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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『日記』再考「街は毎日が銃撃戦ー角田光代・サラエボ」 その② 2014.6.22再映 6.29

『日記』再考「街は毎日が銃撃戦ー角田光代・サラエボ」 その②  2014.6.22再映  6.29
                                       
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④「戦時下の子どもたち」という本を出した人。ヤスミンコ・ハリロビッチさん(ムスリム人、24歳)
若くシャープな感覚の持ち主といった感じの青年だ。
戦中、子どもたちは戦争をどう思っていたか? 「戦時下の子どもたち」の本の名から、いくつかあげる。

「僕たちは戦争を選んだのではない。生活を選んだのだ。笑いと遊びによって、戦時下の子ども時代を楽にしたんだ。」(エディン1984年生まれ)

「砲撃とスナイパーの狙撃の中、大学の歯学部まで、7キロ歩いて歯医者へ、、」(ミルザ1984年生まれ)
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(角田さんは、「7キロ歩いて歯医者へ」の中に、「子どもの強力な生きる意志みたいなものを感じたという。必死でひたむきに生きようとする意欲みたいなものがある」と。)

 ムスリムの編集者の青年は、戦時下の子どもの状況を象徴するイメージとして、次の比喩が忘れられないという。
「友が通りを横切る。彼の母親は髪の毛をかきむしる。彼の友だち2人は生きて帰るかどうかの賭けをしている。」
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スナイパー通りは生死の境だ。母親は髪をかきむしるほど心配しているのに、子どもたちは生還の賭け(ユーモア)に興じていると。子どもたちにとってゲーム・遊び・ユーモアが生き残る術になっている!
「戦争体験は悲劇的な瞬間とすてきな瞬間が交じり合った複雑な体験です」
「ユーモアが生きる術です。」

* メラ・ソフティッチさん(ムスリム人28歳) 8歳の少女が九死に一生を得て投稿した。
「うれしい。いっか誰かが、戦時下に子どもたちがどんな風に感じたかを知って欲しいと思って書いたの」
「私を救ったのは<数学>。住んでいるビルに砲弾が落ちたのは土曜日、学校で<数学>の補修があってベットにいなかった。だから日記に「私を救ったのは<数学>と書いたのよ。」
「8歳の少女が九死に一生を得て、何を思うか?きちんとしていること、両親の言うことをよく聞いて責任感を持った行動をしなければ死んだかも知れない」
小学生時代の文章を
「楽しい記憶は、地下室で遊んだこと、友だちと夜中お喋りをしたこと、砲弾の破片を集めたりした。私たちのゲームは戦争ごっこでした」

旅人角田光代は想いをノートに書く。
「わたしたちは戦時下にいない。でも絶望に忍びよられることはある。その時、正義をたてにしても、正論を言っても、なんにもならない。」
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「笑うことや、人を笑わせること、誰かのために何かをすること、絶望と同化しないこと」
(いま、「絶望に忍びよられて」いる状況かも知れない。理屈を言い立てても何にもならないかも知れない。「絶望と同化しない」いい言葉だなぁー。魯迅的な言葉だ。)

⑤ ボスニアを代表するヴァイオリンニスト、ジュヴァド・シャバナギッチさん(ムスリム人、69歳)
DSC_2994.音楽家

戦時中、演奏会を開きコンサートは250回にも及んだ。多くの人が聴きに来た。「その時間だけは人々は幸福であり、自分は正常だと感じた。」「いかなる侵略を受けても、人は本を読み、コンサートに出かけてゆく。人はまず心なのだと。第一に精神の生き物であり、次に肉体がくる。」「海外で演奏して友人たちからここにとどまること(亡命)をすすめられたが、サラエボに帰ってきた。自分の街を守る何かの力になりたかった。」「私の決意とは自分の街を捨てないことでした。自分の暮らす街だから、何かの力になりたいと思った。」「憎しみの感情は抱きませんでした。敵さえも憎みませんでした。どうしてあのような残酷な行動ができるのか。ただ哀れみを感じていました。」

⑥ 大学教授の一家。ミレンコ・ブレシッチさん(セルビア人51歳)教授、妻サーニャ。娘ティアナ(1992年生)息子アンドレイ(1994年生)

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教授は語る。「戦時中、2人の命を授かりながら夫婦は絶望の中にいました。夜、炎のありがたみをかみしめたり、、そういうことが生きる目的になります。水が手にはいったり、暖をとる為の木が入ると、それだけでその日は素晴らしい日なのです。」
「妻や女たちは私たちよりズーッと勇敢でした。私は精神的に参っていました。でも、妻は二人の子どもを生み強く生き抜いてきたのです。夫婦は二人の命を授かりながら絶望と隣り合わせの毎日だったという。」

とにかく、この家族は戦争に屈しなかった。
「戦争はここでは珍しいことでは無いんです。50年毎に起こっている。戦争はごめんです。又、戦争が起こるでしょうか?アンドレイ、どう思う?」
アンドレイ「僕は又戦争が起こると思うな」
ティアナ「起きると思う。起きて欲しくないけれど」
父「じゃ、誰が撃つか?」
アンドレイ「又、前と同じ連中が撃ち合んだよ」
父「みんなで逃げるとするか!」

(この家族はセルビア人である。セルビア軍が包囲しているサラエボの中のセルビア人家族。映像では奥さんのサーニャの表情が異常に硬かった。奥さんの凍り付いたような表情が気になった。豪快な詩人を思わせ、周囲を和ませる教授。<ワインの醸造の研究者でサラエボ大学教授>
いろいろな体験をして戦乱をのりきったのだなぁーと思った。)

作家角田光代は、毎日が銃撃戦だったサラエボの町に、生きることの意味を探して歩き回って1週間が過ぎた。様々の人々との出会いの中で、何を掴んだろうか?

