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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2014年映画』「プロミスト・ランド」(マット・デイモン脚本・主演。ガス・バン・サント監督)8/31

『2014年映画』「プロミスト・ランド」(ガス・バン・サント監督マット・デイモン主演)
                「グット・ウイル・ハンティング/旅立ち」の監督・主演
                名コンビ。J・クラシンスキーがデイモンと共に製作・
                脚本・共演の3役。 8/31
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* 今話題のシェールガスが環境破壊問題を抱えていたとは迂闊(うかつ)にも知らなかった。地中深い岩盤の中の天然ガスの産出であるため、技術面、開発投資面、コスト面等で問題を抱えている。貿易の規制の網や利害が各国を縛って簡単に自由に輸出入できない。環境破壊問題もあって、当初言われていた「夢のシェールガス革命」が本当か?幻想ではないか?本当のところはどうなんだ、と問いを発してみたくなる。

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* この映画は「シェール革命」の最前線、アメリカの農村の田舎町を舞台に、採掘権の買収を進めるエネルギ―会社の営業マン(マット・デイモン)が主人公の物語である。主人公は「街の再生は地下に埋まっている」「サインすればあなたの人生は変わる」の信念で不況にあえぐ牧場主や農場主を精力的に回っている。

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* 彼の精力的な働きが成功するかに見えた時、住民投票を呼びかける老教師ややり手の環境問題活動家に行く手を阻まれる。思いがけない出来事が起こり、自身の仕事への信念や生き方を揺さぶられる。彼はどうするか?180度の転換をするか、、、

* ロビン・ウィリアムスが自死した。テレビで「グッド・ウィル・ハンティングー旅立ち」を放映していて、見て感動したばかりだった。「プロミスト・ランド」が公開されてすぐ飛びついた。マット・デイモンが脚本・主演を兼ねていた。マット・デイモンが自ら脚本を書くことに注目している。これから大きな映画人になることを期待している。

* これを書いている今、ロビン不在の悲しみが突然こみあげてきた、、、
「いまを生きる」「レナードの朝」はよかったなぁー。
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ロビン・ウィリアムスのご冥福を祈ります。


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  1. 2014/08/31(日) 14:00:00|
  2. 2014年『映画』
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美術/音楽/舞台「ヴァロットン展」(三菱一号館美術館~9/23)8/28

美術/音楽/舞台「ヴァロットン展」(三菱一号館美術館~9/23)8/28

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スイス・ローザンヌ生まれのフェリックス・ヴァロットン(1865~1925)は今まで知らなかった。「2013パリ・グラン・パレ」での回顧展で30万人の人気を博したという。現代性に通じる人気とは何だろうか?ヴァロットンの何が注目されたのか?これは世界的に広がる流行だろうか?

1865年スイスで生まれ育ったヴァロットンは16歳の時絵画の勉強のためにパリに出た。ルーブルに通ってデューラーやアングルを学んだ。世紀末から今世紀前半パリで活躍した象徴主義や「ナビ派」(絵画の装飾性・虚構性を追求した。ボナールやドニが有名)の影響の作品を描いた。

木版画が有名で、傑作は1890年代末に描かれ、白と黒だけの強烈なコントラスト・毒のあるユーモア漂う風刺画・男女の怪しい緊張関係を暗示する版画を、回顧展を開催している三菱の美術館が187点も所蔵していて、今展覧会で展示している。<戦争>、<街頭でのデモ、群衆>、<アンティミテ>(親密さ)―ブルジョワの男女の室内での妖しい関係を描いた版画が面白い。

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<嘘>―大げさに抱擁してくる女の嘘を見抜いている。

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<お金>―高級娼婦だろうか、お金の交渉をしている。

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<怠惰>-うーん、これは傑作!

NHKの「新日曜美術館」で作家の角田光代が彼の油彩画「ボール」を取り上げて、「胸騒ぎの風景」-好き嫌いといえば、嫌いの方だが気持ちが揺さぶられるとか不安な気持ちにさせてくれる。角田さんはヴァロットンから「記憶」という小説を紡ぎ出してしまった。
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ヴァロットンの作品 <ボール>
手前の半分、野原で少女が赤いボールみたいなものを追いかけている。後ろにドッチボールが転がっており木の影が少女を追いかけているかの様である。中ほど川が流れていて、奥の方で女性が2人立ち話をしている。川から奥へ緑の葉が覆い尽くしている。
前方の原っぱを少女が走っている部分と、川と2人の女と森の緑の部分とはアンバランスである。はてな?と立ち止って何だ?と考え込んでしまう。

(角田さんの小説も、この絵を見てあなたも、どうぞ空想の翼を広げて下さい。)

奇想天外の、夢のなかの美術世界の宝庫ともいうべき澁澤龍彦に「裸婦の中の裸婦」という書があること、その中にヴァロットンが語られていることを或るところから教わった。澁澤は木版画より油彩画、特に後期の裸婦に注目していた。
一緒に暮らしていた貧しい女工のエレーヌと別れて、3人の子連れの金持ちの未亡人と結婚した。貧乏におさらばして絵に専念しょうとした。木版画もやめてしまった。我々の芸術家の通念と異なる考えの持ち主か?結婚生活が冷ややかなものであったことが作品から見てとれる。彼の心の奥の世界はどのようなものだったか?

