FC2ブログ

私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2016年映画』「永い言い訳」(監督・原作、西川美和。出演、本木雅弘)11/4

『2016年映画』「永い言い訳」(監督、原作・西川美和、挿入歌、手嶌葵   11/4(金)
                   主演、本木雅弘、竹原ピストル、深津絵里、池松壮亮

DSC_9813.jpg

人は心の底から真正直に自己の人生に向き合って生きているだろうか?長年連れ添った妻が突然交通事故で亡くなった。世間に対して悲劇の夫を演じた衣笠幸夫(本木雅弘)は実際には悲しさを感じず涙ひとつ出なかった。事故当時彼は自宅で若い編集者(黒木華)と不倫していた。妻夏子(深津絵里)との関係も冷え切っていた。現代人の荒廃した倫理観の表れだろうか?

売れない小説家であった彼を美容師の夏子が支えて、言わば「糟糠の妻」の存在のおかげで、ヒット作を出しテレビにも出演する人気作家になった。本名が有名な野球選手と同姓(衣笠)であることから、変なコンプレックスを持ち、(有名な選手と比較してオレは、、、)とか、ネットで「自己のペンネーム+かわいそう」を検索し、自分が世間からどう見られているかを常に気にしている自意識過剰の人間。だが、何か気にかかるものを感じていた。

*本木雅弘が仮面人間をややコミカルに演じている。「おくりびと」以来久々の主役、さすがにうまい。「永い言い訳」とは誰に対しての言い訳なのか?妻は死んでいる。「ながい」は「長い」ではなく「永遠」の意味か。永遠に言い訳しなくてはならない。死んだ妻に対して何を言い訳するのか?妻の事故死の時不倫していた。自分に対しての言い訳だろう。無意識に主人公を突き動かすマグマになってゆく。

バス会社の事故説明会で、妻と共に亡くなった妻の親友の夫・トラック運転手大宮(竹原ピストル)と2人の子(兄妹)と知り合い、ふとしたことで二人の子どもの世話をすることになる。

大宮はバス会社に物を投げつけ「オレの嫁さん、返してくれよ!」と迫る。大宮は今でも妻を愛していて妻のメール消すことができないのに、衣笠は夏子の遺品・携帯の未送信の「もう愛していない、ひとかけらも」辛辣なメールにショックを受け、大宮の妻への愛が信じられない。(作者は対照的な2人の夫婦・家庭を提起している)。ともかく大宮が長距離トラック運転手なので、2人の子どもの世話を衣笠は買ってでる。その生活は聡明な兄と可愛い妹との触れあい。一緒に料理を作って食べたり、妹を自転車の後ろに乗せて長い坂道を一生懸命に登ったり、中学受験の兄に勉強を教えるといった生活は、主人公に欠けていた大切なものを教えた。

二人の子どもとの生活は主人公を変えっていった。愛する者を失ってから、徐々にそれが掛け替えのないものだったとわかってゆく。どんなに悔やんでも取り返しのつかないことなのだ、、、

*主人公に、男の軽薄さ・狡さ・見栄坊・自意識過剰さなどをことごとく暴き出している。後半の主人公の人間性の回復は感動的だ。手嶌葵の歌も、ヘンデルの曲もよかった。

*子役の2人よかった!池松壮亮きりっとした若者ぶり、深津絵里の安定感、竹原ピストルのボクサーみたいな風貌、印象に残った。




スポンサーサイト
  1. 2016/11/03(木) 22:38:11|
  2. 『2016年映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2016年映画』「淵に立つ」(監督深田晃司、出演浅野忠信、筒井真理子、古舘寛治) 10/27

『2016年映画』「淵に立つ」監督、深田晃司、出演、浅野忠信・筒井真理子・古舘寛治
                         カンヌ国際映画祭・視点審査委員賞     10/27


DSC_9806_20161027204009bdf.jpg

一見平凡で平穏な家庭に他者が介入することで、家族の内側が暴露され、崩壊してゆく様を描いた、新進気鋭の深田晃司監督の、カンヌ映画祭入賞に輝く最新作!

下町で金属加工業を営む夫婦(古舘寛治・筒井真理子)と娘の元に出所したばかりの謎の男(浅野忠信)が現れる。古い友人という男に夫は何か引け目があるのか、妻には無断で家の空き室を世話し仕事を与える。妻にとって強引で唐突な共同生活が始まるが、男は何かの事件で服役した過去を持つ。初め違和感を持った妻だが男は礼儀正しく、娘習っているオルガンにも付き合い、家庭にとけ込んでゆく。

DSC_9798.jpg

この映画の鍵は妻役の筒井真理子である。平凡な中年の主婦として登場した彼女が、浅野忠信演じる謎めいた男によってどんどん生気を取り戻してゆく。男は礼儀正しさを見せている時は白い長袖のワイシャツを常に着ていたが、真っ赤なシャツの異様な男に変貌する。その時、大きな事件が起きる、、、

DSC_9811.jpg

物語は8年後に飛ぶ。
夫は障害者となった娘を抱えて、行方不明となった男を追っている。妻は以前に見せた妖艶さとは外見も中身も全然違った人間になっていた。赤シャツの浅野忠信の幻影に捕り付かれたように娘と心中、、、

