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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

2011年⑫『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その3・2011.5.19(木)20(金)記12.10.12

2011年⑫『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その3・2011.5.19(木)・20(金) 記、12.10.13 

A) ブランカッチ礼拝堂(サンタ・マリア・カルミネ教会)「聖ペテロ伝」壁画連作。
  (作、マザッチョ、マゾリーニ、フィリッピーノ・リッピ。制作1424~27年。1482~83年)


カルミネ教会
  (サンタ・マリア・カルミネ教会・ブランカッチ礼拝堂)

ブランカッチ・ペテロ伝の右
(ブランカッチ礼拝堂・「聖ペテロ伝」右側=作者 同)
 
 
 18世紀の火災で殆ど消失したが、幸いマザッチョらの壁画連作のブランカッチ礼拝堂が残った。ここはルネサンス絵画の学校、遠近法の絵画における初めての実験場だった。ヴァザーリが「ルネサンス画人伝」で最大の賛辞を贈っているように、ここでダ・ヴィンチもボッティチェッリもミケランジェロも学んだ。
 
 1400年代の初め建築家ブルネレスキが、鏡に建築の輪郭を写し取り遠近法の実証に成功。彫刻家ドナテッロ、ギベルディとそれぞれ成果をあげ、1426年マザッチョがブランカッチで絵画における遠近法に成功した。皆友人である。1435年アルベルティが「絵画論」で透視図法の理論化を表し、1450年代ピエロ・D・フランチェスカが「聖十字架物語」の大作を完成した。平面・2次元の世界に立体・3次元を描く事に成功したわけで、絵画が奥行き・量感、構成において夢幻の拡がりと可能性を持ったことになる。近代絵画の始まりである。

* 物語はキリストに課せられた教会の使命、キリストの1番弟子ペテロの実践の物語を通して教会が実現した人間救済の物語。アダムとエヴァの「原罪と楽園追放」から物語は始まり、人間は原罪を背負い神の言葉のみが救う。漁師からキリストの1番弟子になったペテロの、「説教」(人間救済のまことを告げ)と「洗礼」(イエスの名において行われる洗礼で人間の罪が許される)「貢の銭」と「足萎えの治療とタビタの蘇生」はキリストの命によってペテロが実践する生命の力の発現。

DSC_1791マザッチョ①
    (マザッチョ・「共有財産の分配とアナニアの死」)

「影による病人の治療」(ペテロが行う救済)、「共有財産の分配とアナニアの死」では。金銭への貪欲やごまかしに対する断罪。「テオフィルスの息子の回生」では真実の言葉こそ人間救済の奇跡を行うものだと証した。
「魔術師シモン」で幻術と救済は関わりないこと。「ペテロの殉教」で人間と救世主との一体化をあげる。

楽園追放
  (「楽園追放」マザッチョ・ブランカッチ礼拝堂)

 ブランカッチ礼拝堂の一番奥に上記の壁画が左右にあり、眼前で見ることの満足感にひたる。(アレッツォの「聖十字架物語」も同じ)作品に圧倒れ息をのんだわけだが、どういうわけか頭は理詰めになっていた。
 どこが遠近法?どれがマザッチョで又マゾリーノなのか?。
 マザッチョは構図・構成力において当時の絵画史上画期的な作品を描いた。遠近法という技法を駆使して。

貢の銭
(『聖ペテロ伝』「貢の銭」マザッチョ・ブランカッチ礼拝堂)

① 「貢の銭」。画面中央、キリストと弟子たちの一行に収税史が立ち塞がり納税を要求している。キリストは「カエサルのものはカエサルに。神のものは神のものへ」と言いながらも、左端でペテロが湖で魚を獲り(魚の口から銀貨が)、右端でペテロが役人にお金を渡している、3つの場面を描いている。「納税は市民の義務」という当時の政府の主張(市民の資産に公平な税金をかけ公平に分配しょう)を代弁していることになる。

②  遠近法の技法が計算されて使われている。背景の枯れ木は縦の線の等分であろうし、中心点のキリストの頭部に向かって何本かの線を引いたに違いない。中心のキリストを取り巻く楕円形の集団、人物の顔や表情、衣服の襞(ひだ)の描き方など、ヴァザリーが言う「それまでの絵画が足元は幽霊のようなもの」、に対して大地に根ざした人間を描いたのだ。現実の生きている人間をリアルに描くことはマザッチョだから出来たのだ。又、今で言うデッサンともいうべき「下絵」を張って針で穴を開け、顔料の粉を壁に叩き移す方法で制作していった。
 
  (「足萎えの治療とタビタの蘇生」マゾリーノ・ブランカッチ礼拝堂)

③  マゾリーノはマザッチョより18歳も年上で同郷の親しい関係。師弟関係かと思われたが現在では否定されている。国際ゴシック派のマゾリーノ1人では「聖ペテロ伝」のような現実主義の、雄大な構想力と優れた遠近法を駆使した壁画連作は無理である。この2人の関係がわからない。ウフィツィの「聖母子と聖アンナ」で聖母子と右上の「天使」がマザッチョと言われるけれど、「聖アンナ」や他の「天使」をマゾリーノとすれば、絵の次元が違うことは一目瞭然だ。又、マゾリーノの「原罪」とマザッチョの「楽園追放」を較べても、「楽園追放」では人間のあらゆる罪を背負って生きる苦悩が良く出ている。人体の描き方も(彫刻の影響か)ギリシャ・ローマを手本にした古典古代の造形美の基にリアルである。「原罪」の甘さと較べて、2人の違いが如実に出ている。

⑤ フレスコ画の性質から「聖ペテロ伝」の構想・構図・勿論主題・下絵を2人は練り上げたに違いない。当然新しい思想を持つマザッチョがリードした。半世紀後、下絵を基にフリッピーノは連作を完成させた。 

(2) 「サン・スピリット教会」
サン・スピリト教会
    (「サント・スピリト教会」)

13世紀中頃、ブルネッレスキの設計で建設が始まった。彼の死後幾多の曲折を経たが、彼の設計に忠実に完成した。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ベルニーニが称賛した教会である。

ミケランジェロの木彫の十字架像
   (ミケランジェロ・木彫の「キリスト十字架像」)

 この教会の何よりの見ものは、若き18歳ミケランジェロの木製の「キリストの十字架像」だ。後期の筋肉隆々たる彫刻ではなくて、若鮎のような清楚な木彫なのだ。木がいい。シンプルはビュティフル!しなやかで柔らかな感触にほっとした。「サント・スプリト修道院」の食堂の壁に掛けられていたのを1962年に発見され、1964年修復・調査の末ミケランジェロ18歳の時の作品と認定された。

