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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『日記』「ロベルト・ボラーニョ 作<通話>について」07.29

『日記』「ロベルト・ボラーニョ(1953~2003)<通話><野生の探偵たち><2666>」
                      07.29
ボラーニョの大長編小説「2666」が静かなブームになっている。
2666ポラーニョ

2009年、テレビ「週間ブック・レビュー」で「通話」が紹介されていて読み、たちまちボラーニョの虜になった。が、彼は2003年、鬼籍の人になっていた。大変残念のことだ。
ロベルト・ポラーニョ
ボラーニョは1953年、チリのサンティアゴに生まれる。1968年一家でメキシコに移住。1973年チリに一時帰国し、ピノチェトによる軍事クーデターに遭遇した。8日間拘留された。74年メキシコに戻る。その後、エルサルバドル、フランス、スペインを放浪、77年以降スペインに居を定める。
1984年小説家としてデビュー、「通話」(97年)、「野生の探偵たち」(98年)「2666」
(2004年)精力的に発表するが2003年50歳の若さで死去。

ある批評家が「ウディ・アレンとタランティーノとボルへスとロートレアモンを合わせたような奇才」と言ったそうであるが、まことにうなずくばかり。邦訳された初期の短編集「通話」(松本健二訳・白水社)の表紙に目がひかれた。絹の素敵なドレスを着た女性が、両手で左右の腰をつかみ歩いている後姿。前方でオートバイに乗ったサングラスの男がその女性を見ている。背中と腰と膝のところによった微妙なドレスのしわ。ぞくぞくするような粋で官能的なその写真からは、南米のラテンの街の情景を髣髴させた。私はこの作家がたちまち好きになった。 
DSC_8964ポラーニョ.通話

「通話」
3部構成になっている。
第一部 「通話」(センシニ。他4編)
3流のB級作家や詩人たちの、誰からも認められないまま、ひたすら愚直に作品を書き続ける話である。作者自身がB級作家が案外好きだったりして、登場人物の作家連中が、愛すべき人間であり、愛とペーソスをもって描いている。ボラーニョの自画像の反映か?

第2部 「刑事たち」(芋虫。雪。ロシア話をもう一つ。ウィリアム・バーンズ。刑事たち。)
          
「芋虫」
 主人公は16歳。学校をさぼってゆきつけの書店をめぐって本を読んだり、映画を見たりしていた。公園に面した書店からは、ストローハットにバリ煙草をくわえた男がベンチに坐っていた。まるで芋虫みたいだと思った。毎日見かけるうちに路上生活者にしては小奇麗な格好であると思った。その芋虫に声をかけられ話すようになる。彼の出身地が祖父の故郷の近くであると父から聞く。そこの土地は「ひどく貧しくて、仕事もなければ産業も無い、いずれ消えてなくなる運命の村だ」ということだ。芋虫はいつも銃を持っていた。
ある朝彼が具合が悪くなり、僕が世話をする。それで彼と親しくなる。芋虫は自分の故
郷の話をする。
 「村には60に満たない家と2軒の酒場と食料品店があるだけと言う。村は2000年から3000年の歴史があり、代々暗殺と護衛を生業としてきた。暗殺者が暗殺者を追うことはない。自分の尾を噛む蛇みたいなものだ。もし己の尾を飲み込んでいる蛇に出くわしたら、急いで逃げることだ。そんな時は不吉なことが起きる。現実が砕け散るような事が起きる。」
彼は世話になったお礼だといって僕にナイフをくれた。骨製の柄には「カボルカ」という出身地の地名がきれいな洋銀の文字で刻まれていた。翌朝、彼は居なかった。その後僕は彼に会っていない。

 不思議な作品である。メキシコ北部の砂漠地帯にある村。2000年も3000年もの歴史を持つ暗殺者の村。日本にも忍者の村があったと言うが、ここから様々な幻想が沸いてくる。政治の影でテロを担う集団。歴史の代々の背後にあって暗殺と護衛を受け持った。これはもっと想像をたくましゅうしてみるとおもしろくないか?暗殺と護衛でしか生きられない、というより、暗殺だからこそ2000年も長い歴史に耐えたと言えるかも知れない。何かゾクゾクしてくる。