平穏な家庭でも異物の侵入によって暴かれてゆく、崩壊してゆく。取り立てて目新しいテーマではないかも知れないが、深田晃司監督の成長振りに拍手を贈りたい。作品のレベルが今までと違う!カンヌという国際舞台に踊り出た。これからの可能性に期待大である。

監督とは縁あって初めての映画作品「椅子」(2002)「ザクロ屋敷」(2006)「勧侍」(2011)(これだけ見ていない)「ほとりの朔子」(2013)「さようなら」(2015)と見てきた。あれよあれよと見ている内にとうとうカンヌ国際映画祭に入賞するまでになってしまった。今までに無かった鮮やかな映像、作品の仕上がり、浅野忠信・筒井真理子・古舘寛治という異色の俳優を使いこなして見事です!




  1. 2016/10/27(木) 20:33:49|
  2. 『2016年映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2016年映画』「ホロコーストの”リハーサル”」障害者虐殺70年目の真実         10/06

『2016年映画』「ホロコーストの”リハーサル“?!」             10/06
       障害者虐殺70年目の真実/ ETV特集(再放送)・相模原事件によせて。

DSC_9631.jpg

(1)2016年7月26日未明に起きた相模原事件で、容疑者は「障害者を冒涜する」ヒトラーの思想に共感していたと伝えられている。ヒトラーの思想に拠って19人の障害者を虐殺・20数名に重軽傷を負わしたヘイトクライム*は世の中を震撼させた。
(*ヘイトクライム=人種・民族・宗教・性などによって、偏見や憎悪が起こされる犯罪)

価値が無いから殺してもいいのか!戦後日本で初めて起った、障害者虐殺事件だった。人間は生まれた時から≪平等」ではないのか? 一人一人の人間の生きる価値を深く問われる事件だった。

ETV特集・「ホロコーストのリハーサル」(2015.11.17の再放送)を最近見た。相模原事件の原型ともいうべきものがドイツナチスにあった。ユダヤ人虐殺の前触れとしての障害者虐殺、T4作戦の恐るべき実体。ドイツの恐るべき負の遺産は綿密に学ぶべき。我が国の根っ子に異端を差別する記憶がないかどうかを検証すべき、、、

(2)ユダヤ人虐殺の前に、障害者虐殺
* 数百万人のユダヤ人の命を奪ったナチス政権下のホロコースト。ナチスは強制収容所のガス室で大量のユダヤ人を殺した。しかし、ガス室は最初ユダヤ人殺害ための物では無かった。最初に、精神病院にガス室が作られ、回復の見込みのない病人や障害者を殺した。彼らは生きる価値がないとされ、彼らの世話で施設や人件費に多大な経費が掛かるからという理由だった。殺害に多くの医療関係者が関与した。

DSC_9638.jpg

医師たちの殺害の動機、それを利用した時の権力者(ヒトラー)、気付きながら見逃した国民、町の人々は毎日病院から出る黒い煙に不思議に思いながら声を上げることが出来なかった。問題は、人々に止めるチャンスが本当に無かったか?ナチスのような政権でも国民の感情をとても気にしていた。虐殺された障害者は20万人以上、何故悲劇は起きたか?

DSC_9646.jpg

(3)障害者の人権問題に取り組む藤井さんのドイツ訪問 
このドキュメンタリーは、障害者のつらい過去と直に向き合いたい、ガス室の現場を見たいと訪れた一人の日本人=藤井克徳さん(66)のドイツ訪問のドキュメントの映像である。(日本障害者協議会代表・障害者の人権問題に取り組んできた第一人者。藤井さん自身目が見えない。障害者差別を乗り越えて障害者団体の活動を築いてきた。)
「ハダマー精神病院」(ドイツ中西部)の地下のガス室を案内される藤井さん。シャワー室 に見せかけた12㎡ほどの部屋に一度に50人が押し込められ殺された。その殆どが自分の意思を表明出来ない知的障害者か精神障害者だった。タイルの壁のガス管の跡を触る。

DSC_9647.jpg

(藤井さん)「最後まで生きようとあがいた人もいたでしょう。亡くなる瞬間悔しい思いをしたでしょう」

*ドイツ南部のギーンゲンで遺族ヘルムート・バーデルさん(81)と会う。靴職人の父マーティンさんが戦時中殺された。父はパーキンソン病、治療のために入院中、ガス室に送られ殺された。父とは手紙のやり取りをしていた。父は「治療が終われば家に帰って自分の仕事に戻れると思っていた」第2次大戦が始まった。マーティンさんは家に帰れない悔しさを手紙に記していた。

DSC_9653.jpg

「男たちは皆戦争に行き、やらなければならないことが山程あるのに、私はここでじっとしているしかない。私の一番の心配事はあなたたちを養えないこと、この手紙を知人のところへ持っていって何か仕事がないか聞いてみて下さい」*医師の注釈「うまくいくわけがない」がついていた。
DSC_9657.jpg

