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私の見た映画・美術・

映画・美術・イタリア旅行の紀行文の紹介です。

美術/音楽/舞台/読書/文学「石牟礼道子と志村ふくみの<沖宮>道行1/20

『美術/音楽/舞台/読書/文学』「石牟礼道子&志村ふくみの<沖宮>-ふたりの道行  1/19

DSC_2632.石牟礼と


戦後日本を代表する作家石牟礼道子は、昨年(18年)2月10日に亡くなった。(享年90歳)晩年はパーキンソン病の症状に悩まされた。それでも文明の病としての「水俣病」――近代化に突き進む日本の現実と向き合い続けた半世紀だった。水俣病に関わり始めてからは日本の近代を考えざるを得なくなった。「文明とは何か。人類の行く末はどうなるのか。日本のみならず民族の情念はどこへ行くのか。」晩年以上のテーマに向き合っていた。石牟礼は亡くなるまで心血を注いだのは天草四郎を題材にした新作能「沖宮」だった。

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石牟礼道子と染色家志村ふくみは30年前、雑誌の対談で初めて出会った。その時、草木の命・万物の命を尊ぶ者同士として、以後交流を深めてきた。

東日本大震災DSC_2706

2011年3月11日、東日本大震災!津波・原発事故に、志村ふくみは自然の脅威・人間が引き起こした事態を前に、唯々茫然とするばかりだった。その時頻(しき)りに浮かんだのが石牟礼道子のことだった。

⑵ 往復書簡
震災から2日後、志村ふくみは石牟礼道子に手紙を書く。(これが新作能「沖宮」への道行の始まりだった。)
<志村ふくみから石牟礼道子へ>
「春も間近かだというのに、この国の大災害にしばらく筆を持つことも出来ずにおりました。「お会いしたい、お話したいことが一杯あります。何という大きな無惨な悲哀が一挙にこの国を襲ったことでしょう。石牟礼さんが度々語っていらっしゃったことが、こんな形で襲ってくるとは、水俣の悲しみがわいてきます。」(略)
志村ふくみの手紙を受け取った時、石牟礼道子の中で、震災と水俣病が重なっていきました。その思いを一篇の詩に込めた。
<石牟礼道子から志村ふくみへ>
「花を奉る。/現世とはいよいよ地獄とや 言わん/ ただ滅亡の世よ 迫るを待つのみか/
虚無とやいわん/ここにおいて 我らなお地上に開く 一輪の花の力を念じて合掌する。
  2011年の4月、大震災の翌月に」
<石牟礼道子から志村ふくみへ>
私は今最後の作品と思う新作能―天草四郎を構想中です。あなた様のお仕事で能装束を仕上げて頂きたいというのが長年の密やかな念願でございました。お聞き届けて頂ければこの上もない幸いです。このところ、長年のパーキンソン病が進行しまして、歩くのもままならず、この度の新作能が最後の作品と思うのはそのせいです。」
<<ふたりの想いはつながったのです。>>
⑶ 志村ふくみ「草木染め」の美学
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⑴DSC_2734