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<夕食、ランプの光>1899年、
ブルジョワの生活がどんなものか露見する作品である。一家の夕食風景、義理の少女の異様な目、感情がないような表情。テーブルのナイフの異様に光る様子、シルエットのヴァロットン。ゾーとするような家庭生活。

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<赤い服を着た後姿のいる女性のいる室内>1903年、
ベットから椅子,長椅子に溢れるように脱ぎ捨てた下着や衣装。だらしなさと見るか性的と見るか。

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<貞節なシュザンヌ>1922年、
まず、目につくのは女の妖しい目と笑みである。2人の男の異様なツルツルなてかてかの頭である。男女が密談を交わす様子を離れた所から見つめている。女は男と何の話をしているのか。口説きの値段の交渉か?
レンブラトの有名な「スザンヌと長老たち1647年」にあるように、スザンヌとは旧約に登場する女性。長老たちに入浴を覗き見(のぞきみ)されて、貞節が汚されそうになった伝説の女性。ヴァロットンは男に口説かれながら、彼女の方が逆に男を値踏みしているという逆転の発想で描く。女性の裸を男性の禿げ頭のツルツルに置き換えた逆転の発想!ヴァロットンの現代性か!

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<トルコ風呂>1907年、
ここで描かれている6人の裸婦は我々が見慣れているものとは違っている。裸婦といえば線や形の美しさを求めたり、抒情や豊満を求めるのが通念である。ところがここでは一般的な裸婦の美を求めてはいけないと澁澤龍彦は言う。「画面は極度の抽象化された裸婦」だという。画面から漂ってくる冷え冷えとしたもの。女性の裸婦の奥に画家が見たものとは荒涼たる世界ではないかとね。

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<赤い絨毯に横たわる裸婦>1909年、
体はものすごく描いているのに、顔は平面的というか、ほとんど描いていない。画家は裸婦の後ろ姿を描きたかったのではないか。フェティシズムが隠されていないか?

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<水浴する女>1990年、
澁澤龍彦の「裸婦の中の裸婦」で取り上げられた作品。
ヴァロットンはもともと女に対する辛辣な目があったと言う。ここで問題にしているのが海水浴、女と海である。ダリを持ち出して海は女性のシンボルで、この絵の中のどんよりした海の不気味さは女性の不気味さ、海の持つアナロジーを問題にしている。そして、「脊椎動物が海から陸に上がって、海に対する郷愁を断ち切ることが出来ず、かつての子宮の中での水中生活の名残りを求めている。胎児を侵していた羊水が海の水がアナロジーだというのだ。


  1. 2014/08/28(木) 20:40:02|
  2. 美術/ 音楽/舞台/読書/文学
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『日記』 「命ある限り戦え、そして、生きぬ抜くんだ」(フジテレビ・ドラマ8/15放送 8/23

『日記』「命ある限り戦え、そして、生き抜くんだ」(終戦記念スペシャルドラマ。
                              8/15放送、フジテレビ。 8/23

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NHKの「狂気の戦場―ペリリュ島」に続いて、民放でもフジテレビが同主題でドラマを作った。ペリリュでの戦闘は米海兵隊のフィルムに基づき、日本軍側の、特に守備隊長の中川大佐(14師団歩兵第2連隊長)の個人的ドラマを組み込んだものである。
米海兵隊のフィルムは、米軍側の視点を超えた戦場のリアリズムが映されていて衝撃を感じた。フジのドラマは中川隊長の人間性を中心に据えた「ドラマ」であり、他の戦争物のような好戦的ではない所がいい。いくつかの感じたことを挙げてみる。

* タイトルの「~、生き抜くんだ」。日本軍の玉砕の思想と矛盾して違和感を持った。中川守備隊の「持久戦」の戦法とどう関係するか?最終場面で隊長以下全員が自決することと矛盾する。タイトル通りだとやりつくした後は降伏が筋である。

