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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

美術の検証「ブリューゲル再び」 07.06

『美術の検証』「ブリューゲル 再び」07.06

「野間宏の<暗い絵>から始まった」
プラド美術館で幾つかの貴重な体験をした。東京に帰ってその感動の分析や幾多の謎や不明の解明の作業が待っていた。
死の勝利 <死の勝利>。プラド美術館

プラド美術館でボスの「悦楽の園」の後に見たブリューゲルの「死の勝利」も、それまでのブリューゲル像とは異なった印象を持った。「農民の画家」という俗称がある様に「村の農民」や「遊ぶ子ども」のイメージがブリューゲルには浮かんだ。私は少年時代の貴重な体験をすっかり忘れていたのだった。

「草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪風が荒涼として吹き過ぎる。はるか高い丘の辺りは雲にかくれた黒い日に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のところどころに黒い漏斗形の穴がぽつりぽつりと開いている。その穴の口の辺りは生命の過度に充ちた唇のような光沢を放ち、うずたかい土饅頭の真中に開いているその穴が、繰り返される、鈍重で淫らな蝕感を待ち受けて、まるで軟体動物に属する生きもののように幾つも大地に口を開けている。そこには股のない性器ばかりの不思議な女の体が幾重にも埋められていると思える。どういう訳でブリューゲルの絵には、大地にこのような悩みと痛みと疼きを感じ、その悩みと痛みと疼きによってのみ生存を主張しているかのような黒い円い穴が開いているのであろうか。」

反逆天使<反逆天使の墜落>1562年

野間宏の「暗い絵」の冒頭の文章である。作中の主人公たちがブリューゲルの
画集を見て様々に感じたことの表現である。難解な文章は難しく読解に苦労し
た。高校何年の時だったろうか?イメージを出そうと書き写したり、高校の図
書館で世界美術全集からブリューゲルの絵を探したが「暗い絵」にある様な絵
は見つからなかった。当時文学に関心を持っていたのでブリューゲルの方は忘
れ「暗い絵」の不思議な文体は記憶に残った。

今、野間宏の「暗い絵」とブリューゲルの画集を眺めながら、モデルになった
絵はどれだろうか?と探しながら、当時は具体的な一作品をさすのではないと
云われたことを思い出した。
「大地に黒い漏斗形の穴がぽつりぽつりと開いて」「穴の口の辺りは生命の過
度に充ちた唇のような光沢を放ち」「軟体動物のような生きものが幾つも口を
開けている。」これはヒエロニムス・ボスの方が本家本元だと思いながら、自
分なりのブリューゲルのまとめに向かった。

* ピーテル・ブリューゲル(1525/30~1569)16世紀のフランドルの画家。
 H/ボスと同じように資料・記録がなく不明な点が多い。

1525//30年 フランドルのブレダ地方(現在のベルギー)に生まれた。
1540//45年 ピーテル・クックの工房に入門(後、師の娘マイケンと結婚)
1551年   アントウェルペンの聖ルカ組合に登録。

* 何処で生まれたか、いつか、確定の記録がない。
* P・クックの工房で修行、1551年に画家の親方として登録。

 < アントウェルペン時代>  (1551年~1563年)
1552年  イタリア旅行。「イタリア風の修道院のある山岳風景」
「人々のいる河畔の山岳風景」
1553年 アルプスを通ってアントウェルペンに帰る。「樹木と教会のある大きな風景」
1555年版画業者H・コックの店の「四方の風」の銅版画の下絵デッサンをやり始める。
* イタリアルネサンスの絵画には興味を示さず、写本彩色画家の工房を訪問
* 初期は銅版画の下絵デッサンをやる。(紙の普及、活版印刷の発明銅版画の普及)
* 1550年代のネーデルランド美術史ではブリューゲルは2流。高貴な様式とローマ的な教養がなかった。
* パティニール、ボスの弟子?風景画、ボス風の諷刺画、風俗画を描く。
* 1556年「石の切除手術」はボスの1475年の「愚者の石の切除」の模倣。
* パトロンは銀行家、裕福な商人・市民で教会、宮廷は無い。
*    アントウエルペン時代はボス風の作品が多い。

