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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『映画』 「思秋期」(英国映画。監督・脚本、バディ・コンシダン。主演、ピーター・ミラン。オリヴィア・コールマン)10.31

『映画』「思秋期」(監督・脚本、パディ・コンシダン。主演、ピーター・ミラ
ン。オリヴィア・コールマン。エディ・マーサン)
         英国アカデミー・サンダンス映画祭受賞。10.31

思秋期

英国のどんよりと曇った空の暗いシーンで映画は展開する。ブルーカラーの
公営住宅に住む失業中のジョセフ(ピーター・ミラン)は、酒を飲むとイライラして怒りを抑えれず、暴力沙汰を起こしていた。しかし、そういう自分に嫌気が差していた。人生の盛りを過ぎた今、自分で自分がどうにもならないほどイラつき怒りが湧いてくる。妻は死に、唯一の親友は死にかけていた。何やっても上手くゆかず自分のまわりにはいいことがひとつもない。人生への絶望や孤独感が怒りの原因だろうか?

ある時、自暴自棄になり逃げ込んだチャリティの店で出会ったハンナ(オリ
ヴィア・コールマン)の「あなたのために祈りましょうか」という優しい声に、反抗したものの癒しを感じる。何度か会って話すうちにジョセフの頑なの心は次第に溶けっていった。しかし、ハンナも心の闇を抱えていた。独占欲の強い夫(エディ・マーサン)による支配と暴力であった。夫はハンナがジョセフと会っているのを目撃すると、暴力はますますエスカレートする。面相が変るくらいの暴力に、ハンナは家を飛び出しジョセフに助けを求める。しかし、ハンナに捨てられた夫はその後で自殺してしまう。独占力に駆られて妻に暴力を振るうが、見放されると心の支えを失って絶望して自殺してしまった。単なる暴力夫では無い人間の闇の底知れなさを表している。敬虔なハンナさえも夫の暴力に追い詰められると、暴力的(モノを投げたり、キリスト像にモノを投げて壊してしまう)になってしまう。人間の底知れぬ闇の部分である。

 ハンナさえも暴力の衝動があるように、作品の主張に、「人間は何かに押さえつけられている。それに耐えられなくなると暴力で鬱憤を晴らす存在だ」、という考えが底流にある。老人性の心理状態に「怒りっぽい」「イライラ」がある。ネットで調べると、「認知症」や「躁鬱病」の症状のひとつだという。「老人性の心理状態」として誰にもあることである。人間内部の果てしない世界である。

 ジョセフの親友の死、亡き友を弔うしめやかな墓地のシーンや賑やかな酒場のシーンはいい。主人公のジョセフは自分を救ってくれたハンナのためにある行動を起こす、、、
 英国の空はいつもあのようにどんよりと曇っているのだろうか。
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  1. 2012/10/31(水) 15:33:32|
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『映画』 「希望の国」(監督・脚本、園子温。主演、夏八木勲。大谷直子)10.26

『映画』「希望の国」(監督・脚本、園子温。主演、夏八木勲。大谷直子)
            10.26
希望の

もう一度大地震が来たらどうなるか、その時人々はどうするか?
3・11から日が経つに連れて、地震・津波・放射能を忘れていっている我々の心を撃とうする作品である。

大震災から数年が経ち、ここ「長島県」(原爆の『長崎』と『広島』を暗示)の海に近い農村では、酪農家の小野(夏八木勲)は認知症の妻(大谷直子)と息子の洋一(村上淳)と妻いずみ(神楽坂恵)。又、隣家の夫婦(でんでんと筒井真理子)と反抗期の息子(清水優)と恋人のヨーコ(梶原ひかり)らが平穏に暮らしていた。

そこに再度、大地震がやって来た。3・11の再来である。
原発事故が発生。原発から半径20キロ圏内が警戒区域に指定され、隣家の一家は強制退避を余儀なくされるが、小野の家は庭の半分が警戒区域で分断される。(実際にあった話である)小野は息子夫婦を強制的に自主避難させ、妻と住みなれた家に留まった。
息子夫婦が村を離れてゆく先々で、3・11以降様々にあった差別・恐怖のシーンに出会う。被災地ナンバーの車が給油を断わられるとか、放射能汚染に脅える人々、被災地の子どもだというのでイジメられる子どもたち、とか。
息子夫婦は離れた町で暮らしていたが、妻のいずみの妊娠がわかる。いずみは放射能の恐怖を募らせ、家を密封し、ガイガーカウンターを手に防護服で町を歩くようになる。
隣家の息子と恋人のヨーコは、ヨーコの家族を探して津波でガレキの山となった海沿いの町を彷徨っていた。ガレキの中でビートルズのCDを探す幼い兄妹、「一歩、二歩、三歩ではなくて、一歩、一歩だ」と言って(何を暗示?)歩いた。一緒に探していてふと見ると、兄妹はいない。幻想だったのか? 恋人ヨーコの親の霊か?「一歩、一歩」が二人の心に刻みつけられる。

ゴーストタウン化した村で妻と2人で暮らす老夫婦。妻役の大谷直子は時々「早くおうちに帰ろうよ」という。夏八木の夫が時計をさして「あの針が9の所へいったら帰るよ」となだめる。これが度々出てきて、場面転換の役割をしたり、意味をもったりする。夏八木と大谷の夫婦はいい。雪の中で大谷が着物を着て一人で盆踊りを踊っている。探していた妻を見つけ、夏八木も踊ろうよと誘われ、誰もいない雪の上で踊る2人。じーんと来るいいシーンだ。
牛の殺処分命令や退去命令で役場の人間がたびたび訪れるが、「ここは俺たちが生きてきた“証し”だ、ここを捨てて別の所にはゆけない!」と、がんとして譲らない。彼はチェルノブイリ事故の時点でガイガーカウンターを手に入れ、原発関連の本を読み備えてきたのだ。原発付近で酪農家として生きるとはどういうことか、よく考えて生きてきたはずだ。若い息子夫婦を強制的に避難させたり、嫁の妊娠を知るともっと遠くの安全な所へ行けと言ったりする。何十頭と飼っている牛を世話するやるせない表情。(殺処分される運命)
最後の壮絶なシーンで終るが、、、、

夏八木勲演じる老酪農家の解釈が難しい。時には古武士的な風貌を見せる、慈愛深い人間を演じている。
問題点を整理すると、
① 何故、老酪農家はあの地を離れなかったか?3・11以降、被災地各所で起き
  た「ふるさとを捨てられない人々」の問題。故郷や土地への執着か?都会では起きない(執着するものがな   い)「東北」独特のものか。東京に住む者には解からない問題か?もっと深い探求が必要である。
② チェルノブイリ事故から原発事故に備えて生きてきた。原発の近くの酪農家としてだ。一度ならず二度も事故  が起きた。若い息子夫婦を怒鳴りつけるように避難させた。嫁の妊娠を知るともっと安全な所へ行けという。  自分たちの「いのち」を託すかのように。老酪農家は原発に対して何を考えていたのか。東京に住む我々が甘  いように思うのだが、、、
③ 認知症の妻を道連れにした。多くの問題点がある。妻は所有物か?認知症だから何もわからないか?夫婦2人  で心中だがいわゆる「一家心中」の意味合いも持ってくる?

 3・11からⅠ年半、大震災・原発事故に真正面に取り組む映画の出現である。しかし、製作実現にはスポンサーが付ず苦労したらしい。英国・台湾の資金でやっと公開にこぎつけたという。被災地に何度も入って、或いは住み着いて撮り続けたがスポンサーが付かないためテレビで放映されなかった、という話もよく聞く。しかし、昔のフィルムと違ってデジカメは安価で撮れる。やはり、創る側の問題なのだ。
 希望の.

 私自身、いくつか感じていることとして、
① 「希望の国」で息子夫婦がもっと遠くに避難しょうとして車を走らせる。確か四国に渡る。そこでも放射能の  強い数値が出るシーンがあった。日本どこでも汚染されている、と監督は言いたいのか?
  1年半たって、現在の放射能の数値は本当のところどうなのか?
② 今も福島原発は放射能を出し続けているのか?福島原発は今、終息に向けてどの段階なのか?いつ頃になった  ら終息するのか?
③ 東京で我々は放射能を気にしないで生活をしている。食べ物も今や産地を気にせずに食べている。時々、放射  能のニュースが出てギョとする。本当に食べ物は安心なんだろうか?
④ 監督、園子温、有能でエネルギッシュに溢れているが、妻を道連れにするところで疑問に思った。
  1. 2012/10/28(日) 16:59:10|
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『映画』 「フタバから遠く離れて」(監督、船橋淳、テーマ音楽、坂本龍一)10.25

『映画』 「フタバから遠く離れて」(監督:舟橋淳。テーマ音楽:坂本龍一)10.25

震災後の福島

3・11の大震災の後、福島第一原発の5号機と6号機を町内に抱えた福島県双葉町は、250Km離れた埼玉県加須市の旧騎西高校(廃校)へ避難した。町が原発の警戒区域になり、1400人の役所や町ぐるみの避難は現代版“ノアの箱舟”と言われた!
監督の舟橋淳は避難先の高校で、1400人の住民の激変した生活に寄り添いながら、住民たちがこの1年半をどのように過ごしてきたか?その日常生活を追った。カメラは3千時間も回ったそうである。それを90分にまとめたドキュメンタリーである。作品は続いていて、これは第一回の作品である。

 避難した双葉町の人々は初め“早く帰りたい”とか、“ここで死にたくない”(高齢のお婆さん)とか言っていた。しかし、簡単には“帰れない”ことを悟ってゆく。というか、分からせられる時間の日々だった。
 町長の発言が随所に出てくる。過疎の町でこれといった産業がないため「原子力」を受け入れた。原発によって町は潤った。(交付金で作った立派な図書館の映像。又、3・11前の平和な双葉町の写真。美しい桜の花。)しかし、交付金が切れると町の財政は逼迫し、次の原発を受け入れることに、、、

 一家族の代表2名に限定しての一時帰国(2時間)で初めて足を入れた時、故郷は3・11のままのぶっ壊れた町だった。避難先の一見「平穏な環境?」とは違った荒涼たる町の風景。見ていて一瞬茫然とする。地震や津波だけなら帰って復興できるけれど、目には見えない「放射能」では帰るに帰れない。
 町長が写真で示していた3・11以前の平和な町はどこへ行ったか?墓石がメチャメチャに倒れた墓地や海岸風景。「原子力、豊かな社会とまちづくり」という看板の虚しさ。人が誰もいない町は不気味である。映画のワン・シーンみたいだ!
 住民たちは“帰りたい”と言っていたが、日が経つにつれて原発の容易ならざる恐さを知ってゆく。故郷を捨ててどこか他所に新開地を見つけなければならないのか?
 原発推進派だった町長の「原発誘致は失敗だった。我々は放射能まみれだった。放射能にまみれてない東京の人たちが栄えたんですよね」つまり、原発で造られた電力は東京で消費された。大都会繁栄のための使い捨てになっていた。

 見事なシーンがいくつかあった。
全国の原発を抱えた市町村の首長を集めた会議で、海江田大臣、細野大臣がそれぞれ、初めに挨拶をしてすぐ公務だといって退場してしまう風景!あとには2つの大臣の空席が虚しく写っていた。残って悲惨の現状に耳を傾けるべきではないか!
 住民の代表が震災後初めて故郷に帰る時、東電社員が一列に並んで見送る様子。縦に整列して頭を下げているのだが、どの位お辞儀をしていいのか戸惑っている様子をカメラは見逃さなかった!一方、東電の社長は記者会見で通り一遍の謝罪。
 住民が国会へデモをして議員面会所の前、自民党議員がたすきを掛けて拍手している。住民たちが抗議しているというのに、何故拍手なの?