*教会の内部は広く40もの礼拝堂が並んでいる。有名な作品は、
 フイリッピーノ・リッピ「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」。
 マーゾ・ディ・バンコ「多翼祭壇画」。
 ギルランダイオ「聖母子と聖アンナ」。
 ロマネスク前期とルネサンスの彫刻が多数。

*サン・スプリト教会の近くでカフェに入ったら、日本人の女の子がウエイトレスのバイトをしていた。すぐ近くのイタリア語学校に通っていて、夜も日本料理店でバイトをしていると、言う。「何を目的に?」「イタリアに来たかったから」言葉通りかわからないが、最近、美術とか料理とか目的があってイタリアに来るのではなくて、まず来てしまう人が多い、と聞いたことがある。


【5月20日】(金)フィレンツェ・フリータイム。
 
 一行の人の行動は「ウッフィツィ」へもう一度行った人、「ピサ」へ日帰りの旅行をした人、様々だ。
 私達は①孫へのお土産を買う事。②ノヴェラ教会③サンタ・クローチェ教会。移動の時間を入れて2つぐらいの見学しか出来ないだろうと思った。最後の日なので有効に使いたい。
 中央駅に近く、ホテルからも近かったので「サンタ・マリア・ノヴェェッラ教会」からと思ったが、金、日、祝は午後からだというので、「サンタ・クローチェ」へ目指すことにした。アルノ川沿いを下流に向って歩く。ヴェッキオ橋を横に見て次のグラッツィエ橋から街中に入って行く。
DSC_8513サンタ・クローチェ教会
     (サンタ・クローチェ教会)」

(3)「サンタ・クローチェ教会}
 フランチェスコ会の世界最大の教会。多くの礼拝堂を有しジョット及び弟子たちの壁画によって知られている。ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリなど有名人の墓があることでも知られている。日本の高野山みたいに文化人はここに埋葬されたいと思ったので、多くの墓や記念碑がある。
 14世紀の初めに全面的な再建工事が始まり、本堂は1385年に完成。
 アッシジもスクロベーニも知らなかった初めての時は強烈なジョット体験だった。今回ジョットが修復中で断片しか見れなかった。
チマブーエの「十字架像」
   (*チマブーエの「十字架像」)
 1966年のアルノ川の洪水で大きく破損したにもか変わらず感迫るものを感じた。かなり破損しても存在感の凄さ は見事なものだ。

ジョット・洗礼者の誕生・サンタ・クローチェ
   (ジョットの「ヨハネ伝・洗礼者の誕生」サンタ・クローチェ聖堂)

* ドナテッロのレリーフ(浮き彫り)「受胎告知」。*ジョット及びジョット工房の「聖フランチェスコ伝」の一部が見えた。

* ここでの最大の失敗はガイド無しで見たことだ。後で「付属美術館」にも行くわけだが、多くの傑作があった にも関わらず作者・作品名がわからなかった。後の「ノヴェッラ教会」は知っている画家が多かったが、クロー チェはジョット派の弟子たちが多く、こちらの勉強不足であった。

* タッデオ・ガッティ「バロンチェッリ礼拝堂の<最後の晩餐>」ジョットの弟子として24年間仕えた。
* ジョット&工房「バロンチェッ礼拝堂の<聖母戴冠>」
* マーゾ・ディ・バンコ「ヴァルディ・ディ・ヴェル二オ礼拝堂」のフレスコ画群。
* バッツィ家礼拝堂の一連の装飾。
* アーニョロ・ガッディの「聖十字架物語」タッデオの息子、ガッティ工房の3代目。
もし再び訪れることがあればもっと勉強して行くだろう。
サンタ・クローチェは美しい白大理石に緑の線で縁取られたシンプルな教会だ。前に大きな広場が広がっていて落ち着いた雰囲気を持っている。広場の先に皮製品を売る店があって、昔日本人の女店員(イタリア人と結婚)がいてこの店でお土産を買ったものだ。今回も若い日本人の女店員がいたが、中国人の観光客の集団がワイワイ言いながらお土産を買い漁っていた。我々も昔はあんな事をしたのか?時代の流れを感じた。

 共和国広場の近くにZARAの子供専用の店があるので、本年もそこで孫へのお土産を買った。
 アルノ川沿いのカフェで簡単で遅い昼食。ノヴェッラ教会に行く前に、マリーノ・マリーニ美術館を地図で調べて行くことにした。

(4) 「マリーノ・マリーニ美術館」 
マリーノ・マリーニ   (「マリーノ・マリーニ美術館」の馬の彫刻)

*10数年前初めてフィレンツェに来た時のこと、
「一行の中に女性の彫刻家がいた。その方とは若い頃日本橋のデパートでイタリア現代彫刻展やイタリア具象絵画展を見たことを話した。マリーニやマンズーの作品の話、(その方も見ていた)具象的で生活空間に飾っても作品がマッチする事などを話した。フィレンツェに来て、梱包された包みを持ってホテルに帰ってきた。マリーノ・マリーニが好きで今日美術館に行ったらあいにく休館だった。がっかりして帰ってくる途中画廊があってマリーニの良いエッチング?(記憶が確かでない。時価10数万と聞いた)が飾ってあった。思い切って買った。お小遣いを全部叩いた。これでいい。と満足そうに我々に語った。
マリーノ・マリーニといえば馬の彫刻とこの話を思い出す。
うつ伏せの女
マリーノ夫妻と帽子を被る少女
   (「背のきれいな女」「若きマリーノ夫妻」「油絵」)

 階段を上ってゆくと広い空間が奥まで広がって、真ん中の吹き抜けを囲むように、2階、中2階、3階と作品を陳列してある。馬と人、男や女の裸像、古代彫刻のような女の顔、うつ伏している女の素晴らしい背中から腰にかけての曲線。若い頃絵も描いていたんだ。大きな帽子を被り手に小さな花を持った少女の肖像。モディリアーニみたいな芸術青年と美しい女性の、若い頃のマリーニ夫妻の肖像写真。数人の画学生の男女が写生をしていた以外に誰もいなかった。ゆったりとした時間が流れていた。先ほどのうつ伏している女の背中の曲線の何とも言えない美しさに、20世紀イタリア彫刻の可能性を見た。

「5」「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」

ノヴェッラ教会
   (「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の華麗なファザート)

 13世紀の前半、ドメニコ派の聖堂として建てられた。

① ジョットの「十字架像」に圧倒された。大きな教会の真ん中に、天井から吊るされたキリストの大きな磔刑図。衝撃が走った。
ノヴェラ・十字架のキリスト・ジョット
    (ジョット「十字架のキリスト」ノヴェラ教会)