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* ペリリュ島には日本軍が作った立派な飛行場があった。米軍はそこからレイテを叩こうと考え、日本軍は阻止しょうとした。「持久戦」とゲリラ戦で島を守ろうと関東軍の精鋭を南方に持ってきた。
* 戦った者、日本軍1万(全滅)、米軍4万8千(死者1千8百人、戦傷者8千人、精神に異常来した者数千人。)凄まじい激戦で死闘だったことがわかる。
* パラオの原住民を島から退去させ、一人の犠牲も出さなかったと美談になっている。これも他の情報によれば、他所での飛行場建設に狩り出した為に全員島から離れたという説もある。真相は?
ただ、結果論において日本軍の全滅に比べてパラオ人は一人の犠牲を出さなかったので評価が高い。
*「女性兵士」による機銃射撃で米軍を撃ったという、ジャンヌダルク伝説はどうか?
日本軍に女性兵士が存在したこと自体おかしい。軍属として使用していたということならあり得る。将校の女(慰安婦)という風説があるが、玉砕を覚悟した戦場に狩り出すことはあり得るのか?ペリリュの悲劇が作り出した都市伝説ではないか?

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* 終戦を知らずにトンネルの奥深くに籠っていた日本兵34人が、戦後1947年4月21日に投降した。戦後約2年近く捕まらなかった。今でも新しいトンネルが発見されるというから、ジャングルの中奥深く陣地を築いたのだろう。

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* 戦後作曲家として活躍する「吉田正」は、戦中水戸歩兵第2連隊の兵士だった。ペリリュ出撃の時急性盲腸炎のため満州に留まった。その後シベリア抑留と苦労を重ねるが、もしペリリュに行っていたら国民栄誉賞に輝く吉田正は無かった。
* 何故、「ペリリュ」が語られなかったのだろうか?米軍にとって語りたくないであろうが、日本側にとって何故だったのか? あまりの悲惨な戦場の記録、気が狂う兵士たち。仲間を殺す兵士たち。撃ち合った日本兵が持っていた家族写真を見て頭を抱えてうずくまる米兵士。それらの記録は「負の世界遺産」に相当するではないか!

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海兵隊が撮った「ペリリュの戦場」はフィクションではなく、ナマのフィルムである。戦場の実態・兵士の実態の貴重な映像である。「頭を抱えうずくまる兵士」像はヒューマンな映像として我々の胸を撃つ。



  1. 2014/08/23(土) 18:14:08|
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『日記』「狂気の戦場、ペリリュ島ー忘れられた島の記録」NHK. 8/13放映 8/22

『日記』「狂気の戦場、ペリリュ島―忘れられた島の記録」 8/13放送 8/22

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@ 毎年夏になるとテレビで終戦・戦争を特集した番組をやる。なかには貴重なものもある。
今年の「ペリリュ―島」の激戦を巡る番組はショックだった。戦場の過酷な実態を目にしたからである。
アメリカ海兵隊の或る基地の地下倉庫に眠っていた、「ペリリューのフィルム」(海兵隊の撮影班が実際の戦場の様子を撮ったもの)の公開、それを基に組み立てたドキュメンタリーである。
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@ 「ペリリュ―の闘い」とは太平洋戦争中の1944年9月15日から11月25日にかけて、パラオのペリリュ―島での日本軍と米軍との陸上戦闘をいう。マッカサーの米陸軍のレイテ攻撃の掩護として、ペリリュ―飛行場が狙われた。ペリリュ―の飛行場よりB29でレイテが叩ける。そして、レイテー台湾―沖縄―本土空爆という米軍の戦略。その前哨戦としての戦場、日本にとって絶対国防圏を守る戦い。
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(元になったのが米海兵隊の撮影班18人が隊の記録のために撮った113本のフィルムである。)
@ この攻撃の米軍の主力を担ったのが、第1海兵師団傘下の最強といわれた各連隊。「3日もあれば制圧できる」と豪語していた。撮影隊も「勇猛果敢に戦う兵士の姿や、戦車で突撃する戦闘シーンなどを徹底的に撮ってやろうと意気込んでいた」

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@ 1944年9月15日、米軍上陸。日本軍は従来の「バンザイ突撃作戦」(銃剣や軍刀を手に切り込む)なら圧倒的な火力で制圧出来る。が、バンザイ攻撃は無かった。日本軍は長期「持久戦」の戦法に切り替えていた。後方の山岳に複雑に入り組んだトンネルを構築しゲリラ戦を展開した。3日目、死者、日本軍2400人、米軍2000人。米兵の間に不安が広がった。米軍では陸軍に応援を得るべきだという声があったが、海兵隊の指令官は拒否。接近戦・ゲリラ戦が続く。「何時どこから撃ってくるかわからない攻撃にさらされる」常に緊張を強いられる戦場、極度な不安と消耗にさらされた。