 監督=舟橋淳は若手の意欲的な映画監督で、フイクション・ドキメンタリを手がけ、文章も手掛ける。
作品に「谷中暮色」(2010)「桜並木の満開の下に」(2013公開予定)
  1. 2012/10/27(土) 13:17:59|
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『映画』 「菖蒲」(監督アンジェイ・ワイダ。主演クリスティナ・ヤンダ)10.20

『映画』「菖蒲」(監督アンジェイ・ワイダ。主演クリスティナ・ヤンダ)10.20

ポーランド映画。岩波ホール(10.20~)09年制作。記、12.10.21
原作、ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ(「尼僧ヨアンナ」「白樺の林」の作者)
監督、アンジェイ・ワイダ。 撮影、パヴェウ・エデルマン。
出演、クリスティナ・ヤンダ。(「大理石の男」主演、現代ポーランドの大女優)

菖蒲

アンジェイ・ワイダ監督は戦後ポーランド映画の第一人者である、と、同時に、映画を通しての「生き方や思想」で世界をリードした。50年代末の「灰とダイヤモンド」「地下水道」から70年代の「白樺の林」「大理石の男」、07年の「カティンの森」まで60年間にわたって、優れて現代世界の地底に轟く思想を展開してきた。    

撮影中、主演女優クリスティナ・ヤンダの夫であり、ワイダの盟友でもあった撮影監督エ
ドヴァルト・クウォシンスキの病死によって、映画自体を大きく改変した。
<映画の構成>
① 原作の「菖蒲」の物語。
② ヤンダのモノローグ(夫が亡くなる最期の日までを語る)
③ ワイダ監督による撮影風景。
 これら3つのパートを交錯する形で映画は構成されている。  

<物語> 
 年代は戦後の50~60年代、戦中・戦後から5~10年経過し一応混乱が収まった時代。
【撮影風景】
 豊かな水量が流れる川に漂う菖蒲の影。主役のヤンダと監督のワイダとが話している。
 「菖蒲には2つの香りがある。Ⅰつは芳香、もうⅠつは泥の・死の匂い」と監督。
(作品のテーマを暗示しているか?)
【映画】
 医者の夫と2人だけの生活のマルタにはワルシャワ蜂起で亡くした2人の息子があった。今でも引きずってい  る。家には鍵の架かった、当時のままの子ども部屋がある。
「菖蒲」の主人公マルタは癌であることが医者の夫は分かっているが、本人には言わない。(マルタ役のクリステ ィナは実生活で夫が癌で闘病中、映画における役と実生活とは反対の立場になる。彼女は虚構を演ずることによ って夫の難病の苦しみ、痛切さをかみ締めてゆくことになる。)
 マルタは大きな川の辺で、ワルシャワから久しぶりに訪ねてきた旧友と昔話に耽った。友達や知り合いの消息、 やっと世の中が落ち着き出した事等、春から夏にかけての川辺の瑞々しい風景や水ガ滔々と流れる川の情景は抒 情性たっぷりの美しさだ。(旧友は息子の死と関係がありそうだ。別れ際のやりとりで暗示される。)川船着き 場で若者たちが踊っている。そこで、マルタは亡き息子に似た若者ボクシ(パヴェウ・シャイダ)に目を留め  る。
【女優ヤンダのモノローグ】
  夫エドヴァルトは撮影監督としてワイダ監督の盟友であり、女優ヤンダにとっても最愛のかけがえのない存在
だった。夫は元気になって再びワイダ監督と仕事が出来る事を渇望していた!
  まさか死ぬとは思わなかった。転移していた。私は激しく泣いた。
  夫を愛している、命を懸けて愛した。いい関係だった。何が起きようと、私は彼の、彼は私のものと思って
いた。
  家に連れて帰って最後の5夜は2人だけの夜だった。
  最後の晩、“病院へ行く?” “いや僕は家にいたい”
  それから不意に“ここで別れを告げて去ってもいいかい?と”
  水を飲ませる間、ふと開いた彼の目は何も見ていなかった。それからため息を、安堵したかのように、、そし  て目を閉じた。
【映画】
 家では時々体調の悪さに襲われるマルタ。
 マルタは亡き息子に似たボクシと土手の所で出会って話すようになり、本を貸す事になり、ボクシが本を借りに 家に来た。マルタは「灰とダイヤモンド」(嗚呼!!)の本を用意する。そして、泳ぎに行く約束をする。
 水着姿の2人、菖蒲を千切って香りを嗅ぐ。亡き息子を思ってやさしくボクシの肌に触れる。一瞬2人は抱き合 いキスをする。「奥様はいい人です」とあっけらかんと笑うボクシ。
 降臨祭のための菖蒲を取りに対岸に泳いでゆくボクシ、突然苦しみ出して溺れてゆく。マルタ慌てて助けにゆく が手に負えないので助けを呼ぶ。若者が2人来て救助するが死んでしまう。
【撮影風景】
 突然、撮影現場から逃げ出すヤンダ。監督のワイダが「一体どうした」。現場での混乱をよそに水着姿のまま裸 足で土砂降りの中を歩き、やっと車を拾う。体が震えているヤンダ。

<感想>
水量豊かに流れる川の瑞々しい情景がよかった。だが、静で静寂な抒情性を感じた。こちら側に先入感があったのか?
撮影現場から逃げ出すヤンダに、一瞬戸惑ったが、はっ!と思った。映画の世界での、若者の突然の死・役での不治の病の癌の進行は、現実の亡くなったばかりの夫を思い出させ、いてもたってもいられなかったのだ。劇中でのヤンダのモノローグの痛切さを思った。ヤンダの愛する者を失った”愛“の物語。それが大河の流れの情景で捉えられて、若き輝きもやがて死に至るという”生の不安さ“を漂わせた。

監督ワイダの視点、戦後―現代ポーランドの出発は戦中のワルシャワ蜂起―戦争とレジスタンスーにある、と。
又旧友との会話での「やっと苦難の時代が終った」というやり取りは、監督ワイダ自身の今の状況(2,009年)に対する<思い>である。ワイダの日本での上映作品に共通する質の高い作品世界に浸っていた。
  1. 2012/10/22(月) 11:58:22|
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2011年⑫『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その3・2011.5.19(木)20(金)記12.10.12

2011年⑫『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その3・2011.5.19(木)・20(金) 記、12.10.13 

A) ブランカッチ礼拝堂(サンタ・マリア・カルミネ教会)「聖ペテロ伝」壁画連作。
  (作、マザッチョ、マゾリーニ、フィリッピーノ・リッピ。制作1424~27年。1482~83年)


カルミネ教会
  (サンタ・マリア・カルミネ教会・ブランカッチ礼拝堂)

ブランカッチ・ペテロ伝の右
(ブランカッチ礼拝堂・「聖ペテロ伝」右側=作者 同)
 
 
 18世紀の火災で殆ど消失したが、幸いマザッチョらの壁画連作のブランカッチ礼拝堂が残った。ここはルネサンス絵画の学校、遠近法の絵画における初めての実験場だった。ヴァザーリが「ルネサンス画人伝」で最大の賛辞を贈っているように、ここでダ・ヴィンチもボッティチェッリもミケランジェロも学んだ。
 
 1400年代の初め建築家ブルネレスキが、鏡に建築の輪郭を写し取り遠近法の実証に成功。彫刻家ドナテッロ、ギベルディとそれぞれ成果をあげ、1426年マザッチョがブランカッチで絵画における遠近法に成功した。皆友人である。1435年アルベルティが「絵画論」で透視図法の理論化を表し、1450年代ピエロ・D・フランチェスカが「聖十字架物語」の大作を完成した。平面・2次元の世界に立体・3次元を描く事に成功したわけで、絵画が奥行き・量感、構成において夢幻の拡がりと可能性を持ったことになる。近代絵画の始まりである。

* 物語はキリストに課せられた教会の使命、キリストの1番弟子ペテロの実践の物語を通して教会が実現した人間救済の物語。アダムとエヴァの「原罪と楽園追放」から物語は始まり、人間は原罪を背負い神の言葉のみが救う。漁師からキリストの1番弟子になったペテロの、「説教」(人間救済のまことを告げ)と「洗礼」(イエスの名において行われる洗礼で人間の罪が許される)「貢の銭」と「足萎えの治療とタビタの蘇生」はキリストの命によってペテロが実践する生命の力の発現。

DSC_1791マザッチョ①
    (マザッチョ・「共有財産の分配とアナニアの死」)

「影による病人の治療」(ペテロが行う救済)、「共有財産の分配とアナニアの死」では。金銭への貪欲やごまかしに対する断罪。「テオフィルスの息子の回生」では真実の言葉こそ人間救済の奇跡を行うものだと証した。
「魔術師シモン」で幻術と救済は関わりないこと。「ペテロの殉教」で人間と救世主との一体化をあげる。

楽園追放
  (「楽園追放」マザッチョ・ブランカッチ礼拝堂)

 ブランカッチ礼拝堂の一番奥に上記の壁画が左右にあり、眼前で見ることの満足感にひたる。(アレッツォの「聖十字架物語」も同じ)作品に圧倒れ息をのんだわけだが、どういうわけか頭は理詰めになっていた。
 どこが遠近法?どれがマザッチョで又マゾリーノなのか?。
 マザッチョは構図・構成力において当時の絵画史上画期的な作品を描いた。遠近法という技法を駆使して。

貢の銭
(『聖ペテロ伝』「貢の銭」マザッチョ・ブランカッチ礼拝堂)

① 「貢の銭」。画面中央、キリストと弟子たちの一行に収税史が立ち塞がり納税を要求している。キリストは「カエサルのものはカエサルに。神のものは神のものへ」と言いながらも、左端でペテロが湖で魚を獲り(魚の口から銀貨が)、右端でペテロが役人にお金を渡している、3つの場面を描いている。「納税は市民の義務」という当時の政府の主張(市民の資産に公平な税金をかけ公平に分配しょう)を代弁していることになる。

②  遠近法の技法が計算されて使われている。背景の枯れ木は縦の線の等分であろうし、中心点のキリストの頭部に向かって何本かの線を引いたに違いない。中心のキリストを取り巻く楕円形の集団、人物の顔や表情、衣服の襞(ひだ)の描き方など、ヴァザリーが言う「それまでの絵画が足元は幽霊のようなもの」、に対して大地に根ざした人間を描いたのだ。現実の生きている人間をリアルに描くことはマザッチョだから出来たのだ。又、今で言うデッサンともいうべき「下絵」を張って針で穴を開け、顔料の粉を壁に叩き移す方法で制作していった。
 
  (「足萎えの治療とタビタの蘇生」マゾリーノ・ブランカッチ礼拝堂)

③  マゾリーノはマザッチョより18歳も年上で同郷の親しい関係。師弟関係かと思われたが現在では否定されている。国際ゴシック派のマゾリーノ1人では「聖ペテロ伝」のような現実主義の、雄大な構想力と優れた遠近法を駆使した壁画連作は無理である。この2人の関係がわからない。ウフィツィの「聖母子と聖アンナ」で聖母子と右上の「天使」がマザッチョと言われるけれど、「聖アンナ」や他の「天使」をマゾリーノとすれば、絵の次元が違うことは一目瞭然だ。又、マゾリーノの「原罪」とマザッチョの「楽園追放」を較べても、「楽園追放」では人間のあらゆる罪を背負って生きる苦悩が良く出ている。人体の描き方も(彫刻の影響か)ギリシャ・ローマを手本にした古典古代の造形美の基にリアルである。「原罪」の甘さと較べて、2人の違いが如実に出ている。

⑤ フレスコ画の性質から「聖ペテロ伝」の構想・構図・勿論主題・下絵を2人は練り上げたに違いない。当然新しい思想を持つマザッチョがリードした。半世紀後、下絵を基にフリッピーノは連作を完成させた。 

(2) 「サン・スピリット教会」
サン・スピリト教会
    (「サント・スピリト教会」)

13世紀中頃、ブルネッレスキの設計で建設が始まった。彼の死後幾多の曲折を経たが、彼の設計に忠実に完成した。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ベルニーニが称賛した教会である。

ミケランジェロの木彫の十字架像
   (ミケランジェロ・木彫の「キリスト十字架像」)

 この教会の何よりの見ものは、若き18歳ミケランジェロの木製の「キリストの十字架像」だ。後期の筋肉隆々たる彫刻ではなくて、若鮎のような清楚な木彫なのだ。木がいい。シンプルはビュティフル!しなやかで柔らかな感触にほっとした。「サント・スプリト修道院」の食堂の壁に掛けられていたのを1962年に発見され、1964年修復・調査の末ミケランジェロ18歳の時の作品と認定された。

*教会の内部は広く40もの礼拝堂が並んでいる。有名な作品は、
 フイリッピーノ・リッピ「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」。
 マーゾ・ディ・バンコ「多翼祭壇画」。
 ギルランダイオ「聖母子と聖アンナ」。
 ロマネスク前期とルネサンスの彫刻が多数。

*サン・スプリト教会の近くでカフェに入ったら、日本人の女の子がウエイトレスのバイトをしていた。すぐ近くのイタリア語学校に通っていて、夜も日本料理店でバイトをしていると、言う。「何を目的に?」「イタリアに来たかったから」言葉通りかわからないが、最近、美術とか料理とか目的があってイタリアに来るのではなくて、まず来てしまう人が多い、と聞いたことがある。


【5月20日】(金)フィレンツェ・フリータイム。
 
 一行の人の行動は「ウッフィツィ」へもう一度行った人、「ピサ」へ日帰りの旅行をした人、様々だ。
 私達は①孫へのお土産を買う事。②ノヴェラ教会③サンタ・クローチェ教会。移動の時間を入れて2つぐらいの見学しか出来ないだろうと思った。最後の日なので有効に使いたい。
 中央駅に近く、ホテルからも近かったので「サンタ・マリア・ノヴェェッラ教会」からと思ったが、金、日、祝は午後からだというので、「サンタ・クローチェ」へ目指すことにした。アルノ川沿いを下流に向って歩く。ヴェッキオ橋を横に見て次のグラッツィエ橋から街中に入って行く。
DSC_8513サンタ・クローチェ教会
     (サンタ・クローチェ教会)」