「刑事たち」                                  
 作者ボラーニョ自身、1973年の軍事クーデターによって8日間拘留され、その後 外国(メキシコ、スペイン)を流浪する。その時の強烈な体験が作品の背景にある。クーデター後の軍事政権で弾圧に加わった過去を持つ2人の男の対話が流れている。警察の中に中学の同級生がいた。獄中生活で髪は伸びほうだいで、便所に行く途中で鏡を見ると別人が写っていた。刑事は鏡が汚れていて、警察署の廊下が暗いせいだといって、自分も覗いてみると
「鏡を見たら、そこには、目を見開いて、おびえきった顔の男が映っていて、そいつの後
ろには、二十歳くらいなのに見かけはあと10は上の男がいて、髭もじゃで、目の下には
隈(くま)が出来ていて、ガリガリにやせてて、鏡に映った2人の顔を俺の肩越しに見て
いるんだ。無数の顔が見えたのだ。」
弾圧者側も目に隈があり恐怖に震えている。軍事政権の秘密警察の恐怖感が見事に描かれている。

ボラーニョの長編を読むと、彼が20・21世紀の作家として、チェーホフ、カフカ、ボルヘス、は当然ながら映画や演劇にも興味を広げていることがわかる。又、チリの軍事クーデターに遭遇し8日間の拘留を体験した。
その後、亡命作家として世界を放浪したことが、その後の作品に様々な影響を与えたことが想像できる。

久しぶりに小説を読んだという感想。少年時代の夢中に小説の世界にのめり込んだ感じだ。だから、彼が2003年に50歳で亡くなったことは残念だった。同時代の作家と共に歩む愉しさが失われたからだ。

だが、「通話」は短編集だが、「2666」となると5部構成の大長編小説で、読むには手強い相手だ。「アンチヴェルディ」という何処かで聞いたことのある名前(アンチボルド。16世紀のイタリアの画家。奇怪な絵で有名)の作家の小説を4人の批評家(男3人、女1人)が、その研究を通して知り合い、友情を深め、3角4角関係に陥いる。メキシコの架空の町サンタ・テレサを舞台に女性連続殺害事件が絡んで展開する。
小説の醍醐味が味わえる作品だが、文学的仕掛けや主題とエピソードとの関連が理解不能の部分がある。各人の趣味・趣向・読解力が問われる作品か?
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  1. 2013/07/29(月) 18:18:54|
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2013年『映画』「ひろしま」(石内都・遺されたものたち。リンダ・ホーグランド監督 07.25

3013年『映画』「ひろしま」(石内都・遺されたものたち。
              監督、リンダ・ホーグランド)岩波ホール7月25日

タイトル、ひろしま

ヒロシマ・ナガサキの被爆から68年になる。原爆を訴えても、人々の心に響かない。68年という歳月の風化?だろうか。写真家・石内都の「被爆」の写真は、見るものを立ち止まらせ、心の中に強烈な印象を与えずにはおかない。
それは、原爆で亡くなった人々の遺品―絹や水玉のワンピース、人形、ボロボロに焼けた子どもの靴、どうにか形の残った眼鏡、等の写真なのだ。
遺族にとってもわが亡き児の大切な遺品、みなさんにお役に立てるならと寄贈した品々。石内都さんが写真に撮った。
少女のワンピース
ブルーのワンピース

1945年、モンペに頭巾という戦時の厳しい衣服の統制下、秘かに女性は絹の下着やその人の逸品を着ていた。
橋に架かったドレスの残骸
爆心地の橋に、絹のージョーゼットというー薄い絹の美しい生地のワンピースの残骸だけが残っていて、中身の人間は一瞬の内に吹っ飛んでいた。母親が発見した。遺体は発見できず、手縫いのドレスの残骸が残った。

水玉の絹のワンピース。女性なら誰でも着たくなるような、、、
水玉の

戦前は子どもの洋服は母親が手縫いでこしらえたり、街中の洋裁店に作ってもらって着せた。一点一点母親の思いが込められている。
昭和を思わせるような、軍服みたいな子どもの洋服。着古したようだがボタンがしっかりと付いている。
子ども服

「羽二重」といったかしら、昔、男の子の七五参のお祝いに作った豪華な着物。遺児の取って置きの遺品だったでしょう、と想像をめぐらす。

壊れたメガネ、愛児はその眼鏡で何を見ていたか?
眼鏡

ひもがない焼けた靴。爆心地で被爆しお母さんに会いたいと必死に家に帰り、靴を脱がせようとするが「お母さん!痛いよう!痛いよう!」と泣きながら死んでいったわが子の靴。