撃たれる米兵士5
*日本兵に狙撃される米兵。左右の米兵も身動きが取れない。別な2人が助けにくるがそれもやられる。
米軍、仲間の遺体だらけになった。当初遺体を撮るつもりはなかった。しかし、遺体だらけになっても平気になった。
DSC_3542死体のなかの兵士

* 最強といわれた第1海兵連隊の上陸1週間後には、死傷率が60%になった。ある小隊は40人の内20人が死んだ。もはや戦闘部隊の体をなさない。海兵隊創設以来、最悪の状態になった。
* 自ら命を絶つ仲間もいた。死後数日で死体は倍に膨れる。強烈な死臭と巨大な黒蠅の大群に襲われる。今思い出しても吐き気がする。日本兵の遺体の周りで無気力に座り込む米の兵士たち。一体何のために闘っているのか?
@ 10月20日、マッカーサーレイテに上陸。レイテ支援というペリリュ攻撃の戦略的な意味がなくなった。それでも米軍はペリリュ―攻撃にこだわり戦闘は続けられた。
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上陸から2週間、5千人近くの死傷者を出した米軍は最新の殺戮兵器を投入。炎を130m噴射出来る「火炎放射器を搭載した装甲車(トンネル陣地に近づかず日本兵を焼き殺せる)や上空からナパーム弾。日本軍は壊滅的打撃を受ける。死者9千人を越えた。

*ある日、切りとられたペニスを口に押し込まれた3人の仲間が木に縛りつけられていた。仲間の死体を使って銃剣の練習をしたに違いない。体中に50ゕ所以上の刺し傷があった。「奴らを皆殺しにしてやりたい!」と思った。

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* ペリリュは憎しみが憎しみを呼ぶ戦場と化した。失っていた人間性をふと取り戻した時、兵士たちは耐え難い苦しみに襲われた。頭を抱え座り込む1人の兵士の写真。日本兵を接近戦の末倒した時撮影されたもの。「倒れた日本兵の懐から1枚の写真がのぞいていた。手に取って見ると、彼の両親と幼い妹が写っている写真だった。一体何てことをしてしまったのだ。言葉を失って顔を覆いその場に座り込んでしまった。

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* 錯乱して狂気になった米兵士。正気を保つことが出来なくなった米兵士。フィルムは錯乱状態に陥った兵士も克明に記録している。
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異常の戦場の果て、殺戮は味方同士に及んでいく。味方の1人が「オレは奴らに殺される」と大声でわめきだした。大量にモルヒネを打ったが喚き声は大きくなるばかり。300m先に敵の陣地があった。仲間の1人がシャベルで頭を打って殴り殺してしまった。
*日本兵の手足を縛って首を切り落とした遺体は、敵前逃亡か投降のゆえの処刑だろう。

11月24日戦いが始まって71日目、守備隊本部以外の日本軍は米軍に占領された。日本軍の生き残り120名、その内70名が重傷である。74日目、守備隊長は自決してペリリュの戦いは終わった。
(日本軍、1万5百人、戦死者1万3百人、捕虜2百人、生存者34人。
米軍、4万8千人、戦死者1800人、戦傷者8千人、精神に異常を来した者数千名。)

@ ジヨン・ダワー「敗北を抱きしめて」
太平洋戦争における日米の攻防を研究している。
「日本が長期持久戦によって、最後まで徹底抗戦するつもりだと、米が悟ったのがペリリュ。洞窟に潜む日本兵に使った火炎放射器やナパーム弾を、硫黄島や沖縄では更に大規模に使っていく。それは日本本土の都市を焼き尽くす焼夷弾の使用にまでつながっていく。そうした容赦なき戦いの原点がペリリュだった。」

2500人を越える日本軍将兵の遺骨が今も眠っている。
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参考、『ザ・パシフィック』(S・スピルバーク。トム・ハンクス総指揮、米のテレビラマ。
   実話を基に、太平洋戦争における米海兵隊と日本軍との死闘を描いた。2010年3月~




  1. 2014/08/22(金) 09:23:50|
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『2014年映画』 「イーダ」(ポーランド映画、監督・脚本、パヴェウ・パヴリコフスキ)8/18

残暑お見舞い申しあげます。
まだ猛暑の折、皆様にはご健康に留意下さい。


『2014年映画』 「イーダ」 (ポーランド映画、監督・脚本パヴェウ・パヴリコフスキ。
               出演アガタ・クレシヤ。アガタ・チュシェブホスカ。
               2013年ロンドン、トロント、ワルシャワ各映画祭受賞) 
               イメージ・フォーラム 8/2~      8/18

