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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『映画』 「あなたへ」(監督、降旗康男。出演、高倉健、田中裕子)2012.8.31

「あなたへ」(監督、降旗康男。出演、高倉健、田中裕子、佐藤浩市,草なぎ剛
                  2012.8.31

降旗・高倉健コンビの名作――「冬の華」、「ホタル」「駅」「鉄道員」は忘れ難い。健さん81歳、降旗監督78歳。健さん6年ぶりの映画だという。観客がシニアの爺さん婆さんで一杯。若い頃のファンが歳をとってここに来ているといった感じ?小生もその1人。最後の主演映画と思って見ている人も、、、

長年連れ添った配偶者に先立たれた時、残された者はその後の余生をどう生きたらよいか?最近、身の回りでも起きている深刻かつ普遍的な問題がテーマである。

北陸の刑務所の指導技官の主人公のもとに、亡き妻(田中裕子)からの遺書の絵手紙が届く。
「故郷の海に散骨して欲しい」そんなことは生前言ってなかったと訝しく(いぶか)思い、妻の真意を確かめる為もあって主人公は北陸から長崎・平戸まで自家製の車の旅が始まる。その先々で出会う人、道中の途中で何回も出てくる妻の回想シーン。出会う風景などのロードムービーが映画の内容である。妻は遺言で何を言いたかったのか?ロードムービーそのもに答えがあるように思う。

さすが、健さんだ!豪華な俳優陣がチョイ役で出ている。健さんの映画に出られることが名誉といわんばかりだ。道中の風景も天空の竹田城などいい所を拾っている。その天空の城で田中裕子が歌う「星めぐりの歌」(宮沢賢治作詞・作曲)がよかった。そういえば、彼女は映画では刑務所慰問の童謡歌手だった。

妻のふるさと、平戸の小さな海辺の漁村。遺言の絵手紙にあった小さな灯台。その夜、海は台風の影響で荒れていた。散骨を漁業組合に断られ、ある老漁師(大滝秀治)に会う。大滝秀治87歳。画面に最初に現れた時の全身像の存在感の大きさ!カメラは87歳のむき出しの老齢さを写し撮る。リアルの老齢さが人間の存在感の重さを逆に出している。翌日、凪いだ海に老漁師が船を出す。健さんが骨壷から骨を掴んでそっと海に入れてゆく。妻の白い骨が海中に散って行く、桜花がさらさら散るような鮮やかな光景。老漁師が「こんな美しい海、久しぶりじゃ」という。その時の光景を総て含んだ言葉だ。

妻はなぜ夫をここまで引っ張ってきたか?妻の遺言の真意はどこにあるのか?
映画の始めの方で、妻は窓際にかかっている風鈴を秋になったら外すように言って、「季節はずれの風鈴ほど哀しいものはないもの」と風鈴を鳴らした。

先立つ時、妻は風鈴に託して、毎日を無事に過ごして欲しいと願った。食事・行動・交際・趣味――今まで通りにやって欲しいと。

別れの絵手紙―-故郷の小さな白い灯台の絵手紙に書かれた、「さようなら」。
山頭火の「この道をいくたりゆけり われは今日行く」
もう一度、風鈴のなる音。

刑務官という固い仕事一筋の彼にとって、北陸から平戸までの道中で――ビートたけしや草薙剛、佐藤浩市らが演じる人生の裏道に生きる男たちに出会う。自分とは違った人生があったと気が付く。しかし、今まで通りの生き方しか自分には出来ないと思う。
風鈴に総てが込められているように、「残りの人生を大切に生きて下さい、季節はずれの風鈴を仕舞うのを忘れるようなボーとした生活を送らないように」。それが妻からのメッセージの意味か。平戸までの長い旅を経て、妻の故郷でやっと遺言の意味がわかったのであった。

健さんの表情は昔と変わらないが、各年代毎に彼の映画を見てきた僕にとって歳月の流れを感じた。歩き方に高齢さを見てしまう。それは自分も又、ということでもあるのだと思い、ここまで来てしまったという寂寞の感を噛みしめた。 続きを読む
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  1. 2012/08/31(金) 13:12:10|
  2. 2012年『映画』
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『美術の検証』 ⑧ 「カルパッチョ。ヴェネツィアについて」

『美術の検証』⑧ 「ヴェネツィア派ーカルパッチョ」

IMG_0001カルパッチョ・2人の貴婦人

11】 「ヴィットーレ・カルパッチョ」(1455~1525)初期ヴェネツィア派

* カルパッチョで有名なのは「2人のヴェネッィア婦人」だ。これについては後に触れる。今回発見したのが
 「ウルスラの夢」である。殉教伝説によった9枚連作「聖ウルスラ伝」の1つ、「ウルスラの夢」がいい。悲惨な
  殉教伝説とミスマッチの「ウルスラの夢」。王女の可憐で質素な寝室の鮮やかな深紅のベットカバーの赤色
  が目に焼きつく。

*「聖ウルスラ伝」9枚連作(1490年~1495年 <ヴェネツィア・アカデミア美術館>
 初期キリスト教殉教伝説(4世紀)「聖ウルスラ伝説」に拠って描いたカルパッチョの傑作。次の殉教伝説による。
 4世紀、ローマ系ブリトン人の王女ウルスラが、父の命で異民族の王子との婚約を承知した。王子の洗礼(改宗)と 1万1千人の処女を連れたローマへの巡礼を条件とした。巡礼の途中、ケルンで包囲していたフン族によってウルス ラ王女と王子、引き連れた1万1千人の処女全員が虐殺された。13世紀、聖ウルスラ伝説が讃えられ、ケルンの守 護聖人になり、聖ウルスラ教会が設立された。

IMGカルパッチョ・ウルスラの夢

*「聖ウルスラの夢」(9枚連作の内のひとつ)15世紀のヴェネツィアの女性の寝室がフェルメール風に描かれ  て、王女の寝室としては質素で堅固な雰囲気。ベットであどけなく眠る王女ウルスラ。天使が訪れ、夢の中で殉教 が近い事を知らせる。黒や緑やセピア色の全体像の中で、ベットカバーの鮮やかな深い赤色が強烈である。凄惨な 殉教伝説を忘れさせて、少女童話の様な、絵本の様なメルヘン世界に我々は誘ってゆく。
* 料理の「カルパッチョ」(生牛肉にパルミジャーノソースをかけた料理)はこの絵の赤と、カルパッチョがこの 料理が好きだった事から後世に命名された。
*「巡礼団の殉教と聖女ウルスラの葬儀」 大作のスペクタルシーンみたいだ。画面の左半分が虐殺場面。右がウル スラの葬儀。ナマナマしさではなく、絵巻物を見ている様だ。虐殺という残酷な場面と葬儀という悲嘆の場面をⅠ 枚の絵に描いている。
カルパッチョ ヴェネッイア


*「悪魔に取り憑かれた男の治療」
 もしかしたら、ウルスラ伝ではないかも知れないが、15世紀のヴェネツィアの中心地リアルト橋周辺の生き生き とした風景の描写が面白い。まだ木造のリアルト橋、両側の商店街、多くのゴンドラが行き来するグランド・カナ ル。道路にいっぱいたむろする市民たち。カルパッチョの筆が生き生きと当時の風俗・生活を伝えており、見てい るとわくわくしてくる。
                    
*「2人のヴェネツィア婦人」  < ヴェネツィア・コッレール博物館。>    
(サンマルコ広場にあって、サンマルコ寺院のセットの入場券を我々は持っていたのに見逃してしまった。)「露台 でのんびりと暇をつぶしている2人の婦人を描いたもの。須賀敦子は作者がカルパッチョだと聞いてびっくり。こ の絵が一般的に「コルティジャーネ」(高級娼婦)と言われてきたが、実はヴェネツィアの旧家の婦人が本当で、 過去の批評家の間違いだ、との解説に疑問に思った。その疑問をその著「ザッテレの河岸で」展開している。
 16世紀のヴェネツィアの「コルティジャーネ」はギリシャ・ラテンの古典はもとより、楽器を奏し、歌がうたえる など、あらゆる分野に精通して、教養ある男性と対等に会話が楽しめる事が必須条件だった、という。勿論美貌は 前提で。江戸時代の遊郭の「太夫」や平安時代の「女房」(源氏物語をはじめ平安文学の担い手達)と同じではな いか。ティツィアーノやティントレットはその優雅な艶姿(アデスガタ)今を描いたという。          この絵が「コルティジャーネ」を描いたかどうかは別にして、カルパッチョは15・6世紀のイタリアの人物・風俗・ 風景を見事に切り取り、それ以上のものを我々に投げかけているのである。

12】ヴェネッイアについて

 *「アカデミア美術館」を中心とした「ヴェネツィア派の」ベッリーニ、カルパッチョ、ティツィアーノ、ティ     ントレット、ヴェロネーゼを全然見ていない。最低1日はかかる。
 *「トルチェッロ島」の「アスンタ聖堂」のマリア像を見てみたい。須賀敦子の名文章で知った。彼女はこのマリ   ア像を見て、「今まで見た総てのマリア像が消えてこれ1つになった」と言っている。今まで見た多くのマリ   ア像が消えてしまうほど、感動を与えたマリア像を見てみたいものだ。
 * 今回はサン・マルコ一帯、マッジョーレ島、サルーテ教会が中心だった。リアルト橋の周辺、カ・ドーロ、ゲ   ットー、ニ行ってみたい。
  ヴェネッィアは何回行ってもいいのだ。

  1. 2012/08/28(火) 11:11:00|
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『美術の検証』 ⑦ 「リッピ親子、ギルランダイオ、ラファエロ」 2010.10.15

『美術の検証』 ⑦ 『リッピ親子。ギルランダイオ。ラファエロ」10.15
DSC_1933フィリッポ・リッピ

 7】フィリッポ・リッピ(1406~1469年)
 イタリア中期の画家。稀有で並外れた才能の持ち主と同時に、多くの悪行を犯した放埓な芸術家。修道士でありながら、不品行であったが、老コシモ・メデチ(1389~1464年)に「天上の稀有な才能」と評価され保護された。
 ヴァザーリによれば、気に入った女を見かけるとその女をものに出来るなら、何でも与えてしまう。ダメな場合想像をめぐらせてその女の肖像を描くと情欲の炎が鎮まるという。修道女レクレッィアはプラートのマルゲリータ尼僧修道院の<聖母子>像のモデルとなった。2人はたちまちただならぬ関係に陥り駆け落ちした。2人の間に、後に画家となるフィリッピーノと娘アレッサンドラが生まれた。しかし、彼の類い稀な才能が数々の過ちを大目に見てくれた。大パトロンであるメデチ家のコジモの絶対的な庇護の下にあったからだ。

DSC_1929フィリッポ・リッピ

 若きフィリッポはブランカッチ礼拝堂のマザッチョを研究しながら修業した。又、ボッティチェリはフィリッポの弟子であり、その縁は子供のフィリッピーノが孤児になった時ボッティチェリが弟子として面倒を見ることにになる。
 彼の絵画世界は、旺盛な想像力と強烈な表現力と心理描写によって、人間的な詩的なものに作り変えられていった。優美で繊細な線と色彩の素晴らしさ抜群である。

 代表作
* 「聖母戴冠」1441~44年 ウフィツィ美術館
* 「受胎告知」 1440年  サン・ロレンツェ聖堂
   マリアに受胎を告げる大天使ガブリエルの少年のような顔、驚きながら受けとめるマリアの姿。画面手前にガ   ラスの小瓶は現実との架け橋の役割を担っているという。
* 「東方3博士の礼拝」 1445~50年 ナショナル・ギャラリー(ワシントン)
* 「聖母子と2天使」 1460年  ウフィツィ美術館
    ボッティチェリに多大な影響を与えた絵。晩年の作だが聖母に思い出のルクレッィアが投影されている。   「白鳥の歌」。
* 「聖母子と聖アンナの生涯」(ピッティのトンド)フィレンツェ・パラティナ美術館
  トンドとは円形の絵画のこと。背景の超現実空間に描かれた聖アンナの生涯と中央の聖母マリアのくっきりとし  た画像。
DSC_1936フィリッポ・リッピ


* 「洗礼者聖ヨハネの生涯」プラート大聖堂
  「ヘロデの宴会」左中央で踊るサロメの異様な雰囲気を風に揺れる髪や翻る肩衣で表現している。ヘロデ王に首   を差し出す場面とか有名な連作場面の展開。
* 「聖ステパノ伝」聖人の葬儀 プラート大聖堂
 
DSC_2160シモンとの議論とペテロの磔刑
 
8】フィリッピーノ・リッピ (1457~1504年)
 イタリアの画家フィリッポ・リッピと「聖母子」のモデルであった修道女ルクレチアとの間の息子。プラートに生まれる。父の弟子であったボッティチェリに師事。父同様にメデチ家のお抱えとなりルネサンス絵画の黄金期の1人として活躍。
 ボッティチェリ風の絵を描いていたが、後に幻想的な甘美性や多様な曲線を用いて独自な画風を確立、マニエリスムの先駆者としてみとめられている。
DSC_2154フィリッピーノ・ペテロの磔刑

 代表作
* 「聖母子と天使」1486年 の内 <聖ベルナルドゥスの幻視> バデイア聖堂
  ブルゴーニュの聖人が聖母マリア賛美の書を執筆中、2度聖母が現れ自ら母乳を与えたという奇跡の話。トスカー  ナ絵画の伝統的な細密描写や鮮やかな色彩や生気に充ちた人物表現は圧巻。
* 「マルス神殿から龍を追い出す聖ピリポ」1497~1502年サンタ・マリア・ノヴェラ聖堂
   マニエスムの先駆的代表作。キリストの12弟子の1人聖ピリポがヒエラポリスで軍神マルスの化身である悪龍と  対決する逸話。神経質な線描や非現実的な色彩、混沌や不安定な構図、大げさに誇張された人物の表現などはそ  れまでの調和と古典のフィレンツェ様式とは異なり新しい時代の幕開けになった。
* 「聖ペテロの磔刑」(部分)1481~86年・カルミネ聖堂・ブランカッチ礼拝堂
DSC_2155魔術師シモンとの議論

* 「聖母子と4聖人」1485年。ウフィツィ美術館
* 「東方3博士の礼拝」1496年 ウフィツィ美術館
* 「ドルシアーナの蘇生」1493~1502年、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂
牢獄より解放されたペテロ


9】ドメニコ・ギルランダイオ(フィレンツェ・1449~94年)
 DSC_2103マリアの誕生とお祝い

 15世紀のフィレンツェで最も活気のある工房を経営していた。マザッチョとフィリッポ・リッピを折衷したようなもので、フレスコ画による物語場面の構成に優れていた。
 彼の絵画には当時の街の景観や風俗、流行の衣装、注文主や著名人の肖像が描かれた。若きミケランジェロが工房で修業した。
DSC_2119洗礼者ヨハネの

代表作
* 「最後の晩餐」1480年。フィレンツェ/ オニサンテ教会
* 「聖フランチェスコの生涯」1483~85年、フィレンツェ/ サンタ・トリニタ聖堂
   アッシジに生まれた貧しく慎ましい聖者の生涯と奇跡の物語が、15世紀のフィレンツェの広場や通りに移し変
   えられて展開する。連作中の有名な「子供の蘇生」では、聖フランチェスコが空中に現れて子供を蘇らせる場   面を第一に描き、その奇跡の前に驚く人々の姿を描いている。
* 「聖母マリアの生涯」 フレスコ画連作1485~90サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂。
  「マリアの誕生」(画面の左半分に大きく描かれた5人の女性像は画の主題=マリアの誕生より、大きく扱われて   いる。注文主トルナブオーニ家の5人の女性であるという。女性たちの中で、全面に金糸の刺繍が施された衣装   を着た少女のような女性が注文主の1人娘である。注文主に人気の秘密が現れている。「神殿から追われるヨア   キム」
DSC_2099聖女フィーナの生涯

  「マリアの神殿奉献」「マリアの結婚」「東方3博士の礼拝」「嬰児虐殺」
DSC_2124ジョヴァンナ・トルナブォーニの肖像


* 「洗礼者ヨハネの生涯」
  「ザカリアの前に現れる天使」「聖母のエリサベッ訪問」「聖ヨハネの命名」「ヨハネの誕生」「キリストの洗   礼」「ヘロデの宴会」

10】ラファエロ(ウルビーノ1483~ローマ1520年 享年37歳
DSC_2130.jpg

 父に絵画の手ほどきを受け、20歳頃フィレンツェを訪れレオナルドとミケランジェロを吸収し己の画風を確立し  た。ラファエロはそれまでの芸術手法を統合・洗練し・優雅な画風を確立した。25歳の時教皇ユリウス2世の招きで ローマへ行く。ヴァチカン宮殿「署名の間」等の壁画を制作する。宗教画や肖像画にも優れた才能を発揮する。
 人によってはルネサンス最高の芸術家として崇める者もいる。聖母(女)を描かしたら右に出る者がいないと云わ れた。
*「聖母の戴冠」(オッディ家祭壇画)1503年 ヴァチカン美術館
*「マリアの結婚」1504年 ミラノ・ブレア美術館
*「スキピオの夢」1504年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
DSC_2127大公の聖母

*「大公の聖母」 1504年 フィレンツェ・ピッティ美術館(レオナルドの影響を受けた、後の「聖母子」の原型と  なった。後にトスカーナ大公が愛好。名前の謂れ。)
*「三美神」1504~05年シャンティイ、コンデ美術館(愛欲、純潔、美の三美神を描く)
*「聖ゲオルギウスと竜」1505年ワシントン、N・ギャラリー/ ルーブル美
  (竜は「異教・悪」を表し、キリスト教に改宗した時、槍で竜を殺すという象徴)
DSC_2129一角獣を抱く婦人

*「一角獣を抱く婦人」1505年ローマ、ボルゲーゼ絵画館(1930年の修復で発見。ラファエロ芸術の到達点。)
*「カウバーの小聖母」1505年 ワシントン、ナショナル・ギャラリー。
*「ベルヴェデーレの聖母」(牧場の聖母)1506年ウィーン美術史美術館
*「美しき女庭師」1507年、ルーブル
*「小鳥の聖母」1507年、ウフィツィ
*「ヴァチカン<署名の間>」1509年~ヴァチカン宮殿
 (教皇よりヴァチカンの天井画に対する側壁画を描くように命じられた。「聖体の論議」=神学に対応する)
アテネの学
DSC_2135無口な女
*「アテネの学堂」1510~11年 同
  ミケランジェロはシスティナ礼拝堂で天井画を描いていた。哲学に対応する。広い大聖堂の中でアジア、ギリシ  ャ、スコラの哲学者・科学者50人以上が思索したり議論したりしている。プラトン・アリストテレス・ソクラテ  ス・ピタゴラス・ユークリット等。
*「パルナッソス」1509~10年  同
  詩に対応している。芸術の神アポロンを中心に盲目の詩人ホメロス・ダンテ等。
*「小椅子の聖母」1514年 ピッティ美術館
*「サン・シストの聖母」(聖会話)1512~14年 ドレスデン国立絵画館
*「ヴェールをかぶった婦人の肖像」1516年 ピッティ美術館
*「レオ10世と2人の枢機郷」1518~19年 ウフィツィ
*「キリストの変容」1518~20年 ヴァチカン宮美術館
DSC_2146ヴェールをかぶる女
ラ・フォルナリーナ


