触れる。グッケンハイムの展覧会に出品。88年、ヴェネツィア・ビエンナーレに参加。91年パリ国立美術学校教師。91年から世界各地で行われた「シュポール・シュルファス」の回顧展や巡回展に参加。(日本は93年)

⑥ 河 鐘賢(ハ・ジョン.ヒョン、1935年~韓国現代美術の中心的存在。)
60年代のアンフォルメルに始まり、インスタレーション、コンセプチュアル・アートを経て70年代のモノクロム絵画に至るまで韓国現代美術の中心で活躍した。

DSC_5315.jpg

<接合> 70年代から今日まで続いているシリーズ。解説に「モダニズム絵画の物質性と絵画表面への絶え間ない探求と韓国的感性の追求の努力を続けている」とある。
確かコレクションにあったのはこの<接合>シリーズだったか?
解説に「キャンパスの裏側から絵具が押し出された作品で、キャンパスの麻布と絵具という2つの異質物が出会う時に生まれる様々な表情」を探求した初期の作品。「粗い(あらい)麻布の持つ豊富な質感と押し出されて流れた白い絵具を斜線で処理することで、まるで韓国の伝統的な家屋に映る月光のような透明感を生み出す効果を狙って」いるという。端的な解説で感心したが、戦後日本では中国・韓国・台湾芸術がすっぽり抜けている。

⑦ 「尹 錫男 ユン・ソクナム」(1939年中国東北部(旧満州)に生まれる。)

79年、大学中退後結婚して1児を育てた後、絵を描き始める。82年、ソールで最初の個展。83年、ニューヨークでデッサンを学ぶ。87年、韓国のフェミニスト・グループによる「女性と現実」展に参加。93年ソールで個展「母の眼」。95年、ヴェネツィア・ビエンナーレ韓国現代美術特別展「虎の尾」に出品。以降韓国フェミニズムの視点に立った現代美術家として活躍している。

DSC_5318.jpg

「ユン・ソクナム」、女性の芸術家として韓国現代女性に少なからぬ影響を与えてきた。彼女が絵を描き始めるのが40歳になってから、結婚して子どもを育ててからの出発である。自分のオモニ<母>を描くことから始めた。社会の抑圧を一番深く受けとめる存在としての<オモニ>。韓国女性の苦難の歴史を作品に刻印しょうとする。「私は何のために生きてきたか」「私は誰か」「本当の私はここに存在しない」という問いかけの下に作品の形象化が行われた。作品の根底に流れている哀しみや慈しみは男性にはなかなか理解できないものだ。
  1. 2015/03/14(土) 14:44:15|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『美術/音楽/舞台/読書』 「フィオナ・タン その ②」 3/8

 『美術/音楽/舞台/読書』 「フィオナ・タン その②」 3/8
  
⑥ 「ダウンサイド・アップ」(02年、ヴィデォ・インスタレーション、白黒、モノラル)

ダウン.浮遊②

上下に反転された白黒の画面を縦横に行き交う人々のシルエット。実際の人々の行き交う姿と影が行き交う映像との面白いズレ。確か高松次郎の実験も同じことを狙ったものではなかったか?フィオナ・タンは視覚装置や映像メディアを介在させることによって実現している。
この白黒の映像の奇妙さは何だろう?ものが浮遊している感じ。我々を不思議な世界に連れ出してくれそうだ。

DSC_5271_20150307231950a4c.jpg


⑦ 「取り替え子」(デジタル・インスタ、白黒着色、モノラル、ナレーション、06年)        
  
 取り替え子③
2つの画面で女学生が正面に向き合っている。一方は多くの数の画像が移り変わり、もう一方は1人だけに固定して、ナレターが女学生の個人史を語る。「語りは老女になった女学生が写真の頃を回想したり、写真の頃の娘の心を母親として推し量ったり、彼女の母が女学生を我が娘ではないと否定したりする。」

取り替え子②

「取り替え子」とは西欧伝承で子どもが妖精とすり替えられるという意味を持つという。フィオナ・タンはアイデンティティの問題が民族間だけでなく、個人の成長過程においても発生する普遍的なテーマであるとその重要性を言っている。「私はどのようにして母になるか?母親のモデル像はどこにあるのか?」私たちはこの問題を思春期からよく問題にしてきた。その問題を通り過ぎて成人になってゆく。ここでの問題は個人のアイデンティティだ。女学生の語りの根底にあるのは「私のアイデンティティは何か?」である。

⑧ 「プロヴナンス」(08年、デジタル・インス、白黒、サイレント)