大きな魚
 <大きな魚は小さな魚を食う>1556年

アントニウスの誘惑<聖アントニウスの誘惑>1556年

1556年  「聖アントニウスの誘惑」「大きな魚は小さな魚を食う」(下絵デッサ  ン) 「石の切開手術」      (油彩)
1557年 「七つの大罪」(油彩)「種まく人の譬えのある風景」(デッサン)
1558年 「錬金術師」(デッサン。ペン・インク)「最後の審判」(デッサン

謝肉祭と四旬<謝肉祭と四旬節の戦い>1559年

1559年 「謝肉祭と四旬節の戦い」(油彩)「ネーデルラントの諺」(油彩
「七つの美徳」デッサン
1560年  「子供の遊び」(油彩) 「野兎狩の或る風景」(銅版画)

悪女フリート<悪女フリート>1562年

1562年 「反逆天使の墜落」(油彩) 「死の勝利」(油彩) 「サウルの自殺」(油彩) 「悪女フリート」(油彩)「二匹の猿」(油彩)
1563年 「エジプトへの避難のある風景」(油彩)「バベルの塔」(油彩)

バベルの塔64.ロッテルダム<バベルの塔>1563年

* 師クックの娘マイケンと結婚。ブリュッセルに移住。
<ブリュッセル時代> (1563年~1569年)
* それまで思想も形態も詰め込み過ぎていたのを、シンプルな容易に理解できる統一的な空間構成にし、  画風がボスから離れてゆく。
* 新たな分野―風景画、風俗画、農民風俗画の世界で開拓してゆく。
* ルターの宗教改革、宗教弾圧、政治的には恐怖・圧制政治の時代。パトロンは恐怖政治の中核にいたグ  ランヴェル枢機卿。(ブリューゲルはどう生きたか)
* 現実の「生」の実態の深いところ、庶民の働く農民の姿、子どもたちの遊ぶ姿を描く。不恰好で素朴で  とぼけた無骨な肉体を、貧しく無知でしたたかに生きる庶民を、共感と嫌悪の入り混じった感覚で描く。
1564年 「十字架を担うキリスト」 「東方三賢王の礼拝」
1565年 「暗い日」      「氷滑りと鳥罠のある冬景色」
「キリストと姦淫女」   「聖マルタン祭のワイン」
   『月暦画』-「干し草の収穫」   「穀物の収穫」 
「牛群の帰り」    「雪中の狩人」

干し草<干し草の収穫>(月暦画の内)1565年

1566年 「洗礼者ヨハネの説教」 「ベツレヘムの戸籍調査」
「野外の婚礼の踊り」

DSC_8895怠け者<怠け者の天国>1567年

1567年 「雪中の東方三賢王の礼拝」   「サウロの回心」 「怠け者の天国」

農民の踊り<農民の踊り>1568年

1568年「農民の踊り」   「農民の婚礼」 
      「人間嫌い」    「足なえたち」
     「盲人の寓話」    「鳥の巣盗人」
     「絞首台の上のカササギの或る風景」
    次男 ヤン 生まれる
   
 死。     

以上がわかっている伝記と作品。年代は5年位の差をよむ説もある。ボス(1450~1516)との関連で年齢を早める説もある。作品によっては本人作が疑われるものもある。
ボスと同様に宗教改革の影響下、偶像破壊運動の影響で作品がかなり破壊された。40点ほどの真作が認められている。
* 2010年プラド美術館でブリューゲルの新たな真作を発表。「聖マルタン祭のワイン」X線写真で署名の一部が発見された。

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  1. 2013/07/06(土) 11:05:52|
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美術の検証 「ブリューゲルの絵」 06.24