② マザッチョ「三位一体」
 マザッチョの「三位一体」大きな作品である。イオニア式の円柱、コリント式の角柱、半円のアーチ囲まれて正面に父なるヤハウェ神、磔刑のキリスト、精霊の鳩(これが見えない)の三位、キリストの両側に聖母マリアと使徒ヨハネ、その下にこの絵のパトロンの夫妻が描かれた。(パトロンが誰か色々な説がある)この絵は数奇な運命を持ち、絵の前に祭壇が設けられたり、ヴァザーリによって別の祭壇画が置かれたりして300年マザッチョは眠っていた。20世紀になっての発掘で祭壇の裏の壁の中から石棺に横たわる骸骨の絵が出てきて1952年元の形に戻された。骸骨の上にラテン語で「我はかつては汝らのごとし、汝らもいずれ我のごとくならむ」
しかし、この絵には感心しない。色が悪いし、聖母の表情以外は平凡だ。
   三位一体・ノヴェッラ・マザッチョ
  (マザッチョ「三位一体」ノヴェラ教会)

* フィリッピーノ・リッピ「聖ヨハネの奇跡」と「ピリッポの奇跡」絢爛豪華な作風。

* ドメニコ・ギルランダイオ(1449~1494)「聖母マリア伝」「洗礼者ヨハネ伝」(1485~90)有名な「マリアの誕生」である。注文主はメディチ豪華王の叔父の有力者。主題の「マリアの誕生」より目立つて描かれているのが、画面左側に描かれたトルナブオーニ家の5人の女たち。宗教画の中に世俗の人物を描き入れる所まで時代が進んだか?
マリアの誕生・ノヴェッラ
   (『マリア伝』「聖母マリアの誕生」ギルランダイオ。ノヴェラ教会)

エリサベツ訪問・ノヴェッラ
    (『ヨハネ伝』「聖母の、エリサベツ訪問」ギルランダイオ。ノヴェラ教会)

* ここでもガイドなしでは深い鑑賞が出来ない事を知る。記憶が薄れた作品として、

 ブルネッレスキ「十字架像」。ピサーノ「聖母子像」。ウッチェッロ「ノアの洪水」
 スペイン人の大礼拝堂。有名な作品なのに記憶が鮮明でない。

* 夕食を中央駅の近くの日本語のメニューのある店でとってドゥオーモを散歩した。ドゥオーモを一周して思ったことは、今回の旅でフィレンツェが一番ほこりぽっく汚いということだ。道路の舗装もガタガタで足が痛んできた。これは残念なことだ。アペニン山脈を越えて行ったフェデリコ公の「理想都市・ウルビーノ」、ピエロ・フランチェスカの「サンセポルクロ」と「アレッツォ」、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の「コルトーナ」、突然の雷雨にやられた「ペルージャ」、トスカーナの山上都市「ピエンツァ」「モンタルチーノ」煌く「シエナ」。ルネサンス絵画を巡る旅であったが、皆きれいな中世の都市だった。その麗しき思い出の街と比較して、フィレンツェは大都会であり喧騒の町であった。
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  1. 2012/10/12(金) 07:04:17|
  2. 2011年『イタリア 列伝の旅』
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2011年⑪『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その2 /2011.5.19.(木) 記12.10.11

2011年⑪『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その2  2011.5.19(木)記12.10.11

DSC_2539フィレンツェ
    (ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの「ドゥオモ」)
   
 フィレンツェは古代エトルリア時代に創設され、ローマ帝国の殖民都市・神聖ローマ皇帝の支配を経て、貴族や商人の政治支配が発展し12世紀には「自治都市」になった。織物業や近郊の農産物の出荷地、金融業として発展し、又、地中海貿易などでヨーロッパに名だたる大都市になった。
 13~14世紀、商人や職人の代表による評議会議員、上層市民が政治の実権を握って「共和国」時代をつくった。メディチ家が覇権を握り1432年「祖国の父」コジモの帰還によってメディチ家の寡頭政治が始まった。
 イタリアはヨーロッパのような絶対主義の民族国家の形成には向わなかった。
 
 フィレンツェはピサなど周辺のトスカーナの国を支配下に治め、シエナを獲得したコジモ1世は1569年トスカーナ大公国をつくり上げた。
 メディチ家はF・リッピ、アルベルティ、ドナッテロ、ボッティチェッリ、ミケランジェロなど多数の芸術家のパトロンとして、イタリア・ルネサンス文化を支えたのである。世界有数のコレクションはメディチ家最後の遺産相続者「アンナ・マリア・ルイーザ」が「フィレンツェに留まり、一般公開を条件」にトスカーナ政府に寄付した。 今やウフィッツィ美術館(4800点所蔵、2000点の展示)を誰でも見る事が出来る。
DSC_2533アルノ川
    (アルノ川に架かるヴェッキオ橋。右側に「ウフィツィ美術館」がある。)
 <A>ウフィッツィ美術館
 フィレンツェに来れば必ず見る美術館。ガイドが予定時間の中で定番の作品を説明しながら見学する。ガイドが見たい作品を募集していた。何人かが作家名をあげていた。マニエスムの画家が多かった気がする。私は3回目だがいつも名作の洪水の波に飲まれて夢中になって終ってしまうのだ。ガイドブック「地球の歩き方」の黒字で書かれた作品、シエナ派の作品だけでもしっかり見たいと思った。今日はその後大物が幾つも控えている。

① 第2室:*チマブーエ「荘厳の聖母」(1280)。*ドゥッチョ「ルチェッライの聖母」(1285)。*ジョット「玉座の聖母子」。「オニサンテの聖母」(1310)。
 聖母子の大御所の3人を一堂に並べた。凄い!としか言いようがない。
DSC_2057ウフィツィの荘厳の聖母
      (チマブーエ「荘厳の聖母」)

DSC_2090ルチェッライの聖母
     (ドゥッチョ「ルチェッライの聖母」)
DSC_2078ウフィツィのオニッサンティの聖母
      (ジョット「オニサンティの聖母」 )
 