紙に包んだ人形、そっと紙をはがしてゆくと足の指が見えてきた。まるで生きているかのような、我が愛娘の足の指かと思い惑う、、、

石内都の「広島の被爆」をテーマにした写真展が2011年から翌年にかけてカナダのバンクーバーで行われた。写真は日本を代表する女性写真家、石内都。日本映画の字幕翻訳家米国女性のリンダ・ホーグランドがドキュメンタリーに仕上げた。
DSC_8994展覧会

展覧会会場で観客にインタビュー。
アメリカでは「原爆アレルギー」で頭からの拒否。ところが会場で写真にみるみる引き込まれて行くのがわかった。水玉の素敵なワンピースに立ち止まる女性は「自分が水玉が好き」だった。石内さんの写真が「原爆アレルギー」のアメリカ大陸の人々の心を開いてゆく。監督のリンダは「何でも話せる聖域」になったという。

これらの遺品は被爆当日に皆亡くなった人々のものばかり。作品の写真からはそれを着ていた者や身に着けていた者へイメージが行き、いろいろと想像力が働く。彼らの心に被爆や原爆が日本だけの問題ではなく、総ての人々の問題だと突きつけられるのだ。

見る者の想像力に訴える写真、あらゆる表現というものの根幹に関わることではないか。
事実を撮っても何も感動は生まれない。花や自然の美しさを技術的に追っても、ただそれだけだ。ああ、きれいね、と思うだけだ。」
魂を揺るがすような感動は、こういうところからは生まれない。

この作品での、見る者の想像力をかきたてる方向性は有効かつ面白いと思う。
  1. 2013/07/26(金) 16:32:50|
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2013年『映画』「25年目の弦楽四重奏」(監督ヤーロン・ジルバーマン)07.14

2013年『映画』「25年目の弦楽四重奏」(監督、ヤーロン・ジルバーマン。音楽、アンジェロ・バダラメンティ。演奏、ブレンターノ弦楽四重奏団)
DSC_8960弦楽四重奏


弦楽四重奏団を組織し、長期にわたって同一メンバーを維持し続けることは至難の業らしい。音楽に対する基本姿勢の一致はもとより、音色の好み、音程感覚、リズム感、メンバーそれぞれが持つ楽器のグレード(例えば、全員ストラディヴァリとか)に至るまで、結成すること自体容易なことではない上に、音楽以外のわたくしごとも絡んで、楽団崩壊の危機は常にある、という。

映画では「弦楽四重奏団」の各メンバーに、音楽的に以下のような味付けをしている。
第一ヴァイオリンのダニエル(マーク・イヴァニール)、冷酷なまでに精確でシャープな演奏で四重奏団を引っ張る。色彩感と確かな質感とリズムを与える第二ヴァイオリンのロバート(フィリップ・シーモア・ホフマン)。深くみずみずしい感情表現で曲を進化さるヴィオラのジュリエット(キャサリン・キーナー)。ロバートとジュリエットは私生活でもパートナーである。そして、世界的に有名な四重奏団の要であり、父親的存在を果たす、最年長のチェロリスト・ピーター(クリストファー・ウォーケン)である。
キャスト

25周年を迎えた世界的に有名な弦楽四重奏団の、記念の演奏はベートーヴェンの弦楽四重奏曲14番。難曲中の超難曲である。そのリハーサルの時、最年長でリーダー格のチェロのピーターが、突然に今期限りの引退を宣言した。不治の病のパーキンソン病ー体が萎縮してゆく病気ーに罹ったのだ。

残されたメンバーは動揺し、不安、ライバル意識、嫉妬、家庭の亀裂、不倫、不和、、、それまで均衡を保っていた感情や葛藤が崩れだす。ドラマはカタストロフィーの方向にゆくのか、どのような展開を見せるか?

母親を早く亡くしたジュリエットにとって、ピーターと彼の亡き妻は親代わりだった。不治の病に罹ったピーターへの心配。彼のいない楽団でやってゆけるだろうかという不安。
彼女のパートナーの第二ヴァイオリンのロバートは、自分も第一ヴァイオリンを弾きたいと言い出し、抑えていた日頃の鬱憤を一気に噴出した。ジュリエッと衝突し、一夜の不倫を犯してしまう。勘の鋭いジュリエットに見抜かれ、2人は別居に、家庭崩壊が始まったか?
ダニエルはジュリエットから頼まれて、ヴァイオリニストを目差す彼女の娘アレクサンドラを指導していた。彼女は天才肌のダニエルに憧れて彼を恋するようになり、ダニエルは魔が射したように彼女との恋にのめり込んでゆく。
今まで均衡を保っていた、格調高い楽団はどこへいったか?

ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲12番~16番は難曲中の難曲で有名である。
音楽の革命家ベートーヴェンは死の1年前に5つの弦楽四重奏曲を作曲。いわば彼の波乱に富んだ音楽家人生の総決算をこめた。彼は人生に起きたあらゆることを内省した。その極限が14番だといわれている。
14番はそれまでのカルテットの定番の4楽章形式を7楽章形式にした。40分間休み無しに演奏する。当然、楽器の音程は狂ってくる。狂ったまま曲の統一感を求めて演奏する。4人の奏者は曲の統一点を探ってゆく。
14番は深い深い内省の谷をさまよいながら、爆発的なエネルギーを発散して恍惚の山頂にたどり着く曲だ。

さて、映画の「弦楽四重奏団」は当日を迎える。
チェロは大丈夫か?
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲14番が始まる。各自、演奏が始まると曲に熱中していつもの手なれた世界に入っていった。
演奏のたけなわでチェロのピーターが中断して、観客に向かって退任の挨拶をし、後任のニナ・リーを舞台に呼び寄せ交代する。演奏の再開、、、それも最も集中力を要求される「暗譜」での演奏である。
終了と同時の満場の大歓声と拍手。

その見事なシーンは見ていて涙が出て仕方がなかった。と、同時にこの映画は感動的な引退劇であることを理解した。見事な終幕の演出である。
長年、その世界を引っ張ってきた最長老の、思いがけない引退と長年の功績に対する讃辞。
優秀な新しい後継者をあたたかく迎える拍手。

クリストファー・ウォーケンの老境のチェロリストが良かった。「ディア・ハンター」でオスカの助演男優賞をとり、何度か他の映画でお目にかかっている。劇中、教室で生徒たちを前にして話す名チェロリスト、パブロ・カザルスとのエピソードがとてもいい。才能があると見れば徹底的に褒めまくる。「私はとてもうれしいよ。一瞬でも素晴らしい音が聞けたことに感謝する」!

  1. 2013/07/14(日) 14:09:53|
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2013年『映画』「台湾アイデンティティー」(酒井充子監督)07.10

2013年『映画』「台湾アイデンティティー」(酒井充子監督)07.10
台湾アイ

台湾は東日本大震災の時、2百億を超える義捐金を日本に寄せた。観光では多くの日本人が台湾を訪れている。

私自身、民主化後(1987年の戒厳令解除後)台湾に行った時、酒場である老人から話を聞いたことがあった。流暢な日本語で蒋介石のことを悪く言って日本のことを追求しない。(こちらは戦前の植民地政策のことが頭にあったので、そのことをつ込んでくると覚悟していた)今後の台湾は日本とも世界とも仲良くやってゆかねばならないと言ったことが強い印象に残っている。その時、台湾の老人が流暢な日本語をしゃべることに特別な注意を払わなかった。今回、この映画を見て、私自身の問題意識の浅薄さを痛感した。

酒井監督の台湾に対する原点に次のエピソードがあるように思える。

台北の郊外のある都市でバスを待っていたら、ある老人が寄ってきて「日本からですか?」流暢な日本語で尋ねられた。そして「公学校(小学校)時代、とてもかわいがってくれた日本人の先生がいた。戦後、先生が引き揚げてから、一度も会うことなく今に至るが、いまでもその先生に会いたいと思っている」
バスが来たので別れたが、後に猛烈な後悔が襲ってきて、後でその老人を探したが分からなかった。戦後50年たった当時まで恩師のことを覚えている人がいる台湾ってどういう国なのか?


