FC2ブログ

私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

『2015年映画』「アンジェリカの微笑」(101歳のオリヴェイラ監督の幻想譚、ポルトガルが舞台)12/22

『2015年映画』「アンジェリカの微笑み」(101歳のオリヴェイラ監督幻想譚、ポルトガルが舞台) 12/22

DSC_8352.jpg

ポルトガルのドウロ河がどくどくと流れている流域の、古く小さな町でのこと。カメラ趣味のユダヤの青年イザクが、ポルトガルでも有数の富豪の邸宅に招かれた。若くして亡くなった美しい令嬢の写真を撮るためであった。

家族に囲まれて美しい令嬢が、純白の死に装束で着飾り花束を抱えて横たわっていた。

DSC_8355.jpg

彼がカメラのピントを合わせようとすると、死んだはずの美女が瞳を開いて彼に微笑みかける。呆気にとられて、遺体を囲む家族たちを見るが、哀悼にくれたまま彼らの表情には変化はなかった。イザクは慌ててシャッターを切ってその場を後にした。
次の日、イザクは写真を現像していた。その中の1枚、アンジェリカが微笑みかけている写真だった。
イザクはそれ以来アンジェリカの虜になった。死んだ女を愛する幻想譚は日本でも、映画「雨月物語」や最近の「岸辺の旅」は死んだ男を愛するドラマがある。冥界とこの世は境界が近かったか?逆に、対極だからこそ純愛・悲恋の物語が生まれるのだろうか?
DSC_8385.jpg

106歳で2015年4月に他界したマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、101歳の時撮影した幻想譚。100歳の感性と思えないみずみずしい映像。死と生、カトリック教とユダヤ文化、機械に頼らず昔ながらの鍬(くわ)で葡萄畑を耕す農夫たち、水(みず)暈(かさ)の多いドウロ河畔の葡萄の段々畑の素晴らしい情景。ポルトガルの昔の風景の中での幻想的な純愛物語とでも言うのだろうか?
DSC_8360.jpg


マリア・ジョアン・ピリスが弾く、後期のショパン作品のピアノ演奏が素晴らしかった。映画では出だしからピアノが鳴って、映画全体を引っ張る感じで演奏していた。
ピリスはポルトガル出身の女性の世界的ピアニスト。何度か聴いたことがある。感情を削ぎ落した、深い音を創っていた。パートナーがヴァイオリニストのオーギュスタン・デュメイ。大男のデュメイと背の低いピリスとでは大人と子供のような感じだが、情熱的な弦楽器とそぎ落としたようなピアノ、素晴らしい演奏だった!

100歳の感性、芸術は年に関係がないのか?年々衰えていく我が体力、長生きも才能か?

<監督> マノエル・デ・オリヴェイラ(1908~2015)
ポルトガルのペルト出身。1920年代から映画界に身を置いていたが、サラザール独裁
体制下では企画が通らなかった。独裁が倒れた後、70年代に頭角を現した。「クレーヴ
の奥方」(99)でカンヌ・審査員賞、「家族の灯り」(12年)を監督。106歳で15年4
月死去。








スポンサーサイト



  1. 2015/12/22(火) 22:11:31|
  2. 2015年『映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2015年映画』「さようなら」(アンドロイドの映画化) 12/10

『2015年映画』「さようなら」(アンドロイドの映画化) (ブライアリ―・ロング、ジェミノイドF 12/10
                   監督:深田晃司、原作:平田オリザ(アンドロイドアドバイザー石黒浩)

DSC_8322.jpg

3・11後の世界、同時多発の原発事故によって全土が放射能に汚染された、近未来の日本という設定。政府は国を棄て、全国民が海外への避難を余儀なくされた。国民は出国の順番を待っている。

海の向こうで原子力発電所が炎に包まれて燃えている。人気(ひとけ)が完全に途絶えた街。日本が終末期を迎えている。

ターニャとレオナ②

政府が決める出国の順番も弱者は見捨てられている。病人や独身や前科者、難民や移民も順位が低い。この映画の主人公・南アフリカからの難民で家族が無く、病に伏せるターニャ(ブライアリ―・ロング)は諦めている。病弱の彼女を幼い頃よりサポートしているアンドロイドのレオナが世話をやく。

