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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『日記』「スペイン旅行から帰って参りました」4.30

『日記』「スペイン旅行から帰って参りました」 4.30

11日間のスペインの旅から昨日帰って参りました。脱力感と時差ぼけとで、昨日ボーとしていましたが今やっと片付けを始めたところです。フォートの整理が付き次第、旅行記を書くつもりです。初めてのスペインなので説明部分はガイドブックや添乗員や現地ガイドに依拠します。
プラド美術館をⅠ日掛けて見ました。目がかすんで足も棒のようになってもう「もう、いい」とプラドを出たのが6時、「ティッセン」(個人の膨大な絵画コレクション)は無理でも、「ソフィア」のピカソの<ゲルニカ>だけでもと思ったがもう限界とタクシーでホテルに帰った。
フラメンコも2度見ました。コルドバの小さな酒場では興奮して「オレー」と掛け声をかけてしまった。歌舞伎の掛け声と同じだと思いました。
初めて闘牛も見ました。決闘の末殺された牛を見て「ああ、残酷なドラマだなー」と思いつつ、現地ガイドの解説を聞き、ショーとして楽しむスペイン人の心の内を覗いた気がしました。
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  1. 2013/04/30(火) 18:54:08|
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『日記』 「スペインについて」 04.13

『日記』 「スペインについて」 04.13

スペインについて、今まで漠然としたイメージしかなかった。ゴヤやベラスケスの絵画、アントニオ・ガデスやクリスティーナ・オヨスのフラメンコ、そして1930年代の「内戦」だ。ガデスは來日の度に舞台を見にいった。だが絵画は画集の上だし、30年代「内戦」への関心は少年時代の年上の先輩たちの影響が大きかった。あと本や映画で知っていった。映画「誰がために鐘が鳴る」や「日曜日には鼠を殺せ」やケン・ローチ監督の「自由と大地」などを見て想像を逞しくしていた。本は「カタロニア賛歌」だ。

とにかく、私のなかのスペインのイメージはちっぽけで具体性に欠けたものだった。今回なぜスペインか?といえば前に触れたが「グレコ展」を見た時、猛烈にゴヤやベラスケスを見たくなった。今見ないと2度とチャンスは訪れないと思った。イタリアルネサンスを自分の中でケリをつけてスペインに臨むべきだと思った。

しかし、どこからアプローチすべきか?
我が蔵書の埃をかぶった中から見つけだした堀田善衛のスペインに関する本だった。その中の「ゴヤ」(全4巻)。手を付け出したが、これが大変な代物である。堀田さんは何回もスペインに行き、見たこと本で読んだこと思ったことを書いている。全4×500P=2000字の「スペイン論」なのである。堀田善衛によってスペインを知るには到底旅行までに間に合わない。荷物の準備とかガイドブックで調べるとか他の準備もあって時間の余裕もない。そう言っている間にも出発の日が迫って来た。来週末にはスペインだ。当分映画や展覧会はお休みだ。

スペインは今でも王制と貴族がいる世界でも数少ない国なのだ。ゴヤ時代のアルバ公爵家は今でも存在している。他に英国ぐらいだろう。基本的に産業革命は行われず、議会制民主主義も確立していず、内戦で政府を潰したフランコの独裁政治が1975年まで続いていたのだ。戦後30年も鎖国状態だった。だが、フランコ死後大きな混乱もなく王制が復活して立憲君主制の現代の体制になったのだ。

初めて行く国なのでいろいろと興味があるが、本で調べても具体性が無いことがわかった。スペイン語がラテン語系ロマンス語から枝分かれして、イタリア語やフランス語とも兄弟なのに聞いていてチンプンカンプン!さあー大変だ!
  1. 2013/04/13(土) 23:42:41|
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『日記』 「再び旅行についてー角田光代のサラエボ」 4.7

『日記』「再び旅行についてー角田光代のサラエボ」  4/7

「ツアー旅行について」はテレビで角田光代の「旅のチカラ―角田光代、ボスニア」を見て感じたことから始まった。
角田光代(作家)が、「サラエボ旅行案内」なる戦場都市案内なる奇妙なガイドブックを手にサラエボを訪ねるルポ?旅行記である。
私は自分の旅についていろいろ考えさせられてしまった。今、スペイン旅行の準備をしているが、又同じような旅をしょうとしている。今回は間に合わないかも知れないが自分の旅について今後考えて行きたいと思う。

「<旅のチカラ> 街は毎日が銃撃戦―角田光代・サラエボ」3/25?