(3)「サンタ・クローチェ教会}
 フランチェスコ会の世界最大の教会。多くの礼拝堂を有しジョット及び弟子たちの壁画によって知られている。ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリなど有名人の墓があることでも知られている。日本の高野山みたいに文化人はここに埋葬されたいと思ったので、多くの墓や記念碑がある。
 14世紀の初めに全面的な再建工事が始まり、本堂は1385年に完成。
 アッシジもスクロベーニも知らなかった初めての時は強烈なジョット体験だった。今回ジョットが修復中で断片しか見れなかった。
チマブーエの「十字架像」
   (*チマブーエの「十字架像」)
 1966年のアルノ川の洪水で大きく破損したにもか変わらず感迫るものを感じた。かなり破損しても存在感の凄さ は見事なものだ。

ジョット・洗礼者の誕生・サンタ・クローチェ
   (ジョットの「ヨハネ伝・洗礼者の誕生」サンタ・クローチェ聖堂)

* ドナテッロのレリーフ(浮き彫り)「受胎告知」。*ジョット及びジョット工房の「聖フランチェスコ伝」の一部が見えた。

* ここでの最大の失敗はガイド無しで見たことだ。後で「付属美術館」にも行くわけだが、多くの傑作があった にも関わらず作者・作品名がわからなかった。後の「ノヴェッラ教会」は知っている画家が多かったが、クロー チェはジョット派の弟子たちが多く、こちらの勉強不足であった。

* タッデオ・ガッティ「バロンチェッリ礼拝堂の<最後の晩餐>」ジョットの弟子として24年間仕えた。
* ジョット&工房「バロンチェッ礼拝堂の<聖母戴冠>」
* マーゾ・ディ・バンコ「ヴァルディ・ディ・ヴェル二オ礼拝堂」のフレスコ画群。
* バッツィ家礼拝堂の一連の装飾。
* アーニョロ・ガッディの「聖十字架物語」タッデオの息子、ガッティ工房の3代目。
もし再び訪れることがあればもっと勉強して行くだろう。
サンタ・クローチェは美しい白大理石に緑の線で縁取られたシンプルな教会だ。前に大きな広場が広がっていて落ち着いた雰囲気を持っている。広場の先に皮製品を売る店があって、昔日本人の女店員(イタリア人と結婚)がいてこの店でお土産を買ったものだ。今回も若い日本人の女店員がいたが、中国人の観光客の集団がワイワイ言いながらお土産を買い漁っていた。我々も昔はあんな事をしたのか?時代の流れを感じた。

 共和国広場の近くにZARAの子供専用の店があるので、本年もそこで孫へのお土産を買った。
 アルノ川沿いのカフェで簡単で遅い昼食。ノヴェッラ教会に行く前に、マリーノ・マリーニ美術館を地図で調べて行くことにした。

(4) 「マリーノ・マリーニ美術館」 
マリーノ・マリーニ   (「マリーノ・マリーニ美術館」の馬の彫刻)

*10数年前初めてフィレンツェに来た時のこと、
「一行の中に女性の彫刻家がいた。その方とは若い頃日本橋のデパートでイタリア現代彫刻展やイタリア具象絵画展を見たことを話した。マリーニやマンズーの作品の話、(その方も見ていた)具象的で生活空間に飾っても作品がマッチする事などを話した。フィレンツェに来て、梱包された包みを持ってホテルに帰ってきた。マリーノ・マリーニが好きで今日美術館に行ったらあいにく休館だった。がっかりして帰ってくる途中画廊があってマリーニの良いエッチング?(記憶が確かでない。時価10数万と聞いた)が飾ってあった。思い切って買った。お小遣いを全部叩いた。これでいい。と満足そうに我々に語った。
マリーノ・マリーニといえば馬の彫刻とこの話を思い出す。
うつ伏せの女
マリーノ夫妻と帽子を被る少女
   (「背のきれいな女」「若きマリーノ夫妻」「油絵」)

 階段を上ってゆくと広い空間が奥まで広がって、真ん中の吹き抜けを囲むように、2階、中2階、3階と作品を陳列してある。馬と人、男や女の裸像、古代彫刻のような女の顔、うつ伏している女の素晴らしい背中から腰にかけての曲線。若い頃絵も描いていたんだ。大きな帽子を被り手に小さな花を持った少女の肖像。モディリアーニみたいな芸術青年と美しい女性の、若い頃のマリーニ夫妻の肖像写真。数人の画学生の男女が写生をしていた以外に誰もいなかった。ゆったりとした時間が流れていた。先ほどのうつ伏している女の背中の曲線の何とも言えない美しさに、20世紀イタリア彫刻の可能性を見た。

「5」「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」

ノヴェッラ教会
   (「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の華麗なファザート)

 13世紀の前半、ドメニコ派の聖堂として建てられた。

① ジョットの「十字架像」に圧倒された。大きな教会の真ん中に、天井から吊るされたキリストの大きな磔刑図。衝撃が走った。
ノヴェラ・十字架のキリスト・ジョット
    (ジョット「十字架のキリスト」ノヴェラ教会)

② マザッチョ「三位一体」
 マザッチョの「三位一体」大きな作品である。イオニア式の円柱、コリント式の角柱、半円のアーチ囲まれて正面に父なるヤハウェ神、磔刑のキリスト、精霊の鳩(これが見えない)の三位、キリストの両側に聖母マリアと使徒ヨハネ、その下にこの絵のパトロンの夫妻が描かれた。(パトロンが誰か色々な説がある)この絵は数奇な運命を持ち、絵の前に祭壇が設けられたり、ヴァザーリによって別の祭壇画が置かれたりして300年マザッチョは眠っていた。20世紀になっての発掘で祭壇の裏の壁の中から石棺に横たわる骸骨の絵が出てきて1952年元の形に戻された。骸骨の上にラテン語で「我はかつては汝らのごとし、汝らもいずれ我のごとくならむ」
しかし、この絵には感心しない。色が悪いし、聖母の表情以外は平凡だ。
   三位一体・ノヴェッラ・マザッチョ
  (マザッチョ「三位一体」ノヴェラ教会)

* フィリッピーノ・リッピ「聖ヨハネの奇跡」と「ピリッポの奇跡」絢爛豪華な作風。

* ドメニコ・ギルランダイオ(1449~1494)「聖母マリア伝」「洗礼者ヨハネ伝」(1485~90)有名な「マリアの誕生」である。注文主はメディチ豪華王の叔父の有力者。主題の「マリアの誕生」より目立つて描かれているのが、画面左側に描かれたトルナブオーニ家の5人の女たち。宗教画の中に世俗の人物を描き入れる所まで時代が進んだか?
マリアの誕生・ノヴェッラ
   (『マリア伝』「聖母マリアの誕生」ギルランダイオ。ノヴェラ教会)

エリサベツ訪問・ノヴェッラ
    (『ヨハネ伝』「聖母の、エリサベツ訪問」ギルランダイオ。ノヴェラ教会)

* ここでもガイドなしでは深い鑑賞が出来ない事を知る。記憶が薄れた作品として、

 ブルネッレスキ「十字架像」。ピサーノ「聖母子像」。ウッチェッロ「ノアの洪水」
 スペイン人の大礼拝堂。有名な作品なのに記憶が鮮明でない。

* 夕食を中央駅の近くの日本語のメニューのある店でとってドゥオーモを散歩した。ドゥオーモを一周して思ったことは、今回の旅でフィレンツェが一番ほこりぽっく汚いということだ。道路の舗装もガタガタで足が痛んできた。これは残念なことだ。アペニン山脈を越えて行ったフェデリコ公の「理想都市・ウルビーノ」、ピエロ・フランチェスカの「サンセポルクロ」と「アレッツォ」、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の「コルトーナ」、突然の雷雨にやられた「ペルージャ」、トスカーナの山上都市「ピエンツァ」「モンタルチーノ」煌く「シエナ」。ルネサンス絵画を巡る旅であったが、皆きれいな中世の都市だった。その麗しき思い出の街と比較して、フィレンツェは大都会であり喧騒の町であった。
  1. 2012/10/12(金) 07:04:17|
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2011年⑪『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その2 /2011.5.19.(木) 記12.10.11

2011年⑪『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その2  2011.5.19(木)記12.10.11

DSC_2539フィレンツェ
    (ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの「ドゥオモ」)
   
 フィレンツェは古代エトルリア時代に創設され、ローマ帝国の殖民都市・神聖ローマ皇帝の支配を経て、貴族や商人の政治支配が発展し12世紀には「自治都市」になった。織物業や近郊の農産物の出荷地、金融業として発展し、又、地中海貿易などでヨーロッパに名だたる大都市になった。
 13~14世紀、商人や職人の代表による評議会議員、上層市民が政治の実権を握って「共和国」時代をつくった。メディチ家が覇権を握り1432年「祖国の父」コジモの帰還によってメディチ家の寡頭政治が始まった。
 イタリアはヨーロッパのような絶対主義の民族国家の形成には向わなかった。
 
 フィレンツェはピサなど周辺のトスカーナの国を支配下に治め、シエナを獲得したコジモ1世は1569年トスカーナ大公国をつくり上げた。
 メディチ家はF・リッピ、アルベルティ、ドナッテロ、ボッティチェッリ、ミケランジェロなど多数の芸術家のパトロンとして、イタリア・ルネサンス文化を支えたのである。世界有数のコレクションはメディチ家最後の遺産相続者「アンナ・マリア・ルイーザ」が「フィレンツェに留まり、一般公開を条件」にトスカーナ政府に寄付した。 今やウフィッツィ美術館(4800点所蔵、2000点の展示)を誰でも見る事が出来る。
DSC_2533アルノ川
    (アルノ川に架かるヴェッキオ橋。右側に「ウフィツィ美術館」がある。)
 <A>ウフィッツィ美術館
 フィレンツェに来れば必ず見る美術館。ガイドが予定時間の中で定番の作品を説明しながら見学する。ガイドが見たい作品を募集していた。何人かが作家名をあげていた。マニエスムの画家が多かった気がする。私は3回目だがいつも名作の洪水の波に飲まれて夢中になって終ってしまうのだ。ガイドブック「地球の歩き方」の黒字で書かれた作品、シエナ派の作品だけでもしっかり見たいと思った。今日はその後大物が幾つも控えている。

① 第2室:*チマブーエ「荘厳の聖母」(1280)。*ドゥッチョ「ルチェッライの聖母」(1285)。*ジョット「玉座の聖母子」。「オニサンテの聖母」(1310)。
 聖母子の大御所の3人を一堂に並べた。凄い!としか言いようがない。
DSC_2057ウフィツィの荘厳の聖母
      (チマブーエ「荘厳の聖母」)

DSC_2090ルチェッライの聖母
     (ドゥッチョ「ルチェッライの聖母」)
DSC_2078ウフィツィのオニッサンティの聖母
      (ジョット「オニサンティの聖母」 )
 
 * <チマブーエ> 少年ジョットの画才を見出したという有名な伝説、「イタリア絵画の創始者」とされる。アレッツォのサン・ドメニコ聖堂の「十字架のキリスト」は見てきたばかりだ。1,966年の洪水で大被害にあったサンタ・クローチェの「十字架のキリスト」は独特の存在感に圧倒された。(後で見ることになる)洪水で3/1は損傷しているのにも係わらずである。チマブーエの聖母は庶民的な目元の親しみやすく好感がもてるマリアである。
* <ジョット>の「オニサンテの聖母」。 昨年の旅行で代表作のアッシジとスクロヴェーニ礼拝堂を見た。
 チマブーエとジョットの「オニサンテの聖母」と比較するとルネサンス絵画のレベルが1つも2つも上がった感じがする。ジョットは聖母の顔立ちや、胸のふくらみなどを描いてより人間的な現実表現になってゆく。

② 第3室:14世紀のシエナ派
DSC_1989マルティーニの受胎告知
   (*シモーネ・マルティーニ「受胎告知」(1333)。)
この作品を10数年前見た時からシモーネのファンになった。大天使ガブリエルが「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。」(天使の口からそのような金文字が発している)その時のマリアの困惑そうに身をよじった姿勢と表情が面白い。(結婚していないのに何故赤ちゃんが?)こんなマリアは空前絶後だ。燦然と輝く金色の蒔絵のような作品。シエナ大聖堂にあったのをトスカーナ大公が強権によってウフィツィに持ち去った。 

玉座の聖母子・P・ロレンツェッティ=ウフィツィ
   (ピエトロ・ロレンツェッティ「玉座の聖母子」1340 ウッフィツィ美術館)

* アンブロージョ・ロレンツェッテイ「聖ニコラウス伝」(1332)。連作 

③ 第5.6室国際ゴシック派
*ジェンティーレ・ファブリアーノ「マギの礼拝」(1423)。
豪華な枠の中で人物の衣装に金をたくさん用い、装飾や衣服の模様も色彩鮮やかな作品。中世とは違った「国際ゴシック派の典型的な作品。
ファブリアーノ・東方3博士の礼拝・ウフィ
   (ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方3博士の礼拝」ウフィツィ美術館)

*L・モナコ「聖母戴冠」。

④ 第7室15世紀のトスカーナ絵画 
 *ウッチェッロ「サン・ロマーノの戦い」(1450)。
ロマーノの戦い・ウッチェロ・ウフィツィ
    (ウッチレェッロ『サン・ロマーノの戦い】「B・D・チャルダの落馬」ウフィツィ美術館)