  1. 2012/08/27(月) 14:52:34|
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『美術の検証』 ⑥ 「マザッチョの革新性」

『美術の検証』⑥ 「マザッチョの革新性」  2010.10.5
DSC_1806マザッチョ④

7】<マザッチョの革新性>1401~1,428年
 ルネサンス絵画のあり方を決定づける方法的モデルとなる作品を残した。建築家のブルネレスキ、彫刻家ドナテッロと共にルネサンス芸術の創始者の1人となる。彼らによってルネサンス芸術が造られた。
 仲良しのマゾリーノが中世ゴシック風であるのに対して、マザッチョは現実的な人物表現や自然な感情表現、空間把握で初期ルネサンス絵画を創始した。ブルネレスキに示唆されて絵画構成そのものの方法的革新を行った。フィレンツェのカルミネ教会のブランカッチ礼拝堂の壁画連作「聖ペテロ伝」である。(マザッチョとマゾリーニ。55年後フィリッピーノ・リッピが完成させた。)
<1>マザッチョの何が優れていたか?後進の天才たちが皆「ブランカッチ礼拝堂詣で」を何故したのか?当時、新しい絵画技法である遠近法にあると思う。線遠近法を始めて絵画に適用したのがマザッチョだったからだ。遠近法の絵画における実践。
*「遠近法」  ①同じ大きさでも遠いものほど小さく描く。②ある角度からは物がひずんで見える。
*「線遠近法を用いた透視図法」 ① 透視図は視点と距離によって拡大あるいは縮小された図になる。正円が楕円  に、正方形が台形になる。
  ② 透視図には水平線がある。遠ざかれば遠ざかるほど水平線に地づく。地平や海上の 先に水平線がある。2本  の線路を想定する。その一番先は消えてゆく。そこが消失点であり地平線の彼方に消えて行 く。③ 鏡像反   転。(鏡に写った顔は左右逆になっている。)連作壁画で合い対している左右の絵が、鏡に反響している様に重  ね合わせるとぴったりと一致するという。
DSC_1811マザッチョ⑤

<2>「貢の銭」(ブランカッチ礼拝堂。マザッチョの作品。)
 3つの時間が描かれている。
1. 中央=税金を要求する収税史とすばやく対応するキリスト。ペテロに指示する。
2. 右 =湖で魚の口から銀貨を取り出すペテロ。
3. 左 =ペテロが収税史に銀貨を渡している。
 &・当時ミラノとの戦争で膨大な資金が必要になったフィレンツェで税金改革の議論が起こる。湖から銀貨を得る (海・水=貿易から収入を得る事の象徴。又、ペテロが漁師だった。又、パトロンのブランカッチが海軍大臣であ  り、貿易の大商人であった。収税の先頭を担っていた事が関係する。教会は税金を一般民衆から集めるべきだ、  と税金収集の正当性の主張。ペテロの行為は納税における教会の役割を強調。
  しかし、マザッチョは透視図法や遠近法を駆使して描き「表現上の法則」を確立した。
<*「貢の銭」での実践。
 ① 「貢の銭」で向って左、魚から銀貨を取り出すペテロの背景の枯れ木の並び方。近くの4本の木が2:1:3の比  例。全体の縦の分割線が48等分割線で描かれている。
 ② 透視図法の消失点2つ。1つはイエスの左肩上。そこから水平に 19/48だけ離れた湖の上にあって、4本の柱を  結ぶ直線や山の屋根のラインはみなここに集まる。
 ③ マザッチョはフレスコ画制作にあたって、原寸大の紙に下絵(カルトーネ)を初めて用いた画家。伝統的には  下地壁の漆喰の上に直接早描きする。マザッチョは原寸大の紙に下絵を精密に描き、それを壁に貼り付け、紙の  素描に沿って針を通し、チョークの粉のタンポでたたいて漆喰に絵柄を転写していった。
 ④ 鏡像反転で、「貢の銭」と「足萎えの治療とタビタの蘇生」はぴったりと重なる。描いた画像をトレースし   て、左右逆転して他の壁に転写することも容易である、と言う。マザッチョとマゾリーノは1枚の紙の裏表に位相  の異なる場面を重ね合わせながら、同時に描いてゆくことも可能だった。55年後フィリッピーノ・リッピが転写  することも可能だった。
DSC_1800マザッチョ②

 *「聖三位一体」(1426~1428年・サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂)
  1568年に塗りつぶされ一度姿を消したが、1861年(300年後)に再発見。主題はキリスト教の根本的教義を示す  =三位一体、父なる神、神の子イエス、聖霊の三位は総て一体つまり唯一の神は総ての役割を持つ、という考え  方。完璧な遠近法に基ずく画面構成、写実的な人物の細密な描写など注目され研究されている。
 ⑤ マザッチョは1428年ローマに行き、間も無く死ぬ。(1401~1428年、享年27歳。)突然の死はいろいろと噂さ  れた。
 ⑥ 同時代で彼に影響を与えた芸術家に、
*建築のブルネレスキ(フィレンツェ花の大聖堂のクーポラで有名。遠近法の発明者)1383~1440
*彫刻のドナテッロ(ダビデ像が有名)1386~1466
 彼らは友人であり、建築、彫刻そして絵画と芸術の各分野で競い、共通の課題―創作方法における、遠近法について 切磋琢磨した。こういう中からルネサンス芸術が始まった。

DSC_1791マザッチョ①
  1. 2012/08/27(月) 14:13:22|
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『美術の検証』 ⑤ 「チマブーエ。ジョット 2010.9.30

『美術の検証』⑤ チマブーエ (活動の記録1272~1302年)13世紀~14世紀の始め
              2010.9.30
DSC_2054洪水後の十字架のキリリスト
    (チマブーエ「十字架のキリスト』サンタ・クローチェ教会。洪水の被害にあった。
 * 中世の教会の絵画は、どの人物も型に嵌った同じようなもので、題材も聖書と限定されている。西洋絵画史では中世の次がゴシックで、13世紀(1280年代)チマブーエが聖母子像の人間化・人物の自然な描き方などで、後
のルネサンスを準備する。記録が少なく、作品の信憑性も少ない。彼が少年ジョットを見出したことがヴァザーリの列伝に記録され、列伝のトップに取り上げられている。ゴシック期のイタリアを代表する画家。
金地の背景、正面性、左右相称性の強い構成、人物の図式的・平面敵な捉え方など、古代ギリシャ様式を基礎に持つビサンチン美術が色濃く残っている。しかし、中世美術と比べると人物の自然な表情、聖母や衣装の表現において生き生きしていて、ゴシックからルネサンスへの橋渡しの位置にある。
DSC_2052チマブーエ・アレッツォ・十字架のキリスト

① <十字架のキリスト> (アレッツォ・サン・ドメニコ聖堂)
② <十字架のキリスト> (フィレンツェ・サンタ・クローチェ聖堂付属美術館)
  二つとも初期の代表作。1966年のフィレンツェを襲った洪水で破損したが入念に修復された。 
③ アッシジの壁画連作 (アッシジ・サン・フランチェスコ聖堂上堂)
  痛みと剥落が激しい。「マリア伝」8場面。「使徒行伝」「黙示録」など。
④ 代表作の「荘厳の聖母」(サンタ・トリニタの聖母1285年頃ウフィツィ美術館)
 階段の上の豪奢な衣装の聖母マリアは堂々と坐って、息子のキリストを手で示して信者たちに礼拝を促している。 伝統的な描き方に、今にも微笑みそうなマリアの顔とか、キリストが信者たちに接吻を促すように前に投げ出した 可愛いい裸足である。このような親しみやすい表現にチマブーエの独自性が出ている。ウフィツィのは何度も見て
 いる。親しみやすい可愛いマリアである。
DSC_2062アッシジの荘厳の聖母
DSC_2063聖フランチェスコ


⑤ 「荘厳の聖母」(アッシジ・サン・フランチェスコ聖堂下堂)
  玉座の周りの4人の天使の外に、グループから離れて聖フランチェスコが描かれている。聖痕がはっきりと描か  れ、聖フランチェスコの実像に近いと言われてきた。 
⑥ 「荘厳の聖母」 (パリ・ルーブル美術館)
 ピサのサン・フランチェスコ聖堂のために描かれたが、ナポレオンの略奪にあってルーブルにある。
DSC_2057ウフィツィの荘厳の聖母


6 】ジョット(1267年頃~1337年。 フィレンツェ近郊の村出身。)
DSC_2069スクロヴェーニ礼拝堂

①「荘厳の聖母」<オニサンテの聖母>(ウフィツィ美術館)
 ジョットの革新性、マリアの衣服やマントに現実的な質感と重みが与えられている。衣服の襞の内側には肉体のヴォリュームを確実に見ることが出来る。マリアの表情も神の母としての威厳と人間らしい親しみがあふれ新しい聖母像の登場となっている。玉座の前の階段や手前に暖色、背景に青や緑の寒色を用いた「色遠近法」の採用など、人間の目で自然を見て写すこと。描くこと。絵画に生命を吹き込んだ。ここから奥行きを持った空間の広がり、重量感のあるヴォリューム、正確なデッサン、個性的な人物表現への道が開けた。ルネサンス絵画が始まりである。
ゴシックの平面的・装飾的な絵画から、人物の感情表現・深い人間性を描いた。背景の建物や自然の風景と人物との比例を考慮して作品世界を構築した。作品のリアリティを重視は近代絵画の祖になった。

DSC_2074死せるキリストへの哀悼

② 「サン・フランチェスコ伝」(アッシジの聖堂壁画連作)14世紀中期。
DSC_2044アッシジ下堂南側

③ 「キリストの生涯・聖母マリアの生涯」(パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂)1303~05年。

* ルネサンス絵画を調べていてやっかいな問題にいつもぶつかる。本人の作品か工房の作品か、他者の作品か、制 作年代がいつか、という問題である。「アッシジ問題」と言う言葉がある位、ここの作品の幾つかについて論争中 である。

* 作品の背景、ルネサンスを支えたもの。
1、13世紀後半フィレンツェが羊毛工業、貿易、金融業などによって驚くべき発展を遂げ、ヨーロッパ第一級の大都市 にのし上る。商工業の担い手の都市市民階級の勃興。彼らがルネサンス芸術のパトロンになる。
2 教会の大衆化=フランチェスコ会とドメニコ会を中心に同信会(信者たちの組織化)の発展である。教会の信者た ちの組織がイタリア各地に広がる。それらが聖堂の建設・壁画のパトロンとなってルネサンス文化を支えた。教会 の壁画の注文主となる。
DSC_2078ウフィツィのオニッサンティの聖母

* 主な信徒会と教会
「フランチェスコ会(サンタ・クローチェ教会)。「ドメニコ会」(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会)
「カルメラ会」(サンタ・マリア・デル・カルミネ教会)
「アウグスティヌス会」(サント・スピリット教会)「ウミリアーティ会」(オニサンテ教会)
「聖母マリア下僕会」(サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会)
 以上の教会がドゥオーモ、ヴェッキオ宮、ウッフィツィ美術館を取り巻いて現在のフィレンツェを形成している。 現在のフィレンツェを理解するのにも役立つ。
3 地方に根ざした貴族の注文も大きい。

DSC_2071婚礼の行列
  1. 2012/08/26(日) 23:26:23|
  2. 美術の検証
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『美術の検証』 ④ドゥッチョ、マルティーニ、ロレンツェッティ兄弟2010.9.18

『美術の検証』④ ドゥッチョ、マルティーニ、ロレンツェッティ兄弟 2010.9.18
DSC_1989マルティーニの受胎告知

シエナ派の巨匠たちである。イタリアルネサンスと云うとどうしてもフィレンツエを中心に考えがちである。調べてビックリした。シエナは芸術の宝庫である。又、小生にとって理想の芸術のあり方を発見した。
 
DSC_2090ルチェッライの聖母
  
2】 ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(1255頃~1319年)
チマブーエの弟子。ジョットと同時代の画家。人物表現が優美で洗練されている。細部描写が精巧・緻密で色彩が豊かである。首をややかしげた優雅な聖母像は当時人気を博した。震えるような複雑な衣服のへりの線描や、半透明の外衣の繊細な表現も注目される。1308年~板絵の大傑作<荘厳の聖母>はストーリー・テラーとしての見事な才能の発揮である。ビザンチンの図像を踏襲しながら、物語性豊かな要素や、はつらつとした人物像、みずみずしい背景描写を盛り込み、華麗な物語場面を展開している。ウフィツィ美術館の「ルチェッライの聖母」でお馴染みである。「シエナ派の祖」といわれ、ここから彼らが出てきた。

DSC_2093ドゥッチョ・荘厳の聖母

代表作、「ルチェッライの聖母」1285(ウフィツィ美)。「マエスタ(荘厳の聖母)」1308(シエナ大聖堂付属美)
[クレヴォーレの聖母」(シエナ大聖堂付属美)
DSC_1983 .S.maruteli-ni

3】 <シモーネ・マルティーニ>  1284~1344年 シエナ派の代表
 繊細で神秘的で装飾的な画風。線描・アラベスクにおいてリズム感のある技巧を特色とするシエナ派の代表。シエナ市民政府の発展のためのシンボルとしての絵画を描いた他、南イタリアを支配していたアンジェー家と密接な関係を持ち、アッシジやナポリに重要な作品を残している。晩年、アヴィニョンの教皇庁に出仕し宮廷画家のような位置にあった。後のフランスやフランドル絵画に影響を与える。全ヨーロッパ的な画家。
「荘厳の聖母」も凄ければ、「グイドリッチョ」もいい!見た人の感動の文章から未見なのに胸がふくらんだ。
 板絵も壁画もこなし、絵の主題も広範囲である。人々の宗教感情とモラルの変化を反映した新しい図像、たとば、聖母が地面に座って謙遜を表す「謙遜の聖母」。「受胎告知」を中心にすえた祭壇画も彼が最初であった。又、宮廷画家であったことからペトラルカを友人に持つなどヨーロッパの文化人として活躍。つまり、全ヨーロッパを舞台に
活躍した国際的芸術家である。

DSC_1959聖女マルガリータ

 シモーネの代表作                                      

荘厳の聖母・市庁舎

 ①「マエスタ(荘厳の聖母)1312~15年」シエナ、市庁舎「世界地図の間」シモーネ初期の代表作と言われてい  る。ドゥッチョの「マエスタ」に基づいて描かれていると言われている。
*「私利私欲に走り不正を働く者を何とかして下さい」という民衆の願いに対して、聖母が「権力を笠に着て弱い
 者いじめをする者を懲らしめましょう」と答えている。
 この作品は市の最高議決機関の会場(プップリコ宮殿)に掛けられている。市民精神の理想を見守る画像の意味を
 持つ。中央のキリストを抱く玉座の聖母。それを囲む左右の30名の聖人・天使図の華麗さときらびやかさである。 豪華な衣装と優雅なシルエットはシエナ市民の心を癒したに違いない。
* <聖母の玉座の下に書かれた詩。>聖母が市民精神の守護神としてあること
 我が愛する者たちよ、心にとめておきなさい / 汝らの敬虔にして誠実な祈りは 汝らの望むとおりに叶えてあげ ましょう / けれども、もし強きが弱きを苦しめるなら それ相応の恥辱と損害をその者に科しましょう / 汝 らの祈りは、こうした者たちのためでもなく 私の市を裏切る何者の為でもないのです。
(聖母は民衆の為の者、市民精神の守護神であることの高らかな宣言!こんな聖母は見たことがない!
DSC_1696グイドリッチョ将軍

 ②「フォリアーノ・グイドリッチョ」(シエナ・<市庁舎>・世界地図の間・1330年頃)
 14世紀頃、派手な黄色のマントを覆った騎乗の将軍が荒野を1人戦いに行く。彼の行く手に、これから占領される
 であろう山上都市が、背後にはすでに占領した城やシエナ軍の露営地のテントが描かれている。荒涼とした自然、 派手な黄色のマントの騎乗将軍に対して、鮮やかな群青の空が美しい。空一杯をラピスラズリで散りばめた様な群 青のこんな美しい空は見たことがない。
 シエナの英雄で傭兵隊長グイドリッチョ将軍の肖像画である。(領土奪還は共和政府の悲願)数々の戦果を挙げて きたが、ピサとの戦いで戦死。将軍の追悼の絵だという説もある。

 実はこの絵に対して、シモーネの作品だと断定する事への疑念,制作年代についての諸説等の論争が起こってい  る。また、「グイドリッチョ」の絵の下壁に、騎馬像よりも古い時代に描かれたフレスコ画の断片が発見された。
 専門家たちの論争はこの絵を愛好する者を当惑させる。しかし、「グイドリッチョ」は素晴らしく、深い群青の空 は一度見たら忘れないであろう。これ程の絵を描ける実力者がそうはいないだろう。又「世界地図の間」に掛かっ ていることの意味も考えなければならない。シエナの「ノーヴェ」体制、共和制の絵画的表現としての評価である。
 『プブリコ宮(市庁舎)』の、「平和の間」「枢機卿の間」「世界地図の間」の壁には、13世紀から14世紀にかけ てのシエナ共和制躍動期の、反封建・共和制のイデオローグの宣伝や高揚を担った絵画が掲げられた。シモーネの「マエスタ(荘厳の聖母子)」(1312~15)や「グドリッチョ」、ロレンツェティの「善政の効果」「悪政の効果」 等の作品である。壁に掲げられた絵画は共和政の発展に貢献した。市民ブルジョア勃興期のエネルギーと清清しい 精神の昂揚を感じる。

  14~15世紀に興ったシエナ派は、市発展の精神的シンボルの役割を果たし、絵画集団として特異な発展をした。(その後、シエナ派はゴッシクの装飾性を強めた。)担い手はドゥッチョ、シモーネ・マルティーネ、ロレンツェッ ティ兄弟である。 同時代のフィレンツェ派(ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ミケランジェロ等)が写実性・ギ リシャ・ローマ文明の継承であるのに比べて、優雅・装飾的・神秘的でゴシック画風がシエナ派の特徴である。