美術の検証 「ブリューゲルの絵」06.24

プラド美術館でボスに驚き深い衝撃を受けたことは前に触れた。続いて、多くのイタリア、フランドルの傑作があるのに驚嘆した。それが本家本元のスペイン美術の巨匠ーゴヤやベラスケスは云うまでもないーたちの傑作が揃っていての話だから「ウーン」と唸ってしまう。
ただ、後で分かったことは、当時フランドルがスペインの領地で、総督が置かれ密接の関係だったことは想像できる。カトリックのスペイン王とフランドルのプロテスタントとの衝突、カトリックの「異端審問」による弾圧など過酷な植民地支配の歴史があった。(今はそのことに触れない)

ボスと共に見たのがブリューゲルの「死の勝利」であった。

ブリューゲルと言えば、ヨーロッパの農村の田園風景や農民や子供たちを描いた作品だと思っていた。牧歌的な雰囲気さえ期待した。農村や農民の生活実態に密着したー他に無い稀有な画家だと思っていた。
(「狩人の帰還」)
狩人の帰還
(「子供の遊び」)
IMG_0006子供の遊び

ところが「死の勝利」(1562年頃)は骸骨(ガイコツ)の軍隊が人間を襲う。海沿いの荒涼たる海岸での戦場場面.骸骨の軍隊が人間を片っ端から捕まえ殺戮している場面の羅列だ。ボス的な絵にショックを受けたが、ブリューゲルは何故こんな絵を描いたのだろうか?
死の勝利

ヨーロッパ農村の、農民の生活実態・牧歌的な雰囲気?
この認識が何と甘いか、思い知らされることになる。そんな甘い解釈ではこの絵が理解できない。ブリューゲルは何故この絵を描いたか?ブリューゲル像を根底から問い直さねばならない。人間の終末・骸骨による人類の滅亡を描くことで、ブリューゲルは一体何を訴えているか?
(未完)



  1. 2013/06/24(月) 17:53:43|
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美術の検証 「ヒエロニムス・ボス<悦楽の園>」 ②2013. 06.06

美術の検証「ヒエロニムス・ボス<悦楽の園>」 ② 2013.06.06

こういう作品は前代未門だ。後にも先にもない。ボスの後継者は聞いたことがない。現代のシュールや抽象の作品でもこういうものはない。
ボス論の定説も存在しないようだし、図像学上でも解明されないイメージが多いのではないか。
だけど、通説はある。「悦楽の園」では、神によって天国で安楽に暮らしていた人類は、堕落し性的悦楽に耽り地獄に陥る。7つの大罪の一つ「淫欲」を慎むべし、という警告の画。
しかし、絵からは「堕落した性的悦楽に耽った画」とはとても感じられない。肉感的な生々しいドロドロしたものとは無縁な、無機質な遊戯的な世界、神話的な太古の、人類が地球に姿を見せた当初の幼時的な、懐かしい世界さえイメージさせるのだ。
悦楽 真ん中

当時のキリスト教絶対の世界では異端的なもの・性的に猥雑なものは徹底的に排除された。ボスが一部に熱狂的に支持された所以は、作品の完全な抽象性と森羅万象を徹底的に見つめたことだ。俗世間的な既成教会の罠をすり抜けた。

*「悦楽の園」を見て

<中央パネル>
大きく3部に分けられる。

① 遠景
中・上・空を魚が飛ぶ

4つの方向から流れてくる川、そこに浮かぶ5つの奇妙なオブジェのような大きな建造物。突起が出ていたり、多くの裸の人間がたむろしている。川には魚や人間、ドラゴンが戯れている。空には人間、鳥、魚、ドラゴンが浮遊している。まるで現代の遊園地の風景を思わせる造形性は面白い。

② 中景
DSC_8338中・中壇円形に・乗馬、鹿などの行列

真ん中に池があり、若い女たちが戯れている。
池の周りを、男たちが馬、(よく見ると馬だけでなく鹿、猪、駱駝、ユニコン、グリフォンなどに)乗って大挙して駆け巡っている。池で戯れる若い女たちは、大挙して疾風する男たちの当然性的欲望を刺激している。
* クラナハの「回春の泉」(1546)では、左側から老婆が大勢プールに入って右側に上がってくると皆若返るという仕掛けの絵がある。50年前のボスの「悦楽の園」から発想されたのであろうか?