 戦場の場面、槍が林立し馬が躍動する場面に優れている。ピエロ・デッラ・フランチェスカが「聖十字架物語」で合戦の場面を描く時参考にした。馬の筋肉のもりあがり、蹴る様子などである。又、遠近法の研究でも知られている。
DSC_1800マザッチョ②
 (*マザッチョ(1401~1428)&マゾリーノ(1383~1440)「聖母と聖アンナ」(1425)。)

 美術史学会の世界では「マザッチョ・マゾリーノ問題」と言葉があるくらい、どこを描いたのがマザッチョでどこは違うという問題。ブランカッチ礼拝堂ではフィリッピーノ・リッピ(1457~1504)も加わる。この作品は聖母子と右上の天使がマザッチョだというのが定説になっている。他の像の顔とレベルが違うので納得する。キリストなんか筋肉たくましくて、マザッチョの真実の人間を描こうとする姿勢が良く出ている。
* マザッチョとマゾリーノはこんなにもレベルが違うのか納得できない。顔の表情の描き方をとっても大変な違いだ。

* D・ヴェネツィアーノ「玉座の聖母子」。
ヴェネツィアーノ・聖母子とフランチェスコ他・ウフィツィ
   (D・ヴェネツィアーノ「聖母子・聖フランチェスコ・聖ヨハネ・聖女ルキア」ウフィツィ美術館)

⑤ 第8室
聖母子と2人の天使・ウフィツィ
  (*フィリッポ・リッピ(1406~1469)「「聖母子と2人の天使」)

ボッティチェリの師、マザッチョの影響も受けた。繊細で優美な色彩感覚はフィリッポ独自のもの。モデルだった修道女ルクレツィア・ブーティと恋に陥り駈け落ちした。2人の間にフィリッピーノが生まれた。破門されたがパトロンのコジモ・メディチの取り直しで、教皇から正式の夫婦と認められた。フィリッポの描くマリアやサロメのモデルはルクレツィアだと言われている。聖母の髪や髪飾りの襞(ひだ)や線の優美さはこの上も無いほどである。奔放な生涯を送ったが、作品は優美な美しいものが多かった。

*フィリッピーノ・リッピ「マギの礼拝」「幼子の礼拝」
*ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415~1492)「ウルビーノ公夫妻の肖像」(1472頃)
 10数年前に始めてこの絵を見た時、ウルビーノ公が傭兵隊長として強くて鼻のへこみを戦場での負傷と捉えたが、フェデリコ公の優雅な宮廷など想像しなかった。ピエロがその宮廷のお抱え絵師だったことも想像しなかった。今回ウルビーノへ行き国立マルケ美術館で幾つかの作品を見て、フェデリコ公の優雅な宮廷の思いに耽った。ピエロ晩年の傑作。

DSC_3335春の左の3人の女神
   (ボッティチェッリ「春」 ウフィツィ美術館)

DSC_3282ヴィーナスの誕生
  (ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」 ウフィツィ美術館)  

⑥ 第10~14室* ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」。「春」。
初めてこの部屋に入った昔、こんなにも美しい絵画があっていいものか、と思い夢うつつの状態で立ち尽くした。ポピュラー的にウフィツィを代表する「ヴィーナスの誕生」1480年と「春・プリマヴェーラ」1482年

 *「東方三博士の礼拝」ボッティチェッリとメディチ家との繫がりをストレートに表している作品。イエスの誕生を知った東方の星占いの3人の博士が救世主への貢物を捧げるという場面。三博士に、コジモ、ピエーロ、あとロレンツオがだれかはっきりしないという。右端のこちらを向いているのが作者ボッティチェッリ。
DSC_3332ボッティ・東方3博士・ウフィ
    (ボッティチェッリ「東方3博士の礼拝」 ウッフィツィ美術館)

⑦ 第15室 *レオナルド・ダ・ヴィンチ「マギの礼拝」1482年「受胎告知」1475年。
初めてウフツィに来た時、ボッティチェッリとダ・ヴィンチの「受胎告知」を見比べようと2つの部屋を何度も往復した。ダ・ヴィンチの理詰めのように計算され尽した絵、天使とマリアが議論しているかのような不思議な「受胎告知」にビックリした。
レオナルド「受胎告知」
    (レオナルド「受胎告知」 ウッフィツィ美術館)

受胎告知・ウフィツィ
    (ボッティチェリ「受胎告知」 ウッフィツィ美術館)

⑧ 第18室 *ポントルモ「祖国の父コジモ」

⑨ 第25室 *ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)「聖家族」1506年
トンド・ドーニ・ミケ・ウフィ
   
 彫刻家として有名だが画家としてはシスティーナ礼拝堂の天井画以外にパネル画として  
 はこれ1枚しか残っていないという。フィレンツェの名家同士の結婚のお祝いとしての注文だったという。前にマリアがいて後ろに仮の父のヨセフがいる。マリアが肩越しにイエスをヨセフに手渡すという不自然なポーズになっている。このねじれたマリアの姿勢こそが彫刻家ミケランジェロの得意とした領域で、絵画にも特徴が良く出ている。

⑩ 第26室 *ラファエッロ(1483~1520)「ひわの聖母」1507年
 ウルビーノに寄った時ラファエッロの生家にいった。外観は普通の民家だが中は広く、父親がウルビーノ公の宮廷画家で工房を構えていたという。職人の工房と言った感じの余計な物が一切無い部屋、ここで育ったラファエッロは画家に成るべくしてなった。
 「ひわ」とは小鳥の幼鳥のことで、この絵では2人の子供洗礼者ヨハネとキリストをさす。ひな鳥のように幼い2人。それを愛しむ聖母マリアという構図。聖母の頭が中心点で肩、腕、下の岩と下がる線、2等辺三角形を形成しているという。そういわれて見ると絵のおさまりがいい。優雅で洗練された美しい作品は誰からも愛せられた。

ウルビーノのヴィーナス
    (ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」 ウフィツィ美術館)
⑪ 第28室 *ティツィアーノ「フローラ」「ウルビーノのヴィーナス」
ヴェネツィア派のティツィアーノの官能的な作品。一行中の老夫妻の夫人がモデルは娼婦ですか?とガイドに質問したが、ガイドは否定した。
* ヴェネツィア派のカルパッチョの「2人の貴婦人の肖像」巡っての須賀敦子の高級娼婦論か否かの議論を思い出し、食事の時その話を持ち出した。「娼婦」と言っても日本の近世の廓の「吉野大夫」とか、平安朝の女流文学の担い手の「女房」たちを念頭においての話だ。結論は出なかったが大いに議論が盛り上がった。

* 後の予定の関係で31~45室はカットされた。

<B> 「ヴァザーリの回廊」
 1565年コジモ1世の命によりお抱え芸術家ヴァザーリが、ウフィッツィにあったオフィスからアルノ川を渡るヴェッキオ橋を渡って、ピッティ宮へつながる回廊を造った。メディチ家専用の秘密の通路にも絵画・肖像画・自画像がいっぱいあった。ただ、絵画としてそんな傑作はなかったと思う。
12.00昼食

13.10 <B>、パラティーナ美術館

 歴代トスカーナ大公のコレクションを公開したもので、ラファエロとティツィアーノのすぐれたものが多いとガイドブックにある。ウッフィツィと違って整理されていないので疲れてしまうとのこと。

DSC_1929フィリッポ・リッピ
  (*フィリッポ・リッピ「聖母子と聖アンナの物語」1452年頃)
  聖母マリアはモデルと思われる修道女ルクレツィアであろう。背景の堅固な建築空間   
  と聖アンナの物語の場面の女性たちの描き方―(資料にヘレニズム風の線描様式とある。)が見事である。

* カラヴァッジョ「眠るキューピッド」
幼児の死体をモデルにしたという何回も見たくない作品だ。

* ラファエッロ・サンティ(1483~1520)
DSC_2127大公の聖母

「大公の聖母」1504年 
トスカーナ大公フェルディナント3世が片時も離さず賞賛していた。ダ・ヴィンチなどから「ぼかし技法」の影響を受け、暗い簡素な背景から聖母子が浮かびあがるという慈愛に溢れた感情を表現した。
DSC_2145小椅子の聖母

「小椅子の聖母」1514・5年
美しく豪華な額縁に円形の中に描いたメディチ家の旧蔵品。2人の幼児はイエスと洗礼者ヨハネ。官能的ともとれる若々しい女性美の表現。
DSC_2146ヴェールをかぶる女

「ヴェールの女」1516年
モデルは恋愛関係にあったパン屋の娘。枢機卿から姪との結婚話が出て、関係を断ち切る思いを絵にした。ヴェールをかぶる女は悲しみの感情を表現したが、ヴェールの下の髪飾りは人妻を意味した。公開されることになり、隠すため絵具で上塗りした。

* ラファエッロとティツィアーノの作品が本当に多い。しかも傑作が集っている。
* 収蔵作品が多く我々が見たのはほんの一部で、以下に有名な作品を上げておく。
 ルーベンス「4人の哲学者」「戦争の恐怖」「3美神」
 A・デル・サルト「人間の3つの時代」
 ファン・ダイク「G・ベンティヴォリオ枢機卿の肖像」
 ティッツィアーノ「マクダラのマリア」「美しき女」「V・モスティの肖像」「法王ジュリオ2世の肖像」
 ラファエッロ「布貼り窓の女」「身重の女の肖像」「天蓋の聖母」
  1. 2012/10/11(木) 08:56:03|
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2011年⑩『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その1 2011.5.18.(水) 記12.10.10.

2011年⑩『イタリア列伝の旅』 「フィレンツェ」その1 2011.5.18.(水) 記12.10.10

ドゥオモ
   (花の大聖堂・フィレンツェの「ドゥオモ」)
15.00 フィレンツェ ホテル「アルバーニ」到着。
 さあ、旅の最終地フィレンツェの観光に出発。本日の目的は「メディチ家」ゆかりの2つ。「メディチ家礼拝堂」と「ヴェェッキオ宮」だ。
 さすがフィレンツェ、チェントロ(中心地)は人が多い。今までの都市では日本人を見なかったのに、(震災の影響もある)さすがフィレンツェでは日本人の何組かのグループに出会った。

(1)「メディチ家礼拝堂」 
サン・ロレンツォ教会の後ろに接続して建てられた、「君主の礼拝堂」。
メディチ家の墓所であり、歴代トスカーナ大公家の墓所。8角形の礼拝堂は大理石や豪華な貴石で埋め尽くされ、重厚・豪華な装飾でメディチ家の権力を誇示している。 

「新聖具室」(1521~24年)ミケランジェロ設計の正方形の小さな霊廟である。有名な2つの墓碑、
メデチの墓・新聖具室・ロレンツォ聖
    (「ロレンツォ・メデチの墓」ミケランジェロ。サン・ロレンツォ聖堂・新聖具室)

①ウルビーノ公ロレンツォ・メディチの墓碑、「夕暮」と「曙」の寓意像。
②ネムール公ジュリアーノ・メディチの墓碑、「昼」と「夜」の寓意像。
  さすがミケランジェロ、鬱々としたけだるい静謐な空気が漂ってくる。
③ バッツィ事件の現場――「聖具室」
 1478年新興メディチ家によって特権を奪われた旧家バッツィ家の起こした暗殺事件。メディチの当主ロレンツォはこの「新聖具室」に隠れたが弟ジュリアーノが殺された。復讐に燃えたロレンツォは反対派をことごとく処刑して、後に「ロレンツォ豪華王」と呼ばれた覇者になった。フィレンツェ・ルネサンスの最盛期を作り芸術のパトロンとしても有名である。

ロッジアの彫刻
   (シニョリーア広場・ロッジアの彫刻)
④ 「シニョリーア広場」
 フィレンツェ中心の広場は相変わらず多くの人である。13~14世紀自治都市フィレンツェの政治の中心舞台だった。J・サヴォナローラが火あぶりの刑に処せられた所である。「シニョリーア広場」にある彫像(オリジナルは別の所に)

・ ダヴィデ像(ミケランジェロ)
DSC_3220ダビデ像
  (ミケランジェロー「ダビデ像」ーシニョリーア広場からアカデミア美術館)

・ コジモ1世騎馬像(ジャン・ボローニャ1594年)
・ ネプチューンの噴水(バルトロメオ・アンマナーティ1575年)
・ 獅子像 ・ユディットとホロフェルネス (ドナテッロ)
・ サビニの女たちの略奪(ジャンボロニーヤ)
・ メデューサの頭を掲げるペルセウス(ベェンヴェヌート・チェッリーニ1554年)
ヴェッキオ宮の入口

⑤ 「ヴェッキオ宮」
14世紀初め建設。1530年トスカーナ公国が出来るまで共和国の政庁舎として使われ、メデチ家もピッティ宮に移るまで一時ここを住居とした。その頃までフィレンツェの政治の中心だった。1550~1565年Jヴァザリーによって改築が行われ、現在市庁舎として使われている。
5百人広間
   (5百人広間)
 共和国時代ここで市民会議が行われた。
 <緑の間>
 トスカーナ大公コジモ1世の妃「エレオノーラ」の住居。
 <謁見の間>
 共和国時代総督の会議や法廷として使われた。
 <百合の間>
ギルランダイオ 『ヴェッキオ宮』の「百合の間」
 ( ドメニコ・ギルランダイオ『ヴェッキオ宮』の「百合の間」-フィレンツェ・ヴェッキオ宮)