以下、角田さんは言う。
生きる意味は2つある。
①  命を守ること。(生活すること、食べ物や水を得ること)
② 魂を生かし続けること。
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この町の人たちは無気力にならなかった。絶望に同化しなかった。絶対に奪われてはならないものを、守ることで闘った。何だろうか?
<生活>であるように思えた。人々の暮らし、生活というものの、凄まじい強さ私はこの街で知った。それは人を守るのだ。人の命と魂を!
なぜ、この世に音楽・絵画・映画・演劇・小説・スポーツ・冗談があるのか、私は今回の旅で知った。
一人の人の力の強さというものをもの凄く感じた。
ちっぽけな人間の、その人の、もの凄い底力を感じた。
私が書いてきたものも書いてゆくものも人の姿なので、人の持っている底力みたいなものが、もっと深くなるのかなぁー

* 筆者私は、作家角田光代さんのすぐれた感性・状況を感じ取る力に感心した。「絶望に同化しない」、、ぐさりと来た。
 「戦時下の子どもたち」の編集者ハリロビッチさんのシャープな感覚に敬服した。
「友達が通りを横切り、彼の母親は髪の毛をかきむしり、彼の友だちふたりは、生きて帰るかどうかを賭けをしている。」 
見方を変えれば残酷な言葉だが、過酷な状況の子どもたちの存在を象徴するイメージである。
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  1. 2014/06/29(日) 10:00:00|
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『日記』再考「街は毎日が銃撃戦ー角田光代・サラエボ」(2013.3.25放映。2014.6.25再映)その① 6.28

『日記』再考「街は毎日が銃撃戦―角田光代・サラエボ」(2013.3.25放映。2014.6.25再映) 
                                その ①     6.28

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勝手ながら、イビチャ・オシムの「民族共存へのキックオフーオシムの国のW杯」が6月22日に放映があって、<サラエボ>という共通点で、「角田光代のサラエボ」が再映されたと思った。(笑)
昨年の4月にこれを見て感ずるところがあってブログに書いた。この度、再見している我々側が大きな変化を迎えようとしていることを感じた。戦火の後の<サラエボ>に立ち、現地の市民から話を聞いている角田さんも、この映像を見ている我々も、昨年の時点とは違う状況に立っている。これに気が付き慄然とした!
この当時(2013年)、我々は永遠に?戦争をしない国にいると思っていた。戦争のために武器を持たない国の国民だと思っていた。(苦笑)
*ご承知のように、今大変な岐路に立っている。憲法9条によって戦後日本は戦争に巻き込まれずにきた。それが1内閣の解釈で憲法を変えられようとしている。しかも、憲法改正とかの国民の合意でやるのなら、とにかく与党合意、閣議決定というのだから無茶クチャである。平和憲法で育った我々にとって180度の転換である!

テレビの画面の中で再三このような場面がある。
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「見知らぬ誰かに命を奪われるということが、未だに理解できないのです。」「息子を殺した相手にコーヒーを飲みながら尋ねてみたいです。<なぜ殺したのですか>と。」
この場面で、テレビを見ている昨年までの我々は、息子2人を殺された母親の叫びに同情しても、まさかこちらも同じ次元の感情・状況になろうとは想像もしなかった。このことの意味の重さ・重大さを噛みしめながら角田さんの<サラエボ>を見てみたい。

まず、前回2013年4月のブログから、
「<旅のチカラ> 街は毎日が銃撃戦―角田光代・サラエボ」(2013.3.25)

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「サラエボ旅行案内」(戦場都市案内ガイド!)という本があるそうだ。(この本を東京の大きな本屋で探したが見つからなかった)
1992年の旧ユーゴー内戦の時、戦火のサラエボから出版された。2万のセルビア軍(260台の戦車、120台の迫撃砲、無数の銃砲に包囲されて日常狙撃・爆撃にさらされ、尚且つ、戦う市民たちの様子、サラエボ市内の様子をガイドしたものだという。前代未聞のガイドブックを手に旅人(角田光代)は20年後のサラエボを訪ねる。

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もともと、サラエボにはムスリム・クロアチア・セルビアの3民族が住んでいた。内戦突入2万のセルビア軍が4万のサラエボ市民を包囲した。包囲網は半径3km、スナイパー通りと言われた大通りを近くのビルからセルビア軍が市民を狙撃し、多くの死者が出たのは有名な話。ボスニア軍も防戦し、市民も戦い市街戦は4年も続いた。

① ガイドブックを企画した青年(ムスリム人)。
(見直してみて間違いに気が付いた。ガイドブックの企画者はスアダ・カピッチさん<ムスリム人60歳>の女性であった。)
この本を企画した意図は、

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1日24時間、4年間も絶え間なく、狙撃や迫撃の標的になって生きることの想像が出来ますか?それをテーマに私たちが体験したことを世界に伝えようと思ったのです。
戦時下でガスも水道も電気も止まった4年間、生き抜くにはどうしたらいいか?極限の中、恐怖といかに戦うか?生き抜くための方法とは何か?
戦火のサラエボでどうやって生きたか。生活を、文化を、楽しんだか!
まさに、奇書「戦火のサラエボ旅行案内」である。