久々のポーランド新星の登場!
光と影のモノクロを基調としたスタンダードサイズの映像。抑制された台詞と構図の美しさは昔のヨーロッパ映画のような雰囲気を持つポーランド映画・新星の登場である。

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映画の冒頭、古いキリスト像が尼僧たちに担がれて、飾られるシーンがある。戦後ポーランドの共産党時代(1948~55)が終わり、カトリック教会が認められたシーンだ。

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舞台は、ポーランド1962年。
18歳の戦争孤児<アンナ>は、田舎の修道院で見習い尼僧として育てられていた。髪をヴェールに隠し神を信じて規則的な生活を送っていた敬虔な少女。ある日院長に呼ばれ、アンナは天涯孤独の身ではなく叔母のヴァンダが生きていることを知らされる。唯一の親類にもかかわらず修道院にいた自分を一度も訪ねて来なかったのは何故なんだろうと不思議に思う。一人前の修道女になる前に彼女に会ってきてはどうかという院長の薦めに従い、叔母ヴァンダに会いにいく。

アンナと初めて会ったヴァンダは、「あなたはユダヤ人なのよ。本名はイーダ・レベンシュタイン。両親は死んだわ」と衝撃的なことを言われる。アンナとはカトリックの名前、イーダはユダヤ人の名前である。イーダとは誰なのか?
ユダヤ人孤児の少女がどう生きていくか、その成長物語である。

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母の妹である叔母のヴァンダは、スターリン政権下で「血のヴァンダ」という異名を持つ有名な検察官だったが、今はなぜか酒とセックスに溺れ破滅的な生き方をしている。暗い過去を秘めている様子だ。
イーダの問い、「両親はどういう人だったの? 両親は幼い私を残して何故死んだの? 両親の墓は何処? 私は何故、修道院に預けられたの?」
両親の墓の在りかを探して、イーダとヴァンダのロード・ムビーの旅が始まる。
旅の途中でヒッチハイクのジャズミュージシャンを拾い、イーダと親しくなる。

「第2次大戦中に亡くなったユダヤ人の墓は存在せず、遺体の在処も分からない」とヴァンダは言う。ヴァンダが覚えている、イーダの両親が住んでいた家を訪ねていく。かつて両親が住んでいた家にはスキバという男が住んでいて、ユダヤ人夫妻の事は知らないと言って訪ねていった2人を冷たくあしらう。ヴァンダはイーダの両親の最期を知っている、スキバの父シモンを探し出す。重い病で入院しているシモンから驚くべき事実が明かされる。
(いい夫妻だった。森に匿ったが見つかってユダヤ人は全員殺された。)
(イーダの両親もヴァンダの息子も殺された。赤ん坊のイーダだけが修道院に預けられた。)
・ポーランド人が空き家になったイーダの両親の家に勝手に住む。

ポーランド人にとってユダヤ人はどういう位置・関係にあったか?
その問題点を問う映画でもある。
昔見たアンジェイ・ワイダの「聖週間」という映画を想い出す。

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*「聖週間」(アンジェイ・ワイダ監督。1995年、)
1943年のワルシャワが舞台。同年、ゲットーのユダヤ人蜂起。父親がゲットーへ行ってしまった後、残されたユダヤ人娘の物語。昔の恋人(ポーランド人、妊娠している妻がいる。)に匿われる。匿われたユダヤ人女性に対する態度が焦点。ポーランド人の本音・良心・苦悩を表現。又、ユダヤ人のポーランド人への告発を表現。
匿われたユダヤ人の娘に対して、
①憎しみの目を向ける女。
②同情するが巻き込まれるのはごめんだという人。
③汚れた仕事(ユダヤ人を殺すこと)を引き受けてくれたヒトラーに感謝する。
④アパートの住人、ポーランド軍将校の妻が「何故あの子は言ってくれなかったの!止めなかったのに!」(息子は武装してゲットーに潜入した)ユダヤ人に味方したポーランド人もいた。
⑤ナチの行為に対して、「沈黙する協力者」=加害者としての苦悩。
⑥子どもの事故があった時、住人のひとりが叫ぶ「不幸を呼ぶ女!お前のせいだ!ゲットーへ帰れ!」
*匿われていたユダヤの娘、「私たちのように、焼き殺されればいい」(全ポーランド人に向けたユダヤ人の告発)

「聖週間」を見た時、ポーランドにおける「ユダヤ人問題」を深く捉える力が私に無かった。
ポーランドには、アウシュビッツはじめ幾多の強制収容所があり、ナチスのユダヤ人大量虐殺が行われた。ポーランド人も加担したといわれてもおかしくない。戦後ポーランドの思想的課題として、ユダヤ人問題をどう総括するかという問題があった。アンジェイ・ワイダは見事に切り込んだ。だがポーランド人に受け入れられたとは言いがたい。何処の国でも自らの暗部にメスを入れるのは難しい。
さて、この映画ではどうか?

