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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『美術・展覧会』「エル・グレコ展」2013.02.19

エル・グレコ展〔東京都美術館13.1/19~4/7〕
グレコ展

エル・グレコ(1541~1614)ベラスケスやゴヤと並んでスペイン3大巨匠の1人と言われている。今回初めてエル・グレコを見た。直感的に色使いの巧く大胆な構図の画家だと思った。しかし、ほとんどがキリスト教に関するものか肖像画である。他の2人の巨匠と比べて物足りないものを感じた。
しかし、グレコを見てから無性にゴヤやベラスケスを見たくなった。今スペイン旅行を考えている。

<グレコの生涯> 1541~1614
A),ギリシャ時代(1541-1567)ギリシャ・クレタ島の生まれ。(26歳まで)
故郷でイコンの「キリストの受難図」を描き、「聖母を描く聖ルカ」(1563)が残っている。ギリシャ時代にビザンティンの画家として自立した。

B)イタリア時代(1567-1577)(26歳~36歳) 1567年(26)ヴェネツィアに渡り、ティツィアーノの工房に入りイタリア・ルネサンスの絵画技法を学んだ。同時にヴェネツィア派を通して西洋の絵画技法も学んだ。
「燃え木で蝋燭を灯す少年」(1571)
「悔悛するマクダラのマリア」(1576)
1570年頃からイタリア各地を放浪・ローマに1,577年頃まで定住して、その後スペインに渡る。

C)スペイン時代(1577-1614)〔36歳~73歳〕

* グレコが渡った16世紀後半のスペインは、2つの大きなモメント=八百年にわたるイスラムに対するレコンキスタ(失地回復戦争)の勝利711~1492)、とコロンブスの「新世界の発見」1492。で沸きかえっていた。
「カトリック両王」の孫カルル5世〔後の神聖ローマ皇帝〕を新国王に迎えたことで、ヨーロッパの覇者・巨大な王国としてのスペインの成長は目覚しい。

* ヨーロッパ・キリスト教世界の変化
「トリエント公会議」でプロテスタントとカトリックの分裂が決定的になる。
カトリックでも「聖像礼拝」「教義的な誤りは犯すな」「信者の信仰心を起こさせる教化的なもの」「淫らなものはダメ」を厳格に守ってゆこうとする。異邦人グレコはどうしたか?
① 「聖衣剥奪」(大聖堂1577-79)〔サント・トメ教会1605〕
 キリストが十字架に架けられる直前衣服を剥がされる姿が主題。グレコは画面中央のキリストの外套を鮮やかな色彩で描く。
* トレド大聖堂は「キリストより群集が上の位置に描かれていること、マリアが3人も描いていること」などを理由に報酬を値切り裁判沙汰になる。ここに象徴されるように芸術家とパトロンの教会との絵の価値基準や報酬をめぐる争いは絶えなかった。(トリエント公会議以降のスペイン教会の宗教的観点からの絵画評価と、画家の芸術的観点との違い)

② 「聖マウリティウスの殉教」〔エル・エスコリアル修道院1563-82〕
 フェリペ2世の依頼によって「エル・エスコリアル修道院」の祭壇画の1つとして描かれたが、1584年「ヒエロニムス会」によって拒否された。これはグレコが宮廷画家としての挫折を意味する。それ以降、グレコはパトロンを町の教区聖堂や修道院・礼拝堂の祭壇の企画・製作へと広げた。スペイン王やカトリックの上層部からは受け入れられなかったが、インテリ層や町の教会からは熱烈な支持を受けた。

代表作
オルガス伯の埋葬

「オルガス伯の埋葬」(1586~88.トレド・サン・トメ教会)
IMGグレコ3点左から「受胎告知」「聖母戴冠」「キリスト降誕」(カリダード施療院)
「受胎告知」  (1600 大原美術館にあるのが代表作に近い)
「ピウス5世の肖像」(1600~10.
無原罪のお宿り
「無原罪のお宿り」(1607~13サンタ・クルス美術館)
肖像画2点
「白貂の毛皮をまとう貴婦人」(1577年グラスゴー美術館)「修道士パラビシーノの肖像」(ボストン美術館161 1年)
IMG_0003肖像画2点