涙の跡がみえる最後になった手紙「私はどうしても40歳の誕生日を家で祝いたかった。」3ゕ月後別の施設から死亡通知が届く。死因は「脳卒中」。あの日(死亡通知が届いた日)のことは覚えている。急に母の大きな叫びが聞こえた。「お父さんが亡くなった」と。母は「突然亡くなるのはおかしい、何が起きたのか?」市長に会いに行く。市長「そんなことは言わない方がいい。あなたの身が危険にさらされますよ」と言った。
藤井さん「お手紙を読ませてもらって、とても家族思いの方だったことが伝わってきました。死に追いやる本当の理由がますます分かりづらくなった」

(4)2011年11月『ドイツ精神医学会』の謝罪
日本より積極的に過去の歴史に向き合ってきたドイツでも、障害者殺害については最近まで注目されてこなかった。理由の一つに、殺害に加担した医療者が沈黙してきたことが挙げられる。

DSC_9660.jpg

*2011年11月にドイツ精神医学会が障害者殺害について組織的に殺害に関与していたことを認め、謝罪した。
以下謝罪の内容。独・精神医学・神経学会会長フランク・シュナイダー博士(当時)

「この学会の歴史の重要な部門がこんなにも長く闇に葬られていました。これはとても恥ずべきことだと思います。障害者たちの世話の負担を(社会から)解放することや、良い遺伝子だけを残すことを目指しました。人類を苦しみから救うことを医学の進歩とし多くの人を虐殺したのです」
「私たち精神科医はナチスの時代に人間を悔辱し、自分たちに信頼を寄せていた患者や家族を裏切り、自らも殺しました。」
学会は歴史家たちに調査を依頼、真実の究明を約束した。
学会は移動展覧会を行って、世界中を巡回してこのことを伝えた。

DSC_9662.jpg
<大阪の展示会場>
*第三者委員会の報告
(委員・歴史家ハンス=ヴァルター・シュムール教授)
医師たちがナチスに強制されたわけではなかった。患者殺害の動機は政治側からのものではなく、医師や学者からのものだった。何故、命を救うはずの医師たちが殺害を実行してしまったのか?
≪ダーウィン=「種の起源」≫
(強いものが生き残り弱いものが消えてゆく、自然界の摂理の論)
これを人間にも当てはめて、劣等な人間を淘汰されるべきとしたのが≪社会ダーウィニズム≫論、「優秀な遺伝的素質だけを持つ人間だけを残そう」という優生学に結びつき、世界中に広がった。

(5)20世紀初頭のドイツ精神医学会
1920年代のドイツ精神医学で治る患者も出てきたので喜びに包まれた。だが、精神病院の実情は大混乱。根本的に何の治療も出来ない患者で溢れていた。医師たちはジレンマに陥る。そういう患者が邪魔になった。
1917年、「精神医学研究所」ではドイツ人の家系図を調べ、一人一人の遺伝的価値を明らかにしょうとした。何を狙うのか?
1920年、「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」と言う恐るべき本の発行。
「生きるに値しない者の排除・殺害は犯罪ではない。社会にとって有益だ。国民全体をよくするために患者は殺してもいいという考え!」
これに目を付けたのがヒトラー。
≪我が闘争≫
DSC_9668.jpg

「肉体的にも精神的にも不健康で無価値な者は子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない」
1933年、ヒトラー念願の政権を取る。国民は熱烈に歓迎した。
政権を取ったヒトラーはユダヤ人排斥を堂々と行う。遺伝病の子孫を予防する=断種法を制定する。*当時、遺伝すると思われていた知的障害者や精神障害者は断種を強制させられた。断種とは手術で子供を産めなくすること。これをリードしたのが20世紀ドイツ精神医学会のトップ=エルンスト・リュ―ディンだった。「ヒトラーのおかげで30年間私たちが夢見た優生学思想が実現された」と。医学界のトップの発言、何のための医学か!

(6)断種の悲劇
藤井さんはミュンヘンに弁護士ヘルベルト・デムメルさん(視覚障害者で戦後多くの断種被害者を支援してきた。)を訪ねる。
*妊娠していた視覚障害者が中絶させられ、その後断種させられた。
*警察に連行、強制的に手術を受けさせる悲劇がたくさんあった。
断種法が出来てから3ヶ月、当事者は苛立っていた。
*施設の外に出ないと手続きすれば、断種は免れた、が、一生塀の中の生活。ある例、外に出ないと家族との再会を諦めたが、後に断種を受け家族に会いに行った。「生殖能力か・家族との再会か」ー悲しい選択を迫られる。強制的に断種を受けた人、40万人。
*1936年のベルリン・オリンピックはドイツ民族の優秀さの祭典。一方福祉や社会保障にかかる費用は大幅に削減、障害者は生きているだけで金ばかりかかる、価値のない存在だと国民にすり込んでいく。(全ての映画館でナチスのプロパガンダ=障害者に掛かる費用で健康な人の家が何軒建つか!とのキャンペーン)