DSC_8328.jpg


二人の対話がいい。実際のロボットと日常の会話を行うのだ。初め俳優が演じていると思った。実は深田監督が所属する、平田オリザ主宰の劇団青年団の演劇でアンドロイドは大活躍(大阪大の石黒浩教授指導)、本物のアンドロイドは世界で注目されていたのだ。
DSC_8319.jpg

街々から人々が消えていき、汚染された世界が終末を迎えつつある状況で、主人公のターニャとアンドロイドのレオナだけの世界になっていく。死を知らないアンドロイドと誰もが最後は死んでいく人間。終末の世界でのターニャの孤独。難民の子ターニャ、家族もなく故郷もない。アンドロイドのレオナに見守られながら、死んで朽ちていくターニャ。
DSC_8338.jpg


終末期の世界というとロシアの名監督タルコフスキーを思い浮かぶが、自然の風景が極めて日本的なので、ぼくが思い浮かべたのが「九相図」。
(江戸時代の仏教絵画。美女が死んで屋外に打ち捨てられ、死体が朽ちていく様子を九段階に分けて描かれた。)
DSC_8335.jpg


アンドロイドはロボットであるが、僅かな表情の変化と顔の角度で、生きている人間であるかのように錯覚させる。映画の場面でいくつかのシーンがあった。

アンドロイドが若山牧水やカール・ブッセ、谷川俊太郎、ランボオの詩を読み続けるなかで、ターニャは裸で毛布にまとって、詩を聴きながら眠るように死んでいくシーンは感動的だ。
DSC_8342.jpg


監督・「深田晃司」(1980年~東京都出身。映画美学校卒業)
2005年平田オリザ主宰の劇団「青年団」に演出部として入団、「歓待」(2010)「ほとりの朔子」(2013)













  1. 2015/12/10(木) 18:33:57|
  2. 2015年『映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2015年映画』「放浪の画家ピロスマニ」(ギオルギ・シェンゲラヤ監督グルジア映画) 12/3

『2015年映画』「放浪の画家ピロスマニ」(ギオルギ・シェンゲラヤ監督、
                         1969年グルジア映画) デジタル・グルジア語版. ,
                         岩波ホール37年振りの再映 12/18まで  12/3


DSC_8207.jpg


「ピロスマニ」を観終わって思ったこと、こういうものを大切にしなければならない。心の奥底に忘れていた夢の童話みたいなものを想い出したような気がする。それは心の宝石みたいなものだと感じた。
舞台は19世紀後半のグルジア。

DSC_8206.jpg

ロシアでもなければヨーロッパでもない、又、中東でもなければアジアでもないコーカサスの大地。カスピ海と黒海に挟まれ、ロシアとトルコという大国に挟まれ、歴史上苦難も多くあった大地。訪れたこともなく、風景も写真で見たことはないけれど、懐かしさを感じ忘れ難い風景となった。

ピロスマニは居酒屋の看板や壁に掛ける絵を描いて暮らした。人から家庭を持ったらどうかと勧められたが、「鎖で縛られるのは嫌だ」と言って断ったそうだ。

DSC_8196.jpg

一か所に定住することなく、放浪の人生を送り、貧窮の果てに亡くなった。
生きている内はロシア美術界から相手にされなかったが、死後(1918年)グルジアでは国民的画家として愛された。

DSC_8211.jpg

映画に登場する彼の絵を見ると、決してプロの巧い絵ではないが、心に残る不思議な世界を造形していた。グルジア農村の原風景、街や家や山の風景、キリンや狼や犬などの動物、食卓を囲むグルジア人、又彼らの民族衣装など独特なものがあって、心に焼きついてくる。