ドナッテッロの「ユディットとオロフェルヌス」像が飾られている。共和制のシンボル。青地に金の百合の模様 が美しい。
 <共和国政府/書記局執務室>
 「君主論」で有名なマキアヴェッリが仕事で使っていた部屋。質素で小さい。
 <地図の間>
  コジモ1世の命でヴァザリーの設計、壁面に世界の地図が張ってある。ヨーロッパ、中近東、インド、マレー半  島まではかなり正確、ルネサンス人は世界に目を向けていた。

⑥ 「洗礼堂」
洗礼堂の「天国の扉」
     (「天国の扉」)

  「ドゥオモ」の前に「洗礼堂」がある。古い聖堂(11~12世紀)で、8角形のピラミッド形をしている。
  「南側の扉」はA・ピサーノ作で「洗礼者ヨハネの生涯」が描かれている。
  「北側の扉」の「キリストの生涯」は、1401年のコンクールでブルネッレスキに勝ったL・ギベルティの作。
  「東側の扉」はギベルディの作だが、後にミケランジェロが「天国の扉」と賞賛した。


(教会の中は原則として撮影禁止、或いはフラッシュ禁止。室内は暗く「ノー・フラッシュ」だと殆どピンボケに なった。)
(フィレンツェは美術の宝庫である。3度目だがツアーで回っていると殆ど同じ所に行って目ぼしい所を残してし まう。今回の旅の原点のⅠつにそのことがあった。1週間程フィレンツェに滞在しなければ解決しない事がわかった。)
  1. 2012/10/10(水) 18:45:18|
  2. 2011年『イタリア 列伝の旅』
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2011年⑨『イタリア列伝の旅』「プラート」2011.5.18.(水)   記12.10.10

2011年⑨『イタリア列伝の旅』「プラート」2011.5.18.(水)記、12.10.9

プラート・ドゥオモ
      (プラート・ドゥオモ)
⑨『プラート』
 フィレンツェの近郊都市で、ルネサンスの面影を残す古い街並みが残っている。昔から繊維工業が盛んで、最近は中国人によって工業団地として繁栄している。
フイリッポ・リッピがプラートの尼僧院司祭の時、修道女ルクレツィア・ブーティと駈け落ち、彼女はフイリッピーノを産んだ。ドゥオモや美術館にはリッピの作品が多数ある
「1」 「皇帝の城」
 13世紀に神聖ローマ皇帝フェデリコ2世によって建てられた高い城壁。何十階かある様な高い石壁の残骸は異様であった。

「2」 「ドゥオモ」

(ブロンズの台に乗った「聖母の腰帯の説教壇」ドゥオモ)
DSC_8179聖母の腰帯の説教壇
 12~13世紀にかけて建てられた、ピサ・ルッカ風のロマネスクの教会で、一部は後で建てられたのでゴシックになっている。白と濃緑の大理石の組み合わせに赤が混じったファサード(建物の正面)は優美である。近くでこんな美しい大理石が採れるらしい。A・デッラ・ロッビアの彩色テラコッタがある。
右の角にはブロンズの台に乗った「聖母の腰帯の説教壇」(ドナテッロの「踊る子供達」で飾られている)がある。

『フイリッポ・リッピの作品』

* 「福音書記者聖ルカ」
聖ルカプラート・ドゥオモ
    (F・リッピ作・「聖ルカ」大聖堂)

ステパノ伝・プラート・大聖堂
    (F・リッピ作・「聖ステパノ伝」の「シナゴークにおける議論」(部分)大聖堂)
* 「聖ステパノ伝」連作  (プラート大聖堂)
 エルサレムでキリストの磔刑を非難し、キリスト教最初の殉教者になった聖ステバノの数奇な運命を描いた壁画 連作。「埋葬されるステパノ」「聖母マリアの物語」「他の子共とすり返られたステパノ」「シナゴーグにおけ る議論」人物が生き生きと描かれ構図もしっかりとした大作である。

* 「洗礼者聖ヨハネの生涯」<ヘロデ王の宴会>=プラート大聖堂
ヘロデ王の宴会
   (ヘロデ王の宴会「ヘロデとヘロデヤの前で踊るサロメ」大聖堂)
 洗礼者ヨハネが、ヘロデ王の結婚に異議を唱えた(兄弟の妻と結婚したこと)為に捕らえられた。王妃へロディアはヨハネを殺そうとするが、ヘロデ王は民衆の信頼の厚い洗礼者ヨハネを牢に入れた。ヨハネを愛したへロディアの娘サロメは言い寄ったが拒絶されたため、逆恨んでへロデ王の前で踊ってヨハネの首を所望する。(母へロディアに唆されたとも)
  フィリッピが描く「へロデ王の宴会」の場面は、3つの場面が描かれている。左にヘロデの首を受け取るサロメ、右にヘロディアに首を差し出すサロメ、中央の踊るサロメ。
  (サロメのモデルは、ウフィツィの「聖母子と2人の天使」と同じルクレツィア・ブーティ。フィリッピが駈け   落ちした修道女で2人の間にはフィリッピーノが生まれる。)
サロメ
    (ヘロデ王の宴会で踊るサロメ)
 テーマの怪奇性、絶世の美女サロメ、優れた構図は真に傑作である。3人のサロメを同一画面に描き、登場人物の心理の巧みな描写、踊るサロメの優美な姿態、風に揺れる髪や翻る肩衣、踊りによる純白のドレスの玲瓏としたゆらめき等、怪しい感動に誘う。

* パオロ・ウッチェロの「聖母マリア伝」と「聖ステパノ伝」
ウッチェロ・ステパノの論議・プラート
  (パオロ・ウッチェロ『ステパノ伝』ー「ステパノの論議」プラート・大聖堂)

* 聖ヒエロニムスの葬儀  (プラート大聖堂)

「3」 市立美術館(壁画博物館)
チェッポの聖母プラート市立
( * [チェッポの聖母]ーフィリッピ・リッポ。市立美術館 )

「4」 「サンタ・マリア・デッレ・カルチェリ教会」
DSC_8148プラートカルチェリ教会
   ( プラート・カルチェリ教会 )
 
「5」 「カントゥッチ」の老舗店、(1858年創業の「アントニオ・マッティ」)
   プラートの名物。アーモンドの入ったビスケット。
「6」 リッピとルクレツィア・ブーティとの恋
  リッピが美しいルクレツィアを愛したことは、リッピの描く聖母の顔・容姿に深く影響を与えた。女性美の追 求は弟子のボッティチェリに受け継がれ、又、その弟子の、リッピの遺児フリッピーノへと引き継がれた。 
聖母子と2人の天使・ウフィツィ
(リッピ作・「聖母子と2人の天使」ウフィツィ美術館)
DSC_8182ドゥオモで新婚のイタリア人夫婦をカメラに

 * ドゥオーモで婚礼の後の若い夫婦が笑顔で話しかけて来てツアーの一行と写真を撮った。ラテンの開放性、楽天性に又お目にかかった。
* 若い添乗員の案内で「カントゥッチ」の本店に立ち寄った。歯ごたえのあるクッキーみたいなお菓子。コーヒーを飲む時にかじるには丁度いいと思った。
カントゥッチの本店
  1. 2012/10/10(水) 15:14:58|
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2011年⑧『イタリア列伝の旅』 シエナその2 2011.5.17(火) 記12.10.7

2011年⑧『イタリア列伝の旅』 シエナその2 2011.5.17(火) 記12.10.7

ドゥオモ
    (シエナ・ドゥオモ)
E)。「ドゥオーモ」
昨年来た時ドゥオーモの凄さに時を忘れた。ドゥオーモは白と黒のシマウマ模様、ファサード(建物の表面の上部、飾りの部分)赤や暗緑色やピンク色の大理石の豪華絢爛な装飾。ピサやオルビエートと同じような、いやそれ以上に美しいシエナのドゥオーモ。鮮やかな大理石の素材に恵まれ、そこからこれだけの優美な建造物を造り出すシエナ人の感性に感動する。
ドゥオモの中
   (ドゥオモの中)
9世紀に聖母マリアの教会があったが12世紀中頃ドゥオーモとして建設が始まった。仇敵フィレンツェの「花の聖母」に対抗して、巨大なドゥオーモに取り掛かったが財政難で内部装飾に重点を移す。ピサーノ親子、ミケランジェロ、ピントゥリッキオ、ドナテッロ、17世紀にはベルニーニと多くの優れた芸術家が参加している。
昨年も感動して写真を撮りまくったが殆どピンボケだった。(フラッシュを焚かなければ撮影許可)
「身廊の床面装飾」(象嵌で廊下に絵を描く)はここだけか?( 1部公開、8月の2週間全面公開)
DSC_7945身廊の床面装飾
   (身廊の床面装飾ードゥオモ)
左廊(ドゥオモの左側)に有名な「ピッコローミニ家の豪華な祭壇」があって、ミケランジェロやD・クエルチャの彫刻で飾られている。その隣が「ピッコローミニ家の図書室」。後に教皇となったピウス2世のコレクション。壁面には教皇の生涯がフレスコ画で描かれている。大型の聖歌集の楽譜がページを開いて展示されてあった。
DSC_2430ピッコロミーニ図書室の楽譜
  (ピッコローミニ家の図書室に飾られた彩色の聖歌集ードゥオモ)

内陣と言われる主祭壇にはベルニーニ設計のバロックの礼拝堂、ピサーノ親子が造った見事な「8角形の説教壇」などがある。しかし、ここは危機存亡の時シエナ中の民衆が集まって聖母マリアに祈った、歴史的な事件の現場でもあったのだ。

F)。「国立絵画館」 
 シエナ貴重なフリータイム、まず絵画館から。12~16世紀のシエナ派の作品。3階から見て下に降りていった。修道院や教会から流失した「聖母子像」が多く展示されていた。ビサンチン風の型にはまった作品が多い。それを突き破ったのが、
DSC_2485バディア・ア・イ-ゾラの聖母
    (「聖母子」ドゥッチョ。国立絵画館。パディア・ア・イーゾラの画家)
*ドゥッチョ(1255~1319年)
シエナ派の祖。「聖母子」首を左にかしげた端正なマリア。黒い衣装で身を包んでいる。記憶ではドゥッチョの作品をもっと見たと思ったが、次に見た「付属美術館」と混同しているのか?ドゥッチョのマリアは全作品が、目を大きく開け首をかしげた鼻筋の通った端正な顔であった。やんちゃな幼いイエスをあやした、やさしさ、安心感。

*シモーネ・マルティーニ(1284~1344年)

DSC_2555聖母子・絵画館
   (シモーネ・マルティーニ。「聖母子」<カスティリオーネ・ドルチア>シエナ国立絵画館)
「聖母子」3点。「慈悲の聖母」
 繊細で華麗な美は何だろう!しなやかで優美な抒情性!シモーネには華がある。作中人物の顔の表情の独特なリアル感、瞳の表情、この優美な抒情空間がシエナ派を代表し、フィレンツェ派の人間的・演劇的なモメンタルな空間と対比・比較されたのか。
 
カルミネ会祭壇画アグネスとカタリナ=P・ロレンツレッティ
  (兄・ピエトロ・ロレンツェッティ作「アグネスとカタリナ」=国立絵画館)
*兄、ピエトロ・ロレンツェッティ(1280~1348年)
 「カルミネ会祭壇画」「モンティッキエッロの聖母」 多翼祭壇画で幾度も切断されたのをかなり集めた。「東方の歴史」から始まるカルミネ修道会の歴史。物語性、シエナ派の煌びやかな優美性を彼が最も代表しているのではないか。
DSC_2572カルミネ会祭壇画
   (兄ピエトロ作。カルミネ会祭壇画=国立絵画館)
*弟 アンブロージョ・ロレンツェッティ(1285~1348年)
DSC_2586マクダラのマリアとドロテアの間にいる聖母子
   (弟、アンブロージョ作。「マクダラのマリアとドロテアの間の聖母子」国立絵画館)
 3人の人物の目が切れ長で、遠く永遠を見ているかのようだ。
DSC_2601受胎告知・絵画館・アンブロージョ
  (弟、アンブロージョ作 「受胎告知」国立絵画館)
 「受胎告知」でアンブロージョは天使とマリアの対話の最後の場面ーマリアは天上の聖霊の鳩を見ながら、胸に手を合わせ”私は主のはしためです”と恭順の言葉を発している。受肉の瞬間の強調である。いい絵である。

1348年黒死病で兄弟とも死ぬわけだが、これは晩年の作品である。アンブロージョの次の3点が面白い。
海辺の都市
    (弟、アンブロージョ作、「海辺の都市」国立絵画館)
「海辺の都市」「湖畔の城館」
ヨーロッパで初めての「風景画」か、それとも大作の断片か昔から議論の分かれている作品。作者についても異論があるとか。想像していたより小さな作品。「海辺の都市」がいい。城塞に囲まれた海辺の都市。何本もの塔、高い高層の家、町の奥の大きな教会。灰色とうす緑の家々、うす赤色の屋根。青い海には1艘の帆を張った船が行く。「善政と悪政の効果」と同じ配色ではないか。