③「聖マルティヌス物語=礼拝堂の献堂」1317(アッシジ・サン・フランチェスコ聖堂)
  ゴシック調で主題は仏の聖人「トゥールの聖人マルタンの生涯」。俗人時代のエピソードが異教的又世俗的な雰 囲気の中で描かれた。「乞食にマントを与える、マルティヌスの夢、騎士に叙任される、軍隊を去る、子供を生き 返らせる、瞑想する聖アンブロシウス、ミサの奇跡、火事の奇跡、聖マルティヌスの死、葬儀。」俗人が聖人にな るまでの一代記の大作。
④「聖人壁画連作」(1315~17)(アッシジ・マルティヌス礼拝堂)
 キリスト教の各伝説・奇跡の物語の壁画の連作。その中でも8人の聖人の(聖フランチェスコ、聖女キアーラ、パドヴァのアントニウス、ロベール・ダンジュー、トゥールーズの聖ルイ、聖女エリザベト、アサンドリアのカタリナ、マクダラのマリアなど)肖像画は気品に溢れ感動的である。聖フランチェスコや聖女キアーラ等の肖像画はこの作品が良く使われている。
⑤「福者アゴスティーノ・ノヴェッロ祭壇画」(1333年・シエナ大聖堂付属・美)
 市中に不幸が起こったので4つの奇跡を、シエナの福者アゴスティーノが起こした物語。①狼に噛まれた子供を助ける話。②バルコニーの羽目板がはずれて転落した子供を助ける話。③ハンモックから落ちた子供をよみがえらせ話。⑥ 崖から転落した騎士を救助する話。万華鏡のように当時の生活を垣間見させてくれる。                          
⑦ 各地に散らばった多くの「祭壇画」や「聖母子」
 優美、洗練、崇高、気品、表情の面白さ、などいろいろと面白いが取上げるには僕の手に余る。 
⑧「受胎告知」1333年 シエナ大聖堂の聖アンサヌス礼拝堂のために描かれたが、時を経るに従い他の聖堂に移され
 1799年トスカナ大公の命によりフィレンツェのウフィツィ美術館に移された。シエナ人の憤まんがわかる。    「受胎告知」とは、キリスト教の新約に書かれているエピソード。大天使ガブリエルがマリアに、聖霊によって  イエスを身ごもることを告げ、マリアがそれを受け入れることを告げる。ガブリエルがマリアに「あなたは懐妊  された。」と告げた時のマリアの表情が面白い。
 シモーネの「受胎告知」の面白さは、人間的で拒絶しているみたいで、現実の少女みたいだ。恥ずかしそうに身  をくねらせて、ちょっと恨めしそうな困惑したマリア。ガブリエルもマリアの表情を伺いながら注意深く伝えて  いる。この時の2人の緊張感が面白い。結局マリアは運命を受け入れる。が、この一瞬の微妙な場面をシモーネは  キャッチした。 ダ・ヴィンチの作品の、ガブリエルとマリアの正面を向いた緊張した姿勢からは、マリアの意  志・叡智を感じる。賢そうなマリアが少年のようなガブリエルを諭しそうだ。フラ・アンジェリコの敬虔・清楚な マリア。ボッティチェリはマリアが余りに美しすぎる。肉感的な美少女過ぎる。ピエロ・デッラ・フランチェスカ はどしりとした、巨大な存在・大地の母なるものを体現する者として描かれている。


DSC_2622善政の寓意が描かれている部屋
4】アンブロージョ・ロレンツェッティ(1290年代~1,348年のペストでの死)
  多くの作品が失われたにも関わらず、評価が高い。恥ずかしながら今回の調査での新しい発見だった。特に市庁  舎の「善政の効果」と「悪政の効果」は最高だった。 
 *「ヴィーコ・ラバーテの聖母子」1319年(チェステッロ大司教区・美術館)
  古い形式に載っとり、ややアルカイックな造形の中に、しっかりとしたヴォリュームを表現する。現実感に裏   打ちされたおおらかさが特徴。
 * 「聖母子」像
 * 「マクダラのマリアと聖女ドロテアノ間にいる聖母子」(シエナ国立絵画館)
 * 「聖母子」(ミラノ・ブレア美術館)
 * 「授乳の聖母」(シエナ・大司教館)
 * 「聖ニコラウスと聖プロコロのあいだにいる聖母子」(ウフィツィ美術館)
・(キリストはマリアの肩に手を回し、愛情深く身を寄せている。聖母はキリストに顔を寄せ、鋭い射るような視線  を向けている。救世主の受難と2人を待ち受ける深い悲しみをすでに知るマリアの悲痛な心を表現している。
・ 聖母は大きくなったキリストを腕に抱いている。幼な子キリストは写実的に、子どもの貪欲さで乳房を掴み乳を  吸っている。マリアが若く美しく、濃紺と赤の鮮やかな色彩のコントラストが印象的である。
 *「荘厳の聖母」(シエナ・サンタゴスティーノ聖堂)
  聖女カタリナが皇帝と対話する劇的な場面と、皇帝の面前で異教の哲学者たちと議論する場面。この間に「キリ  ストの磔刑」があったが失われた。聖女アガタが切り取られた自分の乳房を、聖女カタリナが自分の首を皿に載  せて差し出す珍しい場面。皇帝との対話の場面は失われた。(聖書・伝説の世界で日本人にはわかり難い。)
*「荘厳の聖母」(サン・ガルガーノ、モンテしエーピ礼拝堂)
  画面の前の真ん中に金髪のエヴァが白いドレスを着て横たわっている、珍しい絵である。左右に「隣人への・神  への」愛の象徴としての2人の女性を配置している。エヴァはイチジク(邪悪の始まり、人間性の象徴)と「受胎  告知」を意味する巻物を手にしている。楽園を追われた罪深い人間(肉体の欲望)が神への愛に高まる過程を描   く。
受胎告知

* シエナ市庁舎「平和の間」のフレスコ画=『善政の寓意と効果』『悪政の寓意と効果』
1 「悪政の寓意と効果」 長い壇の中央に角と牙のある歪んだ顔つきの恐ろしげな悪魔=専制政治の擬人像。ヨハネ  黙示録の地獄の都市「バビロン」の女の特徴もそなえている。擬人像は金や宝石、色欲の象徴の山羊や、壇上に  様々な悪徳を従えている。 足元には打ち負かされた「正義」が縛られている。「残虐」「裏切り」「欺瞞」激  怒」「戦争」など悪徳のエピソ ードが描かれている。3人の女性像、貪欲・傲慢・虚栄で専制政治のイデオロギ  ーを表している。下方は専制君主が 支配する都市の荒廃した様子が描かれている。

2、「善政と平和の寓意」
  3つの部分からなる。右上部の髭の老人はシエナ市の擬人像である。その左右3人ずつ剛毅、思慮、節制、正義の
  4つの寓意像と、擬人像の左に坐る「雅量」と右にゆったりと寝そべるように坐る「平和」。左の上空に聖書を手  にした「叡智」が浮かびその下に「正義」が天秤を持ち平衡を保っている。一番下の銘文に「聖なる徳=正義が  支配するところ、公共の善を実現させる。」と謳っている。
  玉座に坐る「正義」の擬人像は「世を支配するものよ、正義を愛せよ」という銘で縁取られている。「正義」の  下の「調和」は正義から天秤の紐を受け取り、24人の市民の行進に引き渡される。膝の上にあらゆる不和を均す  という巨大な大工の鉋を持っている。研究者によれば、アリストテレス的「公共善」と「正義」を善き政府の基  礎と考える思想を寓意的に表したものである。この寓意画の右手には、「善き政府の効果」が図示されている。  洛中洛外図といった趣の壁画は「善き政府」の基に暮らす市民たちの生活が生き生きと描写されている。
 市庁舎の「世界地図の間」「評議会の間」において、シモーネ・マルティーニが<マエスタ>が共和制の精神の守 護者としての「聖母マリア」を描き、「正義」の善政こそ共和制の理想だと、哲学的な寓意画として描いたのがア ンブロジオ・ロレンツェッティであった。後のシエナ派の装飾的・ゴシック的とは違った、シエナの市民主義・共 和制の見事な芸術表現を見るのである。こういう絵画を見たのは初めてだ。興奮してしまった。
[2点の風景画] (シエナ・絵画館)
 
海辺の都市

 「海辺の都市」と「湖畔の城塞」
西洋美術史で初めての独立した風景画である。センスのいい作品だ。ぜひシエナへ行かなくちゃ!
  1. 2012/08/26(日) 17:14:14|
  2. 美術の検証
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『美術の検証』 ③ 「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」

 『美術の検証』 ③「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」について 
                 2010.8.20 記録。2012.8.25再出
DSC_1851ソロモン王とシバの女王の会見

<このままでは、本当に見たいもの・見なくてはいけないものを見ない内に、こちらの命運が尽きてしまうことに気が付いた。
イタリア・ルネサンスの絵画をもう一度見直した。肝心のものをまだ見ていないことに気がついた。
ピエロやマザッチョ。ジョットやチマブーエ。シエナ派のマルティーニやロレンツェティ兄弟。ヴェネッィア派のカルパッチョやベリーニなど絵画としてまともに見ていないことに気づいた。2010年の旅の反省から以上の画家たちを調べることに余暇を振り向けた。

フェデリーコ公夫妻

『1』ピエロ・デッラ・フランチェスカ
* 有元利夫とピエロ・デッラ・フランチェスカ
僕がピエロを知ったのは、有元利夫の卒業制作「私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ」(1972年)においてだった。有元はこう言っている。            
「これは仏画じゃないか。(略)聖十字架物語は、その宗教的静謐さと平面性、装飾性、
絵巻物的空間の展開など、私の中で解きほぐせなかった東洋と西洋とのこだわりを、瞬時にときほぐしていったのだった。」
有元の出発が、ピエロ・デッラ・フランチェスカであり、卒業制作がピエロの「聖十字架物語」の中から、彼がそれまで抱いてきた様々の思いの実験を試みた作品であった。ピエロ的空間の中に自分の夢や空想を思い切り展開させて、自分の世界を切り開いたと思った。

  ピエロ・デッラ・フランチェスカは15世紀に活躍し、忘れられて(多くの作品が損失した)20世紀に復活した画家と言われている。セザンヌやキュビスムの画家たちによって、ピエロは再評価された。セザンヌの「自然を円筒・球・円錐で捉える」の有名な言葉はその後のキュビスムに大きな影響を与えたが、その輝ける先達としてピエロの絵画が評価された。ピエロのポイントは、それまでの絵画に無い対象の捉え方、絵画の概念の革新(構成力と遠近法と色彩)、幾何学的な「構図」や清明で大胆な「色彩」である。

DSC_1904キリストの降誕

* フランスの有名な美術史家アンリ・フォションは「2つのイタリアがあると言っている。
「感じやすく情熱的で開けっ広げなロマンテックなイタリア」=ボッティチェッリやラファエッロであり、「堅固で壮麗な構築を求める建築的モニュメンタルなイタリア」=ピエロ・デッラ・フランチェスカや「サン・ロマーノの戦い」を描いたウッチェッロやミケランジェロである、と。
 
『Ⅱ』アレッツォのサン・フランチェスコ教会「聖十字架物語」壁画
 作者ピエロ・デッラ・フランチェスカ 1452~1466 15世紀中頃
* 多くの聖人伝説を集大成した中世の「黄金伝説」(13世紀にイタリアのジェノバの大司
 教ヤコボスによって集められた、キリスト教聖者の伝記)に拠った。   
特に「聖十字架伝説」はイエスが磔刑にされた「十字架の木」にまつわる物語で、旧約の「エデンの園」(アダムとイヴの原罪の元になった木の実の「木」の物語)から7世紀の東ローマ帝国時代までの壮大な歴史物語。アダムの墓に生えた木が、ソロモンとシバの時代を経て、キリストの十字架となり、東ローマ帝国のヘラクリウス帝がペルシャのホスロー王から十字架を取り戻して、エルサレムに返還させるまでの物語。
* ピエロ・デッラ・フランチェスカは、10の場面に分けてサン・フランチェスコ聖堂の
 内陣の三方の壁にそれぞれ上下3段に描いた。ルネサンス絵画の最高傑作である。

DSC_1838聖十字架物語

壁画「聖十字架物語」の解説   
①「アダムの死」(エデンの園を追放され、年老いて病に倒れたアダムは息子セツをエデンに送り、病を治すといわれる「憐れみの木の油」を求める。セツが戻った時アダムはすでに死んでおり、木の枝をアダムの口の中に植えた。生長した木は宮殿の寸法に合わず、エルサレムの川の橋のひとつに使われた。
②「シバの女王」(聖木の予知・後に分析する)
③「聖木の運搬」(ソロモン王は、木を地中深く埋めさせた。が、シバの予言通り十字架に
 吊るされる人がユダヤの国を滅ぼすとあったので、ソロモン王は「木」を地中深く埋めたと云われている。
④「コンスタンティヌスへの告知」(時代は流れ、4世紀ローマ帝国内の統治権の争いマクセンティウスと対決したコンスタンティヌスは夢で「十字架」を戦陣に掲げよのお告げ。
⑤「コンスタンティヌス対マクセンティウスの戦闘」(お告げの通り黄金の十字架をかざしてコンスタンティヌスの勝利。)
⑥「ユダの拷問」(313年キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス帝の母「ヘレナ」は、聖十字架の探しにエルサレムを巡礼し、犯人の疑いのユダを審問にかける。
⑦<コンスタンティの母・ヘレナ>(ゴルゴダの丘から発見された3本の十字架の真偽を確かめるために死者にかざして本物を判別。)<聖十字架の発見>
⑧「ヘラクリウス対ホスローの戦闘」(それから3世紀。614年、ササン朝ペルシャ王ホスロー2世がエルサレムに侵入し、聖十字架を奪った。628年東ローマ帝国の皇帝ヘラクリウスは大軍を率いてホスローを攻め、聖十字架を奪還した。ホスローは改宗の要求(イスラム教からキリスト教へ)を拒否した為に首をはねられた。
⑨「ヘラクリウスのエルサレム入城」(皇帝ヘラクリウス豪華絢爛の武装で聖十字架の変換のためエルサレムに入場しょうとするが、城門が壊れ行く手を塞く。天使のお告げに従って、王は質素な下着だけになって十字架を掲げて入場し、エルサレムの歓迎を受けた。 
⑩「マリアへの受胎告知」(長いキリスト教の前史のあと救世主キリストが生まれた。)  
                                  
『Ⅲ』『ソロモン王とシバの女王の会見』 
「聖十字架物語」の中で「シバの女王」が一番優れているし、ピエロの全作品中最高と思われる。(かなりの作品が散逸しているので)
 「シバの女王」の場面では大きなコリント様式の柱廊で中央から半分に区切られ、2つの場面に分かれる。
① 左半分は、シバの女王が到着した。後に聖木となる木に女王が膝まずいて礼拝する瞬間を捉えている。シバの女王は濃い緑のドレス。女王の背後にお付きの7・8人の貴婦人たち。なかでも前面に立つ2人の貴婦人のロングドレスが素晴らしい。女王のすぐ後ろの貴婦人が白、その後ろに立つ貴婦人が薄めの赤。肩からゆったりと流れるような曲線はため息が出る程だ。この貴婦人たちの集団は三角形の構図で左半分の画面の主要な部分を占める程強烈である。画面の後ろに立つ大きな2本の1本は、貴婦人たちの群れの後ろに。もう1本は左端の馬を連れた従者たちの後ろに立っている。遠景に岩の山々、その上を青空が広がっている。(今では剥げ落ちて無残だが)
砂漠の向こうから(エチオピア説とイエメン説がある)シバの女王が沢山の金銀・宝石・
 乳香(にゅうこう=宝石の様に高価な香料)を持ってやって来た。(実はソロモン王の評判を聞きつけわざわざ会いにきた。ソロモン王、古代イスラエルの3代目の王。「ソロモンの知恵」といわれ、多くの人と謎かけ問答をして勝った。繁栄を極め、エルサレム神殿を築く。)
異国の美しい女王!艶やかな衣装の貴婦人たちは幻想的でエキゾチックな雰囲気を放つ。ピエロ独特な構図と色彩である。素朴な奇跡伝説と民話的な話を、キリスト教の壮大な歴史ドラマの域に高め、夢のような叙事詩的世界を展開した。

② 右半分は、ソロモン王とシバの女王との会見である。堅固なコリント風の円柱と太い梁の組まれたソロモン王の豪壮な宮殿。王・近臣たちと女王・貴婦人たちが分かれて両側に並んで均衡を保っている。場面の中央のソロモン王にシバの女王が腰を少しかがめて挨拶をしている。悲しみを打ち明けるように王の手を取る女王。恐らく先ほど拝んだ木が将来エルサレムを滅亡させるだろう、と告げたに違いない。女王のすぐ後ろに立つ貴婦人の濃いグリーンのドレスが鮮やかである。貴婦人たちは、広い額と卵型の顔で、頭に皆同じ様な帽子を被り、目を開き口元を小さく引き締めて立っている。ピエロの描く女性たちに共通したどこか家庭的で田舎風なのだ。王の衣装が凄い。金糸と白糸で織られた眩いばかりのマント、今は劣化が甚だしいが当初は燦然と輝いていたことだろう。
絵画全体として、ごてごてした豪華な装飾性ではなく、澄みきった透明な美しさである。
物語のスペクタルと壮大な構築、画面に隠された細密な研ぎ澄まされた構図、見る者を夢幻のかなたに誘ってゆく。

ピエロ・デッラ・フランチェスカは何を描こうとしたか?
数世紀にわたって厳然と力を振るってきたキリスト教信仰か? 不可視の力が表われる人間の歴史か? 生と死の冷厳な循環か? 永遠がこの世にあるのだろうか?

DSC_1874出産の聖母

Ⅳ・ ピエロ・デッラ・フランチェスカの簡単な生涯 (1415~1492)15世紀の人。    
 イタリア・トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町、ボルゴ・サンセポルクロに靴職人・商人の息子として生まれた。マザッチョ、ウッチェロ、ドメニコ・ヴェネツィアーノの作品から、正確な遠近法(透視図法)、明瞭な透明感のある色彩、人体や事物の明解な形体把握、簡潔な空間構成を学び独自な画風を確立した。イタリア各地で制作したが、後半ウルビーノ公の宮廷で活躍する。晩年は失明に近い状態になり、数学の研究を深め、「算術論」「遠近法論」「五正多面体論」などの著作を残した。

 初期イタリア・ルネサンスのチマブーエ(1240~1302)、その弟子のジョット(1276?~1337)、彫刻家ドナテッロ、(1386~1466)、建築家ブルネレスキ(1377~1466)、建築家アルベルティ(1404~1472)の「絵画論」、マサッチオ(1401~1428)などを第一の世代とすれば、その後に続く第二の世代。フラ・アンジェリコ(1387~1455)、フリッポ・リッピ(1406~1469)らが同じ世代に属する。その後の第3世代にボッティチェッリ、ダ・ヴインチが続く。

Ⅴ・主要作品
*「キリストの洗礼」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)1440
*「ミゼリコルディ祭壇画」(サンセポルクロ市立美術館)1445~62
    [慈悲の聖母]1465
*「シジスモンド・マラテスタの肖像」(ルーブル美術館)1451
*「キリストの鞭刑」(ウルビーノ・マルコ国立美術館)1453~55
*「聖十字架伝説」(アレッツォ、サン・フランチェスコ聖堂)1452~66
*「出産の聖母」(モンテルキ・墓地礼拝堂)1460
*「キリストの復活」(サンセポルクロ市立美術館)1463
*「マクダラのマリア」(アレッツォ大聖堂)1466
*「ウルビーノ公夫妻の対面肖像」(ウフィツィ美術館)1472~74
*「ヘラクレス」(ボストン、ガードナー美術館)1470年代
*「聖母と聖人たち」(ミラノ、ブレア美術館)1472~74
*「キリストの降誕」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)1475
* 1480年までは失明していない。
 多くの作品が散逸した。一時忘れられた。近代になって再評価された。
DSC_1908理想の都市

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  1. 2012/08/25(土) 22:27:16|
  2. 美術の検証
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『映画』「かぞくのくに」 2012.8.24

「かぞくのくに」  (脚本・監督ヤン・ヨンヒ。出演、安藤サクラ、井浦新、ヤン・イクチュン、京野ことみ、
           宮崎美子、津嘉山正種 )       2012.8.24
かぞくのくに