(7)T4作戦
*そして、ついに障害者殺害計画が動き出す。第2次大戦の前年、ヒトラーは権威ある精神科医を召集、「殺害の対象者は誰か?苦しまずに殺害出来る方法とは何か」の協議を重ねる。
*1939年9月1日ポーランド侵攻、第2次大戦勃発。その時、ヒトラーは≪極秘命令書≫(病気の状態が深刻で治癒出来ない患者を安楽死させる権限を与える)にサインする。実行本部の通り名から、≪T4作戦≫と名付けた。
殺害の対象者を選ぶために、全国の病院に患者調査票を送る。「病名・症状・退院の見込み・労働者として使えるか?」この結果を元に、本部の医師たちが生きる価値があるかを判断。殺していいと思った者には判定蘭に「+」マークを書く。

DSC_9679.jpg

T4作戦の殺害施設は辺鄙な場所に作られた。パーキンソン病だったマーティンさんはグラーフェネックだった。施設には医師の他、看護師、運転手、遺体を焼却する人、100人位働いていた。彼らは事前に仕事の説明を受けていた。ナチスのプロパガンダの連続射撃を受け、対象の患者は他の人より価値の低い人間だと教え込まれ、自己の行為を正当化していた。精神病患者に「安楽死計画」によって≪神の恵み≫を与えるのだと思っていた!ガス室の栓を開けたのは医師たちで、≪最終的医学措置≫と呼んでいた。
T4作戦が始まって1年、毎日殺害が続いていた。別の施設がドイツ国内に6ゕ所も作られていった。
*藤井さんは当時の情況を覚えている人に会いにいった。「小高い丘の上の病院からいつも煙が出ていて何だろうかと噂していた。嫌な匂いがしていた。戦場から帰って来た人が<死体を焼く匂い>と同じだと言ったので、その後声を潜めて話すようになった。
藤井「住民の良心としてそれを止める動きは無かったのでしょうか?」「もう遅すぎました。ナチスの管視システムは出来上がり徹底していました」
*ハダマーでもう一人の遺族ギーゼラ・プッシュマンさん(62歳)に出会うのだが、後に登場する。

(8)声を上げた人
こうして人々が沈黙する中で、障害者の虐殺は毎日行われていたが、ついにある人が声を上げる。1941年の夏、ミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・フォン・ガーレンが説教の中で「障害者の死は≪恵みの死≫ではなく単なる殺害だ」と明言した。秘密警察は説教の原稿を没収しょうとしたが、書き写しが早く作られ何処までも流れていった。コピー機など無い時代に信者たちの心に響いた説教は手書きで何枚も書かれて拡散していった。フォン・ガーレンの説教はとても上手で率直で攻撃的で、人々を感電させるような力があった。
ミニュヘン司教ガーレン
説教した教会の一つ・ランべルティ教会には今でも大切に残されている。
「貧しい人、病人、非生産的な人がいて当たり前だ。私たちは他者から生産的だと認められた人だけが生きる権利があると言うのか。非生産的な市民を殺してもいいならば、我々が老いて弱った時に我々も殺されるであろう。」激しくT4作戦の非論理性・非人間性を突く言葉は続くが、手書きでコピーされた説教は全国の教会・団体に発信され、さらに空爆で避難していた防空壕の市民へ伝わっていった。
*司教の説教から20日後、1941年8月24日、T4作戦中止命令。

(9)強制収容所に於けるユダヤ人大虐殺
DSC_9684.jpg

*ヨーロッパ中のユダヤ人の根絶を目指して、「最終的解決」方針の決定。ユダヤ人を強制収容所に移送して絶滅させる途方もない作戦が実行された。この作戦でT4作戦のノウ・ハウが利用された。ガス室での医者やスッタフを収容所に送り込み彼らに活躍させた。障害者絶滅のT4作戦を、強制収容所に於けるユダヤ人絶滅作戦への応用である。
*「野生化した殺害」
T4作戦の中止後でも、精神病院・施設では、薬の過剰投与・計画的な餓死等の障害者虐殺は続いていた。殺害の対象は、トラウマを負った兵士、ユダヤ人との間に生まれた子どもなどに広がった。「野生化した殺害」と言われた殺害の被害者は最終的には20万人以上といわれた。医師たちはT4作戦の中止で不満を感じていた。どうしたら、人目を引かずに、政治的に振り回されずにやり通せるか。悲劇的なその態勢はすでに出来上がっていた。断種から始まって、誰も止めることなくエスカレートしていった虐殺の歴史・70年以上の時を経て、今私たちに何を問いかけているのか?
藤井さんは「どんな問題にも、戦争にも、最初がある。前触れがある。その段階で気付く力を問われている。社会的にも弱い障害者に問題が現れやすい。これを前触れの警鐘であると捉えることが大事だ。命の価値を尊重しなくなると人を殺せてしまう。人間を改良すべきではない。社会の中に、病、障害、苦悩,死が存在することを受け入れる――こういった意見が少なすぎる。

(10)姪のギーゼラが叔母ヘルガの尊厳回復・人々の記憶に留める
DSC_9688.jpg

ハダマー精神病院のところでもう一人の遺族ギーゼラ・プッシュマンさん(62歳)を触れるはずだった。彼女は数ヶ月に一回ガス室に花を手向けに来る。父の妹彼女にとっての叔母ヘルガがてんかん病のために17歳の時に殺された。ギーゼラさんは叔母ヘルガの存在を知らなかった。父は一度も話したことは無かった。ギーゼラさんの話