G)。「ドゥオーモ付属美術館」
一階 彫刻。昔ドゥオーモのファサードを飾っていたオリジナル。
G・ピサーノの「大理石の彫像」旧約・新約に登場する予言者、巫女、哲学者等の作品
Y・D・クエルチャの「聖母子を拝する聖アントニオ・アバーテ、アントニオ・カシーニ枢機卿」
玉座の聖母子
   (ドゥッチョ。「玉座の聖母子、天使、聖人」シエナ大聖堂付属美術館)
二階 *ドゥッチョの「荘厳の聖母」1308年完成。
 これが完成した時、歓喜に沸くシエナ中の総ての老若男女が行列をくんでカンポ広場を廻ってドゥオ-モに運んだ「荘厳の聖母(マエスタ)」だ。裏表描かれ、表側が「玉座の聖母子、天使、聖人」裏側が「キリスト受難伝」。このドゥッチョの「荘厳の聖母」は200年大聖堂の主祭壇画としてシエナの中心的役割を果たした。16世紀初め、時の僭主によって外され解体・歴史の転変を得て、やっと再構成されて今の状態になった。
 中央にイエスを抱く聖母マリア、例によって首を左に少しかしげて、イエスをやさしく抱いてこちらを見ている。聖母の全身を覆うマントは黒かと思ったが、濃いウルトラマリーン・ブルーと資料にある。左右の天使、聖人たちの2・3倍の大きさのマリア像である。シエナを守り、救う聖母マリアだということがよくわかる。

DSC_2482ドゥッチョ・クレーヴォーレの聖母
   (ドゥッチョ初期の傑作、「クレヴォーレの聖母」シエナ大聖堂付属美術館)
* ドゥッチョ初期の「クレヴォーレの聖母」。
 チマブーエの影響下アッシジでドゥッチョは自己の様式を確立したという、美術史の大家ロベルト・ロンギの見解がある。当時のフィレンツェとシエナの画家たちの交流、若いドゥッチョが師チマブーエに学び彼独自の画風を確立していった時期の作品。彼の初期の「聖母子」が皆そうである。シエナ派はここから始まる。
三階 *「大きな目の聖母」(13世紀初めの作品)1260年のモンタペルティの戦いの時、市長ブロナグイーダが市の鍵を捧げた聖母像だといわれている。13世紀初期のビサンチン絵画の画風である。
絵画館から見たドゥオモ
    (絵画館の屋上から見たドゥオモ)
屋上 パノラマが素晴らしい。眼の前に豪華で華麗な「ドゥオーモと縞模様の鐘楼」。シエナの下町?レンガ色の小さな家の屋根が密集している風景。町の南東にある「サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会」。(シエナ派の作品が多い)レンガ色の屋根のシエナの町その先のトスカーナの丘陵さらに遠くの名もわからぬ山。「マンジャの塔」とプッブリコ宮(市庁舎)」と「カンポ広場」。高い所から見るとカンポ広場が貝殻の形をした夢の広場であり、そこは座って話したり寝そべったり出来る場所なのだ、旅の徒然を癒す夢の空間なのだ、「世界一美しい」の意味がわかってきた。
絵画館屋上からのカンポ広場

H)。 「カンポ広場」
一息もいれずに見学してきたので、どうせ休むのならカンポ広場までがんばろうとやって来た。カフェのテーブルに座ってほっとした。広場は程好く人々で埋まっている。老若男女、幼児や家族連れや若者も結構いる。時々ツアーの同行の人が歩いているのを見かける。挨拶を交わす。ヴェネツィアともフィレンツェとも違うシエナ独特の温かい風が吹いていた。気持ちが静まるどころか浮き浮きして、心の流れに任せるしかなかった。
* 夜、1人でカンポ広場まで行き念願の「寝転んで」夜空を眺めた。
  1. 2012/10/08(月) 14:53:54|
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2011年⑦『イタリア列伝の旅』 「シエナ」そのⅠ  2011.5.17(火) 記12.10.5

2011年⑦『イタリア列伝の旅』「シエナ」その1 2011.5.17(火) 記12.10.5

ドゥオモと塔
      (シエナ、ドゥオモと塔)

カンポ広場に寝転ぶ人
    (カンポ広場で寝転ぶ人)

 シエナのカンポ広場に寝転がって空を見てみたいと言うと、コルトーナの「受胎告知」の大ファンの女史にげらげら笑われた。シエナの魅力を知ったのは、昨年の旅行だった。ドゥオーモの素晴らしさに感動している内に時間がたってしまい、カンポ広場でお土産を買って去らざるを得なかった。シエナの不思議な魅力は後を引いた。。
①「コムーネ」という市民の代表によって運営された中世の自治都市シエナ、聖母マリア信仰の熱いシエナ、もし か したら、僕が心の底から求めているイタリアかも知れない。ヨーロッパ市民社会の根底にある自治と自由と 独立の精神の歴史があるかも知れない。  
② 絵画における「シエナ派」。特に市立美術館の、シモーネ・マルティーニやアンブロジオ・ロレンツェッティ の作品。絵画館や付属美術館のシエナ派の作品を見たい。
③カンポ広場のカフェで休み、広場に寝転んでマンジャの塔やあたりの景色を見ながら旅のつれづれに思いをはせ たい

市の鍵の献上
     (フィレンツェとの決戦の時、市民たちは市の鍵を聖母に預けて戦った。)
A)シエナの歴史
 10世紀時代からは有力貴族が政権を握っていたが、13世紀大商人・銀行家などの上級市民が政権を支配した。ローマ教皇からヨーロッパ半分の税金の徴収権を一時任されてシエナの金融業・商人の富を増大させた シエナは教皇派(ゲルフ)のフィレンツェとは仲が悪く、商業覇権を巡って何度も戦争を繰り返した。皇帝派(ギベリン)に拠っての1,260年「モンタペルティの戦い」で奇跡の勝利を得てから、1348年のペスト、14世紀後半の経済危機、共和制の崩壊までの黄金時代70年間(1287~1355年)にシエナ市民主義は花を開く。

 シエナには「コムーネ」という都市自治組織があり、それがシエナ及び郊外農村地域を統治していた。その「コムーネ」が「ノーヴェ」(9人の代表による評議委員会)を外から雇って政治を任せた。(政治・司法・警察・行政・軍事・外交などを行う「ノーヴェ」をシエナの外から雇い、請負させた。彼らの権勢化をコントロールしながら)貴族や司教・封建領主を排除した上・中層市民の共和制の政治を行った。
 
マンジャの塔と市庁舎
      (マンジャの塔と市庁舎)
B).「カンポ広場」「市庁舎」
 後でドゥオーモ付属美術館の屋上から眺めてみると「マンジャの塔」「プッブリコ宮」(市庁舎)と「カンポ広場」が見事に調和しているのが分かる。14世紀にレンガをひきつめ、9つに区切られた扇形の広場で市庁舎に向って傾斜している。こことヴェネツィアのサン・マルコ、ローマのサン・ピエトロと並んでイタリア3大広場といわれている。日常市民が集ってくる憩いの場になっている。年2回行われる「パリオの競技」(コントラーダ対抗の裸馬の競馬)で広場は熱狂と歓声で包まれる。

カフェも一杯
      (カンポ広場のカフェは夕方客で一杯になった)
 フリータイムの時、最後にここのカフェでお茶を飲んだ。広場には程好い人々が散策に来て坐ったり寝転んでいた。至福の時間が流れていた。夜9時近くに1人で又広場に来て寝転んでみた。昼ほどではないが結構の人が座っていた。夢の公約を果たしたと思った。
 シエナの人は街中で友人や知人と出会うと互いに抱き合って(今の言葉でハグする)挨拶を交わし、キスして別れる。何組も見た。他の都市ではそれは見かけず、シエナには中世が残っていた。

C)「プッブリコ宮殿の市立美術館」(カンポ広場に面して立っている。)
 * 市庁舎2階の「評議会の間」(世界地図の間)・「平和の間」

荘厳の聖母・市庁舎
       (市庁舎・マルティーニの(荘厳の聖母>)
1、「荘厳の聖母」(マエスタ)シモーネ・マルティーニ
 「マエスタ」とは多くの聖人や天使に囲まれたマリアが母として誇らかにイエスを抱いている構図をいう。他にないシエナ特有の聖母子の祭壇画。マルティーニの「マエスタ」は燦然と燃えていた。煌びやかな大星雲が燦然と燃えていた。言葉を失った。青地の背景に左右の聖人や天使たちが生きて息づいている。極楽浄土の楽園の図だ。天使・聖人の表情が1人1人丁寧に描かれ、見ているものを安らぎと不思議な世界に誘う。聖母が坐る玉座の下にダンテ風の3行詩が書かれているという。
 私の愛する者たちよ、心にとどめておきなさい/あなた方が敬虔な祈りを捧げるように/
 あなた方が望むことをかなえてあげる/けれども、力を持つ者が弱い者を苦しめるのなら
 ば/そのもの達に恥辱と咎めを科す/あなた方の祈りはこの者たちのためではない/私の町を裏切る者のためでは ない
 シエナの市民は守護者聖母を熱心に信仰する。独特の聖母信仰である。

2 1308年、ドゥッチョ(1255~1319年)の「マエスタ」(荘厳の聖母・現ドゥオーモ付属美術館)が完成し、ドゥオーモに運びこまれる時の様子をある本が伝えている。
司教は信仰熱き一団を指揮し行列を組み、コムーネを初め全市民は店を閉め行列に続き、カンポ広場をぐるりと廻ってから大聖堂までこの絵を送っていった。町じゅうの鐘が高らかに鳴り響いた。信仰と民衆、芸術と民衆がこのように熱くほとばしる関係があったろうか?尋常でない熱きシエナの民の歴史に思いをめぐらす。これは遠い昔の神話時代の話ではなく14世紀の話だ。民衆の信仰に支えられた宗教の理想のあり方をみる。
ドゥッチョはジョットと同世代 の画家で、マルティーニやロレンツェッティ兄弟に影響を与えシエナ派の祖となった。

DSC_2558グイドリッチョが描かれている壁面
     (市庁舎、「世界地図の間」に飾られている<グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像>)
2、「グイドリッチョ・ダ・フォリアーノの騎馬像」シモーネ・マルティーニ
 荒涼とした戦場をグイドリッチョ将軍は1人行く。前方の山上都市はこれから攻める敵城か?後方の城はすでに攻略した城か。将軍を孤高と捉えるか意気軒昂と捉えるか?ただ背景の群青の青い空だけが心の底に焼きついて離れない。この絵の作者について疑問が出されている。将軍は実在の優れた傭兵隊長であり、シエナはかくて守られたと主張しているかのようだ。「グイドリッチョ」の深い群青の青は私の心に焼きついてしまった。 

DSC_2622善政の寓意が描かれている部屋
       (市庁舎、A・ロレンツェッティの「善政と悪政の図」)
3、「善政と悪政の図」アンブロージョ・ロレンツェッティ(1285~1348年)1339年制作
 シエナ共和国の理想の政治理念を表現した希少な絵画である。正面に正義と公共に奉仕する「善き政府」が描かれる。右壁面に善き政府のもとで繁栄する都市と農村の様子が描かれる。左壁面には悪しき政府の様子と、荒廃する都市と農村の様子が描かれている。この寓意画が掲げられていたのが市民政府の「閣議の間」だと言う事に傑作な意味がある。14世紀前半のシエナの市民主義の面白さはこう云う所にもある。閣議をやる部屋の壁面に「善政の効果」「悪政の効果」の寓意画を掲げているところがどこにあるだろうか?シエナ市民主義のふところの深さ、志向する地平の高さを思う。
 シエナ派の出発をプッブリコ宮に掲げられた市民主義の熱き理念を原点と考える。その後国際ゴシック派として開花してゆくのだが、黒死病、経済破綻、市民主義の破綻と芸術の土台が崩れてゆくのを止めようもない。

D)。 「善政と悪政の図」(1338~39年制作)補遺
 市庁舎「ノーヴェの間」(平和の間)に掲げられた世界に稀な絵である。「善政」をやると世の中はどうなるか、「悪政」だとこうなるのだ、と左右3面にわたって壁面に大きく描かれた寓意である。壁画は正面に「公共善」と「正義」が支配する「善き政府」の寓意画が、右に善き政府のもとで繁栄する都市と農村の様子が、左に悪政のもとで荒廃する都市と農村の様子が描かれている。重要なのはここでノーヴェ(9人の執政官)の閣議が行われ、シエナの政治が執行されていたことだ。