台湾は日清戦争後の1,895年(明治28年)から1945年までの50年間日本の植民地だった。第2次大戦の敗北の1945年までに日本語で教育を受けた世代を「日本語世代」というが、その精神性は日本人より日本的だと言われる。その人々もー1945年の敗戦当時10歳の者も今は78歳、つまり80代以上の老人たちだけになった。「日本語世代」が戦後の台湾を引っ張りリードした。

酒井監督は台湾の「日本語世代」が、敗戦で日本人が引き揚げた後の戦後65年をどう生きたか、個別の何人かに直接にインタビューして実像に迫った。
台湾人生

酒井監督は2008年に「台湾人生」という第一作を作っている。これは「日本語世代」のドキュメントの続編である。

ドキュメンタリ作品に浮かびあがって来るものは、6人の人の立派で真摯な戦後史である。六十五有余の台湾戦後史は決して平坦ではなかった。むしろ暗澹たるものー蒋介石・国民党独裁・弾圧は白色テロと38年間の戒厳令支配だった。彼らの戦後の生き方に冷酷な影を投げかけ、尚且つそれに抗して戦った人生だった。
* 「白色テロ」
  革命運動や民主化運動などに対する、当局側の弾圧。台湾では1949~1987まで38年間戒厳令が引か  れ、多くの人が逮捕・拘禁、拷問、銃殺された。恐怖の空気が社会を覆い、社会の発展を妨げた。

少数民族のリーダー「高一生」は1954年「反乱罪」で逮捕・処刑。その長女でツオウ族出身の「高菊花」さんは一家の生活を支えるために歌手として苦労。国民党の尋門は続き、1971年「自首証」を出してやっと自由の身になった。
* 「少数民族」タイヤル族、アミ族、ツオウ族など14の部族が政府の認定を受けている。

高菊花さんの父方の大叔父(高一生の兄弟)ツオウ族の「鄭茂李」さん、18歳で海軍に志願して高雄で敗戦。228事件の際、同族の若者と飛行場攻撃に参加、執拗な尋問を受けたが逮捕は免れた。その後、阿里山の麓で始めた茶の栽培で成功。何度も日本に来た。
* 「228事件」
  1947年2月27日、中国人の国民党闇タバコ摘発隊が台湾女性に対して暴行する事件が起きた。抗議のデ  モが起こる。憲兵隊が非武装の民衆に発砲し、多数の市民が死傷、これが発端となって台湾全土に抗議行動が  広がった。政府は大陸に援軍を要請し鎮圧した。この時、日本統治下で高等教育を受けた裁判官・医師・役人  らエリート層が殺害処刑された。

呉正男
台湾南西部の出身、地元の小学校から東京の中学に進学、陸軍特別幹部候補生に志願、航空通信士として北朝鮮で敗戦。中央アジアの捕虜収容所で2年間強制労働、1947年7月日本に戻ったが228事件後の台湾に戻れなかった。そのまま、日本の大学に進学、横浜華銀に就職、日本人の妻との間に一男をもうけた。日本にいて台湾の情勢を常に監視続けた。「日本語世代」の在日代表のような位置にあったとされる。

張幹男
1930年台湾人の父と日本人の母の間に生まれる。工業高校在学中に敗戦、台湾独立派の冊子を翻訳しようとして「反乱罪」で逮捕、8年間も火焼島(現・緑島)の政治犯収容所に服役。出所後日本語ガイドになり、1970年旅行会社を立ち上げ150人規模の会社に成長させた。政治犯として孤島に青春の8年間も収容されるなんて!

黄茂己
1923年台湾南西部の生まれ。旧制中学卒業後台湾少年工の一員として神奈川の高座海軍工廠に行く。挺身隊員だった妻と知り合い、戦後結婚台湾に帰国後は小学校教員として定年まで勤めた。白色テロ時代子どもたちに「本当の民主主義はこんなものじゃない」と伝え続けた。勤めた小学校で自ら植えた木が大木に育ったのを眺めながら生きてきた来し方を振り返る。教え子が孫を連れて通りかかり挨拶を交わす。黄さんの90年の人生の中で今は一番平穏だろうか?

宮原永治
1922年生まれ。インドネシア・ジャカルタ在住。1940年18歳で志願しアジアの戦場を転戦しインドネシアで敗戦。千人の日本兵、インドネシアの青年たちとオランダからの独立戦争を戦った。戦後インドネシアの国籍を取得、70年代日本企業に就職、日本出張の際、家族に会うため台湾に寄り、最初で最後の里帰りとなった。残留日本兵は彼ともう1人だけになった。 