志村ふくみさんは大正13年滋賀県近江八幡市に生まれた。31歳の時、民芸運動の旗手柳宗悦を知り人生が変わるほどの影響を受けた。織物、染織家として日本の第一人者となる。人間国宝、文化功労者、文化勲章。随筆家。草木染めの鮮やかな作品世界、その美しさ・生命の秘花を文章で表現した魅力的な文化論。京都嵯峨野に、長女・孫と「工房」を開設。志村さん、桜の木に触れながら、「葉や花よりもこういう木(ボク)の方が良く染まるんですね。枝とか葉っぱより幹の方が色は蓄えているんですね。志村さんの工房には、いつも季節の草花咲いている。絹を淡い桜色に染めてくれるのは花ではなく幹なの。匂い立つ、匂うのは今だからです。命ですよ!
⑷ 石牟礼道子の「新作能―沖宮」
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2011年11月13日石牟礼道子さんから志村ふくみさんへFAX。「沖宮」の原稿が度々届く。
石牟礼道子から志村ふくみ様
(日)石牟礼さんは新作能の装束を染めてくれるのは人間国宝の染色家志村ふくみ(94歳)さんしか、いないと心に決めていました。)
 「あやの緋色の装束については初めから志村様にお願いするつもりでしたが、あやのイメージが今ひとつのびのびと描けません。これまで出来上がり前の作品を人様にお見せしたことはないのですが、予告してしまったのは生き急いでいるからだと思います。生贄となる少女あやの人生のイメージから、茜(あかね)、緋(ひい)色を探し始めた。蘇芳(すおう)(木の幹)、茜(あかね)(草の根)いろいろ探して今回選んだのは、志村さんが選んだのは紅花だった。草木染の中で唯一花から取れる赤だそうです。草木染とは植物を煮だすなどして一度殺す。その命を別の形で再生させることだそうです。その中でも咲いてもやがて散る紅花の緋色は、汚れ無きはかなさのイメージだそうです。死からの蘇る少女の祈りを込めたものだ。石牟礼は生類のハハたちのいる海底の宮のことを「沖宮」と名付けた。天草四郎はその海底へあやを連れて行った。ふたりの道行を新作能にしたのが「沖宮」である。あやに着せる衣装は緋色でなければならぬ。その緋色は志村さんに染めてもらって「命の秘花」になる。
⑸ 石牟礼道子と水俣病

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 昭和34年、息子の入院した病院で石牟礼道子は水俣病に出合う。石牟礼は出会ったことの責任を胸に水俣病の現実を綴り始めた。水俣患者を訪ね歩き、その苦悩や希望を40年もの歳月を賭けて書き綴った。
3部作「苦界浄土」。「椿の海の記」「天の魚」「流民の都」「草のことづて」
水俣病患者の施設「明水園」で、胎児性水俣病患者の杢くんにあう。「苦界浄土」P170~ジジの独白

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「杢よい、堪忍せろ、堪忍してくい。お前やそげん体して生まれてきたが、魂だけは、そこらわたりの子どもとくらぶれば、天と地のごつお前の魂のほうがずんと深かわい。泣くな杢。爺やんのほうが泣こうごたる。」
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昭和45年、――水俣病が公式認定から15年たった。加害企業=チッソとの交渉に東京に来た。本社前に座り込んで1年7ヶ月、むしろの上で座り込んでいる石牟礼さんの脳裏に一つの考えが浮かんだ。「江戸時代初期、島原天草の一揆、島原の百姓が幕府の巨大勢力に抗した一揆、禁教令で拷問に苦しんだ教徒たちの殉教。幕府は12万の軍勢で3万7千の命を奪った。「天草の乱は他人事ではない!」天草・島原の乱は水俣で起きた事と無縁ではない。つながっている!自分たちが天草・島原の子孫だという思いがしてきた。歴史から消されてなるものか!
㈥「天草四郎」の衣装製作が始まる。
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2017年 秋、志村ふくみ、まだ体調回復せず、長女の洋子さん中心で始まった。
天草四郎の青は、臭(くさ)木(き)――水縹色みはなだいろ。透明感のある「天青」といわれる深い優しい「青」
2018年2月10日、石牟礼道子逝去(享年90)
石牟礼道子の逝去により、患者たちが動き始めた。ある団体では石牟礼さんの新聞記事を切り取って、張り合わせて「エコバック」を作った。新作能が上映される会場で観客に配る予定だ。
水俣病がこれだけ命を奪った。命だけでなく山や海も失う経験をした。誰かが語らなければ、水俣病は歴史になってしまう。語り継ぐ覚悟を持とう。
2018年8月、京都金剛能楽堂 新作能の稽古が始まった。「沖宮」を演じるのは600年続く金剛流。
天草四郎=金剛流若宗家、金剛龍謹、あや=豊嶋芳野
天草四郎を演じ、能の中心的リーダーの若宗家は次のようなメッセ―ジ
「能には自然への畏怖の念というものを主題とした演目がある。「沖宮」にはそういう世界を含んでいる。今後何十、何百年と上演される、繋いでゆくことが大事だ。
7 遺言としての「沖宮」2018年1月16日―-近代病としての「水俣病」
石牟礼道子さんは亡くなる直前、自らの死を悟って、長年のつきあいの編集者たちに、遺言を残していた。
「大事なのは命の声、人類愛というけど足らんですよね。「生類」という言葉を思いついた。何故志村ふくみさんの緋の色か?「草木染」は栽培ではなく天然の草や木、、、海や山につながる。」
「水俣病に関わり始めてから、日本の近代を考えざるを得なくなった。文明とは何か。人類の行く末はどうなるか?日本のみならず、民族の情念はどこへ行くのか?
志村ふくみさんは病を押して、「あやの緋」を染めることになった。石牟礼道子さんとの約束の緋色の能衣装を染め織り上げてゆく。
新作能「沖宮」
2018年10月6日   熊本
2018年10月20日  京都
2018年11月18日  東京
新作能  「沖宮」
作 石牟礼道子。衣装 志村ふくみ。能、金剛流(金剛若宗家、金剛龍謹)
石牟礼が育った天草を舞台に、戦に散った天草四郎と生き残った幼い少女あや。人々の死と再生の物語。
旱魃に苦しむ村のために、雨の神龍神への人柱として、亡き天草四郎の乳兄妹のあやが選ばれる。
緋の衣を纏ったあやは、小舟に乗せられひとり沖に流される。やがて、稲光と共に雷鳴が轟き、
天青の衣を纏う天草四郎に導かれ、ははなる国である沖宮への道行が始まる。

