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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑧「ドブロブニク」

2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑧「ドブロブニク」
城壁②
ドブロブ二クはクロアチアの最南端に位置し、アドリア海の港町として中世、ヴェネチアと並ぶ海洋都市として地中海交易に名を連ねた。
西ローマとビサンチンの境界という位置を武器として長い間、ヴェネチア、オスマン・トルコに囲まれながら独立を保ってきた。それにはドブロブニク人の叡智と類まれな自治の精神と優れた商才によると思われる。
7世紀頃までに、移住してきたスラブ人(現在のクロアチア人)と小島のラグーサに住むラテン系の人々が住み着き、交流して12世紀には合併、現在のドブロブニクが出来上がった。
中世の東地中海交易の中心はヴェネチアであり、ダルマチア海岸はヴェネチア船舶の航路であった。さらにエルサレムへの巡礼船や十字軍も対岸のイタリア側ではなく、クロアチア側を航海した。複雑な海岸線と入江や小島に恵まれたからだ。
DSC_1796ボーカル要塞から

ドブロブニクは東側からの西ヨーロッパ文化圏(カトリック)の入り口となった。この異文化の境界点をなしたことは大きい。
ドブロブニクは当初、ビサンチン帝国の保護下で出発、年貢を収め、その後イタリアの諸都市と交易を結び、町の背後のセルビアやボスニアとも交易を結ぶ。
13世紀にはセルビアの鉱山からの鉱物の仲買で莫大な富を得る。
14世紀のハンガリー・クロアチア連合王国時代に、自由独立都市としてその後の黄金時代を迎える。鉱物、羊毛、絹、塩、宝石などの交易で商館は諸都市に50ヵ所、16世紀には地中海で最大の商戦隊を持つようになった。
15~16世紀が全盛時代。
城壁の一周、1時間かかる。
スルジ山頂、ケーブルカーの駅の跡。(その後改修されたそうだ。)
1991年連邦軍との内戦で山頂から24発の砲撃を受けた。

2、城塞都市「ドブロブニク」の案内
DSC_1566ピレ門へ
イ、)「ピレ門」
旧市街西側(スプリット方面)の入り口に「ピレ門」がある。高さ25m厚さ3~6mの城壁が2kにわたって、旧市街を囲んでいる。昔は警備に兵がいて日没になると、跳ね橋が上がり門扉は閉じられ夜が明けるまで誰も入れなかった。
守護聖人
「聖ヴラホ像」町の守護聖人。
ロ、)「オノフリオの噴水」と救世主教会
大噴水
入ってすぐの所の広場に、大きなドームをつけた「オノフリオの噴水」がる。
川のないドブロブニクにとって水の確保は重要な問題だ。近くのスルジ山の水源から上水道を15世紀に完成させた。
噴水に面して「救世主教会」がある。ルネサンス風のファサードとバラ窓ポイントである。
救世主教会
フランシスコ会教会の回廊
ハ、)「フランシスコ修道院」
14世紀建設。当時のロマネスク様式の美しい回廊がある。修道院内には1391年開業の、ヨーロッパ3番目に古い薬局があり、現在でも営業している。
薬局①
DSC_1686プラツァ通り②
ニ、)「プラツァ通り」
旧市街入り口ピレ門から中心部ルジャ広場まで続く200mの目抜き通り。銀行、旅行会社、ショップ、カフェが並ぶ。
DSC_1676ルジャ広場
可愛い少女
ホ、)「ルジャ広場」
周囲にスポンサ宮殿、聖ヴラホ教会に囲まれ、広場の中心にオルランドの柱(8世紀にカール大帝に仕えた騎士で、自由の象徴としてこの像が建てられる)
南側に「オノフリオの小噴水」がある。大噴水と同じ時期に建てられた。
ローラント像
剣を持つ「騎士ローラント像」この像の右腕半分の長さ(肘から手まで)は51.2cm=「ドブロブニクの肘」といわれ、当時の商取引の長さの単位なっていた。
アーチに書かれた商人魂
旧港
へ、)
<「旧港」
かつてここは交易の中心だった。
「検疫所」16~17世紀には長い航海でペストなどが蔓延しやすいために「40日間」隔離する。
ト、)「大聖堂」
17世紀にバロックで再建。ドブロブニクが中世に貿易港として繁栄した品々が収められている。祭壇にはティツィアーノの「聖母被昇天」が飾られている。
チ、)「スポンザ宮殿」
16世紀に建てられた当時はドブロブニクに出入れする物質や財の管理所だった。
3階に守護聖人聖ヴラボの像が取り付けれ、現在は古文書館。
宮殿の中庭のアーチに「商品の荷を量る時には、神に量られていると思わなければならない」(商取引に公正を期したドブロブニクの商人魂を刻み込んだ言葉だ。)
リ、)「聖ヴラボ教会」
ドブロブニクの守護聖人を祭る教会。
総督府
ヌ、)「総督府」
総督の住居と同時に、各評議会・行政が集まる心臓部。
総督の任期は1ヵ月、任期中は外へ出られない。
ル、)独立を何故保てたか?
ドブロブニクは12世紀まではビザンチン、13~14世紀半ばまでヴェネツチア、
14世紀半ばからハンガリー、15世紀からオスマン・トルコが保護国としていた。
19世紀にナポレオンが崩壊させる。
宗主国に年貢はきちんと払い、実質的な自由を得ていた。外国の軍隊が駐留することも無く、政治に介入することもなかった。
ドブロブニクは東の正教会と西のカトリックとの、キリスト教とイスラム教との境界線でもあった。又、強国の脅威にさらされていた。このため、ドブロブニクは自由を維持するため、巧みな外交と時には’自由を金で買う‘ことも厭わなかった。
オ、)「どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない」
 ピレ門に近いロヴリィエナッツ要塞の壁に書かれた言葉!
ロヴリィエナッツ要塞
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  1. 2013/02/05(火) 18:46:46|
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2008年『スロベニア・クロアチア旅行』⑦モスタル