「サラエボ旅行案内」(戦場都市案内ガイド!)という本があるそうだ。
1992年の旧ユーゴー内戦の時、戦火のサラエボから出版された。2万のセルビア軍(260の戦車、120の迫撃砲に包囲されて日常爆撃にさらされ、尚且つ、戦う市民たちの様子、サラエボ市内の様子をガイドしたものだという。前代未聞のガイドブックを手に旅人は20年後のサラエボを訪ねる。

もともと、サラエボにはムスリム・クロアチア・セルビアの3民族が住んでいた。内戦突入2万のセルビア軍が4万のサラエボ市民を包囲した。包囲網は半径3km、スナイパー通りと言われた大通りを近くのビルからセルビア軍が市民を狙撃し、多くの死者が出たのは有名な話。ボスニア軍も防戦し、市民も戦い市街戦は4年も続いた。
角田さんはまずそのガイドブックを企画した人に会うことから始める。

① ガイドブックを企画した青年(ムスリム人)。
ガスも電気も水道もない4年間、極限の中恐怖と如何に戦うか?生き抜くための方法を問うた。
② サラエボを守った元ボスニア軍副司令官(セルビア人)
セルビア人なのに住んでいたサラエボを守るためにボスニア軍の指揮官として活躍、市民から信頼が寄せられている。
 「スナイパー通りでは子ども、年寄り、女性すべてが狙われた。武器・兵器も優れた2万人の正規軍がどうして包囲だけで壊滅させられなかったか?市民の方が士気が高かった。女性が重要な役割を担った。料理、洗濯、燃料を調達し夫や息子を軍や前線に送り出した。女性が守った家こそ大きな存在だった。」
「サラエボを守ったのは女なんだよ。」
* 「サラエボ市街戦博物館」飛行場から市内までトンネルを掘って全世界と交流・援助物資の運搬・病人の運搬を行っていた。
③ 元女性兵士(ムスリム人)戦後43歳で子どもを生む。1992年6/9夫と二人の息子(17歳と13歳)が殺された。この家から戦場に通った。庭に湧き水が出て多くの市民がやってきた。(戦時中電気・ガス・水道は止まったまま)近所の人と庭でいろんな食べ物を作って皆で分けて食べた。「見知らぬ誰かに命を奪われることが未だに理解できない。」「暮らすことが大きな戦い」
④ 「戦時下の子どもたち」という本を出した人。ムスリム人、24歳の青年。
 子どもたちは戦争をどう思っていたか?
「友が通りを横切る。彼の母親は髪をかきむしる。彼の友だち2人は生きて帰るか賭けをしている。」
「戦争体験は悲劇的な瞬間とすてきな瞬間が交じり合った複雑な体験」
「ユーモアが生きる術です。」
「8歳の少女が九死に一生を得て、何を思うか?きちんとしていることです。
両親の言うことをよく聞いて責任感を持った行動をしなければ死ぬか傷つくだけです。」
⑤ ボスニアを代表するヴァイオリンニスト(ムスリム人、69歳)
戦時中、演奏会が開かれていた。多くの人が聴きに来た。「その時間だけは人々は幸福であり、自分は正常だと感じた。」「いかなる侵略を受けても、人は本を読み、コンサートに出かけてゆく。人は第一に精神の生き物であり、次に肉体がくる。」「海外で演奏して友人たちからここにとどまること(亡命)をすすめられたが、サラエボに帰ってきた。自分の街を守る何かの力になりたかった。」
⑥ 大学教授の一家。(セルビア人)教授、奥さん、娘(1992年生まれ)息子(1994年生まれ)
「妻や女たちは私たちよりズーッと勇敢でした。私は精神的に参っていました。でも、妻は二人の子どもを生み強く生き抜いてきたのです。夫婦は二人の命を授かりながら絶望と隣り合わせの毎日だったという。」
教授は戦争は50年毎に起こっている。二人の子どもは「戦争は又起こる」と言う。

1冊のガイドブックからよく問題の本質に突っ込んでいった。時々、写真で見るサラエボの街が写されたが殆どは当該者を訪ねて質問をする旅であった。
スロベニア・クロアチアの旅をした時、自分もサラエボの地図を広げて「ここがスナイパー通りか」と暗い思いをはせたことがあった。当時今回のような旅が出来ただろうか、、?個人で、、?