② サラエボを守った元ボスニア軍副司令官ヨヴァン・ディビヤックさん(セルビア人76歳)
セルビア人なのに住んでいたサラエボを守るためにボスニア軍の指揮官として活躍、市民から絶大の信頼が寄せられている。
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 「スナイパー通りでは子ども、年寄り、女性すべてが狙われた。武器・兵器も優れた2万人の正規軍がどうして包囲だけで壊滅させられなかったか?」「市民側の士気が高かった。女性が重要な役割を担った。料理、洗濯、燃料を調達し夫や息子を軍や前線に送り出した。女性が守った家こそ大きな存在だった。」
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「サラエボを守ったのは女なんだよ。」
* 「サラエボ市街戦博物館」飛行場から市内までトンネルを掘って全世界と交流・援助物資の運搬・病人の運搬を行っていた。セルビア軍に包囲されたサラエボが全世界と繋ぐ命の救命トンネルであった。
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③ 元女性兵士ハリダ・ボヤジさん(ムスリム人61歳)戦後43歳で子どもを生む。明るく元気なお母さんという感じ。1992年二人の息子(17歳と13歳)が殺された。(2人の遺影が飾ってあった)この家から戦場に通った。庭に湧き水が出て多くの市民がやってきた。(戦時中電気・ガス・水道は止まったまま)近所の人と庭でいろんな食べ物を作って皆で分けて食べた。「暮らすことが大きな戦い」
元気で明るいお母さん。女性兵士としても有能なスナイパーだったという雰囲気を持っている。こういう人が支えたのだ。
彼女は語る。「見知らぬ誰かに命を奪われるということが、未だに理解できないのです。私は息子を殺した相手に、コーヒーを飲みながら尋ねてみたいのです。-<なぜ、殺したのですかと、、、>」

旧ユーゴ内戦の時、サラエボは260台の戦車,120台の迫撃砲、数知れぬ銃砲に囲まれた。2万の正規軍の包囲に対して4万の市民が街を守った。西洋と東洋との分岐点、異国情緒漂う街は映画や小説でも取り上げられ世界の同情関心が集まった。
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私は2008年に旧ユーゴを旅した時、サラエボに行きたかったが果たせず、近くのモスタルまでゆき、西欧とは違う雰囲気を味わった。ボスニアは郷愁の国である。

  1. 2014/06/28(土) 22:10:58|
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『日記』「民族共存へのキックオフ―オシムの国のW杯」(6.22放映) 6.26

『日記』「民族共存へのキックオフ――オシムの国のW杯」(6.22放映) 6.26

サッカー・ワールドカップ。4年に一度の大会。大歓声の観客に沸く!全世界で沸いている!オリンピックといいワールドカップといい、スポーツの国際試合は一時的に民族主義の坩堝になる。テレビでやっていた「民族共存へのキックオフ」はスポーツと民族主義の問題への深い問いかけであり、私も感動と共に考えさせられた。

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ワールドカップ出場32チームの中で初出場の国がある。それはボスニア・ヘルツェゴビナ、初戦で優勝候補のアルゼンチンとぶっかった。ボスニア代表チームは、ムスリム・セルビア・クロアチアの3つの民族の混成チームだ。
ボスニアは1992年~95年にかけて、3つの民族が互いに憎しみあい、20万の命を失う内戦を戦った。

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対立する民族を団結させ、ワールドカップ初出場に導いた立役者が元日本サッカー監督イビチャ・オシムだ。オシムは言う。

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「ボスニア代表は、民族の壁を越え、一つになるシンボルだ。サッカーは人と人とを結びつける。人は心の底では<共存>を望んでいる。このチームには、我が国の民族を再び結束させる力がある。そのためには、ワールドカップでの成功が必要だ。」
対立と憎悪を乗り越え、奇跡の神話はどうやって生まれたか?―ボスニア代表とオシムの闘いの記録である。

2014年、FIFAワールドカップ・ブラジル。
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初出場のチームが強豪アルゼンチンとの対戦になった。6月15日、ワールドカップに沸く、ボスニアの首都サラエボ。スポーツ・バアーで応援にわく観衆、その中にオシム夫妻の姿があった。

オシムは言う。
「長い間、何をやっても成功を手にすることが出来なかった。あの戦争(内戦)の後,全てが荒廃した中で、誰しも一生貧困が続くと考えていた時、サッカーが救いとなった。」

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ボスニア代表はヨーロッパ予選を勝ち抜いていった。主軸となったのは2人の選手、セルビア人の<ミシモビッチ>がゲームを組み立て、ムスリム人の<ジェコ>が決める。これがボスニア代表の闘い方だった。