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石牟礼さんはチッソ交渉で、加害企業本社前に座り込みながら考えた。天草の乱・島原一揆で多くの民が犠牲になった。時が流れて、同じ天草・島原の民が犠牲になっている。”我々は同じ民・天草島原の子孫ではないか!
死ぬ1ゕ月前の遺言にあるように、多くの人を殺し、海や山を破壊した「水俣病」。恐ろしく巨大な力で文明を生み破壊する近代!
人類の行く末はどうなるか?民族の情念はどこへゆのか?




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  1. 2019/01/23(水) 21:23:19|
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2019年『美術/音楽/舞台/読書』「東京交響・ニューイヤーコンサート19年1月6日」

2019年『美術/音楽/舞台/読書』「19年東京交響楽団・ニューイャーコンサート」
                            サントリーホール・19年1月6日(日) 1/8

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    秋山和慶(指揮)小山実稚恵(ピアノ)
  * J・シュトラウスⅡ ワルツ「春の声」作品410
  * チャイコフスキー  ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23
  * ドヴォルザーク   交響曲 第9番 ホ短調 作品95
               「新世界より」
音楽会のチッケトを取るのに人気の演奏家だと、半年前の売り出しで電話がなかなか通じない。昨年の内田光子や五嶋龍の場合も同じだった。「ニューイヤー」はそれほどではなかったが、半年前の発売で完売している。
 音楽の思い出として高校時代ウィーン・フイルを日比谷公会堂で聴いたことが鮮明に残っている。孫にもそんな経験をさせてやりたいと思っていた。クラッシック音楽は天満敦子に続いての第2弾。正月の6日(日)会場のサントリーホールは、多くの高齢の男女のなかに少年少女も多少いた。孫は演奏中眠ってしまうことを心配していた。「眠りたかったら、寝てもいいよ」と言っておいたが、、、チャイコフスキーのピアノ協奏曲の途中でコックリしだした。
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 小山実稚恵のチャイコフスキーは曲にとりつかれたように神懸かっていた。熱演である。小山さんの魂が曲に吸い込まれるように、指揮者の秋山和慶の指揮棒と一体化して終わる、終わると秋山さんに飛び込んでゆくように見えた。
 ドヴォルザークは晩年ニューヨーク音楽院の院長に招かれ、初めてアメリカに渡った。しかし、激しいホームシックに罹って機械的なアメリカ文明に耐え切れなくなって、素朴な故国ボヘミアへの郷愁の念を音楽に託した。「新世界」では黒人霊歌やボヘミア民謡などの民族的なメロディーが次々と登場し、壮大な大曲となって楽しませてくれた。いつ聴いても楽しい元気が湧いてくるような音楽なのだ。孫も今度は目をパッチリ開けて聴いていた。 
 <アンコール>
新年を祝う「ラデッキー行進曲」。指揮者のリードで初め曲の演奏が始まり、聴衆の手拍子の拍手で会場が盛り上がって終わる。 
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  1. 2019/01/08(火) 17:08:32|
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明けましておめでとうございます。2019年 元旦