DSC_9682.jpg

「私は5~6歳の時祖母のところでこの写真を見た。その後写真は無くなっていた。父の従兄が80歳を過ぎてから、ハザマ―の施設に問い合わせるように言ってきた。叔母ヘルガは77名と共に1941年1月30日に殺害された。ヘルガはよく犬小屋に閉じ込められていたと聞いた。父は犬の話はよくしたが、妹の話しは一度もしなかった。兄妹が自分の妹を忘れるなんて、又は忘れるふりをするなんて私には理解できない。『障害者の死は恵みの死であり家族の負担を減らすものだ』というヒトラーの考えを家族までもがそう考えるようになっていたのかと疑っていた。」
藤井「家族に差別意識が増長されたのがとても悲しい。家庭内差別の背景には戦争が一層これを助長し増幅した。問題の本質がある。」
*叔母ヘルガを知らずに育ったギーゼラさん、彼女は言う。「叔母が殺されたことは私にとっても悲しいことです。でも、私が本当に悲しいのは、叔母の死ではなく家族がずっと沈黙を続けたことなんです。それが今でも私は悲しくて仕方がないのです。」
ギーゼラさんが拘ったことは、このままではヘルガ叔母がこの世に存在しないままに消えてしまうことだ。生きた証が欲しい!彼女の尊厳を取り戻し、人々の記憶に残すにはどうしたらよいか?
彼女は新聞広告にあるメッセージを載せた。

ギーゼラさんの

ヘルガ・オルトレップ

あなたはナチスのいいなりになった協力者によって殺された。
家族によっても黙殺された。
わたしは あなたを 忘れない
あなたの姪  ギーゼラより


  1. 2016/10/06(木) 18:18:05|
  2. 『2016年映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2016年映画』 「ME キャサリン・ヘップバーン自伝」  9/25

「ME キャサリン・ヘップバーン自伝」  9/25    

DSC_9583.jpg
<1940年>

『トランボ――ハリウッドに最も嫌われた男』でハリウッドの「赤狩り」を調べていたら、赤狩りに反発した女優がいた。キャサリン・ヘップバーンとローレン・バッコールが印象に残った。キャサリンの自伝を読む内に、キャサリンの魅力が以前にも増して強く感じた。キャサリンはオスカーノミネート12回、主演女優賞4回に輝く。これは誰にも破られていない。黒のシンプルなパンツ・スタイル、茶目っけのあるユーモアと朗々たるスピーチで拍手喝采を受けた。又、私生活を晒さず謎に包まれていたためか、91年に発表した自伝は全米で数百万部を売り上げる大ベストセラーになった。

自伝

キャサリン・ヘップバーンは1907年に、コネティカット州ハートフォードで生まれた。父は医師、祖父は牧師。母マーサは婦人参政権論者で産児制限運動に携わり、特に女性問題・参政権・売春について真剣に考えていた女性だった。キャサリンはそのような知的かつリベラルな家庭環境で育った。弟に劇作家や医師がいる6人兄妹の長女で、活発聡明な環境で育った。キャサリンは自伝で、育ったコネティカットを次のように回想している。

『野に咲く美しい花々、公園、丘、昔ながらのきれいな家、そこには好ましい生活のペースがあった。ある時はゆっくり、ある時は速く、河があり、貯水池があり、ロングアイランド海峡があった。気候もすばらしく、林があり、庭園があった。雪が舞い、雨が降った。広さも大きすぎず、小さすぎるわけでもない。      
そう、コネティは私の故郷だ。雪に閉じ込められ、ハリケーンで家を失った。私はテニスをし、ゴルフをした。私はこの土地に生きた。そしてこの土地に眠ることになるだろう。』

自伝にあるように、キャサリンは、良き風土の環境・自由な家庭で、のびのびと腕白な少女時代を過ごす。コネティカットの風景や風物の的確な描写はイメージを喚起し、その舞台で彼女が生き生きと飛び回り成長したことを想像させる。だが、キャサリン14歳の時2歳上の兄が突然死んでしまう。最愛の兄の死はショックでそれまで幸福だった一家に暗い影を宿し、キャサリンの人生に多くの影響を与えた。

彼女は幼い頃から映画や演劇に興味を持ち、アマチュア劇団や学生演劇にも熱中する。大学で心理学を学んだが、卒業後ニューヨークに移り、劇団に入り10本以上の舞台を経て、1932年映画デビューした。その間、ダフという女性の先生から「発声」仕方を教わった。横隔膜を使っての「発声」は、その後のキャサリンの映画人生に多いに役立った。3回目の映画(勝利の朝)でオスカー主演女優賞に輝いてしまうのだ!            
                            
自伝の「駆け出し時代」(1930年代)の文章は興味あるものだった。新人としての売り出しは誰にもあるように色々な体験・失敗・苦労があった。しかし、その経験が大女優キャサリンを準備するのである。有力だと思っていたオーデションを何度も落ちたり、契約していた劇団をクビになったり、公演が終わったとたん興行主が有り金を持ってどろんしたり、と彼女は先輩俳優から学んでいる。発声の仕方や歩き方、その俳優の流儀を取り入れて自分の個性をつくりあげた。そういう努力は大きな役者を育てる。