サッカーは国を引き裂くことも出来る。それを目の当たりにしたのがオシムだそうだ。オシムの痛恨の体験の記録がある。
1990年、W杯イタリア大会。オシムは旧ユーゴの監督だった。
5つの民族、6つの国家からなるモザイク国家だった旧ユーゴ。80年代後半、民族主義や分離独立運動が激化していった。
<マクシミル事件―1990.5.13>
サッカーが民族の代理戦争と化し、スタジアムでは民族主義を掲げるサポターの暴力事件が頻発した。
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代表チームも民族の利害がぶつかり、実力で選手を選ぶのが困難になったが、オシムは実力で選手を起用してユーゴ代表をワールドカップに導いた。ユーゴ代表は強豪を次々と倒して、準決勝であの天才マラドーナのアルゼンチンとぶっかった。試合は0対0のまま、PK戦に突入した。オシムは選手たちに聞いた。「PKを蹴りたい者はいるか?」手を挙げた者はたったの2人。失敗すれば民族主義者からどんな攻撃を受けるかわからない、という恐怖だったという。異常な緊張の中で、責任の重さから蹴りたがらないし、疲れていて精神状態も良くなかった。恐怖もあったかも知れない。
ストィコビッチが蹴る、僅かに高く、外した!
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オシムへの問いで「あなたにとってあの試合はどんな記憶ですか?」
オシム「父親が死んだのを覚えていますかというのと同じ質問だ」とある!
(オシムの深い考え・洞察に敬服)
オシムのワールドカップは終わった。この敗戦の後、民族の亀裂は急速に深まり、翌年ユーゴは内戦に突入した。特に3つの民族の利害が激しく衝突したボスニアでは深刻だった。オシムは極右の民族主義者から脅迫された。彼は戦争に抗議するために、代表監督を辞任した。
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以上のエピソードを「サッカーが国を引き裂く」象徴として語っている。

2014年のワールドカップに戻る。

ボスニアのサッカー協会は民族ごとに3人の会長がいた。2011年、国際サッカー協会が代表3人も乱立する限り国際試合への参加を認めないと通告。このままではワールドカップへの道は絶たれる!
どうすればいいのか?白羽の矢がオシムのところにきた。オシム69歳、2年前に脳梗塞で左半身麻痺が残っていた。不自由な体を押して各民族の政治家や関係者を訪ねて折衝。

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セルビアの指導者ロディックに会いにゆく。セルビアはみんな敬遠していた。「何故来たか?」と問われて、オシムは「いい酒があると聞いたので、うまい酒を飲みに来た。」と答えた。(絶妙なジョーク!)
ロディックに語りかける。「サッカーはボスニアの宝だ。それをあなたは潰しても良いのか?」同じ人間同士として話が出来た。協力を取り付ける。2011年5月の総会で民族の壁を越えた協会を作ることが決まった。
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オシムの力で参加を認められたボスニアはヨーロッパ予選で快進撃を続けた。
今のボスニアの主力選手は、旧ユーゴ代表チームに憧れて少年時代を過ごし、激しい民族対立の時代にサッカーと出会った。
チームは、
ムスリム人のエディン・ジエコ。国民的スターでボスニアのダイアモンドと言われる。エース・ストラッカー。
セルビア人のズビェズダン・ミシモビッチ。チームの大黒柱。絶妙の連係を誇るジェコとミシモビッチ。
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本大会出場をかけた最終戦、ミシモビッチが基点となりジェコに展開、決勝ゴールへとつながった。

ブラジル大会では強豪アルゼンチンに1-2で敗れたが、6月26日、イラン戦に3-1で大会初の勝利となった。オシムの努力が実ってきた。
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  1. 2014/06/26(木) 10:00:00|
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2014年『映画』「ブルージャスミン」(ウディ・アレン監督ケイト・ブランシェット主演)6.24

2014年『映画』「ブルージャスミン」(ウディ・アレン監督ケイト・ブランシェット主演) 6.24

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映画「エリザベス」でのケイト・ブランシェットのイメージで見ていて、私のなかのケイト像がガタガタ崩れていった。これは「欲望という名の電車」なんだ!華麗だが虚栄心で塗り固められた女の崩壊を描いた映画なんだ! と私は心の中で叫んだ! 彼女が壊れてゆく様に背筋が走った!

ウディ・アレンの監督は作品が多くて、なぜか今まで本気で見てこなかった。この映画もケイト・ブランシェットで見たようなものだ。
ニューヨークで資産家と結婚し優雅なセレブの生活をしていたジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、一転全てを失い、シングルマザーの妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)が住むサンフランシスコの安アパートに転がり込む。そこで再起を図ろうとする。
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はじめ美しくエレガントさに目を眩ませて、ジャスミンの可笑しさ・深刻さを感じさせないところが、さすがに「女王女優」ケイト・ブランシェットである。一見、際立つ気品・典雅さ。衣装やバック類や装飾品は全部ブランド物で固めている。とこらが破産したのにニューヨークからファーストクラスに乗ってくる、センスが無いのにインテリアの才能があると思いこんだり、大学中退なのに自分は頭がいいと思い込んだり、何より美貌に自信があって、過去の栄光と虚栄心にすがっている女性であることがだんだんわかってくる。
映画はジャスミンの過去の栄光のセレブ生活がカットバックされて、栄光の世界に思い浸り、破産状態の現在と栄光のセレブ生活の過去が混在し、精神のバランスを失い、錯乱状態になってゆく。

庶民の妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)がジャスミンを際立させている役割になっている。善良で貧乏だけど垢抜けず、ジャスミンがセレブの時は鼻にも掛けられず、宝くじで当てた大金をジャスミンの夫の投資資金(詐欺)に回されるとか、(ジンジャーの元夫はこのことで怒っている)散々な目にあっているのに破産して精神がおかしくなった姉を迎えいれる。素朴で善良な庶民性が姉の虚栄に飾られた性格を一層際立させる。
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やがてジャスミンは知的で外交筋で働くというドワイドというお金持ちと意気投合します。ついにセレブの世界にカンバックか?