DSC_5283.jpg

オランダには17世紀絵画からか肖像画の伝統あるいはその記憶があることが前提になっていると考えた。子どもから老人までの6人の肖像を切り取って映像化。モデルはアムステルダムに住む市井の人々。恐らくタンの身近に存在する人々だろう。モデル一人一人の趣味や暮らしぶりや性格までわかるかのような、まさに17世紀のオランダ絵画の肖像画のようだ。これが肖像画や静止写真と違うところは微妙に静謐を壊さないように人物が動く映像であることだ。動かない肖像画や写真と対比して動く映像の意味は?一人の女性が老人になってゆく話ではない。映像において少女はあくまで少女のままだ。映像が微妙に動くという意味だ。オランダ文化の伝統を遡(さかのぼ)る話か?

⑨ 「ライズ・アンド・フォール」(09年、2チャンネルHDヴィデオ・インスカラー、5.1chサラウンド)

DSC_5252.jpg

会場に2つの大きな縦長スクリーン。一方では絶えず水の流れるシーン。滔々と流れる川であったりナイヤガラ瀑布の凄まじい景観であったり、絶えず水は流れている。

DSC_5253.jpg

もう一方では年老いた女性と若い女性が交互に表れ、毎日繰り返される日常の光景。2つの流れが一瞬交錯するのは若い女性が男性とナイヤガラの滝を望むホテルにいるシーンだ。
ひとりの女性の人生がイメージに浮かぶ。

2人の女性のシーンを繰り返し眺めながら、一方ナイヤガラの瀑布のシーンに突き動かされて、女性の(人間の)人生を考えた。人生は絶えず流れる。「人はどこから来てどこへ行くのか」

⑩ 「ディスオリエント」(09年、2チャンネルHDヴィデオ・インス、カラー、5.1CH サラウンド、ナレーション)

館内老夫婦

2009年のヴェネツィア・ビエンナーレ、オランダ館を飾ったタンの記念碑的作品。
マルコ・ポーロ(イタリアの商人・冒険家1254-1324)の「東方見聞録」から発想、長大な時間を跨(また)いだ人類の文化的記憶を表現した。
タイトルの「ディスオリエント」は「㋑方向を失う。混乱する。㋺非東洋」の2つの意味がある。
会場内に大きな画面が2つあり、それぞれ切り離されてヴィデオが上映されている。同時には2つを見ることはできない。
一方でヴェネツィアから始まったマルコ・ポーロの旅路のアジアの現代風景や伝承されている記録写真を写し、「東方見聞録」のナレーションが語られる。一方は彼が様々な文物を持ち帰ったと空想して、オリエント&アジア文化の「空想博物館」を想定して、その内部に飾られているエキゾチックな遺物や文物の映像。マルコが探検した13世紀か大航海時代を夢見るシーンだ。

DSC_5279.jpg

マルコが探検した13世紀と現代とは800年の時間がある。西洋とアジアと1000キロの距離がある。遥かな時空を超えて、フィクションとドキュメンタリーが同居し異なる異空間が交差してナレーションが我々を「東方見聞録」の世界に誘う。不可思議のエキゾチシズムの饗宴!
壮大な叙事詩ではないか!マルコ・ポーロがくるとは!私は浅学にして東方見聞録なんて読んだことがないぞ。空想博物館をでっち上げるとは、驚きだ!

DSC_5265.jpg


⑪ 「インヴェントリー」(2012年、HD&ヴィデォ・インス、カラー、ステレオ)

DSC_5244.jpg

題名の「インヴェントリー」とは「目録」という意味だそうだ。
「ジョン・ソーン博物館」は200年前に開館したヨーロッパで最も古い博物館だそうだ。英国の新古典主義の建築家ジョン・ソーン卿(1753-1837)が蒐集した古代ローマ時代の彫像など考古学資料や骨董品を、卿の自宅を博物館にして展示している。ソーン卿の美学・思考や人生が詰まったポートレイトともいえる博物館には、時代や背景が異なる様々な遺物が混在している。博物館の館内いたるところ遺物で溢れ返っている。こうなると、かつての偉大な遺物や彫像もイメージを記録するメディアに過ぎなくなる。

タンは撮影に当たって用途や特性の異なる6つの技術*(35ミリやデジタル・ビデオなど)を使い、偉大なると言われた遺物や彫像を6つの技術で撮影した。そして、それを其々異なる画面として併置した。
*私の不明で技術的なことについては分からない。