『どんな役でも獲ることが出来た。役を理解出来たからではない。ひらめきがあった。役に対するひらめき、その人物に対するひらめきがあった。生命のひらめき、、、といったものが』

②DSC_9616
その例として、ローレット・テイラー*という女優を挙げていた。

*(テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」初演の成功(1940年)を支えた、壊れやすいガラス細工のような姉ローラを演じたローレット・テイラーのこと。)
『舞台の袖に立つと、ローレットは軽くひと呼吸する。準備に苦しんだりはしない。自分の経験を活かしてその役になりきる。ひっかかったり、もたついたりすることはなかった。生まれついての役者だった。人前に身をさらし、語りかけ、その気にさせ、心をとらえ、注目させる。それが彼らの人生だった。』           
  
1933年「勝利の朝」(オスカー主・女)、1940年「フィラデルフィア物語」が大ヒットし、大スターとしての地位を確立した。

主な生涯作品は以下の通り
1907  生誕
32  「愛の嗚咽」(映画デビュー)*この頃の宣伝写真
DSC_9617.jpg

33  「勝利の朝」(オスカー・女優賞・3作目でオスカー受賞)
33  「若草物語」(原作R.オルコット、監ジョ―ジ・キューカー、
               主、キャサリン・ヘップバーン、)
35 「男装」(監G.キューカー主キャサリンとケリー・グラント
38  「赤ちゃん教育」(監ハワード・ホックス、主キャサリンと
K・グラントとの掛け合い。スクリュー
ボール・コメディと言われた。  

40 「フィラデルフィア物語」*(監J・キューカー、主キャサリン、ケリー・グラント、ジェームズ・スチャート
DSC_9580.jpg
 
(*「フィラデルフィア物語」が大ヒットし、キャサリンは大スターとなる。
*30年代のハリウッド映画は全然見ていない。戦後殆ど日本では見られなかった。今では可能らしいが、コメディが多いという。キャサリンの20代から30代にかけての若く美しい時代の結晶が30年代の映画に詰まっている。)

51 「アフリカの女王」(監ジョン・ヒューストン、主ハンフリー・
           ボガート(オスカー男優賞)、キャサリン

DSC_9594.jpg

55 「旅情」(監デヴィッド・リーン、音A・チコニーニ
           主キャサリン、ロッサノ・ブラッツィ
別れDSC_9599
           音楽「サマー・タイム・イン・ベニス」
59 「去年の夏突然に」(監J・マンキーウイッツ、主エリザベス・
       テイラー、キャサリン、モンゴメリー・クリフト
67 「招かれざる客」(監スタンリー・クレイマー、主S・トレイシー、キャサリン女優賞

客DSC_9586

           シドニー・ポアチエ
68「冬のライオン」(監A・ハーヴェィ、キャサリン・女優賞
ピーター・オートゥル、アンソニー・ホプキンス
  英国王ヘンリー2世の後継を巡る3人の王子と妃が絡むドラマ
81「黄昏」(監マーク・ライデル、ヘンリー・フオンダ男優賞
        キャサリン女優賞、ジェーン・フォンダ・ノミネート

DSC_9585.jpg

    人生の黄昏を迎えた老夫婦の愛情と父親と娘(フオンダ 親子の和解を描く)ジェーンが父にオスカーを取らせるためにキャサリンの協力を仰ぐ。

*キャサリン・ヘップバーンというと55年の「旅情」からである。
わかれDSC_9620

30年代の若い時代を知るよしもない戦後派はベニスの旅情を見事に引き出した、キャサリンの情感・ユーモアに感動した。知的・華麗・洗練という言葉が真に当てはまる大女優であることを知るのである。実用性のあるパンツ・スタイルは彼女のトレンドになり、男性に寄りかからない自立した女性のライフ・スタイルのベースに。
    
キャサリンのDSC_9625

*仕事上でパートナー(キャサリンとは9本共演)であった、スペンサー・トレイシー(1900-1967)とは実生活上でもパートナー

2人DSC_9589

であった。妻とは宗教上、かつ重い障害を持った子どもを育てていた為離婚出来なかった。マスコミは知っていたけれど、2人の名優に敬意を表して報道しなかった。それまで乱暴でアル中のスペンサーが、重厚で人望の厚い性格俳優に変わってゆく。傲慢で気が強く自我の塊のような女であったキャサリンが「彼に出会って、初めて自分以外の人を愛した。人生が変わった。」と自伝で言っている。2人の愛はかくのごときであった。20年に及ぶ愛を支え合ったがスペンサーの死を看取ったのはキャサリンであった。彼に永遠の別れを告げて、連絡を入れてキャサリンは家を出る。米国中が敬意を払った葬儀の列をキャサリンは遠くから見送った。棺に寄りそったのは妻であった。