再起の新しい生活の夢も、途中まで成功していたのに何もかも無に帰して、シャネルの汗じみたジャケットを着て、ふらふらとストリートをブツブツ言いながら彷徨うジャスミン。ベンチに腰掛けて何か言っている。ベンチにいた人が気味を悪がって去ってしまう。ノーメイクとシャワーを浴び濡れたままの髪、汗じみたシャネルのジャケット、錯乱の世界にいるジャスミン。見ていて背筋がゾーとしました。
壊れ行くジャスミン、現代版「欲望という名の電車」ではないか!はるか昔に見たヴィヴィアン・リーの「ブランチ」とケイト・ブランシェットを重ねていた。映画史では「欲望という名の電車」とか「サンセット大通り」(グロリア・スワンソン)などの、壊れてゆく女の名演技の歴史があるが、ケイト・ブランシェットもその名に連なったのである。
ケイト・ブランシェット=アカデミー主演女優賞に輝く。


  1. 2014/06/24(火) 09:00:00|
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美術/音楽/舞台「ジャン・フォートリエ展」(ステーションギャラリー)6.20

美術/音楽/舞台「ジャン・フォートリエ展」(ステーションギャラリー~7/13まで) 6.20

ジャン・フォートリエ(1898-1964仏の画家)

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現代抽象絵画・美術の源流の1人として、或いはフランスの「アンフォルメル」の先駆者と知られている。私は抽象絵画をよくわからぬものと避けていたが、レジスタンスと関係があるエピソードを想い出し、ステ―ションギャラリーで回顧展をやっていたので見に行きました。

私の興味は、第2次大戦中に製作され、戦後すぐの1945年に発表された連作「人質」シリーズである。
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1943年占領軍に対する対独デジスタンスに参加、要注意人物としてゲシュタポに捕まり数日後に仮釈放された。精神科の病棟に匿われたが、病棟の塀の道路はレジスタンスを処刑する独軍の通り道だった。フォートリエの神経は如何ばかりだったであろうか!捕虜の虐殺を目撃した彼が表現したのが、「人質」シリーズだ。戦中のフォートリエの心中を想いやる。

高階秀爾さんによれば、描かれているのは人間の顔、「強い力で痛めつけられ、押しつぶされたようなおぞましい顔である。ぶ厚い絵の具を盛り上げた強烈な表現の奥から、戦争に対する激しい告発の叫びと、人間性の恢復を願う悲痛な祈りの声が聞こえてくる。」
彼は匿われながら、必死に創作に向かった。目撃した、捕虜への拷問・虐殺。毎夜塀の向こうの道路を、処刑するために地響きを立てて通る軍用車の音が責め立てるかのようだ。押しつぶされた顔、なぜか哀しい顔、画家の悲鳴とも憤りともいえる、衝撃的な思いが作品に込められた。この状況をどうやって表現したらいいのか!
1945年戦争の終了後、パリで「人質」が発表されると、サルトルらから「最も戦後的な画家だ」という賛辞を受けた。

フォートリエは1920年代から作品を発表していたが、これから具象か抽象かどちらへゆくか未分化であった。30年代、生活に困ってスキーのインストラクターやジャズクラブを立ち上げたりして生計を立てていた。
37年創作活動再開。22の彫刻を43年には残した。レジスタンスで逮捕、仮釈放後匿われると、「人質」の製作に打ち込む。
私は一つの仮説を立てる。
戦中の体験はあまりに大きく、衝撃的な体験は創作に影響を与えた。具象的な形は圧縮を与えられたように、押しつぶされていった。世界は変形して、いびつな形と鮮やかな色彩になった。彼は存在性を求めて不定形の世界に出ていった。
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1959年日本でフォートリエ展が開かれ、彼は来日し戦後日本の美術界の大事件になったと記録にある。
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翌年ヴェネツィア国際ビエンナーレ展で大賞をとり、抽象絵画・アンフォルメル(不定形)の画家として大成する。

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1956年の「黒の青」
繊細な切り立つような色彩、傷のように横に走る線、人の心に食い込んでくるような絵画である。

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  1. 2014/06/20(金) 09:10:36|
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『日記』 ① 「いずれが あやめ、かきつばた」 (明治神宮 6.17 )