1959年末から1,984年まで20数年間続いた、北朝鮮への集団移住・約9万人のコリアンが移住したといわれている。当時、「夢の楽園」と囃された北朝鮮に日本社会の民族差別と貧困に苦しんでいた在日コリアンが渡った。映画「キューポラのある街」で吉永小百合の主人公の友人のコリアン少年が北朝鮮に渡るシーンがあった。「北へ帰る」というとこの映画がすぐ浮かんでくる。渡った「北」が囃された通りの『楽園』であったか?日本と国交が無いため、帰りたくとも帰って来られない人々。在日コリアンの戦後史の暗部である。

 映画は思春期の時「北」へ渡った兄ソンホ(井浦新)の25年ぶりの一時帰国。
病気治療のための3ヶ月だけの許可をとっての帰国であった。迎える在日の家族、特に奔放さに溢れた妹のリェ(安藤サクラが面白い)は兄との再会に心待ちにしていた。家の少し手前で車から降りたソンホはキム・イルソンバッチを外して街並みを懐かしそうに辺りを見回し家に向った。家の前で待つオモニ(宮崎美子)に抱きしめられる。

 しかし、家族での歓迎夕食会でも何か変だ。25年ぶりの再会だというのにしっくりしない。監視役のヤン同志(ヤン・イクチュン)が常に付き纏っていることも監視されているようで嫌だ。兄ソンホは何を考えているのか?諦めと組織に忠実な人生だったのか?ソンホ(井原新)の感情を抑えた姿勢が、感情迸るリエにはしっくりいかない。25年の歳月は兄と家族の中に何をもたらしてしまったのか。
 映画はソンホとリエとの間の「距離感」を、勝手に自由に言える国で成長してきた妹と上からの命令で生きてきた兄との「距離感」を、演じる俳優のキャラクターや表情で表す。

 リエとソンホは買い物に出かけ、大きなスーツ・ケースを前にしてソンホはリエに「お前はそういうのを持っていろんな国に行け」と語りかけた。 
 その夜、ソンホはおずおずとリエに「指定された者に会って話の内容を報告する」つまりスパイの仕事をやる気があるか、と訊いた。(ヤン同志の命令)リエは激しく拒否する。それを聞いていたアポジ(津嘉山正種)に別室で問い質されると、ソンホは激しく動揺し「自分の気持ちが分かるわけがない」と父に激高するのであった。「早く病気を治してか帰るんだ」と諭す父に「いつもそんな事しか話さない」と言ってその場を去った。
北を支持する思想に忠実で組織の幹部の父。北で25年も生きた子の思い。
又、息子を送り出した後の家族―父と母と妹の―の25年間の歴史。

 又、兄の話に怒りが納まらないリエはヤン同志に「なんなのよ!自分で言って!オッパに言わせないでよ!」「あなたもあなたの国も大っ嫌い!」ヤンは「あなたが嫌いなあの国で、お兄さんも私も生きているんです。死ぬまで生きるんです」と答えた。

 次の日ソンホは病院で精密検査を受け、夜リエと高校の同窓会に向った。そこで25年振りの青春の仲間たちに再会、特に当時互いに心を寄せ合っていたスニとの再会は、、、2人の思い出の曲「白いブランコ」を小さくつぶやくように歌うソンホの声を皆聞き入った。日本語で歌えない「北」でどうやって覚えていたのか?

 ソンホの検査の結果が出た。「悪性の腫瘍があり、手術にはリスクがあるが不可能ではない。但し,3ヶ月では時間が足りない。腫瘍が大きくなると最悪の場合命に関わる。」という医者の判断。リエは滞在をのばして日本で手術をしてもらおうと考えた。

 そういう時、突然の全員の帰国命令が出た。ヤン同志すら理由を聞く事が許されない上からの命令。ソンホは母にさりげなく言った。「こういうの、ほんと、よくあるんだよね」。状況を理解出来ないオモジとリエ。
 夜、リエを諭すソンホ。
「やっぱり全然意味わかんないよ」とリエ。「あの国では考えずにただ従うだけ」とソンホ。続いてソンホ「俺はな 俺はもうこう生きるしかないんだよ。でもな お前には考えて欲しい。どう生きるか考えて、納得しながら生きろ。好きな所に行って、毎日感動して、わがままに生きればいいんだよ」

 帰る時の別れのシーンが圧巻だ!
 家の前、家族のみんな茫然と見送っている。別れを告げてソンホは車に乗り込もうとする。思わずソンホの腕を掴むリエ。暫くして、腕を離そうとするソンホ。リエ掴んで離さない。ヤン同志が車から降りて行こうと促す。ソンホ、ドアーを閉める。ゆっくりと走り出す車。4歩5歩車と共にソンホの腕を掴んで歩くリエ。やがてリエの手は離れて去ってゆく車。
 
 大きいスーツケースを転がして歩いているリエ。

 家族を引き裂く、国家・組織・思想などの理不尽な過酷さ。それを乗り越えようとする若き感性と行動力!
 未来はその彼方に、、、、




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  1. 2012/08/25(土) 00:08:13|
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『美術の検証』②ーラヴェンナのモザイク画について2010.9.3

『美術の検証』②「ラヴェンナ/モザイク画」  2010. 8/20 9/3 

 現時点での検証点のまとめ

(一 )ラヴェンナ初期キリスト教建築群のモザイク画について
DSC_1720ガッラ廟


① 「ローマ帝国とキリスト教」
* 古代ローマの1・2世紀は、キリスト教弾圧期。ネロ(64年)トライヤヌス(107年)ハドリアヌス(118年)ディオ クリテイアヌス(303年)の各皇帝時代の弾圧が続く。

* 313年、コンスタンティヌス帝のミラノの勅令によってキリスト教を公認し、391年テオドシウス帝はキリスト教 をローマ帝国の国教とした。ローマ帝国の首都は、東西ローマ帝国になって、西がミラノ~ラヴェンナと東がコン スタンティノポリス(今のインスタンプール)であった。
* 476年、西ローマ帝国崩壊後、キリスト教はローマ教会を中心にフランク王国を通じてゲルマン民族に浸透し、西 欧文化の精神的支柱となっていった。
* 4~6世紀にかけて、ラヴェンナで貴重な「初期キリスト教建築群」「ビザンティン美術」が造られた。ビザンテ ィン文化の中心・コンスタンティノポリスの教会が8・9世紀の「偶像破壊」、15世紀のイスラム化という運命を受 けて、ほとんどが破壊されてしまった。その為にラヴェンナのビサンチン美術の貴重性が評価されている。

② 「ガッラ廟」(425年) の天井画の美しさにびっくりした。大理石3つの棺があるだけの小さな廟の天井に、濃 紺の深い青色の満天に、星を思わせる金片を散らし、しかも窓か差しこむ光によって、この世のものとは思えぬ世 界に我々を誘うのだ。
 しかも、この廟を造り、自ら葬られたという伝説をもつ、美しいガッラ・プラキディア(390~450)の波瀾に満ち た生涯が神秘でロマンのイメージをかき立てる。
『旅行』「イタリア旅行」ラヴェンナのガッラ廟


③ 「ガッラの生涯」 ガッラはローマ皇帝テオドシウス1世の皇女。ホノリウス帝(西ローマ帝国)やアルカディウ ス帝(東ローマ帝国)の異母妹。西ゴード族のイタリア侵攻で捕虜・その後継者と結婚。息子が生まれたが病死。 夫が暗殺されたためローマに帰される。兄ホノリウスに強制されローマの有力将軍と政略結婚。娘(後に西ローマ 帝国滅亡の原因となる)息子(後皇帝になる。)が生まれたが将軍は死去。今度は兄ホノリウスに結婚を迫られ東 ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスに逃れた。西ローマ帝国皇帝の血族が皆死に自分の息子が皇帝に。その 摂政として統治者になる。西ローマ帝国終末期(476滅亡)に、美貌の皇女は波瀾に満ちた生涯を送った。(450年 死去)西ローマ帝国の首都ラヴェンナの重要な建造物をガッラが建てた。「彼女がキリスト教を信仰していたこと が、自ら造ったガッラ廟の壁画に描かれた「福音史家」(ライオン=マルコ,牡牛=ルカ、鷲=ヨハネ、天使=マ タイ)「その使徒」「善き羊飼いの図」(キリストの象徴)「聖ラウレンティウス」(258年ローマ皇帝の迫害に殉 教した聖人)らによってわかる。専門家はまだ東方の影響を受けていないローマ絵画の様式であるという。(ビサ ンチンではない)

④ 「モザイク美術について」
 室内装飾のために古代の世界各地で使用された。前2600年頃シュメールのウルク朝や前4世紀のギリシャに散見され る。64年ローマ帝国のネロは「黄金宮ドムスク・アウレア」で豪華なモザイク床を造らせた。4世紀末のキリスト教 会でモザイク画が発展。東西ローマ帝国の首都、コンスタンティノポリスやラヴェンナの寺院。正教会のロシア。 ヴェネツィアのサン・マルコ寺院。
ラヴェンナ②


⑤ 4~6世紀のイタリアの政治状況を見ると 相次ぐ諸民族が侵入し平坦ではなかった。
  ゲルマン民族の移動は4世紀末から始まった。
1、 401年 西ゴート族 バルカン半島西海岸から南イタリアへ。
  (425年   「ガッラ廟」)
2、 452年 アッティラ王のフン族がハンガリーからパドヴァに。 
3、 455年 東ゲルマンのヴァンダル族がローマに。
4、 476年 西ローマ帝国滅亡。東ローマ帝国の官僚としてゲルマン系諸王族はイタリアの統治を行う。
5、 493年 東ゴート族のテオドリクスは東ローマ帝国のゼノン帝に命じられて、ラヴェンナのオドケアルを暗殺。 東ゴート王国を建国。(首都ラヴェンナ)35年間続く。
(6世紀初頭「ヌォーヴォ聖堂」テオドリクスが造る。26面のキリストの生涯のモザイク画。玉座の聖母子に向う、22 人の聖処女の図。3人のマギ。テオドリクスのゴート的なものとローマ的なものと融合。)
6、 554~555年 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝はラヴェンナ討伐。イタリア全土がビサンチンの支配下に置 かれ、総督が派遣される。 

⑥ 「サン・ヴィターレ聖堂」 550年代に大司教マクシミアヌスによって造られた。ビサンチン文化のイタリア支配 の象徴。「ユステニアヌス帝とその廷臣たち」と「テオドラ妃その侍女たち」の2つの大きく立派な壁画である。特 に「テオドラ妃」は、紫の衣を着けて宝石を散りばめた冠と光輪を頂き、左奥の聖堂に聖杯を差し出して立つ皇妃 テオドラの何と高貴で気品に満ちていることか。7人の若い侍女の豪華な衣装、何と美しく艶やかなことか。全体が 奥ゆかしい香気に包まれている。
 美貌の皇后は532年、元老たちの反乱によって夫ユステニアヌス帝が逃げ出そうとした時、「帝衣こそ最高の死装束 よ」と帝をしかり飛ばして東ローマ帝国を救った。しかも、この妃は売春婦・女優上がりで、帝が妃にしょうとし た時皇后になるには考えられない身分。猛烈な反対を押し切って結婚した。西ローマ帝国が滅亡した6世紀、東ロー マ帝国がラヴェンナに総督府を置いてイタリア・地中海の覇権を握ろうとした。

  その後、歴史の舞台から去った古都ラヴェンナ。古代ローマ文化・ビサンチン文化・
  初期キリスト教美術として、又、ルネッサンスへの架け橋として、眠っているのである。
    


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  1. 2012/08/21(火) 23:24:11|
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『美術の検証』① 「ラヴェンナのモザイク画」 2010.11.10

『美術の検証』① <ラヴェンナのモザイク画の修復>  2010.11.10
「ガッラ・プラチディア廟―モザイクの真実」     保存と修復(イタリア文化会館11/20まで、日・休)  
ラヴェンナ②

 展覧会、ワークショップ、シンポジウム(11/8、11/9)

イタリア旅行で立ち寄った「ラヴェンナ」の「ガッラ廟」修復事業の発表の展示が「イタリア文化会館」で行われていた。
ラヴェンナの「ガッラ廟」のモザイク画の研究と修復に6年間携わった、芸大教授工藤晴也チームとラヴェンナ修復専門チームの発表である。わざわざ、ラヴェンナから3名の修復の専門家(いずれも女性)が来日、その中でムスコリーノさんの(国立博物館館長)芸術センスに感嘆!
、5~6世紀のラヴェンナ(当時の西ローマ帝国の首都)にモザイク画の傑作がうまれ、その中での白眉が「ガラ廟」であった。小さな廟の天井画、濃紺の深いコバルトブルーの満天に、星を思わせる金片の、この世のものとは思われない世界に感動した。そのガラ廟の修復を6年にわたって携わっていた芸大チームの研究発表。修復の実際の様子を写真・材料・顔料・モザイクを展示。ワークショップで実際に修復の様子をやっていた。
11/8~9のシンポジウムに参加して感じたこと。
DSC_1754テオドラ妃


① ガラ廟の修復は大きく3回ある。
1、 古代(年代不明) 2 19世紀 3 現代
 オリジナルと修復作品をそれぞれ細かく分析調査。全体を洗う。破損している所を解体して各時代の材質、染料な どを調査・記録する。

② 19世紀のキーベルという人の修復は、自分の解釈による「再制作」ではないか?
 「修復」に関する理念の構築が重要になる。

③ 日本の場合、「金閣寺」「伊勢神宮」のように何年毎に全面新しく制作される。イタリアの場合、部分ごとの修復。修復したことを記録に残す。概念が違う。

④ 工藤教授。芸大で「修復」の講座を持つにあたって、自らラヴェンナの「モザイク修復専門学校」に学んだ、と いう。その縁でこのチームが出来、修復事業が出来た。

⑤ 「修復」はイタリアの輝ける文化遺産を後世に残した。世界中から観光客が見学に集まる。イタリア国家だけではなく、世界の文化に貢献という仕事に携わっている、という「誇り」を修復チームの人々に感じる。

⑤ 修複歴30年?のムスコリーノ国立博物館館長兼修復専門学校長。最後にまとめとして、自身の作った映像と詩を、スクリーンを使って朗読。イタリア語の同時通訳は散文のそれは意味明瞭だったが、詩になるとイメージが上手く伝わらない。(詩の同時通訳は難しい)しかし映像が素晴らしい。画面にして映像をスクリーンに写した。女史の「ガッラ」への、「モザイク」への、オマージュは素晴らしい。ガラ廟のコバルトブルーの満天の星がムスコリーノ女史の映像の世界につながり、我々を目くるめく夢幻の世界に誘ってゆく。希望する者へ配られた小さな絵と詩集のアンソロジーは私の手元にある。初夏のイタリア旅行を思い出した。ラヴェンナの「ガッラ廟」や「サンヴィターレ聖堂」の美貌の王妃テオドラの事に思いをめぐらせた。と同時に修復者であり美術史家でありながら、すぐれた詩人・芸術家であるムスコリーノ女史に敬意を持った。
DSC_1751サン・ヴィターレ聖堂

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  1. 2012/08/21(火) 23:07:34|
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「イタリア旅行」⑤ ローマ2010.6.6~6.8

「イタリア旅行」⑤ ローマ 2010.6.6~6.8

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  (ローマ・コロッセオ)

 ローマに夕方着いた。 このツアーに参加する時、フリータイムの過ごし方を考えた。どこへ行き、何処で食事をとるか。何回かイタリアに来ている者は行きたい所があるだろうし、初めての者はローマに来て「スペイン階段」や「トレヴィの泉」を見ないなんて考えられないだろし、午前に「ボルゲーゼ美術館」に行って午後又「カラヴァッジョ」や「システィーナ礼拝堂」では絵画に疲れてしまうだろう、とそんな事を考えていたが、そういう危惧は添乗員Sさんの「その名所で行かなければならない所は全部行く。」という方針で吹っ飛んでしまった。仕事に対する直向な情熱に驚嘆した。ただ、こちら側が靴ずれを起こし付いて行くに苦労する事になる。
DSC_3622ローマ・サンタンジェロ
    (サンタンジェロ城)

* ローマでのフリータイムの行動                                     6/6(日)ローマに早く着いた。その夕方から、 

DSC_3503フォロ・ロマーノ
(フォロ・ロマーノ)

*「トレヴィの泉」。(ローマを何度目の人は白けている)
*「パンテオン」。(古代ローマの神殿。天井に大きな円形の穴がなぜ空いているのか?太陽の光が直接降り注ぐのは良いとしても雨の日はどうするのか?)
*「ルイージ・フランチェージ教会」(ナヴォーナ広場の近く。「カラヴァッジョ」の3点(「聖マタイの召しだし」が印象に残った。)今回ローマの「カラヴァッジョ特別展」が目玉なのでここへも行った。
*「ナヴォーナ広場 」(ローマの下町の雰囲気があると云われている。) 
 ローマの距離感覚が掴めない。ホテルからスペイン階段までどのくらいの距離か、歩いて行けるのか、交通手段は何がよいか。ヴェネツィアやフィレンツェは歩いて行ける距離だが、ローマは大きい。京都より東京みたいだ。今までの古都はコンパクトで歩ける範囲にあった。ローマの大きさに勝手が違った。緊張感・集中力が抜けてしまった。目の前の古代遺跡に目を奪われてしまった。
 6/7(月) 古代ローマ史をもう少し調べてくるのだった。ローマは歴史が何層も重なっている大都市だからだ。歴史を知っていれば面白さも倍増する。京都のように。今まで美術に目を奪われて歴史・建築・彫刻をなおざりにしてしてきた。ローマは特にそれが外せないことを感じた。

DSC_3654パンテオン
   (パンテオン)
 午前は*「フォロ・ロマーノ」(古代ローマの都。遺跡の大規模の発掘)から「コロッセオ」(古代ローマ時代の競技場跡)「ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会」(ミケランジェロのモーゼ像)まで。途中、一行の1人がはぐれてしまった。フリータイムの行きたい者だけの参加とはいえ、Sさんの行動はすばやかった。その人と携帯で連絡がとれるや否やコロッセオまで迎えに行ったのである。教会で待っていた我々のタクシーを手配し、午後の観光の待ち合わせ場所にひょっこり現れた。まるで孫悟空のようだった。又、残留していた妻ら3人とヴィンコリ教会でばったり出会った。コロッセオまでタクシーで来たが、入場券を買う行列の人が余に多いので諦めて妻が以前来たことのあるヴィ
ンコリ教会のミケランジェロのモーゼ像を見に来たそうだ。
 古代ローマ遺跡の巨大さに改めて感心。石の文化について思いを馳せる。
 パンテオンの円形のクーポラ、頂上の真ん中の丸い穴、穴からの光は時刻表なのか、ラファエロの墓もあり、パン テオンの中でしばし昔を想う。
 DSC_3758スペイン階段
  (スペイン階段) 
6/8(火)帰国日の午前のフリータイム。我々4人はタクシーで「スペイン階段」まで行った。添乗員のSさんは例によって希望者を引っ張っていった。彼女たちとスペイン階段で出会った。スペイン階段は意外に小さく感じた。もっと大きいと思っていた。
スペイン階段の上の*「トリニタ・モンティ教会」(フランス人の教会)に10年前と同じ様に入った。教会の前からローマの町が展望できる。「サン・ピエトロ」が遠くに見えた。

 スペイン階段でツアーの一行が揃った。皆で写真を撮った。
 スペイン広場を下りてくると日本人の売り子が店の宣伝をしていた。ああ、そうだ。10年前その店の背の高い女性店員に近くの手袋屋と眼鏡店を教わった、ことを思い出した。その店のその人は存在していた。20年働いているそうだ。背の高い美人だった。店員は皆日本人だ。ここで少し買い物をした。 
 DSC_3476ローマ・ヴァチカン美術館
  (ヴァチカン美術館)