グレコについては殆ど知らない。この1年スペイン美術を見てみようと思う。
解説を読んでいて最近注目されているところをあげておく。
① 後期のグレコの活躍として、工房の制作、教会や礼拝堂の祭壇全体の企画・制作。1つの絵画を描くというより、芸術の全体創設者としての役割か?
② ヴァザリーの「芸術家列伝」などの本への大変な「書き込み」が解読されてグレコの芸術観が注目されている。

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  1. 2013/02/19(火) 13:41:09|
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2013年『映画』「堀の中のジュリアス・シザー」〔タヴィアーニ兄弟監督2013.02.15

2013年『映画』「堀の中のジュリアス・シーザー」2013.02.15
 2012年ベルリン国際映画祭金熊賞。
 パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟監督
IMG堀の中のジュリアス・シーザー

シェイクスピアの「ジュリアス・シザー」の舞台が演じられ、観客の盛んな喝采とスタンディング・オベイションを受けて、歓喜に満ちて引き上げる俳優たち。それまでのカラーの場面は暗転してモノクロになり、帰って行くところは刑務所の重警備の監房だ。
彼らはイタリアでも最も重犯罪者〔元マフィアが多い〕が多く収容されているローマ郊外の「レビッビア刑務所」の受刑者たちだ。舞台で満場の喝采を受けた役者が重警備の独房に入れられてゆく様子を1人1人カメラは撮ってゆく。麻薬販売、殺人、組織犯罪で刑期は無期や17年とか14年の重犯罪者である。

映画は半年前の彼らのオーデション風景に戻り、刑務所内の稽古風景が撮られてゆく。この刑務所では1年に1度刑務所内の劇場に一般観客を招き、囚人たちの実習として演劇を披露している。タヴィアーニ兄弟監督は囚人たちにシェイクスピアの「ジュリアス・シザー」を演じさせた。

監獄内で囚人たちの台詞の稽古、各人に方言で語らせ、それが真に迫った演技になってゆく。
* シザーの野望がローマを滅ぼすのだ!
* 自由を守るために俺は殺したのだ!
* シザーとの友情はどうなる!殺しは殺しだ!
裏切りと陰謀のドラマを演じて行くプロセスに、彼らの過去の体験が重なる。
殺人の場面が迫真力を持ち、シザーを殺すことは自由を求める彼らの姿に重なり、彼らの過去の体験からの陰影が人物像をいっそう際立たせる。
いつしか刑務所はシェイクスピアの舞台となり、ローマ帝国となった!

(はじめは、シェイクスピアの劇を囚人たちが稽古しているのだ、と見ていたら、稽古風景も含めて監督のフィクションだという。囚人たちが役者になって「ジュリアス・シザー」を演じる。その出来方、稽古、本番での成功、そのトータルが「堀の中のジュリアス・シザー」だったのだ。)
シザーの高慢、暗殺を煽るキャシアの狡知、ブルータスの苦悩、実生活の投影か? まあまあ、、見事な役者たち!(囚人!)

最後に字幕で演じた囚人たちのその後が解説される。ブルータスは減刑で出所して本物の役者になった。在る者は人間の心について本を書いた。囚人たちのその後の人生について良い方向にいったとあった。
役者たちがロンドンの本場のそれに負けないどうとうたる演技・発声だし、彼らの今後についての情報は心が和みました。

* タヴィアーニ兄弟
兄 ヴィットリオ(1929年~83歳
弟 パオロ   (1931年~79歳

 イタリアのピサ県生まれ。映画監督。
1,977年、「父、パドーレ・パドローネ」でカンヌ・パルム・ドール受賞。
1987年、「グッドモー二ング・バビロン」
1950年代から、イタリアの映画・テレビで活躍、今回ベルリン国際映画賞の銀熊賞に輝く。
  1. 2013/02/15(金) 16:10:00|
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2013年『映画』「東ベルリンから来た女」〔ドイツ映画。2013.02.11