DSC_8215.jpg


フランスから来た女優に恋をして、彼女の泊まるホテルの広場を多くのバラで飾ったエピソードを残した。女優の絵もある。ロシアの属国ラトビアの有名な歌謡曲のメロディーに、ピロスマニのフランス女優への恋の伝説をからめて、ロシアの詩人が歌詞をつけた。「百万本のバラ」である。日本語訳はいろいろあるが、松山善三訳をぼくは選ぶ。作詩によって単なる恋の歌か、少数民族の祖国愛の歌になるか、大きく違ってくる。

ピロスマニの「女優マルガリータ」(1909年)がグルジア国立美術館に現存する。
 
DSC_8218.jpg


松山善三訳(一部)
バラをバラをバラを下さい 百万本のバラを下さい
ボクのボクのボクのこの命 貴方に貴方に貴方に捧げたい

(貴方=ラトビア ボクの命=ラトビア国民 百万本のバラ=祖国愛
 大国ロシアの圧政に苦しむ周辺の小国ラトビアの魂の歌。)

監督 ギオルギ・シェンゲラヤ            ピロスマニ: アヴタンディル・ヴァラジ
撮影 コンスタンティン・アプリャティン他      ヴァノ :   ダヴィト・ アバシゼ
美術 アヴタンディル・ヴァラジ            ベゴ:     ティムラズ・ベリゼ
音楽 ノダル・ガブ二ア                マルガリータ: ロザリア・ミンチン
                               許嫁 :    ニノ・セトゥリゼ

1969年グルジア映画




  1. 2015/12/03(木) 15:23:16|
  2. 2015年『映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

『2015年映画』「FOUJITA](小栗康平監督、日仏合作)11/26

2015年映画「FOUJITA」(小栗康平監督、日仏合作)11/26、 オダギリジョー、中谷美紀、アナ・ジラルド
                                      アンジェル・ユモー、マリー・クレメール

DSC_7792.jpg

いまなぜ、藤田嗣治(フジタ)なのか?

第1次大戦後のフランスを中心に活躍した日本人画家・藤田嗣治の半生を、「泥の河」の小栗康平監督が10年ぶりに製作した。作品は2つに分けられる。

DSC_7846.jpg

① パリ時代
フジタ(オダギリジョー)は1913年渡仏し、第1次大戦後(1918)のサロン・ドートンヌで、エコールド・パリの寵児になった。日本画の面相筆で描いた細い独特の線描。透きとおるような「乳白色の肌」の裸婦は、フジタの名声をたちまち高めた。有名なモデルであったキキを描いた「寝室の裸婦キキ」はセンセーションを巻き起こした。
画家フジタはオッカパ頭の風貌と共に社交界のスターとなっていく。
DSC_7827.jpg

第1次大戦後のパリは狂乱の時代。戦争でそれまでの価値観が崩れ、自由とデカダンスに酔いしれた。世界中から芸術家が集まり、毎夜乱痴気騒ぎを繰り広げていた。画家としての高みを狙うフジタは、パーティーの後で必ず線を描くことを自己に課していた。「スキャンダルスをすればするほど、バカをすればするほど、自分に近づく、画がきれいになる」とフジタは言う。これはどういうことなのか?

DSC_7858_201511261713100e0.jpg

(何をやってもいいという事は、自己の行為の責任は自分でとる、西欧社会に個人主義が根付いている事を意味する。革命を経験した、「自由」とその背後にどれだけの「孤独」があるかを知っている。近代民主主義革命を経験していない日本人には全然理解できない。)
フジタは狂乱のパリでしたたかに味わい、その凄さを知った。しかし、フジタは近代化を始めたばかりの日本では評価されなかった
「フジタは宣伝屋だ。異国情緒で珍しがられただけだ。パリ人は軽蔑こそすれ、尊敬はしていない。」フジタの「乳白色の肌」についても、技法は画家が自らの実践で掴むものだと思っていたから、決して画家仲間にも教えなかった。しかし、西欧仕込みの技術を仲間と分かち合って学ぼう、という当時の日本の画壇の画家たちからは反発。フジタは反発する!「なぜ我々の先輩はパリの本舞台で西洋人と闘って来なかったのか?唯々日本に帰朝しての自分の地位だけを考慮していたのか?」「自分にはすべてを捨てて、少なくとも本場所の土俵の上で、大相撲を取ろうという覚悟はある」