『日記』 ① 「いずれが あやめ、かきつばた」(明治神宮にて) 6.17

DSC_2588.優美で繊細な花菖蒲②

<誘われて明治神宮の花菖蒲を見にいった。写真を撮ろうというのである。原宿の駅の隣の鬱蒼とした森の中に咲いていた。都心にこんな自然が残っていようとは!誰しも思った。
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「いずれがあやめ、かきつばた」とあるようにどれがあやめ(花菖蒲)か、かきつばた(燕子花)か素人には分からない。「あやめ」も「しょうぶ」は漢字で書くとどちらも「菖蒲」。菖蒲園の「花菖蒲」も別物だと、いう。それに和歌で出てくる「杜若カキツバタ」も別物という。①菖蒲湯に入れる「菖蒲」②花菖蒲③あやめ(漢字は菖蒲)④杜若、4つは似ているが違うという。①はサトイモ科で「蒲ガマ」の葉のような黄色な花。他とは全然違う。後の花菖蒲、あやめ、杜若は素人に見分けが難しいという。
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とにかく、桜・あやめ・紫陽花・紅葉は毎年見に行く。無精して手頃の近場で済ましている。
花菖蒲の群生であるが、どうカメラに撮ったらいいのか?花菖蒲は粋な花である。江戸の粋である。洗練されたあやめの美しさをどう表現したらいいのか?
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それと花菖蒲の群生を、立体感を持った映像に撮れない。どうしても平面的な感じになってしまう。写真の撮り方、カメラの表現の方法について戸惑いの中にいる。
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② 「帯状疱疹でご心配をおかけしました」
 ありがとうございました。
3月、原因不明の痛みが左側肘に出来る。痛みが左側上半身を走る。内科、整形外科で調べて貰ったが分からぬ。
ある日、左の胸部に湿疹が出て「帯状疱疹」だと皮膚科で判明、最近の帯状疱疹は後遺症が残る心配があるのでペインクリニックと併用してください、と紹介状を書いてくれる。
皮膚科とペインクリニックとの併用治療を受ける。3月発症。4月痛み。5月痒み。6月第1週、わずかな痒みが残る。2週完治する。
本当にいろいろとありがとうございました。

③ 6月は誕生日を迎える者が2人もいるので、合同誕生日会をやってもらった。いろいろな所に遊びにいった「タッ君」の7歳の誕生日会だ。「タッ君」の成長ぶりに感慨無量だ,,,しかし、この子が成長した時日本は戦争が出来る国になっているのか?そして、「タツ君」が戦場に!!! ゾッーとしてきた。

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  1. 2014/06/17(火) 20:14:24|
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『2014年映画』 「野のなななのか」(監督、大林宜彦。出演、常盤貴子、品川徹、安達祐実)6.14

『2014年映画』「野のなななのか」(監督、大林宣彦。出演、品川徹、常盤貴子、安達祐実、
村田雄浩、松重豊、6.14

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私にとって大林宜彦と言えば、1980年代の『尾道3部作』-「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」である。男女の入れ替わり物語、ラベンダーの香りでタイムスリップする美少女、尾道を舞台にした青春映画だ。ファンタジックな思春期の青春ムード漂う世界だった。それから30年、時は流れたが、、、「野のなななのか」を見た。
映画のタイトル、「なななのか」は四十九日の意味。
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ひとりの老人の死によって、郷里に集まった家族の姿、その老人の人生に影響を与えた戦争
体験の意味、3・11(東日本大震災)以降の日本人がどう生きたらいいかを問う作品である
と宣伝文句に歌っている。
舞台となるのは、かつて炭鉱で栄えた北海道の芦別。
2011年3月、雪降る芦別で病院長を長い間やっていた鈴木光男(品川徹)が亡くなった。死者の魂が生と死との境界にいる「なななのか(49日)」の間、光男の魂は時空を超えて彷徨う。2011年から1945年へ、大震災から敗戦へ、と。
離れ離れになっていた鈴木家の家族・縁者が葬儀のために集う。大学教授の冬樹(村田雄浩)、原発職員の春彦(松重豊)、看護師のカンナ(寺島咲)ら光男の長男・次男の子どもたち=鈴木家の孫たちが久々に集まった。そこへ現れた謎の女元看護師の清水信子(常盤貴子)により、次第に光男の過去が明らかにされてゆく。 
花園の2人

1945年、ソ連軍による樺太侵攻の時、若き医師鈴木光男は何を体験したか?
光男が愛した綾野(安達祐実)が戦火に巻き込まれ非業の死を遂げ、その思い出・記憶として中原中也の詩集と光男の描いた油絵が残される。それが信子の記憶に引き継がれ、1945年と2011年とが時空を超えて交差する。
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映画全体を貫いて流れてくるのは野の音楽師「パスカル」の演奏。野や畑、山や川をメランコリックな音楽を演奏して回る。人形劇団みたいなお伽噺みたいなメロディは何を意味するか?死者は生者と同居するということか。うら悲しい音楽にのせて北海道の風景の美しい風景を散りばめてゆく。
しかし、3時間は長すぎる。冗漫に陥る。戦争や大震災を忘れないで、というメッセージをナマで言い過ぎる。人の心に響かないものにしている。尾道3部作から遠くにきてしまったか、、、尾道が懐かしい。


  1. 2014/06/14(土) 10:24:55|
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美術/音楽/舞台「葛城ユキという歌手」(5/30コロッケ千夜一夜、葛城ユキ)6/10

音楽/美術/舞台 『葛城ユキという歌手』5/30(金)-コロッケ千夜一夜―
                          出演、葛城ユキ。司会、コロッケ。唐橋ユミ  6/10

葛城ユキ ①
 
「コロッケ千夜一夜」という番組を見た。コロッケの物まねの面白さは前から注目していた。
芸達者のコロッケはどんなことをやっているのか、そんな気持ちで見たのだ。
今夜のゲストは葛城ユキという歌手だった。名前は知らなかった。彼女の歌を聞いてビックリ仰天!ぐんぐん心に響いてくる!驚いた。
歌ったのは

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「ラヴ・イズ・オーヴァー」
「ボヘミアン」(コロッケとのデュエット)
「天城越え」
「ローズ」