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 明けまして おめでとうございます。

相次ぐ災害に見舞われた一年、皆様には如何お過ごしでしょうか?被災地の皆様、本当に大変でしょうが頑張って下さい。
夏の炎暑の裏返しとしての、厳しい冬の日々は私ども老齢の身にとっては厳しいものです。暮れの寒風の中での大掃除(?)は、腰を痛めて難儀しました。

 昨年見た映画は18本、例年と変わりはないのですが、質に置いてスカスカになっていることを恐れます。
「君への誓い」(アルメニア大虐殺を描いた始めての映画)「ペンダコン・ペーパーズ」(現代のウオーターゲイト事件)「万引き家族」(聖家族?ではないのか!)「タクシードライバー」(韓国光州事件が主題)「アリスのままで」(本格的に認知症を描く)「沖縄スパイ戦史」(沖縄戦が本土決戦の実験場だった)「ガンジスに還る」(こういう死生観もあるということで)「ぼけますから、よろしくお願いいたします。」(年賀状の主文として引用させて頂いた。本年の主題となりそう?)

 演奏会に例年以上に行きました。内田光子のシュ―ベルト!楽譜通りの演奏とは次元が違う。シューベルトの暗黒な苦悩をどう伝えるか、内田のピアノが鳴り響いた!

年々病院通いが増えている。これが「一病息災」と言えるか?「狭窄症」が沈静化したと思ったら、腰痛に悩む。かがんで作業をすると腰が痛む。ともかく「諦めは終わりなり!」なので、書けなくなるまで頑張るのみ。


二〇一九年 元旦

                          ジュリアンの夢



  1. 2019/01/01(火) 01:01:56|
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『2018年映画』「葡萄畑に帰ろう」(ジョージア・エルダル監督)12/26

『2018年映画』「葡萄畑に帰ろう」(ジョージア・エルダル監督)12/26

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ジョージアはコーカサス山脈の南、黒海とカスピ海の狭間の土地、ヨーロッパとアジアに挟まれた東西文化・民族の交流地であった。昔グルジアと言った。ペルシャ・アラブ・モンゴル・トルコ・ロシアの侵略と支配が絶えなかった。19世紀に帝政ロシアの支配、ソ連の支配と続き、1991年ソ連から独立した。内部から分離独立の動き、ロシアとの紛争、長く混乱した政治状況が続いた。2015年、「グルジア」から「ジョージア」に国名を変更。どんなに抑圧されても守ってきたのが次の3つである。「ジョージア語」「ジョージア正教」「ワイン」、独自な文化を持っている。

 しかし、我々がジョージアでイメージするのは「放浪の画家、ピロスマニ」(1969)である。その監督ギオルギ・シェンゲラヤの兄、エルダルの監督作品が今作の「葡萄畑に帰ろう」。84歳のエルダルはジョージア映画界の大御所であり、国会副議長を務めた政界の最長老。最愛の娘を亡くした後、政界を引退した。