フジタは40歳(1926)を過ぎた頃から、新しい絵のテーマを探し始める。古典の勉強に美術館に行って骨格の太い画法を研究したりした。1930年代に入って、中南米を旅したり模索が続く。中南米の旅は、愛人マドレーヌを連れていた。色彩に関心を持ってきた。
「メキシコに於けるマドレーヌ」(1934)
DSC_7876.jpg


②  画家と戦争
藤田嗣治は1886年(明治19年)東京に生まれた。明治の名門の家であった。父は森鴎外の後任の軍医総監であり親戚に名が知られた人が多い。高等師範付属の頃から画家に志し、フランスに留学したい希望を持っていたが、鴎外の勧めで今の芸大=東京美術学校西洋画科に入学・卒業した。1913年(大正2年)渡仏、パリのモンパルナスに居を構えた。モディリアーニやスーチン等と知り合い、彼らを通してピカソやパスキン、ザッキン、ルソー等と交友を結んだ。キュービスムやシュールレアリスムも知り、そして、サロン・ド・トンヌでの成功であった。

1933年日本に帰国、25歳年下の君代(中谷美紀)(1911-2009)と5度目の結婚、終生連れ添った。
DSC_7788_20151126171308017.jpg

当時の日本は、中国や南方への進出を加速させようとしていた。陸軍は世界的画家フジタに戦意高揚の「戦争画」を依頼した。フジタはトレードマークのオッカパ髪を切り落として引き受けた。

③  「戦争画」
*「アッツ島玉砕」(1943)

DSC_7957.jpg

ベーリング海のアッツ島での日本軍の壊滅的敗北を描いた。
敵味方の区別なく入り乱れた激しい肉弾戦を描いている。今では戦意高揚のためというより、反戦画だという感じ。最近の研究で、画面中央に兵士が敵を剣で突き刺そうとし、相手が兵士の顎に手をかけている。これと同様なポーズが、ラファエロの「ミルウィウス橋の戦い」(1520~)にあるそうだ。フジタは西欧の名画を頭に置きながら「アッツ島の玉砕」を描いていた!フジタは頭の中で、ヨーロッパの名画のように描けばいいんじゃないかという風に舵を切っていった。

DSC_7896_20151126172312506.jpg


*「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)
19世紀のフランス絵画の大家ドラクロワの「ドン・ジュアンの難破船」(1840)と比較される。これは、バイロンの詩が下敷きになっている。船が難破して飢餓にさいなまれた人々は、誰を殺して食べるかを籤(くじ)で選んでいる。やがて船に乗っている人々に訪れる悲劇を予感させる。

DSC_7900_20151126172311854.jpg

フジタの絵には、画面の上に獰猛なサメが描かれていて、漂流する米兵のこの後で訪れる悲劇を想像させる。フジタはドラクロアと同じように、目に見える出来事だけでなく、その奥にある深い物語や人間の本質まで描こうとした。ヨーロッパの伝統的な絵画を受け継ごうとしていた。ルネサンス以降の西洋美術には歴史画・戦争画の歴史と伝統があるのだ。
この時のフジタは戦争画を、誤解を恐れず言えば喜んで描いた。西洋の歴史画の歴史に参入する意気込みであった。

*「玉砕」というデマゴーグ
しかし、「戦争画」は軍の意向に沿うものだし、民衆の戦意高揚を奮い立たすものだった。

DSC_7921_20151126172820f3a.jpg

「聖戦美術展」が全国を巡回。フジタの「アッツ島の玉砕」は展覧会の華だった。が、現実の戦争は日本軍の壊滅、軍は「玉砕」という言葉の魔術で「戦意高揚」を狙った。小栗監督は「大デマゴーグだ」という。
流布された風説か?この絵の前に賽銭箱が置かれ、横に作者が立って、絵の参拝者がお賽銭を投げると、横に立っている作者が礼をする。もはや宗教的行事・戦死者への鎮魂の儀式ではないか!戦意高揚なんて吹っ飛んで、民衆は壊滅を、痛ましき全滅を悼み鎮魂したのではなかったのか!