  (ヴァチカン美術館に10数点の「モランディの絵画」が陳列してあった)
ヴァチカン美術館にあった、「モランディの静物画」
    
6/7(月)午後「カラヴァッジョ特別展」「ヴァチカン観光」
  2001年庭園美術館で行われた「カラヴァッジョ展」は見ている。「光と影の巨匠、バロック絵画の先駆者たち」という副題が付いていた。2000年の「イタリア年」の行事の一環だったのか?今、生誕400年でのローマでの特別展。映画も作られた。僕はまだカラヴァッジョのいい作品を見ていない。ボルゲーゼ美術館の「馬丁の聖母」「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」や他の美術館の「ホロフエルネスの斬首」「エオマの晩餐」「マクダラのマリアの法悦(ほうえつ)」。凄い世界だという事は想像がつく。殺人という無頼の闇に首を突っ込みながら、美というもう一つの魔物にとり憑(つ)かれた男。今回せっかくの機会なのに何故かもうひとつ気が乗らない。彼の全体像を掴むには時間がかかりそうである。                         

DSC_3753ヴァチカン
    (ヴァチカン・サン・ピエトロ広場)

「システィーナ礼拝堂」
  ミケランジェロの「天井画」がうす暗かったのにはがっかりだった!側壁の「ボッティチェッリ」や「ギルランダイオ」もダメだった。前回は午前中に見て、修復が終ったばかりで最高によかったのに、今回は残念だった。
*ローマが舞台の映画 「ローマの休日」が1番。「甘い生活」(フェリーニの他の作品も)

6/8(火)帰国の途に~6/9(水)成田着。 解散。 
 今回のイタリアの旅は、楽しさと同時に体がきつかった。年という事か。靴擦れに悩んだし、帰国後、2・3日はボーとしていた。、後はフォトの整理と旅の記録のまとめに追われました。旅行中、殆どメモもせず、その夜にホテルでまとめる余裕も無かったので、添乗員が出す記録と私自身の記憶を頼りに書いてみました。独断と偏見をもっと大胆に打ち出したかったのですが、見聞録という形式に縛られて、中途半端な物で終わったかも知れません。     6/21 記
 

                       







     
  1. 2012/08/21(火) 10:59:42|
  2. 2010年『イタリア旅行』
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『イタリア旅行』 ④「オルチャ渓谷ーアッシジースベッツローオルビエート」

『イタリア旅行』④ 「オルチャ渓谷―アッシジースペッローオルビェート」
DSC_2937アッシジ.サンフランチェスコ教会
    (アッシジ。サン・フランチェスコ教会)

 *「ミケランジェロ広場」
 いつもはここからのフィレンツェ全体像を見せて入るのだ。右側からサンタ・クロチェ教会、ドゥオーモ、ヴェッキオ宮、アルノ川、ヴェッキオ橋、さらに上流のアーチ型のいくつかの橋。フィレンツェ展望台として格好の場所なのだ。去る時に見せられてもという思いも、、、

*「ピエンツァ」(オルチャ渓谷)
  絵葉書にあるような情景は残念ながら季節的に遅すぎた。春の4月か秋の紅葉の頃が最高だろう。初夏では緑が濃すぎる。これは贅沢な話かもしれない。5月のローマにいることの幸せをいう人もいるくらいなのだから。オルチャ渓谷は丘。なだらかな何ともいえない曲線の丘の起伏。表現することの難しい丘の曲線。高い糸杉の林立。 
 10年前ローマ在住の知人の画家夫妻にトスカーナの小さな村の教会を案内された。ロシアの映画監督タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の撮影現場だった、ロマネスク様式の素朴な教会だった。映画では地下室の蝋燭が何本も灯されるシーンの舞台として使われた。そこはトスカーナの丘が続く小さな村で、その教会の近くには地震で崩れたままの教会があった。村の小さな広場(誰もいなかった)からは独特の曲線を描くトスカーナの丘が見えた。遥か遠くにさっき見た教会や地震で壊れたままの教会などがあった。季節は4月の初めだった。今回オルチャ渓谷にそのイメージを重ねていた。現地での風景や売っている絵葉書を見て、季節が合えば素晴らしい風景に出会えると確信した。その時、断片的に「神々」と出会っていたからである。 
 DSC_2907.jpg
  (サン・フランチェスコ教会へ歩いてゆく「裸足の修道僧」)                   
*「アッシジ」
 バスの車窓から、遠くの山の上に横に長く続く教会が見えた。「あっ、アッシジだ!」見上げると *「サン・フランチェスコ聖堂」は古代ローマの大きな宮殿みたいだった。聖堂への上り道で、裸足の修道僧に出会った。ヴェージュ色のそれとわかる姿で腰に紐を巻いている。裸足にびっくりした。ここも人、人である。聖堂のファサード(正面)は3層で下部はロマネスク、上部はゴシックである。装飾など一切ない。端正な佇まいに感動した。真ん中の大きな薔薇窓が心の中にくっきりと入ってきた。
DSC_2960アッシジ
   (サンタ・キアーラ教会)

  ガイドは日本人の谷口神父であった。50代くらいかな?やさしい口調で解説された。「サン・フランチェスコ」の精神は「清貧」「貞潔」「神への従順」の3つ。ここで「ジョット」の「聖フランシスコの生涯」の28画面を見ることになる。有名な「小鳥への説教」「聖痕」「クララ修道女たちの嘆き」など。パドヴァーのスクロヴェーニ礼拝堂の38場面を我々はすでに見てきた。同じような精神性を感じた。スクロヴェーニ は静寂の中にあり、厳重な管理の下にあるが、アッシジは喧騒の中にある。(世界中から集まる信者・観光客のため) 絵は千年持つのかな? 心配になってきた。フランチェスコの精神だろうか?自由にしてある。もっと保護しなければと感じた。
  谷口神父さんはフランチェスコの精神を体現している様な謙虚な方で、何年ここにいらっしゃるのですかという質問に、「まだ、X年です。私のような新参者で、すいません。」の答えにびっくりした。お別れの時の「いい顔の人になって下さい。」「笑顔のいい人になって下さい。」の言葉が忘れられない。
 サン・フランチェスコ通りを歩いて  *「サンタ・キアーラ教会」に行った。白と薔薇色の石灰岩の、ロマネスク調のこれも又素朴なシンプルな教会。うっとりする様な雰囲気がいい。眼下の緑の平野を眺めていると、ああ、サン・フランチェスコとキアラの聖地に居るのだ、と自分に言い聞かせた。
DSC_3018アッシジ
    (聖地の落日・外に散歩に出て偶然に出合った。)
 夜、8時過ぎに外に出て聖堂の方に上ってゆくと、ちょうど西方の山に太陽が沈んでゆくところだった。「聖地の落日」である。山全体に向かってシャッターを切ったが沈み行く太陽は捉えられなかった。今度は望遠を最大限に広げて太陽を直接撮った。見事に捕まえた。夢中になって撮り続けた。山に沈むまでそれほど時間がかからなかった。聖堂は夕闇に包まれてゆく。眼下の平野にゆっくりと黄昏が漂って、まもなく明かり点灯しだした。この時間は30分もかからなかった。ああ、ここまでよく来たものだ。この風景に出会いたかった。不思議な感動に包まれて胸が一杯になった。聖地にいるのだ、という実感が湧いて来た。信仰にはゆかないけれど、不思議な心の状態―何かに包まれている、そんな感じだ。心が鎮(しず)まってゆく。聖地は夜になった。(今でも不思議な体験だった。聖地というものがあるのだということ。訪れる人々が多く混雑の中にあっても聖地なんだということが。)

6/6(日) アッシジ――スペッロ――オルビエート――ローマ(泊)
*{スペッロ}                            
DSC_3082スペッロの花祭り
   (スペッロという町の花祭り)

  5~6月にイタリアの各地で行われるインフィオラータ(花祭り)。キリスト教の聖体祭に合わせて毎年行われる。スペッロでは旧市街の坂の道をフラワーカーペットで飾る。坂道をぎっしりと千切り花で飾ってゆく。図案は各自が考えたもの。この上を神父が踏んでゆくという。 恐らく、花祭りという民俗的な行事とキリスト教の祭りが結びついたものか?早朝花を飾っている所を見学。

*{オルビエート}

DSC_3241オルビエートのドゥオモ
   (オルビエートの「ドゥオモ」)

  10年前に来たことがある。ケーブルカーで上る大きな山上都市。ローマからフィレンツェへ行く幹線道路上にあるためか、観光地としても発展した。法王の隠れ里。13世紀末、近くのボルセーナという町の教会でミサをあげていたら、パンからキリストの血が滴り聖餐布(せいさんふ・最後の晩餐を記念する礼典の布)を血で染めたことから、オルビエートにいた法王が聖餐布を納めるドゥオーモ建設を命じた。3世紀も建設に掛かったドゥオーモはシェナ派の強い影響下、ゴシック建築の傑作として完成。シエナ大聖堂とよく似ている。ファサードの薔薇窓のすばらしさにため息が出てくる。イタリアの大聖堂や教会の大理石の美しさに躍らなくなった。
 *「聖体祭」
DSC_3355オルビエートの「聖体祭」
 ( オルビエートの「聖体祭」)

 ドゥオーモに収められている聖餐布(せいさんふ)をご開帳し、中世の衣装をまとった人々が行進する「時代祭り」みたいなもの。 *「ドゥオーモ」の前に陣取って行列を見るためにしばらく時間を費やした。女声の聖歌をマイクで流している。いい音楽だ。このままでは時間が勿体無いので、旧市街に行こうと思い、妻と相談した。「ドゥオーモ」に入れないかしら、と妻。右の扉から覗くと咎める者もいなかったので奥の聖歌隊の後ろまで行ってしまった。司教が儀式の真っ最中である。外で聞こえた聖歌は彼女たち6名の合唱だったのだ。スタンダールの小説の主人公になった気分で、ドキドキしながら見て回った。右側は扉が閉まっていて鉄柵から覗くしかなかった。絵画がぼんやり見えた。左側は空いていて人が出入りしていた。「聖遺物」を納める見事な「聖遺物箱」を、前に来た時見た記憶があった。貴金属・七宝で散りばめられた、この世のものと思われぬ宝石箱であった。妻が皆を呼んでこようと外に出て行った。
 ここは白ワイン「オルビエート・クラシコ」が有名だが、すでに3本買ってまだ2本残っており、荷物が一杯でスーツケースに納まりそうも無さそうなので日本に持って帰る自信がなくなりつい買いそびれてしまった。惜しいことした。
   
  1. 2012/08/20(月) 22:44:08|
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『イタリア旅行』③ 「ウフィツィーピサーサンジミニャーノーシエナ」2010.6.3~4

『イタリア旅行』 ③「ウフィツィーピサーサンジミニャーノーシエナ」2010.6.3~4

<DSC_2539フィレンツェ
    (ミケランジェロ広場からのフィレンツェ・ドゥオモ)

6/3(木) フィレンツェ終日観光 (泊)
 今回の旅は天気に恵まれた。晴天を追っかけている様なものだった。今日は雨に捕まったかな、と思ったが一行に晴女か晴男がいるのだろう、途中でやんでしまった。
 ホテルは最先端の現代建築のモダンさはいいが、使い勝手が悪い。フィレンツェ中央駅の脇を通ってサン・マルコ美術館まで歩く。駅周辺は騒々しく、活気があるといえばそうだが、前回と比べて汚く騒々しいフィレンツェの入り方だ。現地ガイドが日本人の女性。かなり優秀なんだろう?イタリアでは観光には公認の現地ガイドを付けなければならない。ガイドという職業を保護したものだろう。最近ガイドの試験が難しく、日本人は簡単に受からないのに合格したのだから。

DSC_1915ヴェッきょ橋
 ( アルノ川に架かるヴェッキオ橋)
       
*「サン・マルコ美術館」
フラ・アンジェリコの美術館だ。ガイドの詳しい説明があったが、階段を上がって目の前の「受胎告知」の前に立った時、眼鏡が曇ってきた。これだけでいい。理屈は虚しい。感動に言葉は虚しい。清楚とか敬虔とかよく言われるが、その通りだ。心の中にしみ通って来た。又、ここは修道院。賢者にして最高の権力者コジモ・メデチがしばしば引きこもった専用房がある。あんな狭い空間にコジモは篭って何を考えたか?いろいろと想像が膨らんできて面白かった。

華麗な鐘楼とドゥオモ
   (ドゥオモとジョットの鐘楼)

ヴェッキオ宮の入口
    (ヴェッキオ宮の入口・ダビデ像
*「ドゥオーモ」(100m)「洗礼堂」「ジョットの鐘楼」(85m)
 雨に濡れたドゥオーモや洗礼堂は寂しさが伝わってくる。「花の聖母寺」と言われているのにね。雨は人の心を感傷的にする。横から見たドゥオーモの大きな赤いクーポラと白磁や緑や薄赤の大理石の壁はやはりすごい。この優美な気品は大理石という素材のよさか?ルネサンスという時代か、イタリア人のセンス・才能の問題か。
 鐘楼かドゥオーモに上るのだ、と必死の決意で来たのに今回も駄目だった。疲れるから無理だ、と止められた。妻も2人の子供(兄や妹)夫婦も此処に来た時上がったのに、ああ、僕だけが。頭が上がらなくなる。古都は一番高い所に上がると眺望がすばらしい。百mのドゥオモは特にだ、と皆云う。
DSC_1901ウフィッツィ
*(「ウッフィツィ美術館」)
 
世界で1番好きな美術館だった。ボッティチェッリ。昔、「春」「ヴィーナスの誕生」の前で、呆然として見惚れていた。どうしたらこんな美しい女性や、優美な空間を描けるのだろう。「受胎告知」を近くにあったダ・ヴィンチのそれと比較して何度も部屋を往復した。ダ・ヴィンチが精緻にして計算され尽して描いているのに対して、彼は夢のように、美の天使が描いた様にやさしく優美に描いているのだ。その思いは今も変わらないが、他にも見たい作品がでてきた。フィリッポ・リッピ、ピエロ・デッ・フランチェスカ、チマブーエ、シモーネ・マルティーニ、ティツィアーノなどの作品だ。ここでフリータイムになったので、もう一度引き返して始めから見た。ウッフィツィは云うまでも無くルネサンス絵画の宝庫だ。説明を受ければ受けるほど、見れば見るほど傑作が一杯ある。
 ウッフィツィの3階の窓からのアルノ川の眺め。風格のあるヴェッキオ橋。上流の橋が何層にも重なったアルノ川の景色はいいものだ。橋の上は高級宝石店の行列だ。ヴェッキオ橋の上をヴァザーリの回廊と呼ばれる2階だての回廊(両側には多くの肖像が掛かっている)が、ウッフィツィ美術館から川向こうのピッティ宮まで続く。メデチ家の当主たちが何度も行き来した事だろう。ヴェッキオ宮殿からウフィッツィ、ヴェッキオ橋を通ってピッティ宮まで続いている。パラティーナ美術館のある、ピッティ宮殿の前の広場は広く、多くの人が地面に腰を降ろして休んでいる。半身裸の人もいる。又、広場の前は1856年創業の文具屋さんとか、100年以上つづく店がたくさん並んでいたが、10年前と比べて店が減っているのはどうしたことか?            
 孫のへのお土産を買いにドゥオーモの方に戻った。「ZARA」でお土産を買う。
 
DSC_1971フィレンツェ・小さなメリーゴーランド
   (小さなメリーゴーランド)

帰りに共和国広場のカフェの椅子に座り込んだ。小さなメリーゴーランドが回転して親が子供を乗せて遊ばせていた。日本の孫たちのことを思い出した。                                  
                                   
6/4(金) ピサ――サン・ジミニャーノ――シエナ――フィレンツェ(泊)
DSC_2103ピサの斜塔
   (ピサ・斜塔とドゥオモ)

{ピサ}
 *「ドゥオーモ」「斜塔」「洗礼堂」
 「奇跡の広場」と言われる「ドゥオーモ広場」は確かに美しい広場だ。緑の芝生を敷き詰めた広い公園に、ドゥオーモ、斜塔、洗礼堂は建っている。一般にロマネスクというと素朴な作風が多いはずだが、このピサ様式のロマネスク建築は本当に優美で豪華だ。「斜塔」は確かに傾いていて登るのは恐わそうだ。崩壊の危険のために上るのは禁止。「ドゥオーモ」の中の説教壇はイタリアンゴシックの傑作。屋根の部分の飾りが凄い。しかし、こんな絢爛豪華な雰囲気は寺院にふさわしい物だったろうか?とだんだん思ってきた。12世紀、ヴェネツィアやジェノバと地中海の覇権を競っていたピサは交易の戦利品を売ってこれらの建築物を建てた、たそうだ。海賊の匂いがする?
DSC_2015ピサ 2
  (ピサ・ドゥオモ)

(ピサの美術について勉強不足)

  * 「オルチャ渓谷」
DSC_7749オルチャ渓谷

*{サン・ジミニャーノ}
DSC_2276サンジミニャーノ
 ( 塔の町・サンジミニャーノ)

アグリツーリズモの昼食。キノコのフィットチーネ、チキンのヴェルナチャソース、サラダ、ヴィサントとカントゥチのデザート。久しぶりに食べた、という感じ。
 アグリツーリズモで昼食
   (アグリツーリズモで昼食)  

 フィレンツェからシエナやコルトーナにかけてトスカーナの丘が続く。草原に糸杉が立つのどかな風景。その中に遠くの山の頂上に幾つもの塔がそそり立つ町が見える。 *山上都市サン・ジミニャーノだ。フレスコ画を勉強しにイタリアに行っていた年下の友人がこの山上都市のすばらしさを言っていた。10年前イタリアに初めて来た時、バスの車窓から遠くの緑青々とした山上都市、春の風景が見えた。遠く山上に緑のかたまりが燦然と輝いている、といった風景に「アッ」と驚き羨望の記憶として残った。それらが合わさって、僕の内部で楽園郷のイメージが出来上がっていた。今は初夏である。緑が濃すぎる。贅沢なことを考えながら城砦で囲まれた城の中に入っていった。煉瓦色や白茶けた石の家が続き中世の街に迷い込んだ錯覚に陥った。公園の中から女性の澄んだ子守唄みたいな声が聞こえてきた。13・4世紀貴族たちが競って塔を建て72本にもなったが、今は14本だけに。塔は富の象徴だという。城砦は敵からの備えとして最強だったろう。後で知ったことだが、フィレンツェとシエナ戦争でシエナの出城として何年も落ちなかったという歴史を持つ。

  * 「シエナ」ー「ドゥオモ」
DSC_2400シエナ.大聖堂
  (シエナの大聖堂・言葉で言い尽くせない華麗さにビックリ)

DSC_2469大聖堂の内部
   (大聖堂の内部)
                              