*81年の「黄昏」はヘンリーとジェーンのフォンダ父娘の確執と和解の映画である。
.フォンダDSC_9629

ジェーンの母フランセスは夫ヘンリーの浮気を苦に自殺した。しかも死後わずかで新妻を迎えた父ヘンリーへの反感から、屈折した青春を過ごしたジェーン・フォンダ。父ヘンリーとは長年確執のまま。女優として「ジュリア」「コールガール」(女優賞)「帰郷」(女優賞)などの活躍。反戦活動は有名。
.フォンダDSC_9628

 81年の「黄昏」、ジェーン・フォンダは父ヘンリーが病気で先がない事、ヘンリーが本心はオスカーを欲しがっていたのを知った
彼女は、キャサリンに相談。「黄昏」の妻役を引き受けて貰い、自分は娘役、テーマは「父と娘の確執と和解、老夫婦の愛」ジェー
ンは実生活では絶対に言えない、父に「友達になって下さい」という台詞を、キャサリンの影の助けを借りてやっと映画の中で言
えた。「黄昏」はヘンリー・フォンダとキャサリンの2人にオスカー男優主演賞、女優主演賞を与えた。へンリー・フォンダは半年後に
亡くなった。
DSC_9621.jpg

後日、キャサリンの4度目の「女優主演賞」お祝いの電話をしたら、彼女から開口一番にかえってきたのが≪これで追いつけないわよ≫ ジェーンもノミネートされていたのだ。


  1. 2016/09/25(日) 18:02:05|
  2. 『2016年映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2016年映画』「トランボ―<ローマの休日>の脚本家・ハリウッドに最も嫌われた男」9/15

『2016年映画』「トランボ――<ローマの休日>の脚本家」ーハリウッドに最も嫌われた男 9/15


トランボ.ポスター

戦後ハリウッドで「赤狩り」というレッドパージの嵐が吹き荒れた。東西冷戦の1950年代の前半、米国を襲った共産主義者や良心的リベラル派の追放の嵐である。「マッカシー旋風」で知られる反共・反動の推進者は後に大統領になったリチャード・ニクソンやロナルド・レーガン。ハリウッドでの反共の手先はジョン・ウェインや女性コラムニストのヘッダ・ホッパー(オスカー女優のヘレン・ミレンが毒を振りまいている!)反共の闘士と化したホッパーのトランボを追い詰める凄まじさ!

ホッパ.ヘレン

最初の犠牲になった、当時「ハリウッド・テン」*と言われた10人の映画関係者がいた。その代表が本作の主人公脚本家ダルトン・トランボ(1905-1975)である。名作「ローマの休日」のシナリオで、友人の名を借りてのオスカー脚本賞を取る名脚本家だ。

DSC_9562.jpg

彼は言論の自由のために闘った。後に「スパルタカス」「パピヨン」といった傑作を手掛けた名脚本家の生涯を通して戦後のハリウッドの裏面を描く問題作だ。

(*「ハリウッド・テン」10人の名を挙げても現代では殆ど知られていない。当時共産主義の同調者と言われ狙われた最初の映画人10名、としておこう)

狙われた映画人を議会の非米活動委員会に呼びつけて審問、露骨に「あなたは共産主義者か」FIBのフーヴァー長官の調査の裏付けのもとに追求、議会侮蔑罪で有罪・業界から追放。仕事を失い喰うにも困る者も出てきた。

当時、狙われた者は皆優れた映画人だ。
チャップリン(亡命)、ブレヒト(米国に亡命していた)、オーソン・ウェルズ、ジョセフ・ロージー(亡命)、ジュールズ・ダッシン(亡命)、ダシール・ハメット、リリアン・ヘルマン*、アーサー・ミラー、エイブラハム・ポロンスキー、ハリー・ベラフォンテ、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ハンフリー・ボガード、ローレン・バッコール、約80名の映画人が赤狩りに対する公開抗議を行っている。

DSC_9573.jpg

(*フレッド・ジンネマンの名作「ジュリア」で大冨豪の娘として生まれたジュリア(ヴァネッサ・レッドグレイブ)が、思想的に目覚めて20世紀の最高の知性を身に着け、ファシズムと闘う様子を、友人のリリアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)との友情と、ダシール・ハメット(ジェイソン・ロバーツ)との愛を描いている。劇中、ヘルマンとハメットが海岸の別荘で同棲して創作に向かうシーン、創作で行き詰まったヘルマンがタイプライターを投げつけるシーンが印象的だった。)

「赤狩り」は疑いのある者は片っ端から呼びつけて審問にかけ業界から追放した。皆怯えていた。3つの生き方に分かれた。
①本編の主人公トランボのように抵抗して追放されて生活に困るか、亡命する者
②エリア・カザンの様にかつての仲間を証言で名指して、ハリウッドで逆に成功した者。*(後に触れる)
③怯えていた者・消極的な転向した者。

DSC_9561.jpg

映画は1947年、ハリウッドの名脚本家ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)は、妻クレオ(ダイアン・レイン)と3人の子どもと共に幸せな日々を送っていた。冷戦状況から理不尽な弾圧が襲ってきた。弾圧側は組織の議長ジョン・ウェインと女性コラムニストヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)。ホッパーはトランボに執拗に牙を向けてくる。議会に召喚されたトランボは侮蔑的な審問を拒否して、議会侮辱罪に問われ有罪とされ仲間と共に下獄になる。破壊分子とされ、仕事を失い家族の生活は困窮していく。

獄中のトランボは恐怖と不安に駆られ、唯一の心のよりどころの家族に宛てて手紙をしたためる。51年、出所して家族のもとに帰った彼を温かく迎えたのが最愛の妻クレオ(ダイアン・レイン)や3人の子どもだった。美しく成長した長女二コラ(エル・ファニング)に大喜びのトランボ。

DSC_9567.jpg

再出発を図ろうとする彼だが、ブラックリストに載っている彼に仕事はない。一家は餓死するしかないか?