2008年『スロベニア・クロアチア旅行』⑦ モスタル
モスタル④
⑦「モスタル」ー(ボスニア・ヘレツェゴビナ)
ボスニア・へルツェゴヴィナのアドリア海に突き出た僅か9kの「ネウム」より内陸に入った、ネレトヴァ川の渓谷の町「モスタル」。緑乳色のネレトヴァ川の上にアーチの石橋が1566年オスマン・トルコによって架けられた。
スタリ・モスト
スタリ・モスト(古い橋)と呼ばれ、内陸とアドレア海をつなぐ交易で栄えた町。
石橋の両岸にイスラム人とクロアチア人が共存していたが、1993年のボスニア内戦で橋は破壊された。相応で戦った傷跡は今でも残っている。
内戦の痕
1995年、NATOの介入で、人々に傷跡を残して終結。橋の修復はユネスコ、世界銀行、募金などによって、200
93年を忘れるな
橋②
4年復元された。現在、橋の袂には「DOH’T FORGET’93」(93年を忘れるな)小さな石碑が建っている。
モスタルの通り②
オリエンタルな風情漂うモスタルの町、ここはゆったりとした悠久の時間が流れている。職人の街=オールド・バザールにはオスマン・トルコ時代の伝統的な生活様式が残り、時が止まっている。
オリエンタルな旧市街
ネレトヴァ川
旧市街④
橋④
  1. 2013/01/31(木) 15:37:40|
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2008年『スロベニア・クロアチア旅行』⑥ダルマチア海岸


2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑥ダルマチア海岸
港

クロアチアのアドリア海沿岸「ダルマチア」という。犬のダルメシアンの名前の由来とか。僕にとって前にも触れたが、アドリア海、ダルマチア海岸は憧れの夢の王国なのだ。代表的なスプリット、トロぎール、最後にドブロブニクに行く。
DSC_1232スプリットの市街地②
スプリットの市街地

イ、スプリット
スプリットはアドリア海沿岸で20万人の人口を持つ最大の町である。海岸通りに面した古代ローマ帝国の宮殿が近代のスプリットになっている。それは古代ローマ皇帝ディオクレティアヌスの隠居所跡であるからだ。その後廃墟に人々が住み着いて都市になった。世界遺産。古代宮殿に人々が住み着いて町を作ってしまったのだ。
地下の宮殿跡
古代ローマ時<br />代の遺跡

遺跡①

ここを創った皇帝の名はディオクレティアヌス。エジプト遠征の際に持ち帰ったスフィンクス像。
宮殿跡の市街地は古代ローマの遺跡を留め、アドリア海沿岸の最大の20万の都市としてのおしゃれの街を創った。
DSC_1311.jpg
DSC_1317ナロドニ広場のヴェネチア風建物
長い間、ヴェネツィアの支配下のためか、ヴェネツィア風の建物も目にする。
カフェ
グルグール司教像
クロアチアのロダンといわれた「メシュトロヴリッチ」の「グルグール司教像。左足の親指を触ると幸運が訪れるといわれている。
大聖堂(トロぎール・聖ロヴロ大聖堂)
ロ、トロぎール
DSC_1380トロギールの守護聖人
時計塔

トロギールの旧市街は周りを城壁で囲まれ、橋で渡る小さな島で、起源はギリシャ時代に遡るほど古い。ここの「聖ロヴロ大聖堂」はクロアチアを代表する教会。アダムとイヴの像が両端に彫られたロマネスクの門は13世紀クロアチア美術の傑作。正面入り口のロマネスク様式の門が有名。町の守護聖人イヴァン・ウルスィニの大きな像が
建っている。
海岸通り・トロぎールの