 * <チマブーエ> 少年ジョットの画才を見出したという有名な伝説、「イタリア絵画の創始者」とされる。アレッツォのサン・ドメニコ聖堂の「十字架のキリスト」は見てきたばかりだ。1,966年の洪水で大被害にあったサンタ・クローチェの「十字架のキリスト」は独特の存在感に圧倒された。(後で見ることになる)洪水で3/1は損傷しているのにも係わらずである。チマブーエの聖母は庶民的な目元の親しみやすく好感がもてるマリアである。
* <ジョット>の「オニサンテの聖母」。 昨年の旅行で代表作のアッシジとスクロヴェーニ礼拝堂を見た。
 チマブーエとジョットの「オニサンテの聖母」と比較するとルネサンス絵画のレベルが1つも2つも上がった感じがする。ジョットは聖母の顔立ちや、胸のふくらみなどを描いてより人間的な現実表現になってゆく。

② 第3室:14世紀のシエナ派
DSC_1989マルティーニの受胎告知
   (*シモーネ・マルティーニ「受胎告知」(1333)。)
この作品を10数年前見た時からシモーネのファンになった。大天使ガブリエルが「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。」(天使の口からそのような金文字が発している)その時のマリアの困惑そうに身をよじった姿勢と表情が面白い。(結婚していないのに何故赤ちゃんが?)こんなマリアは空前絶後だ。燦然と輝く金色の蒔絵のような作品。シエナ大聖堂にあったのをトスカーナ大公が強権によってウフィツィに持ち去った。 

玉座の聖母子・P・ロレンツェッティ=ウフィツィ
   (ピエトロ・ロレンツェッティ「玉座の聖母子」1340 ウッフィツィ美術館)

* アンブロージョ・ロレンツェッテイ「聖ニコラウス伝」(1332)。連作 

③ 第5.6室国際ゴシック派
*ジェンティーレ・ファブリアーノ「マギの礼拝」(1423)。
豪華な枠の中で人物の衣装に金をたくさん用い、装飾や衣服の模様も色彩鮮やかな作品。中世とは違った「国際ゴシック派の典型的な作品。
ファブリアーノ・東方3博士の礼拝・ウフィ
   (ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方3博士の礼拝」ウフィツィ美術館)

*L・モナコ「聖母戴冠」。

④ 第7室15世紀のトスカーナ絵画 
 *ウッチェッロ「サン・ロマーノの戦い」(1450)。
ロマーノの戦い・ウッチェロ・ウフィツィ
    (ウッチレェッロ『サン・ロマーノの戦い】「B・D・チャルダの落馬」ウフィツィ美術館)

 戦場の場面、槍が林立し馬が躍動する場面に優れている。ピエロ・デッラ・フランチェスカが「聖十字架物語」で合戦の場面を描く時参考にした。馬の筋肉のもりあがり、蹴る様子などである。又、遠近法の研究でも知られている。
DSC_1800マザッチョ②
 (*マザッチョ(1401~1428)&マゾリーノ(1383~1440)「聖母と聖アンナ」(1425)。)

 美術史学会の世界では「マザッチョ・マゾリーノ問題」と言葉があるくらい、どこを描いたのがマザッチョでどこは違うという問題。ブランカッチ礼拝堂ではフィリッピーノ・リッピ(1457~1504)も加わる。この作品は聖母子と右上の天使がマザッチョだというのが定説になっている。他の像の顔とレベルが違うので納得する。キリストなんか筋肉たくましくて、マザッチョの真実の人間を描こうとする姿勢が良く出ている。
* マザッチョとマゾリーノはこんなにもレベルが違うのか納得できない。顔の表情の描き方をとっても大変な違いだ。

* D・ヴェネツィアーノ「玉座の聖母子」。
ヴェネツィアーノ・聖母子とフランチェスコ他・ウフィツィ
   (D・ヴェネツィアーノ「聖母子・聖フランチェスコ・聖ヨハネ・聖女ルキア」ウフィツィ美術館)

⑤ 第8室
聖母子と2人の天使・ウフィツィ
  (*フィリッポ・リッピ(1406~1469)「「聖母子と2人の天使」)

ボッティチェリの師、マザッチョの影響も受けた。繊細で優美な色彩感覚はフィリッポ独自のもの。モデルだった修道女ルクレツィア・ブーティと恋に陥り駈け落ちした。2人の間にフィリッピーノが生まれた。破門されたがパトロンのコジモ・メディチの取り直しで、教皇から正式の夫婦と認められた。フィリッポの描くマリアやサロメのモデルはルクレツィアだと言われている。聖母の髪や髪飾りの襞(ひだ)や線の優美さはこの上も無いほどである。奔放な生涯を送ったが、作品は優美な美しいものが多かった。

*フィリッピーノ・リッピ「マギの礼拝」「幼子の礼拝」
*ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415~1492)「ウルビーノ公夫妻の肖像」(1472頃)
 10数年前に始めてこの絵を見た時、ウルビーノ公が傭兵隊長として強くて鼻のへこみを戦場での負傷と捉えたが、フェデリコ公の優雅な宮廷など想像しなかった。ピエロがその宮廷のお抱え絵師だったことも想像しなかった。今回ウルビーノへ行き国立マルケ美術館で幾つかの作品を見て、フェデリコ公の優雅な宮廷の思いに耽った。ピエロ晩年の傑作。

DSC_3335春の左の3人の女神
   (ボッティチェッリ「春」 ウフィツィ美術館)

DSC_3282ヴィーナスの誕生
  (ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」 ウフィツィ美術館)  

⑥ 第10~14室* ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」。「春」。
初めてこの部屋に入った昔、こんなにも美しい絵画があっていいものか、と思い夢うつつの状態で立ち尽くした。ポピュラー的にウフィツィを代表する「ヴィーナスの誕生」1480年と「春・プリマヴェーラ」1482年

 *「東方三博士の礼拝」ボッティチェッリとメディチ家との繫がりをストレートに表している作品。イエスの誕生を知った東方の星占いの3人の博士が救世主への貢物を捧げるという場面。三博士に、コジモ、ピエーロ、あとロレンツオがだれかはっきりしないという。右端のこちらを向いているのが作者ボッティチェッリ。
DSC_3332ボッティ・東方3博士・ウフィ
    (ボッティチェッリ「東方3博士の礼拝」 ウッフィツィ美術館)

⑦ 第15室 *レオナルド・ダ・ヴィンチ「マギの礼拝」1482年「受胎告知」1475年。
初めてウフツィに来た時、ボッティチェッリとダ・ヴィンチの「受胎告知」を見比べようと2つの部屋を何度も往復した。ダ・ヴィンチの理詰めのように計算され尽した絵、天使とマリアが議論しているかのような不思議な「受胎告知」にビックリした。
レオナルド「受胎告知」
    (レオナルド「受胎告知」 ウッフィツィ美術館)

受胎告知・ウフィツィ
    (ボッティチェリ「受胎告知」 ウッフィツィ美術館)