2013年『映画』「東ベルリンから来た女」〔2012年ドイツ映画〕2012年ベルリン国際映画銀熊賞〔監督〕

監督・脚本、クリスティアン・ベンツォルト
主演、ニーナ・ホス。ロナルト・ツアフェルト。
東ベルリンから来た女

1980年の旧東ドイツ、1989年のベルリンの壁崩壊前の冷戦体制下の状況。
東ベルリンで大学の小児科医として働いていたバルバラ(ニーナ・ホス)は、
西への移住許可を申請したところ、地方の海辺の町に左遷された。しかも秘密
警察(シュタージ)の厳しい監視付だ。

強風がビュビュ吹いている。自転車に乗ったスカート姿のバルバラはあたりを
警戒気味に走っている。街中、林を抜けて走るシーンは何故か不気味である。
スカート姿が艶かしい。病院の前でベンチに腰を下ろして一服する。しかし落
ち着かない様子。それを2階の窓から見ている2人の男、同僚の医師アンドレ
(ロナルト・ツアフェルト)と秘密警察の役人。
女優ニーナ・ホスがすばらしい。秘密警察の監視下、凛とした立ち振る舞い・
声・表情特に目が独特な雰囲気を放つ。米映画ジーナ・ローランズの「グロリ
ア」のような(マフィアと闘う素敵な女性像)不思議な存在感を創り上げた。

定期的に秘密警察の家宅捜査と屈辱的な身体検査が行われ、バルバラの行動は
常にスパイの目に監視されている。ギラギラした目で辺りを見、同僚とも打ち
解けない。監視の目を潜り抜け西の恋人ヨルクとの官能的な密会を重ねて、西
への脱出の準備を進めている。

或る日、矯正施設を抜け出した少女ステラが逃げてくる。彼女を献身的に治療・
看護するバルバラが本当は優しい医者なのだということがわかってくる。何度
も逃亡を図っていたステラが戻りたくないと懇願するが、なす術もなく施設に
戻されてしまう。

医療ミスが原因で左遷された過去を持つ同僚のアンドレは、バルバラについて
秘密警察に報告の義務を負うが、医師として誠実である。やがてバルバラとも
気持ちが通うようになる。自殺未遂で運ばれてきた少年マリオの治療を共同で
行うようになる。マリオの手術の日がバルバラの西への脱出の日であった。
バルバラが約束の場所に出かけようとした時、全身泥だらけの傷を負ったステ
ラが彼女の前に現れる、、、。

はじめ、映画を見ていて秘密警察(シュタージ)に対するバルバラの抵抗を描
いているのだ、と思っていた。後半、西の恋人が乗ってくる高級車ベンツ、東
の女を贅沢品で釣る、果ては「西に来たら、君は仕事をしなくてもいい」と。
自立したバルバラは納得するだろうか?もともとエリートの医者だったバルバ
ラ、医者としての自立、彼女が弾くピアノに表れているように情感溢れた豊か
な人間としての自立、自立した女性を彼女は目指していたのではないか?

映像で示し、説明的解説はしない。状況の異様さは街中の風景、林や森の風
景や音で語らせる。いろいろな実験をやっている。「ディ・フォー・ナイト」
というのか?赤光写真みたいなシーンがあった。監督の意図は?
ともあれ、ラスト、バルバラはアンドレと並んでマリオの手術に立ち会ってい
る。

  1. 2013/02/13(水) 15:29:05|
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2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑧「ドブロブニク」

2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑧「ドブロブニク」
城壁②
ドブロブ二クはクロアチアの最南端に位置し、アドリア海の港町として中世、ヴェネチアと並ぶ海洋都市として地中海交易に名を連ねた。
西ローマとビサンチンの境界という位置を武器として長い間、ヴェネチア、オスマン・トルコに囲まれながら独立を保ってきた。それにはドブロブニク人の叡智と類まれな自治の精神と優れた商才によると思われる。
7世紀頃までに、移住してきたスラブ人(現在のクロアチア人)と小島のラグーサに住むラテン系の人々が住み着き、交流して12世紀には合併、現在のドブロブニクが出来上がった。
中世の東地中海交易の中心はヴェネチアであり、ダルマチア海岸はヴェネチア船舶の航路であった。さらにエルサレムへの巡礼船や十字軍も対岸のイタリア側ではなく、クロアチア側を航海した。複雑な海岸線と入江や小島に恵まれたからだ。
DSC_1796ボーカル要塞から