 この作品は、ユーモアとアイロニカルな寓意に満ちた風刺映画である。監督エルダンの体験した、戦中戦後のジョージア政治史の体験が裏打ちされている。

 主人公ギオルギは故郷に母を残し、大臣に出世した。「国内避難民追い出し省」という何とも皮肉な看板の省の長官である。省内をローラースケートで行き来する職員、皆無表情で不気味な雰囲気が漂っている。大臣自慢の座り心地のいい椅子に悦に入っていると、ボタン一つで天井まで上がったり急に下がったり、ブラックコメディーの世界に引き込まれてゆく。母を忘れ、故郷を忘れた男はどのような運命をたどるか?
 妻を早く亡くし、娘とは折り合いは悪いものの、地位も権力もあり、可愛い息子と義姉と立派な家に住んでいる。順風満帆、或る
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日出会った元ヴァイオリニストのドナラとの恋も成就した。ドナラとの結婚式はジョージア伝統の飲めや歌えの結婚式。(ジョージア伝統の祝宴。)しかし、権力渦巻く泥まみれの政治の世界。彼は大臣を首に、立派な家も取り上げられる。さて、ギオルギと一家の運命はどうなるか?

5年の歳月が流れる。

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 ギオルギは故郷の母を訪ねた。「あんたの家はここ、葡萄園で働けばいい」母の温かい言葉!そうだ!故郷に帰ればいい。母の温かい言葉で忘れていたものを思い出したギオルギ。
故郷の村には妻のドナラも娘も息子も待っていた。ギオルギは葡萄畑で働き、家族との時間で自分を取り戻していった。或る日、ニュースで新首相に昔の部下が就任したことを知り、ギオルギは苦々しい思いで、今は不要となったあの「椅子」を崖から投げる。いったんバラバラになった椅子は、元どおりになり、ギオルギに向かって

 <いつだってこうでした。今もそうです。これからも同じでしょう>

と言って、不気味な笑い声をたてて、青空に去って行った。

 「椅子」は何の象徴か?権力―政治的な権力の象徴か?政治の栄光を求めて、出世階段を上ったが、権力争いに引き込まれて失脚。転落の人生をたどるが、故郷のジョージアの自然、葡萄畑に帰ってゆく。ジョージアの人にとって「言語」「正教」「葡萄酒」が大切な物だと言っている。

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 みなさん、いろいろとありがとうございました。
来たる2019年もよろしくお願いいたします。

 ジュリアンの夢




  1. 2018/12/26(水) 17:35:58|
  2. 『2018年映画』
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『2018年映画』「ぼけますから、よろしくお願いします」(監督、信友直子) 12/2

『2018年映画』「ぼけますから、よろしくお願いします。」(監督、撮影、語り、信友直子)
                                   ポレポレ東中野 12/2 
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 広島県呉市で生まれ育った私(信友直子)は、ドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター。18歳で大学進学のために上京して以来、40年近く東京生活を続けている。
結婚もせず仕事に没頭する一人娘を、両親は静かに遠くから見守り続けている。
 
 そんな私に45歳の時、乳がんが見つかる。メソメソばかりしていた娘を、ユーモアたっぷりの愛情で支える母。母の助けで人生最大の危機を乗り越えた「私」は、父と母の記録を撮り始める。元々ドキュメンタリーの映像表現を幾つか手掛けてきたが、自身の病気体験を基に撮った2009年の「おっぱいと東京タワー」(私の乳がん日記)が幾つかの賞を取った。その続きで自分の両親の生活を撮ってみよう、プライベートビデオ風を考えてビデオを撮り始めた。この時は認知症のことは想定しなかった。だが、私はカメラを通して、少しずつ母の変化に気づき始めた。認知症の発症である。
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 87歳で認知症になった母を95歳の父が介護する、老老介護が現実になった。一人娘の私は、仕事を止めて実家に帰るべきか色々と悩んだ。父は「あんたはあんたの仕事をしなさい。わしが元気のうちは、わしがみるけん」という父の言葉に背中を押されて、私は記録を撮り続けた。父の言葉――“あんたの仕事”には、父は大学に行って学問をしたかったが戦争のために志しを果たせなかった、父の無念の思いが込められている。