⑧ 第18室 *ポントルモ「祖国の父コジモ」

⑨ 第25室 *ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)「聖家族」1506年
トンド・ドーニ・ミケ・ウフィ
   
 彫刻家として有名だが画家としてはシスティーナ礼拝堂の天井画以外にパネル画として  
 はこれ1枚しか残っていないという。フィレンツェの名家同士の結婚のお祝いとしての注文だったという。前にマリアがいて後ろに仮の父のヨセフがいる。マリアが肩越しにイエスをヨセフに手渡すという不自然なポーズになっている。このねじれたマリアの姿勢こそが彫刻家ミケランジェロの得意とした領域で、絵画にも特徴が良く出ている。

⑩ 第26室 *ラファエッロ(1483~1520)「ひわの聖母」1507年
 ウルビーノに寄った時ラファエッロの生家にいった。外観は普通の民家だが中は広く、父親がウルビーノ公の宮廷画家で工房を構えていたという。職人の工房と言った感じの余計な物が一切無い部屋、ここで育ったラファエッロは画家に成るべくしてなった。
 「ひわ」とは小鳥の幼鳥のことで、この絵では2人の子供洗礼者ヨハネとキリストをさす。ひな鳥のように幼い2人。それを愛しむ聖母マリアという構図。聖母の頭が中心点で肩、腕、下の岩と下がる線、2等辺三角形を形成しているという。そういわれて見ると絵のおさまりがいい。優雅で洗練された美しい作品は誰からも愛せられた。

ウルビーノのヴィーナス
    (ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」 ウフィツィ美術館)
⑪ 第28室 *ティツィアーノ「フローラ」「ウルビーノのヴィーナス」
ヴェネツィア派のティツィアーノの官能的な作品。一行中の老夫妻の夫人がモデルは娼婦ですか?とガイドに質問したが、ガイドは否定した。
* ヴェネツィア派のカルパッチョの「2人の貴婦人の肖像」巡っての須賀敦子の高級娼婦論か否かの議論を思い出し、食事の時その話を持ち出した。「娼婦」と言っても日本の近世の廓の「吉野大夫」とか、平安朝の女流文学の担い手の「女房」たちを念頭においての話だ。結論は出なかったが大いに議論が盛り上がった。

* 後の予定の関係で31~45室はカットされた。

<B> 「ヴァザーリの回廊」
 1565年コジモ1世の命によりお抱え芸術家ヴァザーリが、ウフィッツィにあったオフィスからアルノ川を渡るヴェッキオ橋を渡って、ピッティ宮へつながる回廊を造った。メディチ家専用の秘密の通路にも絵画・肖像画・自画像がいっぱいあった。ただ、絵画としてそんな傑作はなかったと思う。
12.00昼食

13.10 <B>、パラティーナ美術館

 歴代トスカーナ大公のコレクションを公開したもので、ラファエロとティツィアーノのすぐれたものが多いとガイドブックにある。ウッフィツィと違って整理されていないので疲れてしまうとのこと。

DSC_1929フィリッポ・リッピ
  (*フィリッポ・リッピ「聖母子と聖アンナの物語」1452年頃)
  聖母マリアはモデルと思われる修道女ルクレツィアであろう。背景の堅固な建築空間   
  と聖アンナの物語の場面の女性たちの描き方―(資料にヘレニズム風の線描様式とある。)が見事である。

* カラヴァッジョ「眠るキューピッド」
幼児の死体をモデルにしたという何回も見たくない作品だ。

* ラファエッロ・サンティ(1483~1520)
DSC_2127大公の聖母

「大公の聖母」1504年 
トスカーナ大公フェルディナント3世が片時も離さず賞賛していた。ダ・ヴィンチなどから「ぼかし技法」の影響を受け、暗い簡素な背景から聖母子が浮かびあがるという慈愛に溢れた感情を表現した。
DSC_2145小椅子の聖母

「小椅子の聖母」1514・5年
美しく豪華な額縁に円形の中に描いたメディチ家の旧蔵品。2人の幼児はイエスと洗礼者ヨハネ。官能的ともとれる若々しい女性美の表現。
DSC_2146ヴェールをかぶる女

「ヴェールの女」1516年
モデルは恋愛関係にあったパン屋の娘。枢機卿から姪との結婚話が出て、関係を断ち切る思いを絵にした。ヴェールをかぶる女は悲しみの感情を表現したが、ヴェールの下の髪飾りは人妻を意味した。公開されることになり、隠すため絵具で上塗りした。

* ラファエッロとティツィアーノの作品が本当に多い。しかも傑作が集っている。
* 収蔵作品が多く我々が見たのはほんの一部で、以下に有名な作品を上げておく。
 ルーベンス「4人の哲学者」「戦争の恐怖」「3美神」
 A・デル・サルト「人間の3つの時代」
 ファン・ダイク「G・ベンティヴォリオ枢機卿の肖像」
 ティッツィアーノ「マクダラのマリア」「美しき女」「V・モスティの肖像」「法王ジュリオ2世の肖像」
 ラファエッロ「布貼り窓の女」「身重の女の肖像」「天蓋の聖母」
  1. 2012/10/11(木) 08:56:03|
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2011年⑩『イタリア列伝の旅』「フィレンツェ」その1 2011.5.18.(水) 記12.10.10.

2011年⑩『イタリア列伝の旅』 「フィレンツェ」その1 2011.5.18.(水) 記12.10.10

ドゥオモ
   (花の大聖堂・フィレンツェの「ドゥオモ」)
15.00 フィレンツェ ホテル「アルバーニ」到着。
 さあ、旅の最終地フィレンツェの観光に出発。本日の目的は「メディチ家」ゆかりの2つ。「メディチ家礼拝堂」と「ヴェェッキオ宮」だ。
 さすがフィレンツェ、チェントロ(中心地)は人が多い。今までの都市では日本人を見なかったのに、(震災の影響もある)さすがフィレンツェでは日本人の何組かのグループに出会った。

(1)「メディチ家礼拝堂」 
サン・ロレンツォ教会の後ろに接続して建てられた、「君主の礼拝堂」。
メディチ家の墓所であり、歴代トスカーナ大公家の墓所。8角形の礼拝堂は大理石や豪華な貴石で埋め尽くされ、重厚・豪華な装飾でメディチ家の権力を誇示している。 

「新聖具室」(1521~24年)ミケランジェロ設計の正方形の小さな霊廟である。有名な2つの墓碑、
メデチの墓・新聖具室・ロレンツォ聖
    (「ロレンツォ・メデチの墓」ミケランジェロ。サン・ロレンツォ聖堂・新聖具室)