*戦後ポーランドはスターリン政権下の時代(1948~55)。公安・司法関係の中にユダヤ系の人が多かった。戦前の差別された裏返しとして、平等な社会を築く理想に燃えたユダヤ人が活躍した。この映画で「血のヴァンダ」と言われた叔母がその象徴として描かれ、スターリンの死後心の支えを失い酒とセックスに溺れている。コルトレーン好きのヴァンダの部屋では常に音楽がかかっていて、音楽なしには生きられない人間になっていた。音楽は彼女の心境の投影か?
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イーダとのロード・ムビーで心の底の傷が暴かれる=幼き我が子の骸骨との対面!
イーダと別れて自分の部屋へ帰ってコートを脱ぎ、モーツァルトの最期の交響曲「ジュピター」をかけたかと思うと、窓から消えてしまう。ヴァンダの死は何が起きたか分からぬ様な、余韻というものを消した衝撃的なシーンだ。
(ヴァンダの酒と性に溺れた生活は、共産主義の支えの喪失とその奥に、ユダヤ人の悲劇性・亡き我が子への思いがあったのだ。)

旅から戻ったイーダは、昔の様には修道院に解け込めない。
田舎の修道院しか知らなかったイーダにとって、叔母のヴァンダが見せてくれた俗の現実は余にも衝撃性だった!
イーダはどう生きるか?

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イーダはヴァンダを見習ってみる。ヴェールを解きドレスに身を通しハイヒールを履く。化粧をして煙草を吸い酒瓶に口を当てる。
始めて男と肌をかさねた夜、イーダは覚めていた。

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ヴァンダのあとを追わず、自立したイーダがそこにいた。若き自由なユダヤ人女性の登場である。
街中を歩くイーダ。 バッハのオルガン曲が流れていた。

監督・脚本、パヴェウ・パヴリコフスキ。
1957年、ワルシャワ生まれ。14歳の時、ポーランドを出て、ドイツ、イタリア、最後に英国に定住。1980年末から1990年代にかけて、抒情と皮肉がないまぜた記録映画を数本監督し、世界中で注目された。1998年、「Twockers」を共同監督、2000年「Last Resort 」、2004年「マイ・サマー・オブ・ラブ」2011年「イリュージョン」といくつかの賞を受けた作品を発表。
2013年の「イーダ」はヨーロッパで作品を撮り続けてきた監督が愛する母国で初めてつくり上げた作品。監督自身がユダヤ系の生まれ。2013年東京渋谷で開催された「ポーランド映画祭」で上映され喝采された作品である。




  1. 2014/08/11(月) 11:00:00|
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『日記』 「暑中お見舞い申しあげます」 8月2日、ジュリアンの夢

『日記』「暑中お見舞い申しあげます」 8月2日 ジュリアンの夢

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暑い日々が続きます。
皆様にはいかがお過ごしでしょうか。お見舞い申しあげます。

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私、7月下旬放映の「民主主義をめざしてー丸山眞男」をまとめて、夏休みに入ろうとしました。ご存知の通り戦後思想のオピニオンリーダーを捉えるのは、なかなか難物でした。
丸山眞男氏は戦中・戦後・現代の、日本を代表する知識人です。彼が戦後発表した著作が後に続く者たちの血となり肉となっていたのでした。
戦後民主革命、安保闘争、大学紛争、彼はそれぞれに関わり誠実に対応しました。
私は専門を異にしていたので直接・間接(孫弟子になる)教わったことはありません。ただ、彼のすぐれた「政治思想史学」、「思想」、「論評」は面白くかつ有益でした。私にとって戦後思想の基礎学の有力な1つでした。
大学紛争(紛争という言葉は好きではありませんが)の時、当事者ではないので、全共闘の人々の夢と想いの本当のところは、又、丸山さんの考えは、解らないと思います。

山口二郎さんが言う通り、「3・11大震災と原発事故」を総括して、新たな処方箋を出さない限り「災後」はない。記憶が薄くなりつつある現在、「災害」を忘れたかのような状況、
どうして行こうか?
丸山氏は本当に凄かったですね。戦争の遂行者「日本ファシズム」の病理と構造を分析して、「戦後」を作っていったのですから。

今、「災後」の思想を準備出来る思想家が求められている!