ドブロブニクは東側からの西ヨーロッパ文化圏(カトリック)の入り口となった。この異文化の境界点をなしたことは大きい。
ドブロブニクは当初、ビサンチン帝国の保護下で出発、年貢を収め、その後イタリアの諸都市と交易を結び、町の背後のセルビアやボスニアとも交易を結ぶ。
13世紀にはセルビアの鉱山からの鉱物の仲買で莫大な富を得る。
14世紀のハンガリー・クロアチア連合王国時代に、自由独立都市としてその後の黄金時代を迎える。鉱物、羊毛、絹、塩、宝石などの交易で商館は諸都市に50ヵ所、16世紀には地中海で最大の商戦隊を持つようになった。
15~16世紀が全盛時代。
城壁の一周、1時間かかる。
スルジ山頂、ケーブルカーの駅の跡。(その後改修されたそうだ。)
1991年連邦軍との内戦で山頂から24発の砲撃を受けた。

2、城塞都市「ドブロブニク」の案内
DSC_1566ピレ門へ
イ、)「ピレ門」
旧市街西側(スプリット方面)の入り口に「ピレ門」がある。高さ25m厚さ3~6mの城壁が2kにわたって、旧市街を囲んでいる。昔は警備に兵がいて日没になると、跳ね橋が上がり門扉は閉じられ夜が明けるまで誰も入れなかった。
守護聖人
「聖ヴラホ像」町の守護聖人。
ロ、)「オノフリオの噴水」と救世主教会
大噴水
入ってすぐの所の広場に、大きなドームをつけた「オノフリオの噴水」がる。
川のないドブロブニクにとって水の確保は重要な問題だ。近くのスルジ山の水源から上水道を15世紀に完成させた。
噴水に面して「救世主教会」がある。ルネサンス風のファサードとバラ窓ポイントである。
救世主教会
フランシスコ会教会の回廊
ハ、)「フランシスコ修道院」
14世紀建設。当時のロマネスク様式の美しい回廊がある。修道院内には1391年開業の、ヨーロッパ3番目に古い薬局があり、現在でも営業している。
薬局①
DSC_1686プラツァ通り②
ニ、)「プラツァ通り」
旧市街入り口ピレ門から中心部ルジャ広場まで続く200mの目抜き通り。銀行、旅行会社、ショップ、カフェが並ぶ。
DSC_1676ルジャ広場
可愛い少女
ホ、)「ルジャ広場」
周囲にスポンサ宮殿、聖ヴラホ教会に囲まれ、広場の中心にオルランドの柱(8世紀にカール大帝に仕えた騎士で、自由の象徴としてこの像が建てられる)
南側に「オノフリオの小噴水」がある。大噴水と同じ時期に建てられた。
ローラント像
剣を持つ「騎士ローラント像」この像の右腕半分の長さ(肘から手まで)は51.2cm=「ドブロブニクの肘」といわれ、当時の商取引の長さの単位なっていた。
アーチに書かれた商人魂
旧港
へ、)
<「旧港」
かつてここは交易の中心だった。
「検疫所」16~17世紀には長い航海でペストなどが蔓延しやすいために「40日間」隔離する。
ト、)「大聖堂」
17世紀にバロックで再建。ドブロブニクが中世に貿易港として繁栄した品々が収められている。祭壇にはティツィアーノの「聖母被昇天」が飾られている。
チ、)「スポンザ宮殿」
16世紀に建てられた当時はドブロブニクに出入れする物質や財の管理所だった。
3階に守護聖人聖ヴラボの像が取り付けれ、現在は古文書館。
宮殿の中庭のアーチに「商品の荷を量る時には、神に量られていると思わなければならない」(商取引に公正を期したドブロブニクの商人魂を刻み込んだ言葉だ。)
リ、)「聖ヴラボ教会」
ドブロブニクの守護聖人を祭る教会。
総督府
ヌ、)「総督府」
総督の住居と同時に、各評議会・行政が集まる心臓部。
総督の任期は1ヵ月、任期中は外へ出られない。
ル、)独立を何故保てたか?
ドブロブニクは12世紀まではビザンチン、13~14世紀半ばまでヴェネツチア、
14世紀半ばからハンガリー、15世紀からオスマン・トルコが保護国としていた。
19世紀にナポレオンが崩壊させる。
宗主国に年貢はきちんと払い、実質的な自由を得ていた。外国の軍隊が駐留することも無く、政治に介入することもなかった。
ドブロブニクは東の正教会と西のカトリックとの、キリスト教とイスラム教との境界線でもあった。又、強国の脅威にさらされていた。このため、ドブロブニクは自由を維持するため、巧みな外交と時には’自由を金で買う‘ことも厭わなかった。
オ、)「どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない」
 ピレ門に近いロヴリィエナッツ要塞の壁に書かれた言葉!
ロヴリィエナッツ要塞
  1. 2013/02/05(火) 18:46:46|
  2. 2008年『スロベニア・クロアチア旅行』
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『美術/展覧会』 「或る美術館のこと」 2.3