 私は東京でテレビディレクターの仕事をしながら、故郷の呉市では父が母を介護することに甘えた。故郷には時々帰った。母は機嫌の悪い時は、何日も貯めた洗濯を手伝おうとすると、異臭がする洗濯物をいじるだけで、「放っておいて」と取付く暇もなかった。廊下での母娘のやり取りは、耳が遠くなった父には聞こえない。実家に帰る度に認知症のシグナルを感じる。やはり帰って来ようかと思うが、父の励ましの言葉に甘えるのだった

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 <ドキュメンタリーの方法論>について。2009年に自身の病気を題材に、ザ・ノンフィクションで「おっぱいと東京タワー」(私と乳がん日記)を製作したことは以前に触れた。
乳がんの時、おっぱいを切るとか抗がん剤で髪の毛が抜けるとか、隠そうと思えば隠せる。今までいろいろな方を取材してきて、“これ以上は止めて”と思うようなところまで踏み込まないと取材したとは言えない、と思って取材相手と関係を築いてきた。その上で普通だったら言わないようなことを聞くとか、、、そういうことをやってきたので、それに対する贖罪、、、(あなたにいっぱい話を聞いてしまったけれど、私はすべて出しませんというのは申し訳が立たないと思う。それが私の表現に対する姿勢だとも言える。)
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 監督のカメラは1200日になった。介護保険のサービスとか支援とかディケアなど話してゆくと、受付けなかったのが聞くようになった。家事をやったことがなかった95歳の父が家事に挑戦しだした。しかし、穏やかだった暮らしが一変、娘の私も戸惑うほどの激しい衝突!カメラには壮絶な認知症と老老介護の現実が映し出された。壊れてゆく自分に不安を抱く母と、そんな気持ちを理解する父との間には夫婦の絆が浮かび上がる。

 監督は「ここまで撮っていいか?」と常に自己自身に問うた。父・母に聞いた。「撮ってもいい?」「直子の仕事だから協力するよ」家族の認知症のシーンをどこまで撮っていいか?機嫌の悪い時には、「私だけが知らんことばかり、、」と泣いた。父は、それが“日常”だと言う。初めて見る母の自虐と混乱。洗濯物の山の前でやる気を失くしてゴロンと横になってしまうシーン。

* 認知症の修羅場のようなシーン。「私だけが知らないことばかり」と泣きだす。「やる気を失くして布団に寝てしまう」「もう邪魔になるから死にたい」「私ばかり写さないで」
* 逆に文句を言う。文句を言うのをなかなか止めない。攻撃的になる。
* 母は若い頃は戦後のキャリア・ウーマンの一人。意欲的に何でもやった。書道の全国大会で賞を取ったこともある。私に対してやさしく快活な母だった。何でも叶えてくれた。
* 機嫌の悪い時に出て来る言動の根底にあるのは若い時の明朗な言動の裏返しではないのか?母の心の深層には、あんなに出来たのに、今出来ない自己への不満・不安・自信喪失・いらだちが渦巻いているのか。心細さからの寂しさなど。

2005年、若年性認知症を取材した時は、認知症を否定的に捉えていた。が、母は可愛いいままだし、父とは今までにない関係を築くことが出来た。両親が愛し合って本当に仲が良いシーンを見た。母が布団の中から父の手を握るシーンは涙がでてくる。

この映画は、認知症の修羅ともいうべき悲惨な場面も赤裸々に撮っているのに、暗くならないのはどういう訳か?認知症の修羅を見ても、どうして絶望的にならないのはどういう訳か?認知症は多くの人が罹る病気だ。死と同じように多くの人の人生の終末期に訪れる。人間の心・理性の崩壊である。人間の寿命は限られている。いかに死んでゆくか?寿命を全うするか。それはいかに生きたかでもある。認知症の修羅が映されても、暗くならないのは作者や登場人物の”父や母”が絶望していないからだ。お互いを愛し尊敬しているからだと思う。
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  1. 2018/12/02(日) 20:47:20|
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