トランボ取ったレジスタンスは
以下の通りだった。

書くDSC_9565

B級映画専門のK社の社長は政治に関心がなく、破格の安値で量産する脚本を求めていた。トランボはK社と契約、幾つもの偽名を使い分けて低予算のB級映画の脚本を書きまくった。仕事を失った仲間たちも巻き込み、家族にも電話の応対や脚本の配達の手伝いをさせる忙しさ!その間、彼が書いた「ローマの休日」がオスカーを獲る!勿論、友人の名前で。トランボの戦術は①生活の為 ②レットパージを無効にさせる為に有効だった。

家に籠って偽名で脚本を書きまくるトランボ、時には苛立ちが募り、長女のバースディを忘れて、多感の二コラを傷つける。二コラは遊びもデートも犠牲にしてトランボの手伝いをさせられる。性格の似た者同士の二人はよく衝突した。


そのような時、家族の平和を守ったのは妻のクレオだった。トランボが娘の二コラに、自分の立場、家族を守るために仕事をしなければならないこと、何よりも家族が大切だと訴えるシーンは感動的だ。

DSC_9570.jpg

トランボの特異さを表すシーンは風呂場のバスタブに入ってタイプを打つシーン。バスタブの彼の周りには必要なものが全部揃っている。酒・珈琲、、、何しろ書きまくった!バスタブから吠えまくった!

57年、偽名で書いた「黒い牡牛」が再びオスカー受賞。社会の風向きが変わるか?ハリウッドでも「赤狩り」に異を唱える者も出てきた。
政治的圧力を撥ね退けて、人気スター・カーク・ダグラスがキューブリック監督と組んで歴史大作「スパルタカス」をトランボのシナリオで撮ろうという動き。ポール・ニューマン主演で「栄光への脱出」をトランボのシナリオで撮ろうというオットー・プレミンジャー監督。
トランボの苦難が報われる日が近いか?
1960年業界復活後の或る集会での演説で「何より苦難の時代の私を支えたのは、妻と家族だった」と感謝の弁を述べる。

(*1952年、「赤狩り」の嫌疑をかけられたエリア・カザンは、否定するために証言でかつての11名の仲間の名を具体的に挙げた。その後のハリウッドでの活躍を保障させた。この裏切りは後のカザンの影を暗いものにする。
47年「欲望という名の電車」(T・ウィリアムズ)演出。49年「セールスマンの死」(アーサー・ミラー)演出。51年「欲望という名の電車」の映画化。オスカー4部門受賞。52年「革命児サパタ」

DSC_9563.jpg

54年「波止場」オスカー8部門受賞。55年「エデンの東」ジェームズ・ディーンを発掘。エリア・カザンは映画職人としては才能があった。だが、「赤狩り」時代の裏切りの汚名は一生ついてまわった。)
*私は高校生の時、エリア・カザンの裏切りを先輩から教わった。映画通の少年なら皆承知の事実だった。

(<有名なオスカー「名誉賞」受賞式での出来事>

DSC_9564.jpg

1998年カザンのオスカーの「名誉賞」受賞式の時のこと、プレゼンテターはスコッセシ監督とデ・ニーロ。リチャード・ドレィファスは事前に反対声明。ニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランは固い表情で無言の抗議をした。スピルバーク、ジム・キャリーは拍手したが座ったまま、起立して拍手したのは、ウォレン・ビーティやヘレン・ハントやメリル・ストリープだった。「名誉賞」の授与式は全員起立のスタンデイングオベーションが慣例だったから、異様な雰囲気になった。しかも、会場の外では支持派と反対派のデモがあった。反対派のデモのプラカードには「密告者カザン」と書かれていた。)

*ダントン・トランボ(1905-1976)の作品
40年「恋愛手帳」53年「ローマの休日」60年「スパルタカス」60年「栄光への脱出」61年「ガン・ファイター」62年「脱獄」65年「いそしぎ」68年「フィクサー」71年「ジョニ―は戦場にいった」73年「ダラスの熱い日」73年「パピヨン」56年「黒い牡牛」

キャスト
ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)、妻クレオ(ダイアン・レイン)、ヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)二コラ(エル・ファニング)

スタッフ
監督(ジェイ・ローチ) 脚本(ジョン・マクナマラ) 原作(ブルース・クック) 衣装デザイン(ダニエル・オーランティ)



  1. 2016/09/15(木) 18:55:21|
  2. 『2016年映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