私はこんな歌手を知らなかった。演歌の世界に引き込まれていった。
パンチの効いた歌声である。子どもの頃、美空ひばりの歌を聞いて独特の「裏声」に聞き入ったものだが、それを想い出した。独特の裏声、聞いている者の魂を鷲掴みするようなところがある。我が琴線に触れたのだ。
デュット②

コロッケの解説によると彼女の特長は「倍音」というのだそうだ。司会の唐橋ユミに教えていた。囁くような、絞り出すような裏声を吐き出すように(?)歌う。ロックや演歌の歌手が出したくても出せないで羨むそうだ。
コロッケとのデュエットの「ボヘミアン」。「ボヘミアン」は葛城ユキの18番だそうだ。ステージが熱くなった!大熱唱だ!私も熱くなった!
「天城越え」
本家の石川さゆりの「天城越え」が叙情性に富んだ美しい歌なのに対して、葛城ユキは別世界を作っている。美しいリリックな歌もいいが、時にはこういう情念にびんびん響いてくる歌を求めるのが人間なのだ。
それにしても、葛城ユキさん!声と同時に美脚の持ち主ですね。それと、おいくつなのでしょうか、、、



  1. 2014/06/10(火) 10:06:13|
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美術/音楽/舞台「非日常からの叫び声」(平野啓一郎・松方コレクションから)6.6

『美術/音楽/舞台』「非日常からの叫び声」(平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品)
                            国立西洋美術館・松方コレクションから 6/6

作家の平野啓一郎が国立西洋美術館所蔵の作品から、コンセプト(基本思想)を作り、出品作品を選び、カタログに文章を書いた。美術館の方では、作家の眼差しで見た新たな魅力を発見して貰いたかったようだ。私はこういう企画をどしどしやって貰いたいと思っているのでワクワクしている。
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作家の感性・美学で見た西洋絵画の魅力はどのようなものか?そして優れた感性はどのように美を伝えるか、それは美術批評あるいは批評文章の誕生である。どのように感動し、どういう表現で伝えるか、そこも期待しているのである。
ともあれ、美術館がより身近なものになったのは確実だ。松方コレクの見直しになった。もっともっと発掘されていいのだ。
平野さんも触れているが、企画展に行き、いささか疲れてしまうと、常設展まで足を延ばさないことが、国立西洋の場合、私も度々だった。なぜだろう?と心の隅にしまってあったことを取り出してみた。確かに常設はいつでも見ることが出来るという妙な安心感の上にあぐらをかいていたとも言える。美術館巡りは疲れるものである。普段、文明の利器で楽をしているためか、老朽化した施設をもっと歩く気力が失せてしまうことも事実だ。
平野さんは初め何らかのテーマを設定しょうとした。しかし、意味的なテーマだと例えば「愛」とか「革命」で展開しょうとすると、その意味に沿った作品と美術館所蔵の作品とはずれてしまい、要請の意味から外れてしまう。
結局、テーマを決めずに、自由に平野さんが所蔵作品の中から、興味をひかれたものを取り上げることになった。
6つのセクションに分かれている。
幻視 妄想 死 エロティシスム 彼方への眼差し 非日常の宿り
私は平野さんが選んだ作品の中から、自分の好みでいくつかの作品を取り上げてみたい。

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①  エドヴァルド・ムンク(1863~1944)<雪の中の労働者たち>
ムンクと言えば<叫び>が思い浮かべ、生の不安・苦悩をテーマとした19世紀末の象徴主義の作品だと思う。この<雪の中の労働者たち>はどうだろう?
<叫び>の不安とは反対な労働者のごつごつした力強さ、雪の中をスコップで掘っている過酷な労働のイメージを思う。前方の4人、特に前の2人の労働者がこちらを見つめ返して平野さん言葉でいえば「お前は一体、誰なんだ?」と問いかけている。
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②  ステーファノ・デッラ・ベッラ(1610~1664)<子どもを運ぶ死>
死にとって一番痛ましいのは、子どもの死である。死神が丸々と太った子どもを背負って、嫌がるのを無理やりに連れ出そうとしている。子どもが病気ではなく世の非情によって死へ連れ出されたのか、子どもは父母の手から離れたくないと助けを呼んでいる。こういう悲痛な作品の前に言うべき言葉がない。

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③ ディーリック・バウツ(1415頃~1475)<悲しみの聖母・荊冠のキリスト>
ヨーロッパの教会や美術館を巡ると十字架のキリストや聖母子像を嫌というほど見せられる。学芸員の解説によると、中世末期以来西洋では個人祈祷が盛んになり、これは「祈念像」と呼ばれる形式だという。個人が鏡を見るように毎日祈っていたのではないか。教会にあるようなものと異なり、親しみが持てる。イエスの泣いているような悲しみ、目が真っ赤である。マリアは若くイエスの母という感じはしない。2人とも手がとても綺麗で目が真っ赤で泣いている。自分たちの運命を思って泣いているのであろうか?毎日鏡を見るように祈っていたであろう人は、悲しみの聖母子に自分たちの悲しみをぶっけていたであろう。

④ ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864~1916)<ピアノを弾く妻イーダのいる室内>
 
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北欧の象徴主義を代表するデンマークの画家。日本でも展覧会をやりその時見にいった。時が止まったかのような室内画が多い。静寂、孤高、存在性などを感じた。
<ピアノを弾く妻イーダのいる室内>
平野さんは「光の絵―室内の光が描かれている」という。主題は「ピアノを弾く妻イーダ」ではないという。絵は左方から光が差している。前面の部屋も、大きな白い扉で仕切られ、妻がピアノに向かっている奥の部屋も左方から光がさしている。眼の前のテーブルと銀の皿が目につく。平野さんの凄いところは「(銀の皿を)見るともなしに見ている時、ふと扉の向こうの隣の部屋の妻の背中が、何かを語っているかのように感じ(略)刹那の動揺の気配を」、、、というような銀の皿の鋭利な光が、奥の部屋でピアノに向かっている妻の背中に反射しているかのような、静謐な日常にもたらす「刹那の動揺」を感じとっていることだ。これはなかなかのものですよ!