『美術/展覧会』 「或る美術館のこと」2.3

作品②
作品
作品③
作品⑤
作品④

これは取手にある「白山雅成作品展示室」の作品である。昨年からの展示「パリのサーカス」の中の一部である。
白山雅成先生は56歳の時、教職を投げ打って単身パリに渡り、30数年絵を描き続けた。不幸にして交通事故で亡くなったが、教え子の当美術館オーナー夫妻が作品を守り続けた。(全作品の一部であり、他は2人の女性が握って放さない)
10数年前?「白山先生の美術館をつくりたい!」と相談が連れ合いにあった。見る見る内に建ってしまったではないか!
あの時のオーナーの神がかり的な情熱は語り草である。われわれ夫婦もどんなにかエネルギーを貰ったことか!
DSC_4554外観

10数年の間、取手は人と人の交流の場になった。

F君というこれも高校時代に白山先生の弟子だったが、彼のプロデュース監督で音楽会が企画された。館内満員の盛況で、館内に奏でる音楽と白山先生の絵が共鳴し、我々を夢の世界に連れ出してくれた。F君の言葉「ここに有名な演奏家を持ってきてもダメだ。ここに合った、白山先生の絵に合った音楽でなくては!」
そのF君も今はいない。
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螺旋階段②
カフェ①
’糸の花’(オーナーが<東急>出入りのニット作家で2階が展示室になっている)
 カフェ’糸の花’(カフェをやっている)
’ランチ’は一流、挟むハムも吟味され、舌鼓を打つ!
ランチ
10数年の人と人との出会いは数え切れない程の、煮詰まった思い出がいっぱいだ。時々、訪れる我々でも忘れられない人との出会いは一杯だ。オーナーのニットの大先輩、奥山ツヤノ先生(90何歳)、大胆奔放な作品は忘れることは出来ないであろう。
つやのさんの作品①
つやのサンの作品④

「パリ展」(これは作品が多い)「ベニス」(好きな作品が多い)「モロッコ」「女性像」「花」「パリのサカース」忘れたものがあるだろうか?違ったらごめんなさい。ひとつ、大変なものを忘れるところだった。
「ジャンとアマガ」展だ!
生前の白山さんが「これだけは散逸させるわけにはゆかない。」と言っていた。

「ジャンとアマガ」は何だろう?一見今で言えばボヘミアン的放浪者?アマガは若い頃サカースのアクロバットダンサーだったとも言われている。パリの下町出であった。アマガは白山さんの絵を認めていた。
ジャンとアマガが1980年代失われてしまった、パリの「旧市街=ヴェルヴィル」に最も相応しい人物なんだそうだ。ルネ・クレールの映画に出てくるような古いパリ。古いパリの象徴なのか?

 取手はその準備のため、しばらく休館に入ります。
  1. 2013/02/03(日) 15:11:39|
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