③ 前景
DSC_8328中・貝に食われている
 5~6人の裸の男女群れの様々のドラマ。
A,男が巨大なムール貝を担ぎ、貝から男女の足が出ている。性的な象徴だろうことは想像がつく。ムール貝は何の寓意か?
DSC_8333前
B,裸の男女の様々な肢体。手を空中にかざして語たり合ったり、大地に両手を広げて寝転んだり。又、Aの字やYの字のような動作、透明なガラス球のような愛の棲家での語らい、外界からの避難所みたいな空間-いくつもあるーに男女が逃げ込んで愛を囁いたり、窓から覗いて愛を囁くとか、、、
前4

(ここでの男女の営みは、それがどういう意味・寓意・象徴を持つのか解明されていない。
* ボスの絵の図像学的、寓意解明のための「百科事典」があって然るべき)

 しかし、「悦楽の園」は無機質な透明な世界である。ドロドロした肉感的なものは無く、猥雑感とは無縁の世界だ。猥雑だと絡め捕まえることが出来ない。
梟の下背中合わせの2人が踊っている

C,右と左に梟が2羽描かれている。右側は二人の裸の男女が背合わせに踊って、頭に梟が被っている。サクランボウのような果物(快楽を意味するという)が体中に巻きついている。左側は梟に人間が抱きついている。右側はどういう意味を持っているのか?
* 「梟のイメージ」を考えてみる。
イ、梟には悪徳のイメージがあるという。
1、 夜を好む淫乱のイメージ
2、 空を飛ばない怠惰のイメージ
3、 油をなめる大食のイメージ
ロ,古代神話の「ミネルバ」=英知のイメージ
 ボスの他の絵でも人間の様々の行為を梟が見つめている場面がある。ダブルイメージ?ボスの不可解なところはダブルイメージを多用するらしい。梟の悪と英知の相反するイメージの一瞬の内に転換してしまうところ。
ここでの梟の寓意は?梟は「悦楽の園」の風景を見ており、ダブルイメージの梟とは、作者の心情を隠したといえる。作品に対する判断・ここで展開されている万象に対する判断の保留。

* ヒエロニムス・ボス(ボッシュとも) (1450~1516)
ネーデランドの画家。現オランダ、ベルギー国境近くのス・ヘルトヘンボスの画家一家に生まれた。裕福な名家の娘との結婚により名士として一生を終えた。
ヨーロッパ各地から注文を受けて多数制作したが、宗教改革の偶像破壊のあおりで減失、現在30点が確認される。スペイン国王フェリペ2世の愛好により、スペインのプラド美術館に10点もある。

代表作
「悦楽の園」(1480-1500) プラド美術館
「乾草車」 (1490-1500)  同
「東方三博士の来訪」(1510) 同
「聖アントニウスの誘惑」   リスボン国立古美術館
「いかさま師」(1475-80) サンジェルマン=アン=レー市立美術館
「放蕩息子」 (1480-90) ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館
「最後の審判」(1510)  ウィーン美術アカデミー付属美術館
「守銭奴の死」(1490) ワシントン・ナショナル・ギャラリー
「阿呆の船」(1490-1500) ルーブル美術館
「三連・祭壇画」(1500-05)プラド美術館
  <干し草車> <放蕩息子> <エデンの園> <地獄>
「十字架を担うキリスト」  ベルギー・ゲント市立美術館
「7つの大罪」      プラド美術館
「愚者の治療」      プラド美術館
  1. 2013/06/06(木) 19:09:22|
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美術の検証 「ヒエロニムス・ボス<悦楽の園>」 ①2013.06.02