戦前日本人として教育を受け、日本兵として敗戦を迎えた「日本語世代」は、本来台湾の戦後史を担う中核になるべき人材だった。蒋介石の国民党が大陸から逃げてきて戒厳令を布いて居座った。各自の殆どが被害に遭っている。白色テロの時代の暗さに反比例して戦前の日本統治時代を美化している感じもある?(日本人にやさしいと言う声が聞こえるが)
日本の現代史と同じように1930年代までに軍国主義は確立して、(戦争に反対する勢力は総て弾圧して)40年代は戦争に邁進する時代だったのだ。(総力戦化)
日本人としての教育を受け、戦後台湾に帰ってみれば大陸から国民党が大挙占領して、38年間もの戒厳令の暗黒政治を布いた。「日本語世代」はアイデンティティを問われたに違いない。戦中の「皇国民」としての自分、戦後の台湾人としての自分、安易に国民党に行かなかった。少数民族の自立・誇りもあったろう。台湾独立の考えもあっただろう。映画を見ていて登場人物たちの生き方に確保たる人生を感じるのだ。南国特有の明るさを感じるのだ。

日本ではどうだったか?
敗戦の混乱、中国大陸に出来た新政権の驚異、巨大な中国論、2つの中国はないという論、台湾での38年の戒厳令政治を知らずに、或いは無視したのか?例えば賠償を免除するというので蒋介石を持ち上げる論があったように記憶しているし、白色テロのニュースは余り伝わらなかったように思えるのだが、どうだったのだろうか?





  1. 2013/07/10(水) 21:38:57|
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美術の検証「ブリューゲル再び」 07.06

『美術の検証』「ブリューゲル 再び」07.06

「野間宏の<暗い絵>から始まった」
プラド美術館で幾つかの貴重な体験をした。東京に帰ってその感動の分析や幾多の謎や不明の解明の作業が待っていた。
死の勝利 <死の勝利>。プラド美術館

プラド美術館でボスの「悦楽の園」の後に見たブリューゲルの「死の勝利」も、それまでのブリューゲル像とは異なった印象を持った。「農民の画家」という俗称がある様に「村の農民」や「遊ぶ子ども」のイメージがブリューゲルには浮かんだ。私は少年時代の貴重な体験をすっかり忘れていたのだった。

「草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪風が荒涼として吹き過ぎる。はるか高い丘の辺りは雲にかくれた黒い日に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のところどころに黒い漏斗形の穴がぽつりぽつりと開いている。その穴の口の辺りは生命の過度に充ちた唇のような光沢を放ち、うずたかい土饅頭の真中に開いているその穴が、繰り返される、鈍重で淫らな蝕感を待ち受けて、まるで軟体動物に属する生きもののように幾つも大地に口を開けている。そこには股のない性器ばかりの不思議な女の体が幾重にも埋められていると思える。どういう訳でブリューゲルの絵には、大地にこのような悩みと痛みと疼きを感じ、その悩みと痛みと疼きによってのみ生存を主張しているかのような黒い円い穴が開いているのであろうか。」

反逆天使<反逆天使の墜落>1562年

野間宏の「暗い絵」の冒頭の文章である。作中の主人公たちがブリューゲルの
画集を見て様々に感じたことの表現である。難解な文章は難しく読解に苦労し
た。高校何年の時だったろうか?イメージを出そうと書き写したり、高校の図
書館で世界美術全集からブリューゲルの絵を探したが「暗い絵」にある様な絵
は見つからなかった。当時文学に関心を持っていたのでブリューゲルの方は忘
れ「暗い絵」の不思議な文体は記憶に残った。

今、野間宏の「暗い絵」とブリューゲルの画集を眺めながら、モデルになった
絵はどれだろうか?と探しながら、当時は具体的な一作品をさすのではないと
云われたことを思い出した。
「大地に黒い漏斗形の穴がぽつりぽつりと開いて」「穴の口の辺りは生命の過
度に充ちた唇のような光沢を放ち」「軟体動物のような生きものが幾つも口を
開けている。」これはヒエロニムス・ボスの方が本家本元だと思いながら、自
分なりのブリューゲルのまとめに向かった。

* ピーテル・ブリューゲル(1525/30~1569)16世紀のフランドルの画家。
 H/ボスと同じように資料・記録がなく不明な点が多い。

1525//30年 フランドルのブレダ地方(現在のベルギー)に生まれた。
1540//45年 ピーテル・クックの工房に入門(後、師の娘マイケンと結婚)
1551年   アントウェルペンの聖ルカ組合に登録。