①ウルビーノ公ロレンツォ・メディチの墓碑、「夕暮」と「曙」の寓意像。
②ネムール公ジュリアーノ・メディチの墓碑、「昼」と「夜」の寓意像。
  さすがミケランジェロ、鬱々としたけだるい静謐な空気が漂ってくる。
③ バッツィ事件の現場――「聖具室」
 1478年新興メディチ家によって特権を奪われた旧家バッツィ家の起こした暗殺事件。メディチの当主ロレンツォはこの「新聖具室」に隠れたが弟ジュリアーノが殺された。復讐に燃えたロレンツォは反対派をことごとく処刑して、後に「ロレンツォ豪華王」と呼ばれた覇者になった。フィレンツェ・ルネサンスの最盛期を作り芸術のパトロンとしても有名である。

ロッジアの彫刻
   (シニョリーア広場・ロッジアの彫刻)
④ 「シニョリーア広場」
 フィレンツェ中心の広場は相変わらず多くの人である。13~14世紀自治都市フィレンツェの政治の中心舞台だった。J・サヴォナローラが火あぶりの刑に処せられた所である。「シニョリーア広場」にある彫像(オリジナルは別の所に)

・ ダヴィデ像(ミケランジェロ)
DSC_3220ダビデ像
  (ミケランジェロー「ダビデ像」ーシニョリーア広場からアカデミア美術館)

・ コジモ1世騎馬像(ジャン・ボローニャ1594年)
・ ネプチューンの噴水(バルトロメオ・アンマナーティ1575年)
・ 獅子像 ・ユディットとホロフェルネス (ドナテッロ)
・ サビニの女たちの略奪(ジャンボロニーヤ)
・ メデューサの頭を掲げるペルセウス(ベェンヴェヌート・チェッリーニ1554年)
ヴェッキオ宮の入口

⑤ 「ヴェッキオ宮」
14世紀初め建設。1530年トスカーナ公国が出来るまで共和国の政庁舎として使われ、メデチ家もピッティ宮に移るまで一時ここを住居とした。その頃までフィレンツェの政治の中心だった。1550~1565年Jヴァザリーによって改築が行われ、現在市庁舎として使われている。
5百人広間
   (5百人広間)
 共和国時代ここで市民会議が行われた。
 <緑の間>
 トスカーナ大公コジモ1世の妃「エレオノーラ」の住居。
 <謁見の間>
 共和国時代総督の会議や法廷として使われた。
 <百合の間>
ギルランダイオ 『ヴェッキオ宮』の「百合の間」
 ( ドメニコ・ギルランダイオ『ヴェッキオ宮』の「百合の間」-フィレンツェ・ヴェッキオ宮)

ドナッテッロの「ユディットとオロフェルヌス」像が飾られている。共和制のシンボル。青地に金の百合の模様 が美しい。
 <共和国政府/書記局執務室>
 「君主論」で有名なマキアヴェッリが仕事で使っていた部屋。質素で小さい。
 <地図の間>
  コジモ1世の命でヴァザリーの設計、壁面に世界の地図が張ってある。ヨーロッパ、中近東、インド、マレー半  島まではかなり正確、ルネサンス人は世界に目を向けていた。

⑥ 「洗礼堂」
洗礼堂の「天国の扉」
     (「天国の扉」)

  「ドゥオモ」の前に「洗礼堂」がある。古い聖堂(11~12世紀)で、8角形のピラミッド形をしている。
  「南側の扉」はA・ピサーノ作で「洗礼者ヨハネの生涯」が描かれている。
  「北側の扉」の「キリストの生涯」は、1401年のコンクールでブルネッレスキに勝ったL・ギベルティの作。
  「東側の扉」はギベルディの作だが、後にミケランジェロが「天国の扉」と賞賛した。


(教会の中は原則として撮影禁止、或いはフラッシュ禁止。室内は暗く「ノー・フラッシュ」だと殆どピンボケに なった。)
(フィレンツェは美術の宝庫である。3度目だがツアーで回っていると殆ど同じ所に行って目ぼしい所を残してし まう。今回の旅の原点のⅠつにそのことがあった。1週間程フィレンツェに滞在しなければ解決しない事がわかった。)
  1. 2012/10/10(水) 18:45:18|
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2011年⑨『イタリア列伝の旅』「プラート」2011.5.18.(水)   記12.10.10

2011年⑨『イタリア列伝の旅』「プラート」2011.5.18.(水)記、12.10.9

プラート・ドゥオモ
      (プラート・ドゥオモ)
⑨『プラート』
 フィレンツェの近郊都市で、ルネサンスの面影を残す古い街並みが残っている。昔から繊維工業が盛んで、最近は中国人によって工業団地として繁栄している。
フイリッポ・リッピがプラートの尼僧院司祭の時、修道女ルクレツィア・ブーティと駈け落ち、彼女はフイリッピーノを産んだ。ドゥオモや美術館にはリッピの作品が多数ある
「1」 「皇帝の城」
 13世紀に神聖ローマ皇帝フェデリコ2世によって建てられた高い城壁。何十階かある様な高い石壁の残骸は異様であった。

「2」 「ドゥオモ」

(ブロンズの台に乗った「聖母の腰帯の説教壇」ドゥオモ)
DSC_8179聖母の腰帯の説教壇
 12~13世紀にかけて建てられた、ピサ・ルッカ風のロマネスクの教会で、一部は後で建てられたのでゴシックになっている。白と濃緑の大理石の組み合わせに赤が混じったファサード(建物の正面)は優美である。近くでこんな美しい大理石が採れるらしい。A・デッラ・ロッビアの彩色テラコッタがある。
右の角にはブロンズの台に乗った「聖母の腰帯の説教壇」(ドナテッロの「踊る子供達」で飾られている)がある。

『フイリッポ・リッピの作品』

* 「福音書記者聖ルカ」
聖ルカプラート・ドゥオモ
    (F・リッピ作・「聖ルカ」大聖堂)

ステパノ伝・プラート・大聖堂
    (F・リッピ作・「聖ステパノ伝」の「シナゴークにおける議論」(部分)大聖堂)
* 「聖ステパノ伝」連作  (プラート大聖堂)
 エルサレムでキリストの磔刑を非難し、キリスト教最初の殉教者になった聖ステバノの数奇な運命を描いた壁画 連作。「埋葬されるステパノ」「聖母マリアの物語」「他の子共とすり返られたステパノ」「シナゴーグにおけ る議論」人物が生き生きと描かれ構図もしっかりとした大作である。