「聖ニコラ修道院」ベネディクト派の女子修道院。紀元前3世紀のカイロスのレリーフが展示されている。
「カメルレンゴの砦」15世紀に支配者ヴェネツィア人によって改修された。しばしばトロぎール人は反乱を起こした。
帆船
(大きな帆船が泊まっていた)
  1. 2013/01/29(火) 21:29:29|
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2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑤プリトヴィツェ国立公園

2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』⑤プリトヴィツェ国立公園

イ、「内戦の痕」
ザグレブからプリトヴィツェへバスで移動する途中、ある村に戦争の傷跡が放置されているのを見た。
壁に残る弾痕の痕
戦車
内戦の痕/ビルの残骸
1990年代の旧ユーゴスラビアの内戦か15.6年経つた。こういう無残なものを見ると、表面の繕いの下に不可解な渦を感じる。
ロ、 「プリトヴィツェ国立公園」
公園の手前で滝の中に家があるような壮観な風景を見た。
川の上に覆いかぶさるように家が建っている
プリトヴィツェ国立公園はすばらしい滝・川・湖・草木・木々・野鳥・魚・などの王国であった。
公園内の清楚なゆったりとしたホテル「JEZERO](イェゼロ)に泊まった。
プリトヴィツェ国立公園入り口
DSC_1035プリト②
プリト④
記念撮影向き
早春のプリト
ハ、翌朝撮ったもの
連絡船みたいなものに乗った時、同船したフランスの合唱サークルの人々と一緒に合唱した。というか、フランス人のほうが積極的に誘ってきたのだ。ラテン系の陽気さを感じた。ジャパンはもじもじしていてダメですね。
DSC_1106湖の向こう岸に渡る船中で一緒になったフランス人の合唱団
DSC_1159絶景
DSC_1123植物の群生
  (植物の群生)
DSC_1168花
DSC_1163プリト①
絶景②
息を呑まれる絶景①
DSC_1162つけたし
内戦の時、このプリトヴィツェの大自然も戦場になった!という。
  1. 2013/01/29(火) 18:13:15|
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2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』④ザグレブ

2008年『スロヴェニア・クロアチア旅行』④ザグレブ

大聖堂を眺める(聖母被昇天大聖堂・サグレブのシンボル)
クロアチアの首都。ザグレブ中央駅から北に新市街、イリツァ通り、共和国広場から丘に登ると旧市街である。
繁華街
イ、「イエラチッチ広場」(共和国広場ともいう)
 ザグレブの臍ともいえる中心部のかなり広い広場。旧市街カプトル地区の玄関口。カフェ、レストラン、ショップが並ぶ。イリツァ通りから丘の上の東のカプトル地区、西のゴルニィ・グラード地区に分かれる。
被昇天大聖堂
ロ、「聖母被昇天大聖堂」
 13~18世紀にかけて建てられたザグレブのシンボルともいうべき大聖堂。高さ100m以上の塔が2つあり、市街のどこからでも見ることが出来る。現在の外観は1880年の地震後の再建、ネオゴシック様式を取り入れられた。ルネッサンスやバロックの祭壇や説教壇があり、16世紀にオスマンの軍隊と戦った勇者の墓もある。
DSC_0919マルコ教会

ハ、「聖マルコ教会」
 屋根がモザイクの印象的な教会。群青と赤茶のタイルを使い、2つの紋章がデザインされている。左はクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォ二ア地方を表す紋章、右がザグレブ市の紋章。
石の門①
ホ、「石の門」
 聖マルコ広場の東に、「石の門」という中世の門が残る。18世紀の半ば火災で木製の門は焼けたが、くすぶる灰の中から『聖母子のイコン」が見つかった。人々は礼拝堂をもうけ、奇跡のイコンを信仰した。今でも、民衆の奥の根に信仰がある。
DSC_0911人々で賑やか
へ、 「ラディッチ通り」
 石の門を出て坂道の広場に抜ける繁華街の通り。20世紀の初頭クロアチア農民党を率いて南スラブの統一王国の
建設に立ち上がったラディッチの名がついている。
旧市街の道
ト、「トカルチチェヴァ通り」
 ラディッチ通りを中ほどで左に曲がると古い民家の通りがある。
チ、カフェで語る若者たち
DSC_0949皆語らう
若者が語らう
ヌ、ザグレブの繁華街
 クロアチアの首都だけあって大きな都市だ。エネルギーに溢れている。
新市街の電車通り
  1. 2013/01/29(火) 16:43:05|
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