* 何処で生まれたか、いつか、確定の記録がない。
* P・クックの工房で修行、1551年に画家の親方として登録。

 < アントウェルペン時代>  (1551年~1563年)
1552年  イタリア旅行。「イタリア風の修道院のある山岳風景」
「人々のいる河畔の山岳風景」
1553年 アルプスを通ってアントウェルペンに帰る。「樹木と教会のある大きな風景」
1555年版画業者H・コックの店の「四方の風」の銅版画の下絵デッサンをやり始める。
* イタリアルネサンスの絵画には興味を示さず、写本彩色画家の工房を訪問
* 初期は銅版画の下絵デッサンをやる。(紙の普及、活版印刷の発明銅版画の普及)
* 1550年代のネーデルランド美術史ではブリューゲルは2流。高貴な様式とローマ的な教養がなかった。
* パティニール、ボスの弟子?風景画、ボス風の諷刺画、風俗画を描く。
* 1556年「石の切除手術」はボスの1475年の「愚者の石の切除」の模倣。
* パトロンは銀行家、裕福な商人・市民で教会、宮廷は無い。
*    アントウエルペン時代はボス風の作品が多い。

大きな魚
 <大きな魚は小さな魚を食う>1556年

アントニウスの誘惑<聖アントニウスの誘惑>1556年

1556年  「聖アントニウスの誘惑」「大きな魚は小さな魚を食う」(下絵デッサ  ン) 「石の切開手術」      (油彩)
1557年 「七つの大罪」(油彩)「種まく人の譬えのある風景」(デッサン)
1558年 「錬金術師」(デッサン。ペン・インク)「最後の審判」(デッサン

謝肉祭と四旬<謝肉祭と四旬節の戦い>1559年

1559年 「謝肉祭と四旬節の戦い」(油彩)「ネーデルラントの諺」(油彩
「七つの美徳」デッサン
1560年  「子供の遊び」(油彩) 「野兎狩の或る風景」(銅版画)

悪女フリート<悪女フリート>1562年

1562年 「反逆天使の墜落」(油彩) 「死の勝利」(油彩) 「サウルの自殺」(油彩) 「悪女フリート」(油彩)「二匹の猿」(油彩)
1563年 「エジプトへの避難のある風景」(油彩)「バベルの塔」(油彩)

バベルの塔64.ロッテルダム<バベルの塔>1563年

* 師クックの娘マイケンと結婚。ブリュッセルに移住。
<ブリュッセル時代> (1563年~1569年)
* それまで思想も形態も詰め込み過ぎていたのを、シンプルな容易に理解できる統一的な空間構成にし、  画風がボスから離れてゆく。
* 新たな分野―風景画、風俗画、農民風俗画の世界で開拓してゆく。
* ルターの宗教改革、宗教弾圧、政治的には恐怖・圧制政治の時代。パトロンは恐怖政治の中核にいたグ  ランヴェル枢機卿。(ブリューゲルはどう生きたか)
* 現実の「生」の実態の深いところ、庶民の働く農民の姿、子どもたちの遊ぶ姿を描く。不恰好で素朴で  とぼけた無骨な肉体を、貧しく無知でしたたかに生きる庶民を、共感と嫌悪の入り混じった感覚で描く。
1564年 「十字架を担うキリスト」 「東方三賢王の礼拝」
1565年 「暗い日」      「氷滑りと鳥罠のある冬景色」
「キリストと姦淫女」   「聖マルタン祭のワイン」
   『月暦画』-「干し草の収穫」   「穀物の収穫」 
「牛群の帰り」    「雪中の狩人」

干し草<干し草の収穫>(月暦画の内)1565年

1566年 「洗礼者ヨハネの説教」 「ベツレヘムの戸籍調査」
「野外の婚礼の踊り」

DSC_8895怠け者<怠け者の天国>1567年

1567年 「雪中の東方三賢王の礼拝」   「サウロの回心」 「怠け者の天国」

農民の踊り<農民の踊り>1568年

1568年「農民の踊り」   「農民の婚礼」 
      「人間嫌い」    「足なえたち」
     「盲人の寓話」    「鳥の巣盗人」
     「絞首台の上のカササギの或る風景」
    次男 ヤン 生まれる
   