* 「洗礼者聖ヨハネの生涯」<ヘロデ王の宴会>=プラート大聖堂
ヘロデ王の宴会
   (ヘロデ王の宴会「ヘロデとヘロデヤの前で踊るサロメ」大聖堂)
 洗礼者ヨハネが、ヘロデ王の結婚に異議を唱えた(兄弟の妻と結婚したこと)為に捕らえられた。王妃へロディアはヨハネを殺そうとするが、ヘロデ王は民衆の信頼の厚い洗礼者ヨハネを牢に入れた。ヨハネを愛したへロディアの娘サロメは言い寄ったが拒絶されたため、逆恨んでへロデ王の前で踊ってヨハネの首を所望する。(母へロディアに唆されたとも)
  フィリッピが描く「へロデ王の宴会」の場面は、3つの場面が描かれている。左にヘロデの首を受け取るサロメ、右にヘロディアに首を差し出すサロメ、中央の踊るサロメ。
  (サロメのモデルは、ウフィツィの「聖母子と2人の天使」と同じルクレツィア・ブーティ。フィリッピが駈け   落ちした修道女で2人の間にはフィリッピーノが生まれる。)
サロメ
    (ヘロデ王の宴会で踊るサロメ)
 テーマの怪奇性、絶世の美女サロメ、優れた構図は真に傑作である。3人のサロメを同一画面に描き、登場人物の心理の巧みな描写、踊るサロメの優美な姿態、風に揺れる髪や翻る肩衣、踊りによる純白のドレスの玲瓏としたゆらめき等、怪しい感動に誘う。

* パオロ・ウッチェロの「聖母マリア伝」と「聖ステパノ伝」
ウッチェロ・ステパノの論議・プラート
  (パオロ・ウッチェロ『ステパノ伝』ー「ステパノの論議」プラート・大聖堂)

* 聖ヒエロニムスの葬儀  (プラート大聖堂)

「3」 市立美術館(壁画博物館)
チェッポの聖母プラート市立
( * [チェッポの聖母]ーフィリッピ・リッポ。市立美術館 )

「4」 「サンタ・マリア・デッレ・カルチェリ教会」
DSC_8148プラートカルチェリ教会
   ( プラート・カルチェリ教会 )
 
「5」 「カントゥッチ」の老舗店、(1858年創業の「アントニオ・マッティ」)
   プラートの名物。アーモンドの入ったビスケット。
「6」 リッピとルクレツィア・ブーティとの恋
  リッピが美しいルクレツィアを愛したことは、リッピの描く聖母の顔・容姿に深く影響を与えた。女性美の追 求は弟子のボッティチェリに受け継がれ、又、その弟子の、リッピの遺児フリッピーノへと引き継がれた。 
聖母子と2人の天使・ウフィツィ
(リッピ作・「聖母子と2人の天使」ウフィツィ美術館)
DSC_8182ドゥオモで新婚のイタリア人夫婦をカメラに

 * ドゥオーモで婚礼の後の若い夫婦が笑顔で話しかけて来てツアーの一行と写真を撮った。ラテンの開放性、楽天性に又お目にかかった。
* 若い添乗員の案内で「カントゥッチ」の本店に立ち寄った。歯ごたえのあるクッキーみたいなお菓子。コーヒーを飲む時にかじるには丁度いいと思った。
カントゥッチの本店
  1. 2012/10/10(水) 15:14:58|
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2011年⑧『イタリア列伝の旅』 シエナその2 2011.5.17(火) 記12.10.7

2011年⑧『イタリア列伝の旅』 シエナその2 2011.5.17(火) 記12.10.7

ドゥオモ
    (シエナ・ドゥオモ)
E)。「ドゥオーモ」
昨年来た時ドゥオーモの凄さに時を忘れた。ドゥオーモは白と黒のシマウマ模様、ファサード(建物の表面の上部、飾りの部分)赤や暗緑色やピンク色の大理石の豪華絢爛な装飾。ピサやオルビエートと同じような、いやそれ以上に美しいシエナのドゥオーモ。鮮やかな大理石の素材に恵まれ、そこからこれだけの優美な建造物を造り出すシエナ人の感性に感動する。
ドゥオモの中
   (ドゥオモの中)
9世紀に聖母マリアの教会があったが12世紀中頃ドゥオーモとして建設が始まった。仇敵フィレンツェの「花の聖母」に対抗して、巨大なドゥオーモに取り掛かったが財政難で内部装飾に重点を移す。ピサーノ親子、ミケランジェロ、ピントゥリッキオ、ドナテッロ、17世紀にはベルニーニと多くの優れた芸術家が参加している。
昨年も感動して写真を撮りまくったが殆どピンボケだった。(フラッシュを焚かなければ撮影許可)
「身廊の床面装飾」(象嵌で廊下に絵を描く)はここだけか?( 1部公開、8月の2週間全面公開)
DSC_7945身廊の床面装飾
   (身廊の床面装飾ードゥオモ)
左廊(ドゥオモの左側)に有名な「ピッコローミニ家の豪華な祭壇」があって、ミケランジェロやD・クエルチャの彫刻で飾られている。その隣が「ピッコローミニ家の図書室」。後に教皇となったピウス2世のコレクション。壁面には教皇の生涯がフレスコ画で描かれている。大型の聖歌集の楽譜がページを開いて展示されてあった。
DSC_2430ピッコロミーニ図書室の楽譜
  (ピッコローミニ家の図書室に飾られた彩色の聖歌集ードゥオモ)

内陣と言われる主祭壇にはベルニーニ設計のバロックの礼拝堂、ピサーノ親子が造った見事な「8角形の説教壇」などがある。しかし、ここは危機存亡の時シエナ中の民衆が集まって聖母マリアに祈った、歴史的な事件の現場でもあったのだ。

F)。「国立絵画館」 
 シエナ貴重なフリータイム、まず絵画館から。12~16世紀のシエナ派の作品。3階から見て下に降りていった。修道院や教会から流失した「聖母子像」が多く展示されていた。ビサンチン風の型にはまった作品が多い。それを突き破ったのが、
DSC_2485バディア・ア・イ-ゾラの聖母
    (「聖母子」ドゥッチョ。国立絵画館。パディア・ア・イーゾラの画家)
*ドゥッチョ(1255~1319年)
シエナ派の祖。「聖母子」首を左にかしげた端正なマリア。黒い衣装で身を包んでいる。記憶ではドゥッチョの作品をもっと見たと思ったが、次に見た「付属美術館」と混同しているのか?ドゥッチョのマリアは全作品が、目を大きく開け首をかしげた鼻筋の通った端正な顔であった。やんちゃな幼いイエスをあやした、やさしさ、安心感。