個人や美術館などが、<物>を収集、保存、展示することはどういう意味を持つか?
そして時代を超えてそれらを見つめるという営みは(文化遺産をどうとらえるか)―
その意味を静かに問いかけているというのです。

フィオナ・タンを見に大阪まで来た。理解するだけでへとへとになった。彼女の芸術を総合的に見たことはこれからの自分に計り知れないものを与えてくれたと思う。


  1. 2015/03/08(日) 18:00:00|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『美術/音楽/舞台/読書』 「フィオナ・タン その ①」 3/7

『美術/音楽/舞台/読書』「フィオナ・タン その ① 」   3/7

『12』「フィオナ・タン」(1966年~、インドネシア・スマトラ島生まれ)

現在はアムステルダムに拠点をおいて活動する女性映像・写真家。中国系インドネシア人の父とオーストラリア人の母を持ち、オーストラリアで育つ。88年アムステルダムで国立美術大学に学ぶ。80年代の学生時代から映像活動が始まり、01年の「横浜トリエンナーレ」以下各国際展に参加。今、世界の最先端の行動的なアーティストとして注目されている。

海上の廃墟①

私は「アートコレクション展」で彼女の「海上の廃墟」に衝撃を受けた。会場のどの作品より抜きん出て私の心を撃った。鮮やかな映像には「まなざしの詩学」と彼女が名付けたように詩人の魂が息づいている。 フィオナ・タンがどのような作品を作っているか、どのような課題を担っているかに興味をもった。(2/14)

DSC_5243.jpg

コレクションに登場する作家たちを私なりに検証していた。「写真・映像」の終章(2/26)にフィオナ・タンを配置して分かったことが、彼女の「まなざしの詩学」が昨年東京で、今年大阪の国立国際美術館でやっていることだった。事情が許せばぜひ見たいと思った。(2/23)

DSC_5289.jpg

3/3(火) 早朝、新幹線に飛び乗り、大阪の国立国際美術館(10時~17時)に10時に入る。美術館は地下型の構造でBF2が常設展示、BF3が企画&特別展示。フィオナ・タンの「まなざしの詩学」はBF3の全フロアを使って、初期から近年までの代表作17点の映像作品の公開である。はじめ写真と思っていたが、彼女の作品は総合的な映像作品であり、今、前衛芸術の世界で最も注目されている一人であることがわかった。私は映像の意味や解釈、作品の解釈の可能性について、作品が問いかけてくるもの、などを考えて錯乱状態に陥ったと言ったら大げさであろうか、とにかく閉館まで会場にいて抜け出せなかったのである。

① 「興味深い時代を生きますように」(1997年。ヴィデォカラー、ステレオ。60分)
(01の会場でこの作品と「影の王国」(60分)とを交互に、日に3回ずつヴィデォ上映。)

DSC_5258.jpg

フィオナ・タンの初期の代表作、世に注目された。彼女自身が全世界に拡散した親族を訪ねる旅。オーストラリア、香港、インドネシア、中国、ドイツ、オランダの各地を取材した。アジアからヨーロッパという多彩な国・文化への、自身のルーツを訪ねる旅は現代の民族問題を含んだ文化的多元性を象徴しており、タンにとって「自分とは何者かを問う旅」でもあった。
親戚・血族を訪ねてアジアの国々を旅してゆくがその先先の現代の姿を映してゆく。親戚の人との会話。暮らしや風俗の様子の映像。

父方のルーツ「華僑」の全世界への発散のエネルギーは何処からくるのか?血のつながりの濃さや一族を大事にする例は他に類をみない。孤児を血縁者や一族で面倒を見ることは当たり前という結束の固さに驚嘆する。中国にタン一族の原点である村(全員が親戚)を訪ねていった。「ここから我が一族が発生した。ここが我々の原点だ」と言われても、自分自身の存在が落ち着かない。それは彼女が辿ったアジアのどこの国々でも感じたことだった。自分の故郷ではない、ここには住めないという感情がついてまわった。彼女のルーツを訪ねての旅は全世界に及んでゆくが、タンはどこへ辿りついても「ここは私の故郷ではない」「外国人である私」を再認識してしまう。
*それはフィオナ・タンの「ハーフ性」に依拠した問題か?タンは血縁性より文化性を問題にしている。帰属するところがない「世界人」としか言いようのない存在。

② 「ゆりかご」(98年、16mmフィルム・インスタレーション、着色、サイレント)

DSC_5302.jpg
(これは「ゆりかご」の直接の映像ではありません。同じタンの子息ですがもう少し年齢がたってからのです)