 死。     

以上がわかっている伝記と作品。年代は5年位の差をよむ説もある。ボス(1450~1516)との関連で年齢を早める説もある。作品によっては本人作が疑われるものもある。
ボスと同様に宗教改革の影響下、偶像破壊運動の影響で作品がかなり破壊された。40点ほどの真作が認められている。
* 2010年プラド美術館でブリューゲルの新たな真作を発表。「聖マルタン祭のワイン」X線写真で署名の一部が発見された。

  1. 2013/07/06(土) 11:05:52|
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2013年『映画』「さよなら渓谷」07.02(監督大森立嗣。主演真木よう子。モスクワ映画祭受賞

2013年『映画』「さよなら渓谷」07.02(原作吉田修一。監督大森立嗣。主演真木よう子。

大西信満。鈴木杏。大森南朋。井浦新。鶴田真由。)
エンディングテーマ、「幸先坂」歌、真木よう子。作・詞・曲、椎名林檎
さよなら渓谷

女(真木よう子)が歩く。その後を男(大西信満)が付いてゆく。季節は冬に向かう晩秋のにび色の荒涼とした風景、雨の中を歩き、電車を乗り継ぎ、死に場所を探すのか、方向を失った風船のように、ただ歩く。見ていて松本清張原作、野村芳太郎監督の映画「砂の器」を思い出した。主人公の親子が故郷を捨てて放浪の旅に出る。ゆく先々の風景は主に日本海側であるが忘れ難いシーンだった。その風景のシーンに主人公の運命・主題が描き出されていた。(文章では出せない映像の強み)「さよなら渓谷」でも、荒れ狂った海沿いの曲がりくねった道のシーンが映された時、「ああ、同じ<ロードムビー>なんだなあー」と思った。二人の歩くシーンに総てがあると思った。

緑さわやかな林と渓谷に囲まれているけれどわびしい市営住宅、幼児殺害事件が起き、その母親が容疑者として逮捕される。その関連で隣家の奇妙な夫婦(真木よう子と大西信満―「キャタビラ」の主演男優)が画面に登場する。
週刊誌記者の渡辺(大森南朋)は幼児殺害事件に関連して、隣家の内縁の夫が大学野球の星だったが転落したことに、自分自身も社会人ラクビーを負傷で棒に振った過去を持つので、同じスポーツ選手の成れの果て同士ということで興味を持つ。
同じ社の女性記者小林(鈴木杏)はその奇妙な夫婦の過去―大学時代の野球部集団レイプ事件の加害・被害の当事者であることを突き止め、特に妻の「かなこ」の事件後の半生に興味を持った。

心がぶっ壊れた女とひたすら謝る男との道中は、行き着く果てに同棲という形で終わった? いや再出発か。
レイプ事件の被害者と加害者が同棲している。
彼女は彼を本当に赦したのか?過去の加害と被害の関係を持つ二人の同居の内実は?

映画の冒頭の、二人の肌のからみ合う、すがるように求めるセックスシーン。二人の過去の事件を知らされていないので、初め漠然と見ていたがよくよく考えると男と女とのぎりぎりのせめぎあいだったのだ。それも女の方からの求めで始まった。

楽しそうに2人で買い物から帰ってくるシーン。突然昔にフラッシュバックして彼を憎みだすシーン。
彼が隣家の幼児殺害事件に関係があると警察に告発する女。
棚を付けようと男が言うと、逆上する女。

「幸せになるために一緒にいるんじゃない」
(もし、幸せになりそうになったら、どうする?)
「姿を消したら、彼を赦したことになる」

小橋の上から片方のサンダルを落として、女は「さようなら」とだけ書き残して姿を消してしまう。渓谷の小川に取り残される男。

2人は、何の為に一緒に生活をしたのか?憎み合う為に?償いのためか?それとも、、、愛のためか?

記者の渡辺は男に問いかける。
「あの事件があり、かなこさんと出会った人生と、あの事件に関係なかった人生とどちらを取りますか?」
男の目を輝かした表情のクローズアップ!

「俺は彼女を探しますよ」

真木よう子の歌う、椎名林檎作詞・作詞作曲「幸先坂」が画面を流れる。呟くように真木よう子が歌う歌は、空と陸が抱き合い夏には「何かいいことがありそう」「坂の途中期待を抱えて上がり下がりする」とあるが 、なぜか悲しい。  

日本の最近の映画に疎くてこの監督の作品は初めてです。
真木よう子の渾身の熱演に感動しました。

(原作を読んで、終幕を訂正しました。7.17)
  1. 2013/07/03(水) 16:12:35|
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