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しばらく、夏休みをいただきます。

(フォトはシエナのドゥオーモ、プッブリコ宮、カンポ広場です。カンポ広場に寝転んで1日中もの思いに沈んでいたい。)


  1. 2014/08/02(土) 16:43:18|
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『日記』 「民主主義を求めてー丸山眞男 その 2」 7/19 放送 8.1

『日記』「民主主義をもとめてー丸山眞男 その2」 7/19放送 8.1

* 昭和35年、池田内閣「国民所得倍増計画」

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*5・19の国会に機動隊導入後、民主主義を守れと世論が怒った。その大きな流れを丸山政治理論は捉えた。丸山は大スーターになった。丸山は「能動的な、志のある人民(アクティブディーモス)」が民主主義の核だ、それをどうやって作るか。と提起する。
だが、丸山の「永久革命としての民主主義」は原理として完成するが大衆的基盤から離れて行く。反安保のエネルギーが退いていったのだ。池田内閣の「所得倍増計画」にもっていかれる。人々は豊かな暮らしに関心を持つようになった。
(安保闘争であれほど燃え上がった市民のエネルギーは何処へいったか?秋になって運動の波はひいていった。運動の波という事はある。60年の5月・6月と60年の秋とは政治状況が全然違ってしまった。この状況の違いは恐ろしいほどだ。)

*<吉本隆明>の丸山批判。(擬制の終焉)
丸山と吉本
「豊かさを求める人々こそ、これからの社会の根本となる。丸山は彼らを否定的に見ている。私的利害を優先する意識を、政治的無関心派として否定的評価を与えている。実は全く逆であり、これが戦後民主主義の基底をなしているのだ。」
(丸山は後で「高度成長期の人々の意識を予測出来なかった」と自己批判している。高度成長期の日本の資本主義を見通せなかった、ということは丸山の民主主義が敗戦の・戦後の民主主義であるということだ。)
それまでの政治運動が戦後貧困からの闘争だったのだ。高度成長期に入るということは、単なる貧困からの脱出ではテーマにならないという事だ。もっと異なる視点が要求されていたのだ。一歩前にいたアメリカでは労働運動や学生運動はなかった。アメリカのようになるというのか?ベトナム反戦がでてきたのはもっと後だ。

* 当時、戦後民主主義は「虚妄」だという批判が出た。丸山は 
「瓦礫の中でくみ取ったはずの民主主義を虚妄として、大日本帝国の実在と比較してどちらをとるかと言えば、戦後民主主義の虚妄に賭ける。」と答えた。戦後民主主義は薄ぺらな泡のようなものだという保守派の批判に対して、保守派がよって立つ戦前の国家社会の非民主性・封建性を批判するのである。


* 丸山はデモクラシーの考え方として次のように言う。「大衆のパートタイム政治参加が大事です。職業政治家ではない。アマチャアが知らねえやと白けちゃうと政治なんて関係ないやとなってしまうと民主主義はお仕舞。」
* 民主主義には3つの側面―制度、理念、運動がある。制度は動かない。運動と理念は過程としてつくり上げていかなければならない。不断の努力によって作り上げなければない。

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* 丸山の著作が海外でも評価を受ける。数ゕ国語に翻訳される。

* 昭和43年、国民総生産が世界第2位になる(高度の高成長経済社会)
*「ベトナム反戦運動」
*「全共闘運動、日大闘争、東大闘争」(大学解体・教育解体)

日本の国民総生産が世界第2位になった。日本はそれだけ豊かになったのか。
戦後生まれのベビーブーム世代は過酷な受験戦争にさらされていた。大学の授業は大人数のマスプロ授業だと批判があった。そうした中で、「豊かさの中に異議を申し立てる世代」が出てきた。
ベトナム反戦運動・新宿騒乱事件。

日大全共闘
昭和43年、日大で34億円の使徒不明金が問題になって、学生が追求し、日大全共闘に発
展した。同じ年に、東大医学部学生スト、東大全共闘結成。全共闘は安田講堂を占拠、大学解体を言い出した。全共闘は全国の大学に拡大した。
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* 東大助教授佐々木毅(後に東大総長)
「(全共闘の学生たちを見ていると)ネガティヴなもの以外に無いということが分かってくる。学生たちの自治が期待できない、話し合いはまとまらない。結局警官導入となる。」
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昭和44年1月18日東大、8500人の機動隊導入で占拠している学生を排除。