DSC_2625善政・左側
       (善政と平和の寓意=左側の部分)
「善政と平和の寓意の図」
左側上空に聖書を手にした「叡智」いる。その下に「正義」。大きな天秤を2つ持ち、それぞれ擬人像が乗っている。左の「置換の正義」は1人に王冠を与え、もう1人の首を刎ねている。右の「分配の正義」は金庫と槍と指揮棒(公の職務の象徴)を立派な服装の2人に渡している。これは「公共の金をうまく利用して政治を行い、厳格な処罰によってシエナを運営する」を示している。「分配の正義」から1本の紐が出てきて「調和」の擬人によって24人の市民の行進に引き継がれる。凝った服装をしたシエナを代表する、銀行家、大商人、学者たちである。彼らによってシエナの市民主義は支えられていること示している。
 「悪政の効果」
悪政の寓意とその結果がひとつの画面に描かれている。画面右中央に角と牙の悪魔のような「専制政治」が金や宝石のついたマントを着て金の杯を持っている。足元には色欲の象徴である山羊がいる。打ち負かされ縛られた「正義」が捕らえられている。専制政治の周りには「残虐」「裏切り」「欺瞞」「激怒」「分裂」「戦争」の擬人が描かれている。「専制政治」の上には3人の邪悪な女性像。「貪欲」「傲慢」「虚栄」のイメージ化である。
 中央の場面、都市の家々は壊され火が放たれ、兵士たちが人々を殺し傷つけ横暴を極めている。働いているのは職人と鍛冶屋だけで武器をつくっている。左の丘の連なる広大な風景では村が火をつけられ、畑を耕す者は誰もいず荒廃した不毛の世界である。

 女性のダンス
     (善政の効果=シエナの町の平和で幸福な様子)
ダンス(拡大)
      (踊る若い女性たち)
「善政の効果」
  正義の善政が行われているシエナの町は幸せで喜びが満ち溢れている。靴屋やワインを売る店、教師の授業を熱心に聴く生徒、屋上では左官屋が働き、人々が家業に熱心に励んでいる。婚礼を迎えた娘を祝って輪になって踊る若い娘たち。狩に出る馬上の貴族たち、農村から食料を運んできた農夫と平和な都会の風景である。
  農村では冬と夏の作物が一緒に描かれ、種まきと刈り入れが同時に描かれている。丘の間や平野の中に小川が流れ、遠くに青い海が見える。(当時のシエナが必死に探していた水源や待望していた交易港を暗示)街道は馬上の貴族、物を運搬する馬、編成の商人の一行で賑わっている。
 何回もイタリアに来て、やっと求めていた作品にであった! 西欧やイタリアに求めていた「市民主義・民主主義」の原点・原型みたいなもの、それにやっと巡り合えた感じ。 
アンブロージョ・ロレンツェッティは物語性に優れた画家である。「聖母子」や「荘厳の聖母」「聖ニコラウス伝」「受胎告知」をみても夢幻の物語を織り込めながら描いている。この「善政と悪政の効果」は14世紀前半のシエナ市民主義の黄金期の芸術表現として最高のものである。単なる政治的プロパンダではなく、絵画の質としてもいいと思う。作中、「9人の踊る一団」や「海辺の都市」は独立して切り離しても充分に愉しめる。
  
  1. 2012/10/04(木) 18:09:42|
  2. 2012年『映画』
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2011年⑥『イタリア列伝の旅』オルチャ渓谷2011・5・16(月) 記12・10・4

2011年⑥『イタリア列伝の旅』「オルチャ渓谷」 5月16日(月) 記12.10.4

DSC_7838清清しい草原
    (清清しいオルチャ渓谷の草原)
 昨年オルチャ渓谷に行ったのは6月の4~5日。今年は20日早い。昨年は期待した程には草原の瑞瑞しさはなかったが、今年が20日程季節が早く春の瑞々しい風景に出会えた。
ピエンツァ・サン・フランチェスコ教会
    (ピエンツァ・素朴な教会)
9.40 「ピエンツァ」着
 オルチャ渓谷を見下ろす丘の上にある「ピエンツァ」は、1458年ピウス2世がローマ法王となると、故郷のこの町を自分の「理想都市」に変えようと、ベルナルド・ロッセリーノに設計させて造り変えた。コンパクトな中世が残る美しい町である。箱庭のように小さく静かな町は時間が止まったようだ。ルネサンス様式の大聖堂、隣の付属美術館の素朴な建物。ここで親方のような人がやっている革製品の小さな店でベルトを買った。目の前でサイズを合わせ店の紋章を入れる作業の手際よさに感心して見ていた。
  町からのオルチャ渓谷の眺め
    (ロッセッリーノ通りの突き抜けた所からのオルチャ渓谷の眺め) 
 町を突き抜けた所からのオルチャ渓谷の眺めはいい。瑞瑞しい緑の草原が、なだらかな曲線のうねりとなって続き、横に糸杉がどこまでも並ぶ風景。昨年より季節が早いだけ青々とした情景が広がる。
11.00 「ピエンツァ」発。バスは緑の草原の中を行く。

11.30 「モンタルチーノ」着。
 1260年の「モンタベルティの戦い」でフィレンツェに奇跡の勝利したシエナの要塞さとして、モンタルチーノは300年近く栄えた。1555年仏・スペイン・フィレンツエ連合軍にシエナは敗北、降伏をよしとしないシエナ軍の一部がここモンタルチーノに3年間も立て篭もった。我々が上った要塞はシエナ軍の抵抗の証であり、今でもシエナ共和国の旗がたなびいている。(シエナ人の意地を見る)
DSC_7812モンタルチーノ 塔
    (モンタルチーノの時計台のある市庁舎)
 町の中心はポポロ広場とマッテオッテ通り、そこに14世紀の時計台のある高い塔の市庁舎が建っている。ピエンツァと同じようなコンパクトな小さな町である。ここの赤ワイン=ブルネッロ・モンタルチーノが有名で、町はずれの要塞の中に「エノテカ」=市直営の販売所があった。そこは要塞の入口にもなっていた。要塞に上ると町は勿論、トスカーナの丘が果てしなく広がっていた。緑青々とゆるやかにうねった草原、林が茂り糸杉が立ち並び白い雲が浮かんでいる。
モンタルチーノワイン
    (モンタルチーノワイン・ブルネッロとロッソ)
13.00 郊外のアグリツーリズモで昼食。「ブルネッロ」と「ロッソ」を試飲した。皆での合評、「ブルネッロのこくは何とも言えない。が、ロッソのフルティな味覚は飲みやすい。」「私はロッソ、僕はブルネッロの最高のこくに乾杯!これこそ至上のワインだ。」「私はブルネッロの微妙な渋みが気になり、飲みやすいロッソがいい。」

17.00 途中交通事故があり渋滞に巻き込まれて、遅れて「サンジミニャーノ」に到着。
  サンジミニャーノの塔
    (塔の町・サンジミニャーノ)
 「塔の町」として知られている。交通の要所であったので9~12世紀に大いに栄えた。富の象徴としての塔は最盛期には72あったが、現在は14本を数えるのみ。山上都市の代表みたいなサンジミニャーノは有名になりすぎて大混雑。サン・ジョヴァンニ通りもチステルナ広場も人でいっぱいだ。
DSC_7877参事会教会
     (参事会教会と呼ばれるドゥオモ)
12世紀に建てられた「参事会教会」と呼ばれるドゥオーモはロマネスク様式の美しい建物だ。この教会には「聖女フィーナの礼拝堂」という「スミレの聖女」の悲しい伝説が残っている。13世紀、この町で生まれた娘フィーナは父を亡くし幼い時病気になる。病床で貧しい人々へ縫い物をして尽くした。病気が進行するとキリストの苦しみに近かずこうと粗末な板の上に寝る。母も死に体が弱って来るとネズミが襲ってくる。15歳の若さでフィーナが亡くなった時、教会の鐘が鳴り、死体にはスミレの花が咲いたそうだ。「聖女フィーナの生涯」のフレスコ画(D・ギルランダイオ工房作)がある。
ギルランダイオの聖女フィーナの生涯
     (ギルランダイオ作「聖女フィーナの生涯」)
DSC_2471フィーナの葬儀
     (ギルランダイオ作「フィーナの葬儀」)
18.30 サンジミニャーノ発  19.30 シエナ「NHエクセルシオール」着。
 * せっかくのシエナ3泊だから本日はシエナでゆっくりしょうかと大分迷った。が、月曜日で美術館が閉まっているだろうし、昨年より20日季節が早い春のトスカーナの風景を見たかったし、美術巡りの息抜きにいいだろう、と参加した。行って良かった。瑞瑞しい情景に感動した。老先生夫妻はシエナに残留していた。国立絵画館のみが月曜日は午後休みで他の教会・美術館は開いていた。イタリアへは何回も来たことがある一行でシエナの旧市街に泊まった事のある人はいなかった。添乗員に言わせるとホテルが取れない、とのことだ。ツアーでのシエナ旧市内のホテルでの宿泊がそれだけ貴重なんだ。
  1. 2012/10/04(木) 11:49:34|
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2011年⑤『イタリア列伝の旅』ペルージア 2011・515(日) 記12.10.3

2011年⑤『イタリア列伝の旅』「ペルージア」2011・5・15(日) 記12.10.3

 DSC_7687プリオーリ宮の左の広場     (ゴシックのプリオーリ宮と大噴水のある広場)
 ペルージアは山岳地帯の高台にある坂の多い町。メトロで丘の上の旧市街に上がって行くなんて町の規模が大きい。ウンブリア州の州都にしてペルージア県の県都で15万の歴史ある都市。日本人にはサッカーの中田選手の活躍で有名だろう。須賀敦子も通った国立外国人大学のある国際性豊かな若者の町でもある。
DSC_7725霧に煙る外国人大学
   (霧に煙るペルージア外国人大学)
DSC_7685大聖堂と大噴水
    (大聖堂)
 旧市街の中心は大聖堂(14世紀中期、粗石の表面が残った建築)、11月4日広場、大噴水(大聖堂の前にある。1275年ピサーノ親子が装飾を担当、大きな噴水である)が有名である。大聖堂ではミサが行われていた。広い聖堂内は人々で一杯、そっと中を歩いた。
 広場を挟んで立つプリオーリ宮(13世紀末から15世紀前半。ゴシックの公共建築の代表例。市庁舎と国立ウンブリア美術館がある)は立派だ。周りは白いレンガの優美な建築物群であるが、プリオーリ通りとヴァンヌッチ通りの交差して、幾つかの通りを行くと少し汚れた中世の街並みに出会う。中世の石畳の暗い建物の中の、階段状の坂を大きくカーブしている面白い小路。曲線が面白く、こういう景観は初めてだ。
中世の石畳の小道
DSC_7710中世の石畳の坂
   (ブリオーリ通り/中世の道)
14.00 昼食を食べて外に出たら、大雨の来襲、山で豪雨にあったような経験だった。後のスケジュルはメチャメチャになった。とりあえず予定のプリオーリ宮の4階にある「国立ウンブリア美術館」に入った。
 「国立ウンブリア美術館」13~18世紀のウンブリア派、シエナ派の絵画。
DSC_2462ドゥッチョの聖母子
* * ドゥッチョの「聖母と天使」
アンゼリコの玉座の聖母子
* F・アンジェリコの「聖母子と天使と聖人達」

*(ピエロ・D・フランチェスカの「サンタントニオ祭壇画」聖母子 )
DSC_2456玉座の聖母子
  (ピエロの「サンタントニオ祭壇画」ー受胎告知)
DSC_2454サンタントニオ祭壇画上の受胎告知

* 地元出身のペルジーノの「マギの礼拝」「ピエタ」「死せるキリスト」「慰めの聖母」がある。

** P・D・フランチェスカの「サンタントニオ祭壇画」について、
下の聖母子を中心とするゴシック風の伝統的な祭壇画に対して、上のルネサンス風の「受胎告知」のミスマッチを専門家等では昔から論争になっていた。上の「受胎告知」は美しい。背景の3つの華麗なアーチの白い円柱と回廊。幾何学的な構図と遠近法。マリアも天使も腕を胸の前で組み合わせた謙虚さ。ピエロは変ったのか?同時代のアンゼリコの影響か?一説によると、教会からの注文に修道女たちの、アンゼリコのようなマリアを拝みたいという願いがあったとか。
 
 ペルージアは午後突然の大雨にやられて町の散策が中止になった。心の中に不消化の部分が残った。出来ればもう一度訪れたい。ウンブリア美術館で上記の他にペルジーノ、P・コルトーナ、ヴァレンティンなどここの出身の画家たちの作品。ベルナディーノ教会、セヴェーロ教会、サンタンジェロ教会、ドメニコ教会、ピエトロ教会と訪れたいところが一杯あるのだ。それに何といっても、須賀敦子が勉強した外国人学校だ!ここは滞在して勉強する所でもあるのだ。
DSC_7696若き女学生
   (11月4日通りを自転車で走りまわる若き女学生)
  1. 2012/10/03(水) 14:58:37|
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2011年④『イタリア列伝の旅』コルトーナ 2011・5・15(日) 記12・10・2