1歳にも満たない幼子が毛布に包まれて上から紐で吊るされ安らかな前後運動をしている。
幼子は時々何とも言えない笑顔をする。作者に言わせると原題「クレードル」には「幼年時代」という意味があるという。人類が初めて出会った驚きと喜びを思い起こさせる何かが隠されているという。幼児にとって世界は初めての体験だ。その時の驚嘆を幼児側になってみたらと想像してみる。そこからは、、、

③ 「ロール1&Ⅱ」(97年、ヴィデォ・インスタレーションカラー、ステレオ)

フィオナ・タン自身が砂塵を吹きあげて坂道を転がり落ちるアクションに興ずる。砂漠の坂道だろうか?砂塵を吹きあげるアクションの映像を何度も繰り返される。その荒々しさは衝撃的だ。我々はタンが能動的に行動を起こしていることを感じる。必死な切迫感とでもいうべきものを。「ロール」にしても「リフト」にしても全部自身がモデルになって能動的に行っている。己の芸術に対する覚悟というものを感じるのである。

④ 「リフト」(00年、フィルム&ヴィデォ・インスタレーションカラー、サイレント)

DSC_5282_2015030723131826b.jpg

子どもの頃の夢。赤い風船に乗って大空を飛びたい、全世界の子どもたちの夢でもあった。
風船に乗って飛翔する人はタン自身。少女の頃の夢と同時に飛行船時代へのオマージュがあるという。20世紀の終わりと21世紀という世紀の始まりの記念の意味もあるのか、アナログからデジタルへとメディアも急速に移行した。世紀の変わり目はメディアにとって大事件だった。タンにとって30個の風船に揺られての大空飛行も命がけの危険なアクションだった。もし予想もつかぬ突風が吹けば、、、。
* 彼女自身のアクションを⒗mmやヴィデォや静止写真と色々と技術を変えて撮っている。技術的な違いや特徴は私は不明にして分からない。タンは表現方法と技術に拘ってヴィデォや16mmと色々と変えた。其々の効果や違いについて解説を受けたい。
* シルクスクリーン、紙。
* リフト、スチル(カラーヴィデォ、サイレント)

⑤ 「影の王国」(00年、ドキュメンタリー・フィルム、白黒、カラー、ステレオ50分)

幼子を亡くした老夫婦
( 「影の王国」の途中ででくる映像、たった一人の男の子を幼い時に亡くして何十年たった今でも嘆いている老夫婦)

タイトルは1896年ロシアの作家マキシム・ゴーリキーが、リュミエール兄弟が世界で初めて発明したという映画装置シネマトグラフによる上映を観て記したという「昨夜私は、影の王国にいた」という言葉にちなんだものだそうだ。
(01の会場で「興味深い時代を生きますように」と交互に上映。50分)

フィオナ・タンが「世界がアーカイヴなら、自分はどのイメージを選ぶだろう?」という問いを発する。
(世界が総て詰まった宝庫なら、そこからどのようなイメージを自分は選ぶだろう。)
何て詩的な問いかけだろう! そうだ、世界は広いのだ。無限の宝庫なのだ。そこからイメージを掴みだせばいいのだ。
どのイメージ?無限の宝庫からどのイメージを選びだすか?そこに作家の主体性がかかっている。

彼女の写真論、イメージ論が展開されてゆく。写真のコレクターや写真家などにインタビューをしてゆく。その間に色々な映像が映されてゆく。写真は事実を映し出すのだから偶然性が飛び出してきて、時にはプロより素人の方が面白い写真を撮ることがある。偶然性が面白いといっている。

写真は視覚的な「事実」が大切だが、客観的な真実として決定してはいけないと言っている。視覚的な事実があるが、もうひとつ虚構としてのイメージもある。写真を並べてディスプレイを変更しただけでも新たな事実が獲得できると言っている。

写真の「記録」という側面について、とか。アウシュヴィッツ強制収容所のことやルワンダの虐殺を目の前で見た人の「目」のことがでてくる。父母や夫・子供が目の前で虐殺されたのを見ていた「女の目」、言葉で言いようのない「目」。忘れられない「目」である。

コレクターは写真を収集し保存している。全世界から、それこそ古今東西から、無数に収集している。私の認識のために・認識を変えるために、世界のアーカイヴから選びとる。イメージを発想できる。そして様々な組み立てを行うことが出来る。写真は視覚的な事実だが、そこから無限のイメージを組み立てられる。それは有益かつ楽しいことなのだ。


  1. 2015/03/07(土) 22:34:39|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0