DSC_7925_20151126172817a62.jpg

*  戦争期にはプロの画家は全員戦争画を描いた。これは文学・思想あらゆる分野に襲い掛かった嵐であった。非転向を貫いた文学者は小林多喜二のように獄中で虐殺されたか、中野重治のように良心的転向をした少数者を除いて、みんな戦意高揚の文学を書いた。
*  フジタは積極的に「戦争画」を描いた。戦後に「戦争責任」を問われるのだが、一見不遜ともとれる態度に終始して弁明をしなかった。西欧の戦争画・歴史画を継承しょうというのが、フジタの思いである。その絵が社会でどう扱われたか、民衆にどういう影響を与えたかはフジタの意識には無かった。それが問題である。

1945年敗戦、占領軍によって軍人や政治家の戦争責任の追及が始まった。画家たちの間でも憶測が流れた。戦争画のリーダーとしてのフジタの責任を指摘した。フジタは「絵を描くことは、戦意高揚や反戦とは関係がない。戦争画によって自らの絵を確立したのだ」と態度を崩さない。画壇に失望した彼は日本を去る決心をする。
1949年、63歳、羽田から出国する際こう言い残した。
「絵描きは絵だけを描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」以降二度と日本の土を踏むことが無かった。

小栗康平監督は総括する。近代日本は開国で西洋近代文化を取り入れることで、近代化・西洋化を図ろうとした。芸術家たちは憧れのパリに行って西洋絵画を学ぼうとした。フジタは近代主義の真髄=自由とその裏にある「孤独」を、渦中に飛び込んで知った。そして、パリで成功した初めての日本人画家になった。
ここで映画はもう一人の芸術家を登場させる。彫刻家・詩人の高村光太郎である。パリに恋焦がれる憧憬の歌、
「雨にうたるるカテドラル」(高村光太郎)
おおう又吹きつのるあめかぜ/
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら/
あなたを見上げてゐるのはわたくしです/
毎日一度はきっとここへ来るわたくしです/
あの日本人です/

光太郎も青春時代に近代西洋文化に憧れてパリに来た。その光太郎が戦時中に、詩人の戦意高揚の先頭に立った。敗戦後「失礼しました」と言って岩手の田舎に蟄居する。
日本が近代化を遂げなければいけない。そのためには仮初めであっても「国民国家」というものを作らなければいけない。「国民」は馴染みがないから「臣民」であり、一気に「玉砕」まで行って、敗戦後「一億総ざんげ」になる。「共同体」と「個」の関係が出来ない。2015年の今でも同じだと小栗監督は言う。鋭い見識だ。フジタは違う。戦争の責任を一身に背負わされて、ひるむことなく日本を去っていった。「自由」と「孤独」その背後にある「デカタンス」をエコールド・パリで経験して、いわば西欧近代の「たたき上げ」だ。他にそういう日本人はいない、と。
DSC_7928_20151126172816325.jpg

映画のラストの「キツネの話」は何を意味するだろうか?
キツネは里山に住み「稲作の守り神」である。村の近くに住むから、よく人間をだますとされる。
「夜行の汽車の機関士が、同じレールを向こうからこちらに向かってくる汽車を見て、慌ててブレーキを掛けるとその汽車は消える。同じことが何度も起きる。翌朝いつもキツネの死体が無数に線路に転がっている」
このキツネのエピソードから何をくみ取れるか?小栗康平監督がこの映画に仕掛けたマジックだ。フジタへの、日本人へのメッセージではないか?
古来から稲作の里山の共同性の中で生きてきた日本人の穏やかな暮らし、近代の「個」と「孤独」の中で闘争的に生きざるを得ないヨーロッパ社会、その接点を求めたのではないか?フジタにも我々日本人にも、、、