2011年④『イタリア列伝の旅』 コルトーナ2011・5・15 記 12・10・2

DSC_7544 コルトーナの町の断面  (コルトーナの町の断面)
「コルトーナ」はアレッツォからバスでローマ方面に1時間程南下した、トスカーナ州の東南部、ウンブリア州との州境の田園地帯にある。キアーナ渓谷と遠くにトラズィメーノ湖を望み、オリーブ、葡萄、糸杉の緑が広がる丘の上の町である。エトルリア時代からの歴史ある町で、13世紀の城壁に囲まれた旧市街は中世の面影を残した静寂な町である。
DSC_7596シニョレッリ広場
   (コルトーナのシニョレッリ広場)
① 旧市街の中心は、2つの広場(レプッブリカ広場とシニョレッリ広場)を囲んで、市庁舎・プレトーリオ宮(エトルリア・アカデミー博物館)・サン・フランチェスコ教会・教区博物館と中世の家(2階部分が木の梁によって支えられ道に張り出している家が並ぶ小道。今では殆ど消滅してここだけになってしまったとか)が点在している。中世には交通の要所として栄えたが、13世紀頃からアレッツォ・シエナ・フィレンツェの支配を受け、中世の街角、昔のヨーロッパの雰囲気を残した小さな田舎町になった。コルトーナは町の静寂さとは反対に強烈な印象を僕に与えた。

DSC_7626教区博物館
      (教区博物館)
② 「教区博物館」
「強烈な印象」とは、「教区博物館」のF・アンジェリコの「受胎告知」である。フィレンツェ/サン・マルコ修道院の、敬虔・清楚・優しい「受胎告知」が念頭にある者にとって強烈なアッパーカットを受けたような衝撃だった。コルトーナの「受胎告知」は大天使ガブリエルの豪華さ、特に金色の大きな羽根の絢爛豪華さにある。息を呑まれたように立ち尽くしてしまった。
コルトーナの受胎告知             (アンジェリコ/ コルトーナの「受胎告知」)
* F・アンジェリコ(1390~1455年)は5つの「受胎告知」を残している。
1、 ミラノの「サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院」の「受胎告知」1430年
 大天使ガブリエルとマリアが均等な配分で対峙し、真剣に見つめ合っている。天使のお告げに、マリアの敬虔で無垢な態度で向き合っている。左上に楽園を追放されたイヴとエヴァ(人間の悩みの象徴)が描かれ、マリアの子イエスがやがて人類の悩みを救済することを暗示している。絢爛豪華なF・アンジェリコの「受胎告知」の代表作。
 & レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」もここの食堂にある。
2、スペイン・マドリードの「プラド美術館」の「受胎告知」1430~32年
(フィレゾーレの「サン・ドメニコ聖堂」のために描かれた。マリアは青いマントをはおり、天使のお告げを身を引 き締め硬直して聞いている。
3、コルトーナの「教区博物館」の「受胎告知」1433~34年
 サン・マルコの敬虔・清楚な「受胎告知」とはあまりにも対極的なコルトーナ版。天使の絢爛豪華な羽根に目を奪われてしまった。2人の会話が金文字で描かれている。
 天使から、「おめでとう、恵まれたお方。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名づけなさい。」マリアは「まだ夫がありませんのに」とのぞけると、天使は「聖霊によるのであって、恐れたりすることはない。生まれる子は、聖なる者。神の子と呼ばれる。」落ち着きを取り戻したマリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と受け入れる。
DSC_2395サン・マルコ修・2F受胎告知
   (サン・マルコ修道院の2階3室/アンジェリコの「受胎告知」)
4、フィレンツェの「サン・マルコ修道院」 2階3室の「受胎告知」 1441~43年
 シンプルな構成、虚飾を廃した敬虔な雰囲気。質素な僧衣の天使とマリア。マリアの思いつめた表情と天使の上から見下した様子。
サン・マルコ修 2F廊下 受胎告知 2
     (サン・マルコ修道院/2階廊下のアンジェリコの「受胎告知」)
5、「 同  」2階廊下(階段を上がったところ)  1450年
  一般的にはF・アンジェリコの「受胎告知」とはこれをさす。マリアの敬虔さ清貧さ人間性が良く描かれ、天使と のバランスもよい。
* F・アンジェリコは30年代は豪華絢爛の天使を描いていたが、晩年になるに従って質素な敬虔なものになっていった。彼の進化だろうか?
*「受胎告知」キリスト教にとっても、絵画の対象としても重要なポイント。ルネサンスの殆どの画家が描いている。レオナルドやボッティチェッリが有名で又優れた絵である。私はウフィツィにあるシモーネ・マルティーニの「受胎告知」がいい。大天使ガブリエルに告げられた時のマリアの驚きと困惑が表現されている。「結婚していないのになぜ?」恥じらい・困惑・恨めしさのマリアがいい。神性化されたマリア像より人間的な像から絵画史は発展してゆくのである。
DSC_1989マルティーニの受胎告知
   (S・マルティーヌの「受胎告知」-ウフィツィ)
& ツアーの人々の間でディナーの時、コルトーナがよいかサン・マルコがいいかで論争になり盛り上がった。絢爛  豪華なアンジェリコに圧倒されたが、サン・マルコの質素・敬虔が頭に焼き付いて離れず、心の中で錯綜した。

&「教区博物館」の他の作品。
  
*F・アンジェリコ「玉座の聖母と聖人達」(これも立派な作品!)
  

*ルーカ・シニョレッリ「十字架降架」「使徒たちの聖体拝領」(人間が描かれている。ピエロ・デッラ・フ  ランチェスカの弟子。コルトーナの出身)
  *バルトロメオ・デッラ・ガッタ「聖母被昇天」
  *ピエトロ・ロレンテッティ(兄)「キリスト磔刑図」「聖母子と天使」
  (シエナ派。ロレンテッティ兄弟の兄。ドゥッチョの弟子、アッシジでジョットの影響を強く受け優れた空間表   現を創造。宗教画で人物を人形の様にしか描けなかった当時、生き生きとした人物表現や独特な色彩感覚は優   れたものだ。)
  *ニッコロ・ディ・セーニヤ「聖母子」(ドッチョと間違えるほど似ている。)
&、 時間の都合で行けなかった所
  1、「エトルリア・アカデミー博物館」(紀元前のエトルリア美術の発掘品の展示。<ブロンズの大燭台>博物館   の目玉。
  2、サン・フランチェスコ教会とサン・ドメニコ教会 
& 、映画「トスカーナの休日」の舞台と知られ、欧米の観光客に人気となった。 
   アメリカの詩人・大学教授のフランシス・メイズが、離婚の心の傷を癒しにイタリア・トスカーナを旅して、コルトーナの伯爵家の築300年の古ぼけた邸宅を衝動的に買ってしまう。3年かけて(夏場の3ヶ月、後は米で大学の講義がある)ボロ家を修理してゆくうちに地元トスカーナにとけ込んでゆく。離婚でボロボロになった主人公の「自分探しの」自己再生の物語。米国で200万部を売り上げ世界的ベストセラーとなった。2,004年、ダイアン・レイン主演で映画化、トスカーナの魅力を余すところなく描き観光のブームになり、今でも欧米の観光客が多く訪れている。
 04年以降、夏ではないのに半ズボン・半袖の若い欧米の男女の登場は、静寂に包まれ歴史を秘めた町であったコルトーナを避暑地に変貌させてしまった。
DSC_7530.jpg
     (コルトーナの田園風景)
* コルトーナといえば「教区博物館」を外せないのに、この作品の作者はドアー越しにチッラ、と見ただけで自然の風景と花・ハーブに関心を寄せていった。「トスカーナの休日」の原作を図書館から借りてきて読んだ。いかにも米国女性といった感じでした。日本にも京都大原の里で自然と暮す英国人女性べ二シアさんがいましたね。
  1. 2012/10/02(火) 10:27:49|
  2. 2011年『イタリア 列伝の旅』
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2011年③『イタリア列伝の旅』アレッツォ市内観光2011.514(土) 記12.10.1

2011年③『イタリア列伝の旅』 5月14日(土)アレッツォ終日観光2011.5.14 記12.10.1

DSC_7481アレッツォの中心街
    (アレッッオの中心街イタリア通り)   
 アレッツォはフィレンツェから1時間程のエトルリア時代からの古い町である。中世には自治都市として、又、ルネサンス文化の中心のⅠつであった。詩人ペトラルカ、画家・列伝の作者ヴァザリー、文化人アレティーノ、近郊にピエロ・D・フランチェスカが輩出している。1日歩いて文化の歴史を持つ大きな都会だと思った。

10.00 「ヴァザーリの家」。ヴァザーリが生前ここに住んでいた家で、今は彼の研究のための資料館・美術館になっている。きれいに手入れされた庭のあるちょっと大きな家。さきほどピエロを見た目には、ヴァザーリは2流に見えた。彼は「芸術家列伝」の作者としてつまり文章家としては高く評価するが絵画は? 今回のツアーの冠になっているのだが絵からは感動を受けない。
 ヴァザリーの絵の修復中
    (修復中のヴァザリーの「聖母被昇天」)
11.00 市庁舎内で絵画の修復を見学。ヴァザーリの「聖母被昇天」を修復しているのを実際に見学。剥落している箇所を丁寧に色で補ってゆく。根気のいる仕事だ。修復は剥落・破損・汚れを除いて作品をもとの状態に戻す事だろうが、マニュアルはあるのだろうか?直し過ぎると新たな創作になるだろうし、赤色ならどのような赤か、それを何で決めるのか?そういう疑問が残った。
DSC_7398サン・ドメニコ教会
 ドゥオモに行く途中ロマネスク様式の美しい「サン・ドメニコ教会」の前を通る。

DSC_2052チマブーエ・アレッツォ・十字架のキリスト
チマブーエの「十字架のキリスト」があった。
結婚式を挙げていた為に遠くから見るだけだったが、独特の「磔刑図」はひと際人目を引いた。壮大で豪奢なキリストであり、こういう悲しみの表現があるのか!とつぶやいた。洪水にやられたサンタ・クローチェ(フィレンツェ)の磔刑図は余りにも有名だ。アレッツォのは初期の作品だという。祭壇に置かれて教会の荘厳な守護神となっていた。
 
DSC_7405ドゥオーモ
    (ドゥオモ)
11.50 「ドゥオモ」では結婚式をやっていて、
DSC_7428ドゥオモで結婚式を挙げた花嫁とパパ
   (ドゥオモで結婚式を挙げた美しき花嫁と花嫁のパパ)
教会の外にいたイタリア美人の花嫁が我々を手招きして、一緒に写真を撮りましょうと誘ってくれたのにはビックリした。ラテン人の陽気さ!

マクダラのマリア  
 (ピエロ作「マクダラのマリア」(ドゥオモ内))
  「出産の聖母」に似た豊満の女性像である。髪を長くたらした「マクダラのマリア」は右手で赤いマントをつかみ左手でガラスの香壜を持っている。緑のドレスを着てマントの白い裏地が見えるように裏返して右肩にかけている。ピエロが描く衣装の細かい表現には恐れ入る。研究書によると、緑は希望、白は信仰、赤は慈愛を表すので3色3配分の色構成の調和が上手い。西方教会ではキリストによって改悛した女とされる。卵型の顔、広い額、口元をきっと結んで、目は正面を決して向かずどこも見ていない。そして豊満な体、まるで妊娠しているかの様だ。ピエロの描く女性が総てそうだ、といえる。ピエロが描く女性が特別の美人ではなく、街中の何処にでもいる人間だということが大事だ。そういう個々の普通の人間が織りなす壮大なドラマがあの「聖十字架物語」では展開されたのだ。
DSC_7477ピエーブェ教会
12.20 (「サンタマリア・デラ・ピエーヴェ教会」) 
ピサ・ロマネスク様式の好例と知られた、12世紀中頃に建築が始まった美しい教会。ファサードが入り口を囲むアーチの上に3層にわたって連なるアケードは見事だ。
DSC_7495グランデ広場の回廊
12.40 (「グランデ広場」) 
「ヴァザーリ広場」とも言われている。彼の設計による「ロッジアの宮殿」といわれる美しい回廊が広場に面して続いている。
 映画「ライフ・イズ・ビューティフル」でユダヤ人のパパが自転車に坊やを乗せて走り回るシーンの広場として使われた。
DSC_7492ピエーヴェ教会の後陣部
(ピエーヴェ教会の後陣)
午後 フリータイム。アレッツォの街を歩いて、又、サン・フランチェスコ教会に「聖十字架物語」を見にいった。入口の左側を地下に下りてチケットを買う。1人や2人なら予約なしでも入れるらしいのでほっとした。教会奥の方に30人くらいが腰掛けている。壁画のある「主礼拝堂」は仕切りがあって係りの人にチケットを見せて入れてもらう。
  10数名の集団が見学していた。我々はあきずにいつまでも見ていた。次のグループの番になっても係りの人は何も言わなかった。
 「十字架」とお別れして、旧市街の奥の「丘の上公園」まで足を伸ばした。ドゥオモやロッジアの裏側の小高い丘であった。メデチ家の城塞の残骸があった。思いはルネサンス時代に馳せるのであった。
DSC_7512丘の上公園からメデチ家要塞を見る
  (丘の上公園からメデチ家の要塞の残骸と遠くの田園・山を見る。)
  1. 2012/10/01(月) 18:24:38|
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