  ああ、何て優美な教会なんだろう!イタリアンゴシックの傑作。ミラノのドゥオーモよりヴェネツィアのサン・マルコ寺院に似たビサンチンの香りがする。ファザード(建物の正面)が豪華で黒と白の縞模様の大理石の柱が美しい。白と思えばピンクの大理石もあり、上部には3つのキリスト教伝説の絵が描かれており、内部がまた凄い。奥の主宰壇へ向かって白と黒の縞模様の柱が何本も続く。天井の装飾。壁の美しい色彩のフレスコ画。ステンドグラスの窓のあざやさ。象嵌(ぞうがん)を身廊(しんろう・教会の中央の床の部分をいう)へ嵌(は)め込んだ絵模様のこの世ならぬ感覚!(1部のみ公開)見れば見るほど手が込んでいる。こんな美の体験は初めてだ。奥にある8角形の説教壇も見事だ。凄い!これらの製作者に「ベルニーニ」や「ドナテッロ」や「ピサーノ」や「ミケランジェロ」らが関わり合っている。内部にあるピッコローミニ家の図書館の羊皮の大型の本。聖歌の楽譜のページが開かれてあった。ここがあまりに凄いので時間をとり過ぎた。シエナのもう1つの目玉「カンポ広場」を忘れるところだった。
シエナは1日日程をとるべきだ。

 *「カンポ広場」
DSC_2486カンポ

 自然の傾斜を利用した扇型の広場。 *プブリッコ宮・ *マンジャの塔に囲まれている。世界で最も美しいといわれている。シエナと言えばカンポ広場だ、と思ってきた。ここの何処かに1時間くらい坐っている予定だった。座って時間の流れに身を任せ、思いに任せようと思った。旅の心を定めることが大切なのだ。旅人は流浪(日程)に身を任せている。(たった11日に過ぎないとしても。)一点に立ち止まって心の中を見つめる事が大切なのだ。でなければ、ただ、流れてゆくに過ぎず、感動の深化もない。出来ればここに泊まればいい。フィレンツェへ帰るのは時間のムダである。フィレンツェ3連泊に拘(こだわ)ることはないのだ。シエナでの慌しさは後日後悔と羨望の念を残すことになる。

(シエナへの忘れがたい思いは執念みたいに僕の心を貫き、「列伝の旅」で果たすことになる。想像を超えた燦然 と輝くシエナであった!)
  1. 2012/08/20(月) 22:02:42|
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『イタリア旅行』 ② パドヴァーミラノーラヴェンナ2010.6月1日

『イタリア旅行』 パドヴァ――ヴェローナ――ミラノ(泊)6/1(火)   

ヴェネッィアのサンタ・ルチア駅からパドヴァまで列車。昔は皆この駅からヴェネツィアに入ったのだ。映画「旅情」のキャサリン・ヘップバーンを思い出す。この駅から映画は始まる。アメリカのオフィスレディが長年貯めた貯金で憧れのベニスを訪れる物語。ミイハーの心情が良く出ていた。
  & ヴェネツィアが舞台の映画は「旅情」と「ベニスに死す」
{パドヴァ}

DSC_2084 スクロヴェーニ礼拝堂(ジョット)
  (パドヴァ・スクロヴェニー礼拝堂のジョット)

  若者が街中に多くいた。イタリア第2の、パドヴァ大学があるからだ、という。ボローニャ大学を飛び出した連中が大学を作った。(有名な教授にコペルニクス、ガレリオ、ダンテ、ペトラルカ)
 *「エレミターニ修道院」ジョットの絵と素朴なマリア像があった。
DSC_1462パドヴァ②
 (エレミターニ修道院の素朴なマリア像)
 
*「スクロヴェーニ礼拝堂」のジョットは今回のこのツアーの目玉のひとつ。
 これだけのジョットを見たのは初めてだ。(後でアッシジに行くが)「マリアの生涯」と「イエスの生涯」に別れている。「エジプトへの逃避」「カナの饗宴」「ユダの裏切り」「磔刑」「哀悼」有名な作品が保存状態が良い形で残っているのは驚異である。ジョットの絵は深い精神性にある。美術において宗教はそれだけでは精神性を獲得出来ない。画家の深い精神性と表現力によって始めて獲得するのだ。ジョットによって美術史上初めて精神性の深い絵画が登場したとも言える。ジョットは「目」がポイントか。予約制の時間制、これぐらいの管理をしなければ維持が難しい。あとでアッシジに行って解かった。

*{ヴェローナのアリーナ}(古代ローマ時代の競技場の遺跡)ヴェルディの歌劇「アイーダ」の上演の準備しているのか?古代ローマ人の衣装を着た人を見かける。

DSC_1573 ミラノ・ドゥォモ
  (ミラノ・華麗な大聖堂)
  
{ミラノ}
   ミラノはトラム(路面電車)が発達している。孫が喜びそうだ。「サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会・食堂」の *「最後の晩餐」を見る。ダ・ヴィンチの有名な作品。こういう有名な超大作は批評する気になれない。ただ、美術館側のご大層な態度(見せてやる)にカチン、とくる。15分でどうしろ、というんだ!

ミラノ
    (ミラノの旧市街)
                                4
 スカラ座の前を通ったが表面の玄関は何と言うこともない建物。しかし、中を覗きたかった。
*「エマヌエール2世のガレリア」ミラノの歴史的繁華街。ガラスと鉄のドーム型丸天
井があり、その下の床に雄牛のモザイク絵がある。女性が雄牛の局部にかかとを置いて一回転すると幸福が訪れると言われているが、さて、さて、。                                
*「ドゥオーモ」が完全に修復されてその雄姿が現れた。何と言う美しさだ!何と言う優美さだ!ゴシックの最高傑作と言われるが、北方のゴシックが男性的でそそり立つ感じに比べて、これは女性的、やさしく華麗な美しさなのだ。百合の花束というそうだが、美しさに言葉を失う。妻はこの上に登ると、もっとゴシックの素晴らしさがわかると言う。(ミラノ一望。モンテ・ローザはじめアルプスの山々も見えるらしい)修復が終って優美な姿を眺められたことを至上の喜びとしょう!
                                   
6/2(水) ミラノ――ラヴェンナ――フィレンツェ(泊)
ラヴェンナに行く途中、街道沿いの「LE MUSE」の昼食が美味しかった。(生クリームとグリンピースのスパゲティ。にんじんとグリンピースとポテトのソテーのティラミス)味付けがよかった。旅行中一番かな?
DSC_1754テオドラ妃
   (ラヴェンナ・ヌヴォー教会のテオドラ妃)
{ラヴェンナ}
5世紀、ホノリウス帝により西ローマ帝国の首都がここに置かれた。帝の妹ガラの協力によって繁栄の基礎が築かれた。西ローマ帝国滅亡後、6世紀東ローマ帝国の総督府も置かれて中世ヨーロッパに置けるビサンチン文化との融合の地としての重要な地点になる。又、地中海交易の海港として重要な位置を占めた。5世紀から10世紀にかけて、ヴェネツィアが勃興する前までの繁栄。キリスト教も国教となって東ローマ帝国のビサンチン文化が栄えた。
*「クラッセ聖堂」6世紀初期キリスト教の最大の教会。ビサンチン教会建築。

DSC_1683ラヴェンナ・ヌォーヴォ教会のモザイク画
   (ヌォーヴォ教会の3人のマギー)

*「ヌォーヴォ教会」東ゴード王テオドリクスによって6世紀に建てられ、キリスト教に捧げられた。天井、壁に聖  者、聖女の立像のモザイク画がずらりと並んでいる。「3人のマギ」ビサンチン風のマントを着た従者が貢物を差し 出す絵は鮮やかな色彩。

DSC_1720ガッラ廟
  (ラヴェンナ・ガッラ廟のモザイク画)
*「サン・ヴィターレ聖堂」6世紀、8角形の建物。ここのモザイク画はラヴェンナ繁栄に貢献した、東ローマ皇帝ユ スティニアヌスが主人公。彼が「宮廷人を従えた図」とその妃「テオドラ妃と随臣・侍女たちの図」。この2つのモ ザイク画が天井の下の側壁を埋めている。傑作である。素晴らしい。伝説の娼婦上がりの傑女テオドラ妃、反乱軍 によって東ローマ帝国が危うくなった時、逃げ出そうとした皇帝に「帝布こそ最高の死装束よ」と励まして帝国を 救った!左右に若い侍女や廷臣を従えた美しく凛々しいテオドラ妃の肖像!
『旅行』「イタリア旅行」ラヴェンナのガッラ廟
  (ガッラ廟のモザイク画の鮮やかな絵模様)

*「ガラ・プラチディア廟」ラヴェンナ・モザイクの最高傑作。テオドシウス帝の娘で兄ホノリウス帝を助けて、ラ ヴェンナ繁栄に貢献したガラの廟。謎の伝説が異様な雰囲気を作り出す。テオドシウス帝の一族はローマに埋葬さ れたが、なぜ、ここにガラの墓があるのか?うす暗い小さな廟の、3つの大理石の石棺は不気味であった。しかし、 天井、壁のモザイクの何と美しいことか! 濃紺の、深い青色の満天に、星を思わせる金片を散らし、窓から差し 込む柔らかな光によって、この世のものとは思えぬ世界に人々を誘う。東方のビサンチン風のモザイク画が、ここ ラヴェンナの小さな廟の中に、宝石箱の様に埋もれている。いろいろな夢をかき立てる。「ガラ」という伝説の中 の王女はどういう女性だったか?「ガラ」という名前が醸し出すイメージは?又、ラヴェンナだけにこれだけのモ ザイク画の傑作が集中し、かつ残ったのは何故か?
 世紀を超えた謎の廟、内部の何と美しく神秘であったことか!
  1. 2012/08/20(月) 15:49:39|
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』「イタリア旅行」 ① ヴェネッィア 2010.5.30

『イタリア旅行』① ヴェネッィア 2010年5月30日

グランド・カナル
(グランド・カナル)

2010年と2011年と2度にわたってイタリアを旅行した。3・11があったのにも関わらず常軌を逸した行動と思われるかもしれない。10年の旅行の反省で、ツアーはいつも同じ所ばかり行く。これでは本当に見たいものを見ない内に人生終ってしまう。焦った。そこで今本当に見たいものを洗い出した。イタリアではルネサンス絵画であった。ピエロ・フランチェスカ、マザッチョ、シエナ芸術、ぞろぞろ出てきた。調べていると、Y社の「ヴァザリー生誕5百年」の企画を目にした。調べている対象が皆入っていた。驚喜した。そのあと3・11である。迷いに迷った。1ヶ月2ヶ月して現地の様子がつかめてきて、私1人くよくよ思い煩っていてもしょうがないと、決断し思い切って参加した。2度とも帰ってきてから記録をまとめて知り合いにメールで送っていた。今回ブログを覚えたので載せたいと思う。勝手な独断ですが読んで頂きたい。写真はデジカメで千枚以上撮ったが、現時点でブログに載せ方がわからない。
DSC_1218.jpg
    (サン・マルコ寺院のロビーから海辺を見る)
5/30(日) 成田――ローマ――ヴェネツィア (泊)
  午後、成田を立って、(時差7時間)19時ローマ着。21時20分ローマ発、23時10分ヴェネツィア・マルコポーロ空港着。ホテルに着いて部屋に落ち着いた時は翌日になっていた。ホテルはサン・マルコ広場から海に向かって左方、スキアヴォーニ河岸沿いにある「ガブリエリ・サンドワース」。対岸がサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。妻はこの宿は2回目。ヴェネツィアの宿として、僕にとっては最高の場所である。近くに青いカバーを掛けたゴンドラ。その先の運河を走る汽船。遠くにマッジョーレ教会。これは絵になる風景だからである。

 我々夫婦はY社のイタリア・ツアー11日間に参加した。総勢20名。添乗員のSさんが凄い行動力の女性なのだ。挨拶の時「何でもやります。」と宣言したのには驚いた。道中、度々のトラブルを見事な判断力と行動力で、我々の旅を無事に導いてくれた。

5/31(月) ヴェネツィア観光
 3時間程寝て6時起床。昨日も機中でほとんど睡眠が取れていないのに、興奮の坩堝(るつぼ)にいる。カメラを持って1人外に出た。朝のマッジョーレ教会が静かにくっきりと対岸にあった。サン・マルコ広場まで行くと、サルーテ教会の雄姿が目の前にあるではないか! 10年ぶりのイタリア再訪の旅が始まったのだ。人がまるでいないサン・マルコ広場。有名なカフェ・フローリアン(1720年創業)やクアードリ(1638年創業)の前にテーブルが並んでいる。(17世紀にトルコから初めてヨーロッパにコーヒーが入って来た。カフェに多くの文人・芸術家が集まった。バイロン、ディッケンズ、プルーストなど。)サン・マルコ寺院を振り向いて眺める。寺院の左半分が修復のため覆いがかかっていた。右の鐘楼の下が工事のためか大きく鉄柵がかかっていた。期待は裏切られたのか!10年前にサン・マルコを初めて見た時の感動はどこへいったか。この世にこんな美しい建築があっていいものか、と思ったのに。金色のモザイク、幾つものクーポラ(楕円形の大きな屋根)、モスク風の5つのドームと絵画の全景は東方の香り漂うきらびやかなものだ。しかし、これだけ覆いがかかっていると魅力が半減してしまう。
「旅行」 
    (素敵なカップル)

  午前の観光が始まった。
 *「ドゥカーレ宮」13世紀・十字軍の海上輸送の任から発展した共和国時代、総督の住居と政庁・裁判所が置かれた権力の象徴。「大会議場の間」の広さに目を見張る。ベルサイュに次ぐ世界で2番目の大きさとか。各広間にティツィアーノやティントレットやヴェネローゼらヴェネツィア派の絵画の大作が飾られている。襖の屏風絵といった感じ。2008年にクロアチアの、アドリア海のドブロヴニクを旅した時、中世の東地中海の交易を長年ヴェネツィアが独占していた事を知った。ここがその権力の中心だったのだ。    
 *「ため息の橋」は修復中。死刑囚がこの世の見納めに外の世界を見る最期の場所。
DSC_0975ゴンドラ


  昼食は *「リアルト橋」の近くのレストランでイカ墨のリゾットと魚のグリル。美味しかった。イタリアは食事の時、水かワイン等の飲み物を個々に取らなければならない。食事の度にワインを飲むことになる。太ることを心配しなければならない。レストランを出て、リアルト橋に向かう。ここも人、人だ。橋の上はぎっしりだ。中学生ぐらいの集団。観光客は圧倒的に欧米人が多い。アジア系は少数だ。9世紀から発展した、屋根付のアーチのリアルト橋。大理石の豪華な美しい橋である。リアルト橋は若い頃から僕の夢を膨らませて来た。若い時に見た中世の絵本や歴史書に、人や船で溢れかえるリアルト橋や「グランド・カナル」(大運河)の風景があった。10年前初めてここに立った時、その夢を裏切るものではない、と思った。きれいな曲線を描くグランド・カナルにゴンドラや船が浮かび、その両岸に5・6階建てのルネサンスやバロック様式の建物が並ぶ風景。わくわくする情景だ。この、人と船のごちゃごちゃした賑やかさがたまらなく好きだった。世界で此処にしかない風景!何時間でも眺めていたい!

DSC_1263ヴェネッイア本島の玄関

  *「サン・マルコ寺院」に戻った。正面入口のバルコニー(5・6階の高さ)の横からの、小広場とその先の海、もっと遠くのサン・マッジョーレ島の風景。海風が心地よく吹いてきて心の中をさわやかに通り過ぎてゆく。やがて嵐のような風も吹き,波も出て、大きな入道雲も張り出してきて、アドリア海独特の、絵画的な世界になって来た。寺院の高いベランダからの前のサンマルコ広場の風景、横の海からの正面玄関の眺めは最高だ!
 フリータイムだが、添乗員のSさんが対岸のマッジョーレ島へ渡し船で行くと言う。普通ツァーでは対岸には行かない。皆も初めてだ、という。望外の喜び!島に渡って、「マッジョーレ教会」の高い鐘楼から見た、ヴェネツィア本島の風景はすばらしかった。海側から見たドゥカーレ宮やサン・マルコの大鐘楼の姿よ!中世、東方からの交易船はサン・マルコの玄関口に、このような眺めの中、来訪するのだ。夢が膨らんでゆく。ラグーナ(干潟)やヴェネツィア全体が見渡せた。これは格別のサービスだ。

 本島に帰って夕方、今度は *「アカデミア橋」に行こう、と言う。サン・マルコ広場から賑やかな小道を通って途中オペラで有名な「フェニーチェ劇場」の前に出た。何回かの火災に遭いながら不死身のように蘇った「フェニーチェ劇場」。イタリアオペラ史では欠かせられない劇場。一行の誰かが今夜の演奏会に行くらしい。
 アカデミア橋からの *「サルーテ教会」の眺めも僕の好きな風景なのだ。家内が、「ここまで来たなら、サルーテ教会に入りたい。いつも外から見るだけだから。」と、言って引っ張ってゆく。17世紀、ぺストの終焉をマリアに感謝して造られたそうだ。丸く大きなクーポラ、白の大理石がきらめくサルーテ教会は、いつもその雄姿を誇っていた。画家がよくこの風景を描く。グランド・カナルに浮かぶ風景は、アカデミア橋からも遠くのサン・マルコ広場からも眺められた。 
                            
  あと、リアルト橋の先の「魚市場」や「か・ドーロ」も見たかった。「ゲットー」にも行きたかった。2006年にポーランドを旅した時の、「アウシュビッツ」を見た衝撃は今でも忘れられない。ユダヤ人ゲットーなるものがここヴェネツィアから始まった事を知った。前から見たいと思っていたのに、体力の限界と時間の制約でストップ。見たい物がたくさんあるのに残念。夢のような1日が終った。

テーマ:海外旅行記 - ジャンル:旅行

  1. 2012/08/19(日) 21:47:06|
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『美術』「エルミタージェ展」2012.06.28

『美術』「大エルミタージュ美術館展」(国立新美術館~7/16)
エルミタージュ

副題に「西欧絵画の400年」とあるように、西欧の近代美術史を見ている様だ。
美術全集のお勉強だ!-―画集ではなく実物という贅沢な体験ではあるが。
1764年ロシアのエカリテーナ2世が収集した美術品から始まった。革命後政府に引き継がれ、金と権力に物を言わせ世界中から集めたり! 300万点!
300万点の所蔵の内、89点の展示、ネットに乗っている有名な作品30数点からは次の4点。(海外の有名な美術館の来日展覧会はこんなものか?)