  1. 2015/11/26(木) 17:00:00|
  2. 2015年『映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『2015年映画』「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」(監督ジョン・マル―フ出演ヴィヴィアン・マイヤー)11/6

『2015年映画』「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」(監督、ジョン・マル―フ、チャーリー・シスケル)11/6
                               出演、ヴィヴィアン・マイヤー、ジョン・マルーフ

DSC_7595.jpg

このドキュメンタリー映画の監督にもなる、シカゴのジョン・マル―フという青年は昔のシカゴの街の風景写真を探していた。オクションでネガフィルムが一杯詰まったカバンを手に入れた。中には「ヴィヴィアン・マイヤー」という名前と、数十年前のシカゴの写真で溢れていた。「ヴィヴィアン・マイヤー」とは何者なのか?ネットで調べても何の情報も無く、美術館・画廊・出版社に問い合わせても作者は分からず、写真については相手にもしなかった。写真を自身のブログに掲載してみると、大好評の絶賛の嵐!その声援に押されて展覧会が開かれ、写真集が出版され、売り上げが全米1位を記録するというヒットになった。

<ヴィヴィアン・マイヤーの作品> 1
DSC_7596.jpg
DSC_7598.jpg
DSC_7602.jpg
DSC_7626.jpg

ある時、「ヴィヴィアン・マイヤー」をネットで検索してみると、数日前に亡くなったという死亡記事があった。彼はその住所の所を訪ねて行って、彼女がプロの写真家ではなく、ナニー(乳母)兼家政婦だったことを知る。ますます興味を持った彼は、幼少期にヴィヴィアンに育てられた人にインタビューをして、彼女を掘り下げていく趣向で映画は進行していく。

<ヴィヴィアンの作品> 2

DSC_7621.jpg
DSC_7617_20151106214820286.jpg
DSC_7631.jpg
DSC_7649_2015110621481910d.jpg
DSC_7660.jpg

生前のヴィヴィアンを知る人は殆どがアーティストとしての側面を知らなかった。彼女はアーティストとして認知されず、頑なにプライベート部分を人に見せなかった。(しかし、残された写真が優れた資質を語っている。)フランス人?結婚をせず身寄りも分からず、シカゴで乳母兼家政婦として生活し、友人も少なく、晩年は路上生活者同然で貧しい生活者として終わった。

<ヴィヴィアンの作品> 3
DSC_7608.jpg
DSC_7614.jpg
マイヤーDSC_7684
DSC_7683.jpg

<残された写真から何が見えるか?
写真は子守りの仕事で子どもたちと出かけた際の、ストリートスナップが中心だ。街中で出会う人々にシャッターを向けた。
子供、老人、裕福な人間、低所得者、路上生活者、老夫婦の人生を思わせる1コマ、大都会の孤独、犯罪者、そして自分自身の姿を。

< ヘンリー・ダーガー展>のこと
2002年の秋、外苑前の「ワタリウム美術館」で見た、ヘンリー・ダーガー(1892年~1973年)の絵画を想い出した。ダーガーはシカゴの教会の清掃人として一生を過ごし、夜自室に籠って奇妙な小説「非現実の王国」と挿絵を描き続けた。
教会と仕事場とアパートの自室とを行き来するだけで、友人もいなく、彼が小説と絵を描いていることを知る者、誰一人いなかった。死ぬ間際にアーティストの大家によって作品が発見されて世に知られた。
ダーガーの運命と似ている。密かに作品の制作を行い、膨大な作品を残した。無名の人生で、身寄りも友人もいない孤独な人生だった。

<ダーガーの作品・挿絵>
DSC_7680.jpg
DSC_7679_201511062158217a3.jpg
DSC_7678.jpg
DSC_7677.jpg
DSC_7671.jpg


ヴィヴィアンもダーガーも作品を世に問う意思はなかったか?
自分の作品に対して、自分自身はどう評価していたのか?
何故、作品を作り続けたのか?

アメリカは広い、奥が深い、と言って済む問題だろうか?






       
 
  1. 2015/11/06(金) 22:00:25|
  2. 2015年『映画』
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