*シモーネ・マルティーニ(1284~1344年)

DSC_2555聖母子・絵画館
   (シモーネ・マルティーニ。「聖母子」<カスティリオーネ・ドルチア>シエナ国立絵画館)
「聖母子」3点。「慈悲の聖母」
 繊細で華麗な美は何だろう!しなやかで優美な抒情性!シモーネには華がある。作中人物の顔の表情の独特なリアル感、瞳の表情、この優美な抒情空間がシエナ派を代表し、フィレンツェ派の人間的・演劇的なモメンタルな空間と対比・比較されたのか。
 
カルミネ会祭壇画アグネスとカタリナ=P・ロレンツレッティ
  (兄・ピエトロ・ロレンツェッティ作「アグネスとカタリナ」=国立絵画館)
*兄、ピエトロ・ロレンツェッティ(1280~1348年)
 「カルミネ会祭壇画」「モンティッキエッロの聖母」 多翼祭壇画で幾度も切断されたのをかなり集めた。「東方の歴史」から始まるカルミネ修道会の歴史。物語性、シエナ派の煌びやかな優美性を彼が最も代表しているのではないか。
DSC_2572カルミネ会祭壇画
   (兄ピエトロ作。カルミネ会祭壇画=国立絵画館)
*弟 アンブロージョ・ロレンツェッティ(1285~1348年)
DSC_2586マクダラのマリアとドロテアの間にいる聖母子
   (弟、アンブロージョ作。「マクダラのマリアとドロテアの間の聖母子」国立絵画館)
 3人の人物の目が切れ長で、遠く永遠を見ているかのようだ。
DSC_2601受胎告知・絵画館・アンブロージョ
  (弟、アンブロージョ作 「受胎告知」国立絵画館)
 「受胎告知」でアンブロージョは天使とマリアの対話の最後の場面ーマリアは天上の聖霊の鳩を見ながら、胸に手を合わせ”私は主のはしためです”と恭順の言葉を発している。受肉の瞬間の強調である。いい絵である。

1348年黒死病で兄弟とも死ぬわけだが、これは晩年の作品である。アンブロージョの次の3点が面白い。
海辺の都市
    (弟、アンブロージョ作、「海辺の都市」国立絵画館)
「海辺の都市」「湖畔の城館」
ヨーロッパで初めての「風景画」か、それとも大作の断片か昔から議論の分かれている作品。作者についても異論があるとか。想像していたより小さな作品。「海辺の都市」がいい。城塞に囲まれた海辺の都市。何本もの塔、高い高層の家、町の奥の大きな教会。灰色とうす緑の家々、うす赤色の屋根。青い海には1艘の帆を張った船が行く。「善政と悪政の効果」と同じ配色ではないか。

G)。「ドゥオーモ付属美術館」
一階 彫刻。昔ドゥオーモのファサードを飾っていたオリジナル。
G・ピサーノの「大理石の彫像」旧約・新約に登場する予言者、巫女、哲学者等の作品
Y・D・クエルチャの「聖母子を拝する聖アントニオ・アバーテ、アントニオ・カシーニ枢機卿」
玉座の聖母子
   (ドゥッチョ。「玉座の聖母子、天使、聖人」シエナ大聖堂付属美術館)
二階 *ドゥッチョの「荘厳の聖母」1308年完成。
 これが完成した時、歓喜に沸くシエナ中の総ての老若男女が行列をくんでカンポ広場を廻ってドゥオ-モに運んだ「荘厳の聖母(マエスタ)」だ。裏表描かれ、表側が「玉座の聖母子、天使、聖人」裏側が「キリスト受難伝」。このドゥッチョの「荘厳の聖母」は200年大聖堂の主祭壇画としてシエナの中心的役割を果たした。16世紀初め、時の僭主によって外され解体・歴史の転変を得て、やっと再構成されて今の状態になった。
 中央にイエスを抱く聖母マリア、例によって首を左に少しかしげて、イエスをやさしく抱いてこちらを見ている。聖母の全身を覆うマントは黒かと思ったが、濃いウルトラマリーン・ブルーと資料にある。左右の天使、聖人たちの2・3倍の大きさのマリア像である。シエナを守り、救う聖母マリアだということがよくわかる。

DSC_2482ドゥッチョ・クレーヴォーレの聖母
   (ドゥッチョ初期の傑作、「クレヴォーレの聖母」シエナ大聖堂付属美術館)
* ドゥッチョ初期の「クレヴォーレの聖母」。
 チマブーエの影響下アッシジでドゥッチョは自己の様式を確立したという、美術史の大家ロベルト・ロンギの見解がある。当時のフィレンツェとシエナの画家たちの交流、若いドゥッチョが師チマブーエに学び彼独自の画風を確立していった時期の作品。彼の初期の「聖母子」が皆そうである。シエナ派はここから始まる。
三階 *「大きな目の聖母」(13世紀初めの作品)1260年のモンタペルティの戦いの時、市長ブロナグイーダが市の鍵を捧げた聖母像だといわれている。13世紀初期のビサンチン絵画の画風である。
絵画館から見たドゥオモ
    (絵画館の屋上から見たドゥオモ)
屋上 パノラマが素晴らしい。眼の前に豪華で華麗な「ドゥオーモと縞模様の鐘楼」。シエナの下町?レンガ色の小さな家の屋根が密集している風景。町の南東にある「サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会」。(シエナ派の作品が多い)レンガ色の屋根のシエナの町その先のトスカーナの丘陵さらに遠くの名もわからぬ山。「マンジャの塔」とプッブリコ宮(市庁舎)」と「カンポ広場」。高い所から見るとカンポ広場が貝殻の形をした夢の広場であり、そこは座って話したり寝そべったり出来る場所なのだ、旅の徒然を癒す夢の空間なのだ、「世界一美しい」の意味がわかってきた。
絵画館屋上からのカンポ広場

H)。 「カンポ広場」
一息もいれずに見学してきたので、どうせ休むのならカンポ広場までがんばろうとやって来た。カフェのテーブルに座ってほっとした。広場は程好く人々で埋まっている。老若男女、幼児や家族連れや若者も結構いる。時々ツアーの同行の人が歩いているのを見かける。挨拶を交わす。ヴェネツィアともフィレンツェとも違うシエナ独特の温かい風が吹いていた。気持ちが静まるどころか浮き浮きして、心の流れに任せるしかなかった。
* 夜、1人でカンポ広場まで行き念願の「寝転んで」夜空を眺めた。
  1. 2012/10/08(月) 14:53:54|
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