美術の検証 「ヒエロニムス・ボス<悦楽の園>」① 2013.06.02

プラド美術館でボスの「悦楽の園」の前に立つ時何が何やら解らなかった。勿論ボスはこういう絵を描くことは知っていた。だが今まで私の心の中に入ってきて心の事件になる事はなかった。プラドで他の絵のところを廻っていても又、ボスの前に立ってしまう。
悦楽の園 全体図
東京に帰ってもボスは私を追いかけてきた。この不思議な魔力は何だろう。
ボスを見ようにも日本には実物はなく、図書館へ行っても大した資料はない。
大きな図書館や書店に入って、ボスの画集或いは世界美術全集の「フランドル絵画編」を眺めたりした。
又、この時期丁度やっていた「牧野邦夫展」を2度も見に行って確かめたりした。牧野の絵にもたくさんの魔物・化物・想像の動物・植物が、結構描き散らばせてあったからだ。ボスの影響というより、20世紀になると画家は自由に想像の翼を広げるようになったのだ。
「ヒエロニムス・ボス(ボッシュともいう)」
15世紀の中頃~16世紀初頭にかけて活躍したルネサンス・ネーデルランドの画家。
16世紀の宗教改革の騒動で殆どの作品が減失、現在世界に30点ばかり存在している。スペイン国王フェリペ2世が愛好、プラドに10点ある。
私がプラドで見た「悦楽の園」はたて2m、横4m、個人として眺めるには丁度良い大きさの3連祭壇画である。
画面は中央の大きな場面と左右の2つ、合わせて3面からなる。
左側は天国、イヴとエヴァを神が引き合わせている。多くの動物、鳥が仲良く暮らして牧歌的な雰囲気の天国の場面。
悦楽 左 天国全体

右側は地獄の風景、人間の顔(ボスの自画像という説も)、足は樹木、胴体が卵の中が空洞でカフェになっており人々は寛いでいる。耳を裂く大きな包丁とか、板に磔になった人間とか、人間の悲惨な状況が描かれている。
左右の天国と地獄は比較的わかりやすいが、問題は中央だ。
右 地獄

天国と地獄の橋渡しをする現世。無数の裸の男女が性に耽っている。色欲の罪を描いたもの、というのが一般的な通説。色欲の罪を犯して地獄へ堕ちるというのが一般的な解釈。
  1. 2013/06/02(日) 23:05:32|
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『美術の検証』 ⑧ 「カルパッチョ。ヴェネツィアについて」

『美術の検証』⑧ 「ヴェネツィア派ーカルパッチョ」

IMG_0001カルパッチョ・2人の貴婦人

11】 「ヴィットーレ・カルパッチョ」(1455~1525)初期ヴェネツィア派

* カルパッチョで有名なのは「2人のヴェネッィア婦人」だ。これについては後に触れる。今回発見したのが
 「ウルスラの夢」である。殉教伝説によった9枚連作「聖ウルスラ伝」の1つ、「ウルスラの夢」がいい。悲惨な
  殉教伝説とミスマッチの「ウルスラの夢」。王女の可憐で質素な寝室の鮮やかな深紅のベットカバーの赤色
  が目に焼きつく。

*「聖ウルスラ伝」9枚連作(1490年~1495年 <ヴェネツィア・アカデミア美術館>
 初期キリスト教殉教伝説(4世紀)「聖ウルスラ伝説」に拠って描いたカルパッチョの傑作。次の殉教伝説による。
 4世紀、ローマ系ブリトン人の王女ウルスラが、父の命で異民族の王子との婚約を承知した。王子の洗礼(改宗)と 1万1千人の処女を連れたローマへの巡礼を条件とした。巡礼の途中、ケルンで包囲していたフン族によってウルス ラ王女と王子、引き連れた1万1千人の処女全員が虐殺された。13世紀、聖ウルスラ伝説が讃えられ、ケルンの守 護聖人になり、聖ウルスラ教会が設立された。