* 東大助教授折原浩
「窓の外まで押しかけてくる学生に対して、尊敬する丸山さんはどうして声を掛けないのか。所属する集団から独立した者として、見解を表明なさらないのか?教授会がどうあろうとも自分の意見を学生にぶつけあって、大学を運営していく。それが大学の改革ではないんですか?」そう、丸山先生に申しあげた。
* 当時哲学科助手、加藤尚武
「百人近くの学生に取り囲まわれた丸山の姿を見た。イスに座らされて周りに学生たちが頭の上から怒鳴りつけている。丸山さんは<君たちを軽蔑する>と言っていた。
丸山さんは大学の古き良いところを残したいタイプ。学生にとって解体より温存ですから標的になりやすかった。」
* 当時院生、飯田泰三(政治学)
「丸山さんの全共闘への疑問、心情的ロマンチズムが強すぎる。彼らが言う「主体性」は内なるエネルギーを爆発させるだけで、自由な独立した人格とは結びつかないのではないかな」と言っていた。
* 三谷太一郎(法学部助教授)
「問題提起は認めておられた。行動形態に対しては認めていない。集団的な大衆行動を自由の脅威と感じておられ、大学が戦前・戦中から築いてきたリベラルな伝統が断絶することが耐えられなかったのではないか。」
丸山は今度の紛争を通じて応えた批判の一つに「先生、東大を辞めて丸山塾を開くべきです」東大教授として今日まで留まってきた、その不決断の報いが来たのだ。
* 長男 丸山彰さん (昭和21年~)
「東大に残りたい気持ちはなかった。紛争で自分が責任あることが出来なかった。大学改革を自分なりに考えたけれど全然実らない。失望と自責の念。」

(当時、大学紛争から高校紛争まで学園が荒れ狂った。紛争の大学側の当事者(執行部といった)ーそのバックに文部省の存在ー多数の教授会、僅かの造反教官といった構図であった。丸山は世界の大学紛争に目を向けただろう。しかし、長男彰さんの証言のように、大学改革で成果が上がるような提言や行動ができなかった失望と自責の念にとらわれた。むしろ、週刊誌で流された、大学を占拠した全共闘が貴重な資料やフィルムを壊したことへの怒りとして、「ファシストでもやらないことをやるのか}の言が残っている。)

2ヶ月後、心不全と肝炎のために入院。
昭和46年、定年前に自ら大学を辞めた。

その後も丸山の思想活動は衰えない。退官の翌年「歴史意識の古層」を発表。
「日本人の意識の底に独特の思考様式がある。あるパターンが繰り返し現れる。」
それを「古層」と名づけ明らかにしょうとした。

晩年の丸山は日本各地どんな小さな勉強会であろうと足を運んだ。一般の人々を相手に
「日本について」「民主主義について」語り続けた。

* 北大助教授、山口二郎(政治学)
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知的な貴族主義みたいなイメージがあるが、お喋りで朗らかな方だ。「永久革命としての民主主義」「憲法9条についても永久運動」という言い方をしていた。

平成7年、「阪神淡路大震災」
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同年、  「オウムサリ・サリン事件」

81歳の丸山の最後の講演。重い肝臓癌に侵されていた。
「日本は何かおかしいところがある。世間を騒がしたオウム、あんなのが何故生まれたのかというが、私には人ごとではない。私の青年時代には日本中がオウムだった。一歩外に出れば全然通じない理屈が、日本の中だけで堂々と通用している。それ以外の議論は耳にも貸さない。」
各界で活躍する教え子43人に最後の語りかけだった。
「他者感覚の無さ、他者がいないというか、同じ仲間とばかり話している。どうか、横にもっと話して下さい。もったいないですよ。」
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平成8年8月15日、82歳で亡くなった。

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* 福島県郡山市長・品川万里(丸山ゼミ出身)
大震災後、原発事故後の故郷の郡山市長になった品川さん、「日常の絶え間のない活動が大切だと考えています。3.11は大地震があった、原発の事故もあった。それを人間がどう作り変えていくか。ミクロの永久革命ですよね。現場の第一線の人との会話を繰り返しながら、その中から知恵を見い出していく。絶えざる改善です。」

平成26年3月22日「丸山眞男生誕100年記念講演会」が開かれた。
400人が参集して、師を忍んだ。
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* この放送があったのが7月19日(土曜)であった。早速録画をしてノートを取り出した。丸山さんの人生の軌跡が、戦中・戦後・安保・大学紛争と、現代史の中核を歩んでこられた。そのプロセスを見て、我が現代史-を振りかえざるをえなかった。また、今、時の内閣が日本の進路を右旋回に大きく舵を切った時だ。現代史を振りかえってよく考えろと言っているかのようである。
ここまで書いてきて戦後史の捉え方が不十分だと思ってきた。無論、戦後を引っ張ってきたリーダーたちに不満はおおいにあるのだ。ただひとつ言えることは、60年安保の時戦後の遺産を食いつぶして闘ったが勝てなかった。だが、国民会議なる文化人・左派政党・労組は闘いすらしなかったと思っている。国民会議のやり方では根本的な変革は到底ありえない。精々異議を唱えているだけだ。それを痛切に感じた。



  1. 2014/08/01(金) 22:39:19|
  2. 『日記』
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