ヴァン・ダイク「自画像」モネ「霧のウォータールー橋」セザンヌ「カーテンのある静物」マティス「赤い部屋」

① 16世紀、ルネサンス
 ルネサンスをヴェネツィア派で代表させたのは失望、フィレンツェ・ローマ
 の本流を何故外したか?作品が無いわけではないのに。
 作品の選択に不満が残るものの、それぞれの美術の歴史は概観できる。
 ルネサンスとは「再生」、古代ギリシャ・ローマ文化の復活・再生。今の美術の土台が作られた。題材を宗教から人間に、より人間らしく描く、遠近法の発見。
 * ロレンツォ・ロット「エジプト逃避上の休息と聖ユスティナ」
    ヴェネツィア派らしい鮮やかな色彩の衣装、演劇的な身振り。
* ティントレット「男の肖像」
  しっかりとした描き方。ティツィアーノと並んでヴェネツィア派を代表
* スケドーニ「風景の中のクビド」「聖家族と洗礼者ヨハネ」
17世紀のイタリアではカラヴァッジョという不世出の天才以外に見るべき画家はいない。彼の影響を受けたチャーミングな甘美な画風。

② 17世紀、バロック
 「バロック」とは「歪んだ」という意味で、昔は古典からはみ出した「頽廃芸術」を意味していた。現代では、鋭い明暗の対比、対角線や曲線の構図、
  鮮明な色彩など積極的な評価が与えられている。
  オランダとフランドル(今のベルギー)、「黄金の世紀」といわれている。
* レンブラント「老婦人の肖像」
 今展覧会随一の作品!絵からにじみ出てくる迫力・心に迫るものが違う。
レンブラントの作品には魂を揺さ振るものがある。晩年の作品。自分の
母親を描いたものという伝説があるが不明。安い絵葉書では凄さが出ない。
* ルーベンス「虹のある風景」
 17世紀フランドル絵画を代表するルーベンスの風景は寓意である。画面前中央の羊飼いのカップルや左の笛を持つ男など、古代ローマ時代ののどかな田園詩。中景の橋を中心とした構図から遠景は故郷フランドルの風景を表す。遠景にかかる大きな虹の解釈は多様である。フランドルへの祝福とも、幸福な黄金時代も虚しく潰えるか、という暗示とも。
* ヴァン・ダイク「自画像」
 ロマンティックで優美といわれている。肖像画の宣伝用に描いたか?貴族の客から肖像画の注文を多くとるためにか。ナルシスト!ぷんぷんだが!
 ルーベンスの弟子で英国に行って肖像画で成功した。

③ 18世紀、ロココと新古典派
  イギリス産業革命、フランス革命が起こり、近代の市民社会が形成された。美術においては貴族の「ロココ」続いて「新古典派」が生まれていった。柔らかな曲線とパステル調の色彩、優美さと幸福感に満ちあふれている。それは又、衰退してゆく享楽的な貴族趣味の最後でもあった。少女漫画の「宝塚的世界」
* ブーシェ「クピド(詩の寓意、絵画の寓意)
 貴族趣味の装飾的な夢のような世界を作りあげる。
* レノルズ「ウェヌスの帯を解くクビト」
 英国の肖像画を築いた画壇の大物。この絵のモデルはネルソン提督の愛人として有名。ロココ的なコケテッシュな絵画。
* ユベール・ロベール「古代ローマの公衆浴場跡」
 ポンペイ遺跡発掘などでヨーロッパで起こった古代ギリシャ・ローマ遺跡ブームに乗って、古代都市の廃墟を得意とした画家。春に上野の国立西洋美術館で「ユベール・ロベール展」をやっていた。
* ゲラン「モルフェウスとイリス」
 つるつるな肌、甘いセンチメンタルな情感に満ちた絵を描いた。
* ヴェルネ「死の天使」
 3代続く名門の画家、歴史画、風景画を得意とした。この幻想的な画は娘の死を悲しんで描いたといわれている。傑作!

④ 19世紀、 ロマン派~印象派~ポスト印象派
  フランスが最も発展を遂げる。新古典派が美術の主流を占める一方、ロマン派のドラクロアは個性を発揮した。補色の対比や荒い筆触の描法は後に多大な影響を与えた。
  コローやルソーなどのバルビゾン派の画家は森や田園に赴いて、目に映る自然を描いた。
  当時のサロン(官展)=古典派で正確な絵、に縛られず自由に自作を世に問うたのがモネやルノワールらの印象派。色を混ぜずに明るい色彩で戸外やパリの風景を描いた。点描法によって一層の明るさと輝きをもたらしたスーラやシニャック。
  印象派から離れて独自の道を歩んだセザンヌはマチスやピカソに多大な影響を与えた。
* ドラクロア「馬に鞍をおくアラブ人」
 北アフリカの覇権を目指す使節団に随行して描いた。オリエンタルな主題
 と大胆で艶やかな色彩が特徴。
* ジェローム「仮面舞踏会後の決闘」
 歴史画やオリエントに題材をとったものを得意とした。「物語絵画」という。決闘が流行っていた。勝者は去って行き、仲間に囲まれて敗者のピエロは死んでいる。敗者はピエロでなくてはならない。「悲しいピエロ」という言葉があった、そうだ。面白い絵である。
* モネ「霧のウォータールー橋」
 ロンドンシリーズは50点ほどある。霧のもたらす光の効果。
* セザンヌ「カーテンのある静物」
 春の「セザンヌ展」でたっぷり味わったが、セザンヌは対象のりんごやオレンジの美味しそうで美しい果物をどうやって表現するかを考えた。そこから色や形で構成していった。従来の描法の無視あるいは破壊――マチスのフォービスムやピカソのキュービスムが生まれてゆく。現代絵画の父という捉え方をここでも積極的に打ち出していた。

⑤ 20世紀 マティスとその周辺 アヴァンギャルト
 20世紀美術の最高峰ピカソとマティスが主題。その後抽象芸術に。
* マティス「赤い部屋(赤のハーモニー)」
 今展覧会の看板となった作品。ロシアの大コレクター<シーチュキン>の旧蔵。初めは「青」だったがロシアに送る前に、一夜にして「赤」に塗り替えたという。遠近を無視、距離感がない、平面図法、セザンヌを下敷きにした。赤の色彩感がいい。

** エルミタージユ美術館が所蔵する有名な作品。これらを見るには現地に行くしかない。しかし、どの位展示しているか分からない。

1 * ダ・ヴィンチ「聖母ブノワ」「リッタの聖母」* ラファエロ「聖家族」
  「コネスタビレの聖母」 * ジョルジョーネ「ユデット」 * ティツィアーノ「ダナエ」「懺悔するマクダラのマリア」* カラヴァッジォ「リユートを弾く若者」)
2 * エル・グレコ「使徒ペテロとパウロ」* ベラスケス「昼食」
* ゴヤ 「アントニア・サラテの肖像」
3 * ルーベンス「大地と水の結合」「ペルセルスとアンドロメダ」* ヴァン・ダイク「自画像」* レンブラント「フローアに扮したサスキア」「ダナエ」
  「放蕩息子の帰還」
4 * ルノワール「ジャンヌサマリーの肖像」「帽子を持つ女」「小さな鞭を持った少年」* セザンヌ「ピアノを弾く少女」「煙草を吸う男」「カーテンのある静物」* モネ「庭の女」「ジヴェルーニの干草」「ウォータールー橋」
* ゴッホ「アルルの女たち」「ライラックの木」「夜の白い家」
* ゴーギャン「果実を持つ女」* ルソー「虎のいる熱帯の嵐」


  1. 2012/08/19(日) 14:27:50|
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『美術』 「松本俊介展」2012.07.05

DSC_1271葉山.・松本竣介

DSC_1242葉山分館


生誕100年「松本竣介展」 (神奈川県立近代美術館葉山・~7/22
(生誕百年・「展覧会」を以下の日程で行う。4月の岩手県立美、6月の神奈川の葉山(6/9~7/22)、宮城、島根と回って、世田谷美術館で11/23~1/23。)
7/5来訪
松本竣介の描く都市の風景は少年時代から好きだった。彼が描く昭和10年代東京のモダンな風景は、透明感とみずみずしい叙情が漂う夢幻の世界だった。喧騒の大都会の塵芥を逃れて、鎌倉の美術館(神奈川県立近代美術館)へよく出かけたものだ。そこで見る絵画は僕らを包んでくれる詩情があった。昭和58年(死後10年)松本竣介を公立美術館として始めて展覧会を開催した。寄贈による所蔵も多い。土方定一(館長)始めスタッフが優秀だった。
松本竣介展

「松本竣介」(1912~1948。本名、佐藤俊介)東京に生まれる。父親の仕事の関係で少年時代を花巻や盛岡で過ごす。大正14年盛岡中学に入学した年に病気の為聴力を失う。兄から贈られた油絵具一式を契機に画家を目指すようになる。昭和4年盛岡中学(3年修了)を退学して上京、太平洋画会で絵を学んだ。
 昭和初期東京で新しい芸術の波を浴びる。セザンヌ・モディリアーニ・エコル・ド・パリの画家たちの影響を受ける。太平洋画会の友人たちとの交友や読書などから絵画だけでなく知的な面でも飛躍的に広がる。(文学、哲学、思想、社会、科学)後の雑誌「雑記帳」の発刊につながる。

作品
*「建物」(昭和10年、23歳、二科初入選。)「有楽町駅付近」(昭和11年)
  画面全体に建物(家、ビル、店舗)が密集している都市の風景。少々幼稚っぽいが、簡略化された太い線で建物の量感と重なり合うビルの構図の面白さを表そうとした。「有楽町付近」は建物の前に2本の線路、線路の水平直線と遠景の柱や煙突の垂直線との対比が面白い。オレンジ色の画面は温かなムードで童画的なヒューマンな感じを受ける。
昭和11年=人生の転機(二科入選、結婚、新宿の下落合に住む。雑誌「雑記帳」発刊)第2次大戦に向って状況は悪化してゆくが、竣介自身の人生としては一大転機であった。東京の山の手の大学教授の娘松本禎子と恋に陥り結婚して、松本の姓を名乗るようになる。郁子は自立した女性を志向し、独立した人間関係を目指した。夫婦で総合雑誌の発行を計画し「雑記帳」を昭和11年から12年まで14冊出す。随筆、絵を中心とした雑誌で当時の気鋭の学者、作家、画家などの寄稿を受ける。竣介は随筆で時局の批判をする。また、当時アメリカ帰りの「野田英夫」のモダンな都会風な絵の影響を受ける。
* 「郊外」(昭和12年)
モダンなヨーロッパの城館みたいな白い建物の前に広がる野原では、子どもたちが犬と戯れている。遠景に白い家が点在する小高い丘がある。全体を濃い緑色で包んだメルヘンチックな作品。絵画が花鳥風月を描くものではなく
身近な都会の風景を描く作風に、より親近感を感じた。
* 「街」(昭和13年)
  この当時の竣介の絵は緑色や青色を画面全部に塗りたくって、薄いところに建物や人物をぎっしりと描く方法である。鮮やかな青や緑のグラデーションは見る者の心を鷲掴みにしてしまう。密集している俯瞰的な建物群が幾つも描かれ、前景にハイカラなドレスを着た女性が立つ(無国籍の女と当時言われた)。心惹かれる夢幻的な都会風景は何十点となく描かれた。
 昭和14年「都会」、「序説」15年「黒い花」青と赤の2点「都会」「街にて」
* 昭和15年頃までの都市の風景画30数点は、建物と人と樹と街頭と自転車などすべて都市の風物を、それぞれイメージを合成して寓意的な夢幻のメルヘンとして描き出した。都市の風物詩を描くセンスは、東京に住む僕らが求めていたものだった。竣介描く都市の風景は僕の心を夢中にした。
* 竣介の友人たち= 池袋モンパルナスの画家たち、難波田龍起、船越保武、麻生三郎、鶴岡政男、

* 昭和15年「顔」、16年「画家の像」で画風が変わる。
「顔」(自画像)と「画家の像」の2点は「二科」に一緒に出された。
戦争に駆り立てられてゆく時代にあって、ひとりの人間として、家庭の中での夫や親として、20世紀に生きる人間として、画家として、そこにルネサンス以降の西洋絵画の構図や描法を重ねて、次の意味を深く問った。
「何を描くべきか?」「いかに生きるべきか?」
過酷な戦時体制が絵を描く意味を迫ったとも言える。軍部は「戦意昂揚」の絵を要求する。竣介が出した答えは古典的リアリズムによる、自己自身への沈潜であり探求であった。確固とした自画像や風景画であった。
* 大作「画家の像」(昭和16年)は、遠景の家々やビルや街路の俯瞰的な風景に、脅えている妻と子。その脇に慄然と立つ画家の像である。家族の不安を受け止めて守ろうとする画家の意志である。セピア色の画像である。それまでの竣介の画面には無かった男の遠くを見つめる目、画家の顔と肩回りに当たる夕日の光の輝きをどう読むかである。
* 昭和16年に竣介は雑誌に「生きている画家」という一文を発表している。戦争の宣伝・国策に沿う芸術を鼓舞する当時の論調に対する反論であった。状況に対する危機感と不安を抱きながらの切迫した発言であった。偏執な国粋主義に対してヒューマニズムの立場に立ち、自己を純化させ芸術として質の高い作品の創造しかない、と。「画家の像」は以上の切迫した情況の中での創造であった。
* 戦後反戦の画家として持ち上げられた。が、戦意昂揚のポスターも描いている。総力戦の戦時下にあって芸術家は、沈黙か戦争に加担するか獄中か、の何れかだった。(これは国民一般についても言えること)「戦争責任論」の領域であるが問題は単純ではない。竣介にも特高の尾行が付くようになった。体制に迎合しなければ絵具や絵道具は支給されない、絵も描けない、生活できない状況。そして、竣介には本質的にファシズムを否定する認識はなかった。厭戦と体制協力の両義性を帯びた態度に終始した。ただ、西洋文化の自由主義とヒューマンな個人主義を守ろうとした。西洋の絵画の方法論を日本に定着させようとした。
* 41年「ニコライ堂」3点。「街角(横浜)」「横浜風景」「白い建物」「橋(東京駅裏)42年「議事堂のある風景」「駅」「Y市の橋」43年「鉄橋付近」「運河風景」「Y市の橋」 
画家は自己の内部に沈潜し、現実の風景に密着し、描くことで自己の内的風景投影させてゆく。現実の風景の本質を見ようとスケッチブックを手に歩き回り、そこから得たモーチフを基に東京の街々を描いた。ニコライ堂のビザンティン様式教会のエギゾチズムと構築的な面白さ、御茶ノ水、聖橋、東京駅裏、議事堂、横浜へと竣介の足は昭和14~18年の東京を巡った。かつてのメルヘンチックな詩情性はなくなり、無機質な透明度の高い作品が続く。
* 「立てる像」(42年)
その頂点として自画像、人物像の大作が描かれた。「立てる像」戦後高校の国語の教科書の扉絵に使われたほど有名になった。「画家の像」の延長にある。画家は広い石ころだらけの道路に毅然と踏みしめて立ち、遠方を見つめている。道路の左右に裏さびた家々が並んでいる。あの詩情溢れた風景ではなく現実の汚い裏わびた風景である。それに毅然と立ち向かう画家の意志を表わしている。と同時に、都会の一隅の静まり返った風景の中にただⅠ人立つ画家の姿にたまらぬ孤独さを感じてしまうのである。僕らは戦後これらの絵から内面化されたヒューマニズムを感じた。僕らの目指すべき芸術の方向性だと思った。
* 「三人」「五人」(43年、昭和18年)
「五人」は画家自身の家族の生活に取材した「構想画」と言うのだそうだ。画面はセピア色で全体を塗り、5人の群像が前景に描かれ、背景に俯瞰的な風景が広がっている。これらの作品がイタリアのピエロ・デッラ・フランチェスカの影響の下に描かれたそうだ。(当時ピエロが日本に入ってきた?)
某解説に「動きの抑制された人物の彫像のように量感のある表現、下草や樹木の様式化された表現、晴朗で統一的な空間構成は」竣介がピエロから学びとったものだ、とある。

* 戦後の48年(昭和23年)死ぬまで
 女や子どもなど多くの人物画を多く描いている。子どもの絵が良い。あの表情はちょっと無い。だが戦後の絵の色調がダークでセピア色のものが多いのはどうしてか?あの昭和10年代の鮮やかな青や緑のグラデーション、寓意的な都市の夢幻のメルヘンはここには無かった。ただ、それまでの均質な細い線は消え、勢いのある太い線にとって変わられ荒いタッチに変わっていった。
 戦後の竣介は総合雑誌の刊行の計画をたてたり、新しい美術家の組織を作ろうとしたり多忙を極めた。「人」「顔」「パイプ」「裸婦」(47年)などキュビスム的な手法を模索し抽象画など新たな展開を予想させた。
* 「彫刻と女」「建物」(青と茶の2作) 共に48年5月。絶筆。
戦時中からの物資の窮乏と生活を支える為の多忙を極め、心身ともに消耗しきった。持病の喘息に加え、肺結核が進行し高熱を押しての制作であった。
「彫刻と女」友人の船越保武(盛岡中学の同期)について彫刻を習いたいと言っていたのに、「彫刻を眺める女」が絶筆の1つになった。絶筆の「建物」は竣介の死を迎えるための「聖堂」だと言った人がいた。

友人の船越の言葉
「その前に私はじっと立った。胸にこみ上げるものがあった。竣介の澄んだ特徴のある声が、画面の中のあの扉の向うから聞こえて来る思いであった。この絵には、私にとって特別な何かがある。現世への竣介の別れの言葉である」

昭和23年6月8日、気管支喘息による心像衰弱で自宅にて病死、享年36歳。

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『美術』 「セザンヌ展」 2012.05.09

『美術』「セザンヌ展」2012.05.09


セザンヌ
「セザンヌ -パリとプロヴァンス 」(国立新美術館3/28~6/11)
 
* いろいろと都合があって、見たのが5月の連休後になった。会場は適当な込み具合である。何処かで見たような既視感=デジャヴに囚われた。いやセザンヌが本家本元で、他者が真似たのだ。又、ここから近代絵画が発展したのだ、と思い直した。しかし、90点もの作品を年代的と風景画などジャンル別に並べた展覧会は私にとって初めてではないか。実物は僅かな日本の美術館と、欧米の美術館の来日展とで計10点ぐらい、後は画集で見たのが殆どである。実物を90点も見ることが出来るなんて貴重な経験ではないか。
この2012年の展覧会はセザンヌの代表作が並べられているわけでは無い。だが、何点かの代表作と、各時代とジャンル別の優れた作品が揃えている。面白い事にセザンヌにとって、傑作と駄作が明確に分かれていないのだ。作品の中には空白の部分があるのがある。(未完成?)「他の色を塗ると全面的に塗り直さねばならない」、とセザンヌ自身が言っている様に、完成と未完成、傑作と駄作の区分けが難しい。
会場での2時間半は近代絵画の教室になった。会場を行ったり来たりへとへとになった。構成を自分なりに分析して面白かった。有名な話や先人の研究にあやかるのも気が引けるが、自分の整理のために記録しておく。セザンヌは構図・造形力の凄さと色彩のハーモーニーの天才である。

* <風景> 
「サンタンリ村から見たマルセイユ湾」(1877~79吉野石膏kk-山形美術館に寄託)
  マルセイユ湾の風景は幾つも描いている。地中海のギラギラと輝く太陽が降り注ぐ
鮮明な景色。前景のゴツゴツした岩、(紺碧の海も前景に入れるべきか?)中景が青
くうねる海と山の麓の町並み、果てしなく広がる大空の遠景。山や家や畑の黄・白
と、海と大空のブルーが基調となって全体を包んでいる。青く白くうねうねと波
打つ海は少年時の私の心を打ち、地中海やアドリア海への憧れを抱かせた。
(ここの絵葉書は粗製で残念)
「サント=ヴィクトワール山」(1886~87フィリップス・コレクション)
  前景の上部に、緑の松の枝がたなびき、それがまるで門のように中景の広大な田園を誘っているかのようだ。遠景の大空と山の稜線のバランスが良く、しかも、松の枝と山の稜線の両曲線と、中景の鉄橋の長い水平線とのバランスがいい。青色の山と黄色系の家や畑を点在させ、全体をグリーンの基調で覆った画面である。

 * <肖像>
「赤いひじ掛け椅子のセザンヌ夫人」(1377 ボストン美術館)
  前景のセザンヌ夫人の青と緑の縦縞模様の大きなスカート、中景の鮮やかな赤の大
きな椅子、遠景の模様の入った黄緑色の壁紙と、配置が巧いなぁーと思う。美術館の帰りに電車に乗ると目の前にセザンヌ夫人が座っているではないか!この絵のイメージ通りの婦人である。こちらの目がおかしくなったか? 錯覚した私の目と関係なく、セザンヌは肖像画で作品が対象に似ているかどうかは関係なかった。(ピカソに肖像を注文した某夫人が余りに似ていないので受け取らなかった。ピカソは「老齢になるとああなります」と答えたという!)あくまでの形態・造形の探究であった。左上の窓は緑色で塗りつぶしている。窓という実態を描いたわけではないのである。(実態の窓なら映った外の景色等を描く)従って、電車の中のセザンヌ夫人はたまたま絵の中の「像」に似ていただけの事で、セザンヌの肖像画とは何らの関係が無い事になる。
    まず目に飛び込んで来る、夫人の緑の縞模様のスカート、青いジャケット、真っ
赤な椅子、模様のある壁紙の黄色と、色彩の見事なオーケストラ。

* <静物>
「りんごとオレンジ」(1899オルセー美術館)添付 2
背景となる存在感のある2枚の絨毯、赤や緑の深く重厚な色合い。その上に真っ白
い大きな布が画面前面に踊るように繰り広げられ、りんごやオレンジの塊りが4ヵ
所にある。(Ⅰ塊り5個ぐらい)豪華に大輪の花のように見事な多視点(2つ以上
の視点を1つの画面に描くこと)の作品で有名である。
セザンヌは対象の果物の本質に肉迫しょうとした。おいしそうで美しい果物の雰囲気・果物の奥深いところにあるものを如何に表すか。写実を離れ従来の遠近法等の手法を捨てて、明晰で重厚なりんごの赤とオレンジの橙色を如何にして画面に描くか。その存在感と生命力を表現できるか!見事な近代絵画の傑作の誕生である。
画面をよく見るとテーブルらしき物は無い。重厚な柄の絨毯の上に白い布を無造に
広げてりんご・オレンジを散りばめている。物理的には白い布はずり落ち、りんご
は崩れるだろうが、考え抜かれた堅固な画面構成である!
   