* ここにはデューラーの版画の凄いのがある。それを語りたいが準備不足で次回に繰り越ししたい。
* 松方コレクションは世界に誇る素晴らしいものだ。せっかくの宝を持ち腐れしないようにしたい。
* 実はずっと以前に見ていたのだが、病気のために中断するかと思っていた。まとめの文章がなかなか進まなかった。平野さんの展覧会の期日は6月15日である。予定していたことの半分も出来ていないけれど、ブログに載せることにした。せっかくの有意義な企画を皆さんに見て貰いたいからである。




  1. 2014/06/06(金) 21:51:22|
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『2014年映画』 「罪の手ざわり」(監督ジャ・ジャンク―、撮影ユー・リクウァイ、音楽リン・チャン 6/3

『2014年映画』 「罪の手ざわり」(監督ジャ・ジャンク-、撮影ユー・リクウァイ、音楽リン・チャン
                     出演チャオ・タオ。チァン・ウー。ワン・バオチャン 6/3

ポスター②

2006年の「長江哀歌」以来7年ぶりの作品、中国の名匠ジャン・ジャンクーの新作。
物凄いエネルギーをもって変化を遂げている現代中国、奇跡に経済成長を遂げた華やかな側面が強調されている。
高度な経済の発展は莫大な歪をもたらし、人の心を荒廃させている。
最近の中国で起きた4つの事件に焦点を当て、底に流れている貧困と格差をあぶり出してゆく。事件の主人公たちが、追い詰められ、暴力に訴えざるを得ない状況を描いている。

北部の山西省では、村の共同所有だった炭鉱の利益が実業家に独占され、労働者が過酷な労働と搾取に苦しむ中、実業家は自家用の航空機を乗り回している。怒りを抑えきれない男・ダーハイは実業家に掛けあうが取り巻きに袋叩きにあう。追い詰められダーハイは猟銃を持ち出す。
DSC_2506.大量のトマト

西南の重慶に妻子を残して出稼ぎに出たチョウは、土地を転々としながら強盗を繰り返し,家に仕送りをしている。
真北の湖北省の風俗サウナの受付嬢であるシャオユー(監督の常連・チャオ・タオ)は、金に物言わせてサービスを強要する客の侮蔑に耐え切れなくなってナイフを手にする。
南部の広東省では台湾企業で働く十数人の若者が次々と自殺したという。純朴な青年シャオホイは故郷から働きに来たものの、歯車の一コマでしかなく、条件のいいサービス業に流れ、ナイトクラブに仕事を変え、そこのダンサーにのめり込んでいく。
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中国は広大だ。山西省は広く荒涼とした風景、重慶の河のあるみずみずしい美しさ、広東の緑溢れる風景。それぞれの風景を舞台に物語は展開する。
チャオ・タオ演じるシャオユーは、妻子ある男性と不倫の恋をしていたが、男性は新幹線みたいな電車に乗って勤務地に去って行き、妻子の親族の男たちに暴力で脅される。サウナでの惨劇の後、仕事を転々とし、さすらいの旅続ける姿から我々は何を思うか?
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4人の主人公たちが追いつめられ、暴力に至る姿は我々に何を感じさせるか?
躍進する現代中国の暗黒部分を映し出しているといえる。と同時に伝統的な京劇や武侠物「水滸伝」が後半をいろどるは何故か?チャオ・タオ演じる惨劇は伝統的な大衆演劇の世界だ。彼女のさすらいは任侠映画の股旅物の旅でもあるし、映画での彼女の彷徨でもある。中国の任侠物の大衆演劇の世界は僕には分からないが、日本の任侠ものの映画とあまり変わっていないだろう。悪玉の親分にに立ち向かう流れ者の立ち回りであるし、道中を旅するさすらいの物語であるのだ。
この作品が7年ぶりな訳は、中国で活動禁止処分にあっているからだ。過去の作品を政府に無断で国際映画祭に出品したことが理由である。従ってこの現代中国の問題を鋭くえぐった作品も国内では上映されず、海外の資金によって作られた。中国の若者たちは海賊版で見るわけである。

「ジャ・ジャンク―」
中国山西省汾陽市出身(1970.~)の映画監督・脚本家・プロデュ―サー。チェン・カイコ―の「黄色の大地」に衝撃を受け北京電影学院に入学して映画の勉強をした。そこで製作した「小山の帰郷」が海外の金賞に輝き、卒業製作である「一瞬の夢」が1998年のベルリン国際映画祭他で金賞に輝いた。2000年の「プラットフォーム」、2006年の「長江哀歌」はヴェネツィア映画祭で金獅子賞を受けた。

  1. 2014/06/03(火) 21:50:18|
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