私も「ス・クロアチア旅行」の時、旧ユーゴ内戦は何があったか?
民族・宗教・国家・経済の違いがなぜ血で血を争う戦争に突入したのか?
大量虐殺・民族浄化というおぞましく恐るべき犯罪、ナチスと同じレベルの戦争犯罪がなぜ起きたのか?
それを知りたかった。何が問題であり、どうしたら解決出来るのか?
現地をツアー旅行しながら、こちらが知りたいことが全然判らないことに苛立ちを覚えていた。
あの時、角田さんのような旅が出来たら、一歩前に進めたと思うのである。

  1. 2013/04/07(日) 15:44:14|
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『美術/展覧会/舞台』 「ラファエロ」 国立西洋美術館 04.06

『美術/展覧会/舞台』 「ラファエロ」国立西洋美術館 04.06
ラファエロ①
天候が荒れるというので、土曜日の朝、10時前に行ってきました。会場はほど良い込み
具合でした。
DSC_2137無口な女 ②


ラファエロの作品を23点も日本に持って来ることは夢のような話です。しかも、一昨年ウルビーノで見た「無口の女(ラ・ムータ)」があるというので、恋人に再会する様な気持ちです。 
ラファエロ②
左側の「天使」(1501)は何という優雅さ!ボッティチェッリと違った優美さですね。
DSC_2127大公の聖母

展覧会の看板は「大公の聖母」。トスカーナ大公(フェルディナンド3世)が愛蔵した有名な作品。気品溢れた優雅さとでもいうのかしら。右が「自画像」いい男でもてた。しかし、それが晩年災いして早死にした。?
ラファエロの優美さを再確認した展覧会でした。他に彼の作品でよかったのは次の作品。「自画像」(1504~06)「聖セバスティアヌス」「若い男の肖像」「アッシジの聖フランチェスコ」「りんごを持つ青年」「エリザベッタ・ゴンザーガの肖像」「聖家族と仔羊」「信仰」

他の点、
ペルジーノ「聖ユスティナ」
(ペルジーノ「聖ユスティナ」)
① ラファエロの師匠といわれたペルジーノ。友人のピントリッキオ、フラ・バルトロメオ。弟子のジュリオ・ロマーノの作品を見られたことはよかった。
② 彼の死後、ラファエロ工房と弟子たちの活躍によってヨーロッパ中に広まった。後にルネサンスを代表する画家と言われたことに貢献したと言われている。
③ 版画の面で優れた版画家ライモンディとの協力の下に、彼の版画はよく売れてヨーロッパ中に広まった。


  1. 2013/04/06(土) 16:43:50|
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『日記』 「海外ツアー旅行について」 4.5

『日記』 「海外ツアー旅行について」 2013.04.05

今まで、2006年の「ポーランド・チェコ」、2008年の「スロベニア・クロアチア」、2002年・

2010年・2011年の「イタリア」などを旅行しましたが全部ツアー旅行です。

それなりに面白かったが、心の中に「不満」が残りました。

それはずばり思想性です。名所旧跡の観光です。

ポーランドは「アウシュヴィツ」が戦後の思想の「マイナス原点」ですし、アンジェイ・ワイダ

の映画抜きに戦後は語られないのです。

チェコは「プラハの春」や「ビロード革命」における知識人の自由なる思想と行動がすばら

しかった。

バルカン半島などの「旧ユーゴスラヴィア」は1990年代の「内戦」の突きつけた問題が

重いです。チトーによる統一政府が彼が亡くなると瓦解して民族・宗教・国家による血で

血を争う「内戦」が勃発したのですから。

私の心の中の課題は燻り続けましたが、いわゆるツアー旅行では充たされません。

課題を充たす旅行をするためには、言葉の問題、現地の「課題に答える」何らかの

人なり機関?にコンタクトが取れなければならないのです。それに何よりも個人旅行

でなければならない。

旅をして風景は見る事はできましたが、人の心と触れ合うことは出来ませんでした。

この冬、「エル・グレコ展」を見て無性にゴヤやベラスケスの本物を見たくなりました。

イタリアルネサンスを一時置いといて、スペインへ行こう、プラド美術館へ行こうと思い

たちました。これもまた、ツアー旅行で十分にスペイン美術を見ることにならないでしょう

が、そうも言ってられないのです。

スペインと言えば、1930年代の「内戦」、ヨーロッパ中の知識人が見守った「人民戦線

」、反戦・反ファシズムの大衆の政治闘争があったのですね。「無政府主義」の思想家

がその人民戦線政府の閣僚であったり、他に例のないことがあったのですね。しかし、

その担い手たちは今ではどのくらい生きているでしょうか?いや、殆ど生きていないか?

ともかく、4月の下旬にスペインに旅立ちます。帰ってきたら報告をするつもりです。

  1. 2013/04/05(金) 14:38:51|
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