* ポール・セザンヌ(1839~1906)南仏のエクス=アン=プロバンス生まれ。
1861年初めてパリにきたセザンヌはサロン(官展)の入選をめざすがことごとく落選。初期の作品はドラクロアやクルーベの影響下、厚塗りの暗い絵が多かった。彼が「セザンヌの色彩」を獲得するにはピサロなどの「印象派」の影響があった。それも通過点で、印象派の「一瞬の光を追う」では満足せず、対象物を多視点から見たり、自然界の万物の形は「自然は、円球、円錐、円筒で出来ている。」の有名な話の通りの認識で造形性で、ピカソのキュビスムやマティスのフォビズムがここから出てきたのはご存知の通り。

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  1. 2012/08/19(日) 14:13:49|
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『映画』「トガに―幼き瞳の告発」2012.08.19

「トガ二 -―幼き瞳の告発」(原作コン・ジョン。監督ファン・ドンヒョク
       出演コン・ユ。チョン・ユミ。8/4~
IMG_0001トガニ

 2005年に韓国光州の聴覚障害者学校で実際に起きた性的暴行・児童虐待事件を映画化したものだという。社会派作家孔枝泳(コン・ジョン)が現地に取材して小説にした。発表当初から反響が大きく、事件発覚後教職に復帰している加害者に怒りが向けられた。執筆のきっかけになったのが、裁判の判決の軽さに傍聴していた障害者たちの「異様に発する抗議」であった。聴覚障害者はご存知のごとく声が出ない、「異様に発する抗議」に込められた怒りと抗議は強烈なイメージをかきたてる。
 韓流スターのコン・ユがこの小説を読んで映画化を考え、彼の主演の映画「トガニ」は460万人の韓国の人が見た。一大センセーションを巻き起こし、政府を動かし「トガニ法」(性的暴力への時効が無い等の厳罰化)をつくり、捜査のやり直しと加害者の実刑、当該学校の閉鎖などまでに発展した。日本では考えられない韓国における映画の力の凄さにびっくりする。

 「ムジン」という濃霧の立ち込める地方(架空の地)の田舎の聴覚障害学校に、美術の教師として赴任してきたイノ(コン・ユ)は学校の異様な雰囲気に不信を抱く。学校での生徒たちが変だし、顔に痣や傷をつけた子どもも居るし、女子トイレで異様な叫び声が聞こえたり、職員室で生活指導の先生が子どもを殴ったり蹴ったり、果ては放課後、寮長が女の子を洗濯機に顔を突っ込んでいるのを目撃して止めると、寮長は「しつけ」だと言う。彼が見たものは、田舎の障害者の学校という密室空間の「トガ二」(坩堝・るつぼ・煮えたぎること)で繰り広げられる地獄絵であった。そんな中で暴力から保護した女子生徒がイノの手の平にメッセージを書いて助けを求めてきた。学校幹部による、生徒への恐るべき「性的虐待」「暴行」が常態化していることだった。
 イノは人権センターのユジン(チョン・ユミ)の元に生徒を連れて行き、問題の告発をするが、警察、教育委員会、市役所に相手にされない。校長が地元の名士でキリスト教徒の信徒代表であるからだ。そこでマスコミに訴えることになる。

 映画は前半、学校での教師の生徒に対する暴行暴力と性暴力のシーンが続き、その猟奇的さえも疑える場面に圧倒されて、体が硬直してしまった。ほっとして考えるゆとりが出てきたのは、それまで茫然と見ていた主人公が怒りをぶつけ出し、行動に立ち上がったあたりからだった。 
 後半は法廷闘争のシーンになってゆくが、被害の生徒たちの手話による証言が良かった。見ていて何度か震えた。
加害者の校長側は地域の名門一族で、司法、教育、財閥、医療、地域の支配層をがっちり握っている。金による保護者への示談(買収)によって証言する生徒たちも切りくずされてゆく。主人公のイノ自身も病弱の娘を抱え、早く都会の学校の教師になりたい。この学校を紹介した恩師を使っての誘惑もあったが、「娘の前で父親として恥ずかしくないようにしたい」と言ってがんばる。しかし、告発側の弁護士も最後には敵側に買収されて裁判で負ける。

 韓国ドラマ特有の、観客の魂をわしずかみにしてしまうシーンがいくつかあった。孤児の兄弟が生活指導の教師から揃って性的暴行を受ける。弟は放心して鉄道に飛び込んで死んでしまう。兄は同じ線路の上で教師に体当たりにナイフを腹に突き刺し、電車が来るとさらに足に刺し、道連れに共に死んでしまう、という壮絶な復讐シーン。

 おぞましい性暴行や暴力シーンの中にあって、被害を受ける生徒たちの凄いこと!皆子役であろうが、日本のふやけた子役と違って、本当に被害を受けた生徒たちか、と錯覚してしまうほど真に迫っていた。

 生徒を囲んで聴覚障害者たちが裁判所の前で座り込みをしている。警察が囲んで排除しょうと、スピカーでがなり立てている。裁判の軽い判決に聴覚障害者が「異様に発する抗議」をした法廷シーンを、原作者は執筆の動機だった、と語った。ここでも警察のがなりたてる声と聞こえない聴覚障害者とのミスマッチが面白い。警告を発してマイクを取っているのが校長と癒着していた警察の幹部である。聞こえないのに気づいてふて腐れた態度をする。
裁判の時の加害者側の弁護士(司法のボス)が乗る高級車に障害者たちが卵や汚物を投げつける。警察は放水車で排除する。その中に鉄道で復讐した兄の遺影を持ったイノの姿があった。初め遺影を持ってがんばっていたが、放水によって吹き飛ばされイノは警察に組み伏せられ、遺影はめちゃめちゃに壊されてしまう。

大津市の「いじめ」事件の時の教育委員会の態度に「隠蔽体質」が歴然とあった。マスコミや報道によって、世論の批判に警察が動いたこともあって(自殺した被害者の事故届けを警察が3度も受け取らなかったことも問題)やっと「自殺にいじめが関係している」と認めた。この隠蔽体質は日本の社会の奥底に深く在り、「トガニ」の問題が無関係とは言えないのである。
  1. 2012/08/19(日) 13:35:15|
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『映画』 「ジョルダーニ家の人々」

「ジョルダーニ家の人々」(伊映画。監督J・M・タヴァレッリ。脚本S・ 
ぺトラリア/ S・ルッリ 岩波ホール9/14まで
  長男アンドレア(K・サンタマリア)長女ノラ(P・コルテッレージ)
  次男ニーノ(R・バルドゥッチ)父ピエトロ(E ・ファンタスティキーニ
  母アニタ(D・ジョルダーノ)イラク難民シャーバ(F・ラウアッジ)
ジョルダーニ家の人々

* 休憩3回を含む6時間半に及ぶ長編映画。観客層は圧倒的に中・高年の女性が9割で超満員。多くがイタリア旅行経験者らしい。(周りから旅行の話しがいくつか飛び込んできた。)僕も何度かイタリアを旅したが、映画は旅行者の目に映るローマではなく、EUの中で悶え経済的困難さを抱えた現在のイタリア。又、アフリカ・中東からの難民がなだれ込んで来る地理的位置にある状況。
イタリアは「家族」という単位が社会に核になっていると外国人の目からは思うのだが、ある家族の崩壊と再生の物語がこの作品の主題である。

* ローマに住む中産知識層のジョルダーニ家、一家六人各自の個室がある「邸宅」に住む。父ピエトロは高級技術者で、母アニタは元医者で3人目を妊娠した際に仕事を辞めて専業主婦になった。長女ノラは心理カンセラーとして自立し結婚して初めての子どもを妊娠中だ。長男アンドレアは外務省に勤め、世界各地を飛び回って家を留守にする。次男ニーノは大学で建築を学び、最優秀の成績、卒業間近である。三男ロレンツォは高校に通い、一家の愛を一身に集め、同級生のガールフレンドに夢中だ。一家の幸せな日常から映画は始まる。

* その日、突然の交通事故で3男のロレンツォが亡くなった。一家のほころびが始まる。母は精神的に不安定になり、ガス自殺未遂を起こし、ここを離れたい、と、自ら遠隔地の療養所に入る。書店を経営している女性と不倫していた父は、イラクのプラント建設に参加するといってこの家から逃げ出す。父の不倫を知っていた次男に非難されたことも理由の1つかも知れない。正義感が強く鬱積した心を抱える次男は、家を出て安いアパートに住み、大学を最優秀で卒業するが、エリートコースには進まず現場労働者になる。教授に言われて「コンペ」に作品は提出した。長女は無事に男子を出産する。長男のアンドレアは相変わらず国内外の各地を飛び回り、現在シチリアに出張中。姉の患者であるフランス人の銀行員ミシェルと知り合い、互いに惹かれ合い交際を始める。2人は同性愛者である。ホモセクシャルであることを「カミングアウト」したわけだ。「邸宅」はたちまち空き家になった。ジョルダーニ家の崩壊である。

* 兄アンドレアのシチリア駐在は、アフリカ・中東等からの不法移民取締りが任務だった。弟のニーノはシチリアに兄を訪ねた時、シャーバというイラクからの不法移民(クルド難民らしい?)の女性を結果的に助ける形でローマの「邸宅」に匿うことになってしまう。シャーバは数年前ヨーロッパに向かって消息を絶った娘アリナ(レイラ・べクチ)を探しに来た。看護師の資格があるが、「滞在許可証」がない為イタリアでは働けない。無ければ不法難民として国外追放になってしまう。兄の勧めで外務省に「イラク難民」の申請を出す事になった。結果的にイラク難民のシャーバが「邸宅」の唯一の住民となった。
(イラク難民シャーバの存在が一家にとって「鍵」となっていく)

* 姉のノラは物質に恵まれた結婚生活に心の空白を感じていた。アフガニスタンの戦場で地雷によって婚約者の記憶さえ失ったブラージ大尉のカンセラーを行う過程で、生きる意味や幸福について考えるようになり、次第に彼に惹かれるようになっていった。

* ミシェルと同居し始めた兄のアンドレアは、彼に子どもがいたことにショックを受け、家を出てしまう。ミシェルは主治医であるノラに、相手の女性とは一度限りの関係で出来た子どもである。彼女は薬物中毒で子どもを育てる事が出来ず自分に預けに来たことを話す。
又、自分が癌で余命幾ばくも無い事をアンドレアに話していなかった。

* 次男のニーノは卒業制作及びコンペのことで教授の家に呼ばれている内に、教授の美しい妻フランチェスカに惹かれ、2人は関係を結ぶようになる。

* 兄のアンドレアは刑事のカタルド(フランチェスコ・シャンナ)からシャ
ーバの娘アリナがマフィアのクラブで娼婦をしている情報を得るが、母シャーバには黙っている事にした。カタルドはアリナの店で行われている武器や麻薬の取引の摘発をしたい。「滞在許可証」を代償にアリナに協力を持ちかける。アリナは報復を恐れて拒否するが、同室のイェレナが「こんな生活を終りにしたい」と受け入れる。が、露見して組織に殺害されてしまう。カタルドはアリナを保護し隠れ家に匿う。アリナはイェレナの不法難民として闇の世界で生き死んでゆく運命が、一人で孤独に死んでゆくのが、耐えられない。(自分を重ねて)悲しみにくれる。代わりにアンドレアがモンテネグロまで付き添う。

* 映画には2つの葬式シーンがある。
 ひとつは、3男ロレンツォのローマのカトリック教会での葬儀。
 もうひとつは、イェレナの故郷モンテネグロの村の正教会での葬儀。山の寒村の正教会。悲しみにくれて墓を取巻くイェレナの家族や村人。正教会の神父の祷りの詞と村人たちによる聖歌。現地語の荘厳で悲しみに満ちた聖歌だ。ここまで付き添って来たアンドレアが、携帯でローマのアリナにその実況を伝える。「彼女は1人ではない。家族に囲まれてここにいる。」と。アリナは深く感動して警察に協力する決心をする。
 アンドレアはその夜ミシェルに和解のメールを送る。

* アンドレアはミシェルと彼の娘リラと「邸宅」に帰り、シャーバと暮らし始める。皆の応援にも拘らず、シャーバの「難民申請」は却下される。しかし、彼女はノラの紹介で病院に勤めだす。リラを囲む4人の生活でシャーバは自然に母の役割を担い出す。

* ミシェルはシャーバに、自分の病気の事、皆に黙って一人で死んで逝きたい。皆に黙っていて欲しい、最後はあなたの病院で看て貰いたい、と頼み込む。アンドレアの出張中、癌の悪化でシャーバの手によってミシェルは病院に運び込まれる。出張から帰ったアンドレアはミシェルの手紙を読み悲嘆にくれる。ニーノの励ましにより彼の娘リラの面倒を看るようになる。リラを実の娘のように愛しむアンドレア。

* ニーノとフランチェスカとの密会は続くが、彼女の「家庭を壊さず、自分とも付き合う」という態度に不信を抱く。彼女から妊娠したこと、子どもは処置する、と告げられる。怒りなじるニーノ。ニーノの真摯な態度に動揺した彼女は夫に告げる。怒った教授は子ども連れて家を出る。彼女は行方不明になる。呼び出されたニーノは教授と彼女を探す。家に帰ったフランチェスカは、ニーノに泣きながら別れを告げる。子どもを堕ろしてきたのだった。

* ブラージ大尉が予約を取り消したり、時間に時々遅れるのを心配したノラは、自宅を訪ねテヴェレ川岸のベンチで話す。有名なサンタンジェロ橋が見えた。大尉に婚約者がいる事を知って動揺するが、婚約者が持ってきた映像を2人で見る。大尉はやっと婚約者を思い出した。病気の回復である。心の動揺を隠しながら大尉に別れを告げるノラ。

* アリナの協力と証言でマフィアの組織を壊滅させた。その功績により母の
分までの「滞在許可証」を手に入れた彼女は、母シャーバに会いに行き「邸宅」で一緒に暮らすことになる。刑事カタルドは匿っている内にアリナが好きになっていた。彼は故郷のパレルモに帰ることになり、彼女にプロポーズする。勿論、彼女もOKだ。

* 父ピエトロがイラクから帰ってくる。いわゆる「父、帰る」である。
ピエトロはニーノに会いに行く。今までの事情の一切を聞く。父が母にロレンツォに成りすましてメールを打っていたのだ。
シャーバからミシェルの病院を聞いた父は見舞いに行き、アンドレアに会う事を勧める。「自分も弱さを隠すために、家族の下を去ってしまったが、同じ間違いをして欲しくないと静かに諭すのだった。

* ジョルダーノ家では久ぶりの父を囲んでのにぎやかな食卓である。だが、
ニーノは幼馴染のヴァレンティーナの卒業パーティに行ってしまった。父はノラとアンドレアにミシェルの病院を教えた。アンドレアは翌日ためらいながらもミシェルに会いに行く。変わり果てたミシェルに再会したアンドレアは、彼を車椅子に乗せてテヴェレ川のティベリーナ島を散歩する。見ていてジーンときた。最愛の2人。終末期のミシェルを看取るアンドラア。

 父は、夫婦関係がおかしくなっているノラを心配して「子どもの為に自分を殺してはいけない。子どもを愛するのが難しくなってしまうからだ。自分の心に忠実に」という。ノラはその夜夫に自分の心を伝える。

* ニーノは「孤児院」再開発プランは素晴らしくコンペで1等に輝いた。プロジェクトが進行しヴァレンティーナに手伝いを頼んだ。2人の仲は急速に進んでゆく。

* 父は過去と決別し、未来に踏み出す為に、ロレンツォの事故車を処分する。財産を整理し、家を母名義に書き換える。ニーノに母と離婚すると伝え、「自分の弱さのために家族から逃げた事」を率直に詫びた。ニーノに母と会って欲しいと言われ、父はニーノと母を療養所に訪ねる。妻にメールを送っていたのは自分で、ロレンツォは死んだのだ、だけど今も家族の中に生きている、と語る。

* アンドレアに看取られてミシェルはこの世を去る。シャーバの献身的な看
護にアンドレアは感謝の言葉をシャーバの母国語(クルド語)で伝え、自分をあなたの息子にして下さいと言う。シャーバは「わが息子」とアンドレアを抱きしめる。ここは意味のあるシーン。シャーバがジョルダーニ家再生の鍵であった事を示す。一家は現代イタリアにおいて新しい家族として再生したのだ。

* ノラは夫と別居して「邸宅」に帰り、父は次の仕事先のトリノへ旅立つ。

* 1年後、母のアニタが療養所を退所して自宅の「邸宅」に帰る。久しぶりの我が家、真っ先に向ったのは亡きロレンツォの部屋だった。どうだろ!今や少女リラの夢のような部屋!玩具やお人形で飾られた可愛いドリームであった。
 シャーバと話すアニタ。2人は留守中の様々の出来事を語り合ったに違いない。優しきパパのアンドレア。トンマーゾ坊やをあやすリラ。
 今や「邸宅」はニーノの言うように「この家は、今や港みたいに変わった」。
 誰でも入ってきて、又、旅立ってゆく、新しい<港>である。
  1. 2012/08/17(金) 11:05:29|
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