IMGカルパッチョ・ウルスラの夢

*「聖ウルスラの夢」(9枚連作の内のひとつ)15世紀のヴェネツィアの女性の寝室がフェルメール風に描かれ  て、王女の寝室としては質素で堅固な雰囲気。ベットであどけなく眠る王女ウルスラ。天使が訪れ、夢の中で殉教 が近い事を知らせる。黒や緑やセピア色の全体像の中で、ベットカバーの鮮やかな深い赤色が強烈である。凄惨な 殉教伝説を忘れさせて、少女童話の様な、絵本の様なメルヘン世界に我々は誘ってゆく。
* 料理の「カルパッチョ」(生牛肉にパルミジャーノソースをかけた料理)はこの絵の赤と、カルパッチョがこの 料理が好きだった事から後世に命名された。
*「巡礼団の殉教と聖女ウルスラの葬儀」 大作のスペクタルシーンみたいだ。画面の左半分が虐殺場面。右がウル スラの葬儀。ナマナマしさではなく、絵巻物を見ている様だ。虐殺という残酷な場面と葬儀という悲嘆の場面をⅠ 枚の絵に描いている。
カルパッチョ ヴェネッイア


*「悪魔に取り憑かれた男の治療」
 もしかしたら、ウルスラ伝ではないかも知れないが、15世紀のヴェネツィアの中心地リアルト橋周辺の生き生き とした風景の描写が面白い。まだ木造のリアルト橋、両側の商店街、多くのゴンドラが行き来するグランド・カナ ル。道路にいっぱいたむろする市民たち。カルパッチョの筆が生き生きと当時の風俗・生活を伝えており、見てい るとわくわくしてくる。
                    
*「2人のヴェネツィア婦人」  < ヴェネツィア・コッレール博物館。>    
(サンマルコ広場にあって、サンマルコ寺院のセットの入場券を我々は持っていたのに見逃してしまった。)「露台 でのんびりと暇をつぶしている2人の婦人を描いたもの。須賀敦子は作者がカルパッチョだと聞いてびっくり。こ の絵が一般的に「コルティジャーネ」(高級娼婦)と言われてきたが、実はヴェネツィアの旧家の婦人が本当で、 過去の批評家の間違いだ、との解説に疑問に思った。その疑問をその著「ザッテレの河岸で」展開している。
 16世紀のヴェネツィアの「コルティジャーネ」はギリシャ・ラテンの古典はもとより、楽器を奏し、歌がうたえる など、あらゆる分野に精通して、教養ある男性と対等に会話が楽しめる事が必須条件だった、という。勿論美貌は 前提で。江戸時代の遊郭の「太夫」や平安時代の「女房」(源氏物語をはじめ平安文学の担い手達)と同じではな いか。ティツィアーノやティントレットはその優雅な艶姿(アデスガタ)今を描いたという。          この絵が「コルティジャーネ」を描いたかどうかは別にして、カルパッチョは15・6世紀のイタリアの人物・風俗・ 風景を見事に切り取り、それ以上のものを我々に投げかけているのである。

12】ヴェネッイアについて

 *「アカデミア美術館」を中心とした「ヴェネツィア派の」ベッリーニ、カルパッチョ、ティツィアーノ、ティ     ントレット、ヴェロネーゼを全然見ていない。最低1日はかかる。
 *「トルチェッロ島」の「アスンタ聖堂」のマリア像を見てみたい。須賀敦子の名文章で知った。彼女はこのマリ   ア像を見て、「今まで見た総てのマリア像が消えてこれ1つになった」と言っている。今まで見た多くのマリ   ア像が消えてしまうほど、感動を与えたマリア像を見てみたいものだ。
 * 今回はサン・マルコ一帯、マッジョーレ島、サルーテ教会が中心だった。リアルト橋の周辺、カ・ドーロ、ゲ   ットー、ニ行ってみたい。
  ヴェネッィアは何回行ってもいいのだ。

  1. 2012/08/28(火) 11:11:00|
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